日本歴史時代作家協会 公式ブログ

歴史時代小説を書く作家、時代物イラストレーター、時代物記事を書くライター、研究者などが集う会です。Welcome to Japan Historical Writers' Association! Don't hesitate to contact us!

大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第二十五回 羽運ぶ蟻(あり)

 永禄九年(1566年)。覚慶は還俗して足利義昭滝藤賢一)を名乗り、朝倉義景ユースケ・サンタマリア)を頼りに越前へ向かいました。しかし一行は、一乗谷からほど遠い、敦賀に留め置かれ、三月、半年と、時だけが過ぎていきました。

 落ち着かないでいる細川藤孝眞島秀和)を、三淵藤英(谷原章介)が叱ります。三好勢力が四国の義栄を将軍に仕立てようと、着実に事を進めていたのでした。その時、義昭は地面に這いつくばり、蟻を見ていました。

 明智光秀十兵衛(長谷川博己)の家に、細川がたずねてきます。朝倉は何を考えているのか、と光秀にこぼします。実は光秀は義昭のことを「あのお方はいかがとは存じます」と、朝倉義景に報告していたのです。

 永禄十年、織田信長染谷将太)はついに美濃を平定しました。

 信長の支配下となったため、美濃に明智の者たちは帰ることができます。明智家の家臣であった藤田伝吾(徳重聡)から文(ふみ)が届きます。そこには明智の里が変わりなく、半分焼けてしまった明智の館も、伝吾たちが建て直しをしたと書かれていました。

 光秀の母の牧(石川さゆり)は美濃に帰りたいと望みます。しかし貧しいながらも、光秀の娘たちには越前がふるさとです。光秀は母の牧を美濃に送り届けることにするのです。

 十一年ぶりに、牧たちは明智荘に戻ってきました。村人たちが歓迎の宴を開いてくれます。牧も皆と一緒に踊ります。

 夜になり、光秀と牧は二人で話します。

「十兵衛。まことにありがとう」牧は光秀に頭を下げます。「こうして美濃に戻ってこられて、もう何も思い残すことなどありません」

 光秀は思わず立ち上がります。

「おやめ下さい。そのような」光秀は夜の闇を見つめます。「私はいまだ、この身が定まらず、これからどうなるのか。この先もずっと、母上には見守っていただかないと」

 牧は首を振るのです。

「わたくしがいなくとも、十兵衛なら大丈夫。そなたは明智家の当主。その身には土岐源氏の血が流れております。誇りを持って、思うがままに生きなさい。その先にきっと、やるべきことが見えてくるはず。わたくしも、誇りに思いますよ。そなたの母であることを」

 翌日、光秀は稲葉山城にいる織田信長をたずねます。信長は光秀にいいます。

「そなた、わしにつかえる気はないか」

光秀は眉根に皺を寄せます。

「申し訳ございませぬ」

「わしでは不足か」

「いえ、決してそのような」

 信長は笑い出します。

「いったい何を考えているのだ」

 光秀は答えます。

「わたくしは、亡き義輝(向井理)様におつかえしとうございました。このお方こそ、武家の統領として、すべての武士を束ね、世を平らかにされるお方であろうと確信いたしました。しかしあのような不幸な形で、義輝様はみまかられ、この先、自分でもどうして良いのか分からないのです」

 信長はいいます。

「分からぬか。わしも分からぬ。今川を倒したとき、そなた、わしに聞いたな。美濃を平定したあとはどうするのかと。わしは答えられなかった。何をすれば良いのか。分からなかったからだ。今も分からぬ」信長は表情を変えます。「だが一つ、分かったこともある。わしは、いくさが嫌いではない。今川義元を討ち果たしたとき、皆がほめてくれた。喜んでくれた。いくさに勝つのはいいものだ。わしは、皆が喜ぶ顔を見るのがこの上なく好きなのだ。皆を喜ばすためのいくさならば、いとわぬ。ただ、この先、どこへ向かっていくさをしていけばいいのか、それが分からぬ」信長は地図を取り出します。「まわりは敵だらけ。美濃をとったはいいが、これからは守らねばならぬ。またいくさだ。きりがない」

 光秀はいうのです。

「はい、それではいつまでたってもいくさは終わりません」

「どうすれば良い」

 光秀は信長に近づきます。

「上洛されてはいかがでしょう。義輝様が討たれ、幕府は今、無いも同然。新たな将軍に力を貸し、幕府を再興するのです。さすれば畿内をおさえることができましょう」光秀は続けます。「尾張や美濃周辺のことのみにこだわっていても、小競り合いは終わりませぬ。無駄ないくさを終わらせるためには、幕府を再興し、将軍を軸とした、平らかな世を、畿内を中心に再び築くのです。武士が誇りを持てるよう、それがなれば、皆、おおいに喜びましょう」光秀はいいます。「大きな国です。かつて道三様にいわれました。誰も手出しのできぬ、大きな国をつくれと」

 信長は微笑みます。

「蝮(まむし)が」

 その頃、京では、望月東庵(堺正章)の家で、多数の者たちが丸薬作りに励んでいました。しかし駒(門脇麦)がいません。お寺から薬を分けてもらった者が、その薬を売りさばいているというのです。駒は怒って抗議に出かけたのです。

 駒は丸薬を売りさばいたという少年を呼び出して、叱りつけようとします。

「稼いで何が悪いんだ」

 と、少年はいいます。それで妹や弟たちが飯を食える。

 駒は帰ってこのことを望月東庵に話します。

「私が間違っているのか、よく分からなくなってしまいました」

 東庵はいいます。

「誰も間違っとらんよ。お前も、その子も。又売りしたとて構わぬではないか。それは駒とは関わりのないことじゃ。薬を買う者にはお金を払うだけのゆとりがあるのだ。薬を売る方はそのお金で助かる。貧しい一家が飯を食えるのだ。お前の知らぬところで、薬は一人歩きして、人を助けているわけだ。ああ、いい薬じゃないか」

 越前に光秀は帰ってきました。家に細川藤孝がたずねて来ています。藤孝は客人を連れてきていました。娘たちと遊ぶ楽しそうな声が障子越しに聞こえてきます。客人は足利義昭でした。以前光秀が会ったとき、義昭は裸足で逃げだそうとしていたのです。義昭は改めて光秀と話がしたいと、敦賀からやってきたのでした。義昭は蟻を見つけた話をし始めます。

「自分の体よりはるかに大きな蝶の羽を、一生懸命運んでいた。しかし、小石や草が邪魔をして思い通りに進まん。すると見かねたのであろう、仲間の蟻が寄ってきて、手を貸そうとした。ところがこの蟻は頑固な奴で、助けはいらぬとばかりに仲間を振り払って、おのれだけで運ぼうとする。意地になっておるのじゃ。一匹では無理だというのに」

「それで、どうなりましたか」

 光秀が聞きます。

「蟻は、私だ。将軍という大きな羽は、一人では運べん。しかし助けがあれば」」

「お心は決まりましたか」

「正直、まだ迷いはある。ついこの間まで坊主だったのじゃ。毎日、経ばかり読んでいた男に、武家の統領などつとまるとは思えん。されど、私がもし将軍になれば、今までできなかったことができるかも知れぬとも思う」

「できなかったこと」

「人を救える。貧しい人々を。私一人の力では、救える数は限られている。しかし、私が将軍になれば、今まで手の届かなかった人々を救えるかもしれん。そう考えると将軍になるのも悪くはない」

 光秀は朝倉義景に会いに行きました。義景は光秀が義昭に会ったことを知っていました。何の話をした、と問う義景。

「蟻の話をしました」

 と、光秀は答えます。

「将軍の器ではないか」

 という義景に、光秀は即座に反応します。

「いえ、さようなこともないかと」光秀は話します。「お目にかかってお話をうかがい、いささか思いが変わりました。義昭様はご聡明で、弱き者の心が分かるお方でございます。例えば、強い大名方がお支えすれば、立派な将軍になるやも知れません」

 義景は松永久秀から文を受け取っていました。信長と共に義昭様をかついで上洛すればよいではないか、との内容でした。

「信長と一緒というのが気に入らんが」義景は立ち上がります。「いたしかたなしか」

「上洛されるのですか」

「わしも考えが変わった。義昭様は、美しい神輿であらせられる」義景は言い放ちます。「神輿は軽い方が良い」                

会員の短編小説をアップしました

会員の短編小説一覧

◆西山ガラシャ
渡りゆく

 三田誠広

陰陽師紫式部

 ◆天堂晋助

戦争にいってきた母のおじさん 

 響由布子

針妙(しんみょう)の長い一日

「針妙」と「おはり」

 

当会会員の皆様へ:

現在、短編原稿とリレーエッセイ執筆者を募集しております。

詳細はウェブ担当響(hibikiyuko@gmail.com)までよろしくお願い致します。

 

『映画に溺れて』第391回 フランケンウィニー

第391回 フランケンウィニー

平成六年十二月(1994)
日比谷 日比谷映画

 

 ティム・バートンフランケンシュタインが好きなのだと思う。ごく初期の短編が『フランケンウィニー』であり、これは後にストップモーションアニメの長編としてリメイクされた。
 オリジナル版の短編が日本で上映されたのは製作から十年後の一九九四年、『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』との併映であった。
 主人公は現代のアメリカの小学生ヴィクター。ヴィクターの愛犬スパーキーが交通事故で死んでしまう。
 悲しみにくれるヴィクターは、理科の授業で先生が蛙の死体に電気を流すとぴくっと痙攣するのを見て、あることを思いつく。
 ヴィクターの家の屋根裏部屋はまるでユニバーサル映画の『フランケンシュタイン』のセットを思わせる。屋根裏部屋の実験室で死んだスパーキーに雷の電流を流すと、犬は生き返り、近所でいたずらをはじめる。
 隣人たちが抗議に集まり、スパーキーは遊園地の水車小屋に逃げ込み、ヴィクターもそれを追いかける。隣人の不注意で水車小屋に火がつき、火に巻かれたヴィクターをスパーキーが助け、それがもとで再び命を失う。
 スパーキーがヴィクターを助けるのを目撃し感動した人々が、今度はスパーキーを再び生き返らせるため、自動車を並べてバッテリーの電力を流すことに。
 モノクロで全編がユニバーサル『フランケンシュタイン』の再現。少年ヴィクターの姓はフランケンシュタインであった。
 ティム・バートンはその後、ジョニー・デップ主演で手がハサミの人造人間『シザーハンズ』を作る。『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』にも人造人間造りのマッドサイエンティストが登場する。そして『フランケンウィニー』のリメイク。よほど好きなんだろう。フランケンシュタインが。

 

フランケンウィニー/Frankenweenie
1984 アメリカ/公開1994
監督:ティム・バートン
出演:バレット・オリバー、シェリー・デュバル、ダニエル・スターン、ポール・バーテル

 

書評『魔王の黒幕 信長と光秀』

書名『魔王の黒幕 信長と光秀』
著者 早見 俊
発売 中央公論新社
発行年月日  2020年7月25日
定価  ¥880E

魔王の黒幕-信長と光秀 (中公文庫)

魔王の黒幕-信長と光秀 (中公文庫)

  • 作者:早見 俊
  • 発売日: 2020/07/22
  • メディア: 文庫
 

 

 光秀の前半生は謎に包まれ、主殺しの理由も諸説ある。本書は作者自らが語るように「本能寺の変を中心に据え、丹波亀山城から本能寺に進軍する数時間に光秀の生涯を凝縮させて描いた作品」。福井新聞紙上に連載されるということで、越前時代の光秀に多くの頁が費やされ、新たな明智光秀物語に仕立て上げられている。
 出だしを読む限り、主人公は光秀と円也の二人のように見える、とのみ、これから読まれる読者のために記しておきたい。

 さて、信長より中国出陣を命ぜられた光秀は、天正10年(1582)6月1日の午後10時頃、1万2000の軍勢を率いて丹波(たんば)亀山城(かめやまじょう)を出発するが、老の坂(おいのさか)(京都市右京区鷹ケ峰から丹波に入る坂)にて反転し桂川を渡って京に入り、2日午前6時ごろ本能寺を包囲。ここまでは史実と符合しているといってよいだろう。
 亀山城から本能寺までは約20キロメートル8時間、分岐点の老いの坂からは11キロメートル2時間ほど。この間、本作は二つの物語が入り交じる形で進行する。ひとつは「本能寺」に至る現在進行形の物語で、光秀と円也(えんや)のやり取りがあり、もう一つは過去の軌跡への光秀の回想で、そこから光秀は波瀾に満ちた我が人生を総括し、本能寺に近づくにつれ、とるべき道を選ぶのである。

 円也とはいかなる人物か。越前時代の光秀は越前国坂井郡長崎の時宗の寺院・称念寺(しょうねんじ)門前で牢人暮らしをしていたが、円也という僧と懇意となり、やがて円也を首領とする「円也党」なる光秀独自の情報機関を作り上げたとする。
 光秀と足利義昭をいかに結びつけるかが作家にとっての大きな課題であったという。光秀は義昭の近臣の細川(ほそかわ)藤孝(ふじたか)と称念寺門前で出会い、藤孝の推挙によって義昭に仕えることにより、光秀の運が開かれる。しかし、義昭を将軍につけたのは信長である。が、そもそも「義昭を信長に引き合わせ、将軍への道を開いたのは自分なのだ。あの時は心底、義昭の将軍任官と幕府再興を願ったのである」と光秀。
永禄11年(1568)7月28日、「義昭を奉戴して上洛してから、信長の天下布武への道が開けた。思えばあれが闇の始まりであった」。本作のキーワードである闇とはなにか。「今は戦国乱世、闇に覆われた世だ。乱世の闇を掃うには、より巨大で濃い闇が求められる」。

 本作で、光秀は乱世の闇を掃うべく、三度、信長を操る。一つ目は、元亀2年(1571)9月の比叡山焼打ちである。旧来の通説では光秀も信長による神聖不可侵とされてきた霊山の焼打ちを諫める側に立っていたとされるが、本作では「殿、天下静謐のため魔王と成り、比叡山を焼き尽くすこと、おやりなされませ」と比叡山焼打ちの決断を信長に迫ることで、信長を操る。信長、義昭両属の家臣で未だ信長の直臣ではなかった光秀が信長の意志決定にどの程度関与していたかは不明だが、当初から光秀は信長の天下布武の事業に積極的に関わってきたのである。
「信長は焼打ちで人が変わった。信長の中に棲む魔王の本性を引き出し、闇の世界へ案内したのは光秀だった」。さらに、光秀の妻・煕子(ひろこ)(天正4年11月7日没享年30)は「もっと、非道な男におなりなされ」と光秀を煽る。煕子は「民が笑って暮らせる世を招く」という光秀の言葉に賭けたのだ。

 新たな光秀像が描かれている。光秀は「非道な男」であるとともに、敵を陥れるに手段を選ばない表裏者であるとも。年来の盟友ともいうべき間柄の細川藤孝を騙したこともある。藤孝との交流の原点は光秀の出自まで遡れる、それほどの人物である。
 二つ目の操りは、義昭と信長の争い。義元の許を去り、信長の直臣となった光秀は「私は織田信長というお方の闇に賭ける」として藤孝に義昭との決別を迫る。
 元亀4年(1573)、光秀は「足利将軍家が京の都にある限り、戦乱は終わらず、闇は晴れない」と信長包囲網で窮地にあった信長に、義昭追放を進言。すでに武田信玄はその年の4月に病没しているにもかかわらず、信玄は生きていると虚言して、義昭を信じ込ませ、打倒信長の挙兵を煽る。果たして義昭は二度も挙兵するが、敗れるべくして敗れ京都より追放される。謀略通り、義昭追放後、信長は朝廷に奏請して「天正」と年号を改める。信長時代の到来である。電光石火、その年の8月、信長は朝倉・浅井氏を滅ぼす。京文化の粋を極めた一乗谷は焼打ちされ地上より消滅する。
 翌年の天正2年(1574)11月、伊勢長島の一向宗徒2万人の撫で斬り。信長の「伊勢長島を比叡山にするか」の言を聴き、光秀は戦慄する。「やはり信長は大量虐殺を愉しむのか。天下布武という大目標の為もあろうが、それ以上に殺戮を楽しむ魔王となったのか。信長の中に棲む魔王の本性を引き出し、信長を魔王へと導いたのは自分だ。しかし自分は、とても撫で斬りを愉しむ気になどなれない」と。
 天正3年に丹波平定を命じられた光秀は天正7年に平定を成し遂げるが、その間、石山本願寺攻めや紀伊雑賀攻めなどにも駆り出される。
 本能寺の変まで1年4カ月の天正9年(1581)2月、京での馬揃えを終えて、信長は「50を過ぎたら、あとは余生じゃ。余生なら、好き勝手に生きよう」と光秀に語る。それを聞いて光秀は、比叡山延暦寺の焼打ちに始まり、伊勢長島、越前における一向一揆の撫で斬り、荒木村重一族の皆殺しへと、「これまでも好き勝手にやってきたでは」。信長が望む好き勝手とは何かる光秀の胸中に暗雲が立ち始めた。
 本能寺の変まで2カ月の天正10年4月、武田攻め。円也は信忠(のぶただ)指揮下の織田勢の目に余る蛮行を目の当たりにして、「信長の闇は誠に晴れるのか。信長が死んでも信忠に受け継がれるのではないのか」と嘆き、燃え盛る恵林寺に身を投じて往生する。
 円也の死によって、光秀と円也が表裏一体の関係にあることがわかる。6月2日の深夜、円也は「魔王が作り出した闇を晴らせ」と光秀に迫り、光秀が本能寺に向かうように導くが、その円也その人は2か月前にこの世の人ではなくなっているのだ。
 あらためて、そのことに気づくと、「まつろわぬ者を信長は認めぬ。魔王は乱世は制せられても、太平の世を治めることはできぬ」、「もう、信長のためには働きたくない。十兵衛殿とて、信長のためにこれ以上の働きはしたくないと思い始めたのではないか」、「天下一統の道筋はついた。この後は信長に代わる者が一統をなすべきじゃ。惟任日向守こそその者ではないのか」の、こうした円也のつぶやきは光秀本人の懊悩なのであったと知る。

 結論として言えば、光秀の三つ目の操りこそが本能寺の変であった。操りに止まらず信長その人の生命を奪うことになるが。
 たとえば、『信長の棺』(日本経済新聞社 2005年刊)の加藤廣が、光秀謀反について、「三河殿接待役電撃解任」がターニングポイントで、「光秀の心に、この時まで〈謀反〉の文字はない」としているように、光秀に謀反を決意させたのは、天正10年4月の武田氏の滅亡に関わる諸事であったとして、光秀と本能寺の変を物語る小説が多い。
 本能寺の変の動機については、古来より、怨恨説、野望説など諸説あるが、いかなる動機であろうが、謀叛の志が光秀の胸中にいつ頃萌したのかを知るのが肝要ではないか。
 5月28日に開かれた愛宕権現連歌会(愛宕百韻)の解釈も見逃せない。従来の通説では、光秀は発句に謀叛の意を秘めたとされるのが、本作では「あの時は上様を討つなど微塵も思っていなかった」と謀叛の意のあることを否している。また、光秀が謀叛の決意を信頼する家臣に告げたのは「6月1日夜、丹波亀山城」とするものが多いが、本作はご覧の通りの展開である。
「信長をして魔王の如き所業に走らせた責任は先達として駆け抜けた自分にある。織田信長という第六天魔王を生み出した自分の過去を清算すること」――信長の作った闇を晴らし、信長の世を終わらせることを己の役目とし、引き起こしたのが本能寺の変である、と結論付けて小説化していることは共感できる。

             (令和2年9月23日 雨宮由希夫 記)

新刊『父のおともで文楽へ』

 会員さんの新刊です。

アマゾンより転載:

母の三回忌法要で実家を訪ねた佐和子は、父・敬一郎から文楽を観に行こうと誘われる。娘の梨々花が元夫・義彦との面会で不在のため、お付き合いで国立劇場へ向かった。演目は『心中天網島』。紙屋治兵衛は、妻への未練を持ったまま、恋仲の遊女との心中も踏ん切りをつけられない。佐和子は共感できなかった。弁護士の義彦は米国に拠点を移す予定があり、梨々花を連れて行きたいと言う。佐和子は離れたくないが、娘を思えば留学もさせてやりたいと悩む。そんな中、敬一郎から検査入院するという連絡が入った…。三十七歳、シングルマザーの奮闘の日々を描く。

父のおともで文楽へ (小学館文庫)

父のおともで文楽へ (小学館文庫)

 

 読者の皆様よろしくお願い致します。

※会員さんからの新刊・既刊情報を募集しております。連絡はコメント欄でもOKです。

大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第二十四回 将軍の器

 永禄八年(1565年)。五月。京で、前代未聞の一大事変が起ります。将軍足利義輝向井理)が襲撃を受けたのです。覇権を取り戻そうとする、三好長慶の子、義継の軍勢が二条御所に攻め込みました。永禄の変です。

 足利十三代将軍義輝は、三十年の生涯を閉じたのでした。

 将軍の座は空位となりました。義輝暗殺を引き起こした三好一派は、義輝の後継と目される覚慶(かくけい)(遠藤賢一)を幽閉し、自分たちが意のままに操れる義栄(よしひで)を次期将軍に擁立しようとしました。

 次期将軍候補と目される覚慶は、三好一派によって、興福寺一条院に幽閉されていました。そこへ松永久秀吉田鋼太郎)がやってくるのです。松永は障子越しにたずねます。

「こちらのご門跡様は、将軍におなりあそばすお気持ち、ございましょうか」松永は続けます。「筋から申せば、次の将軍は、まごうことなくこちらのご門跡様、覚慶様でございます」

 覚慶はつぶやくようにいいます。

「私は六歳で仏門に入った。跡目争いを避けるため、嫡子(ちゃくし)以外の男子はすべて出家させるという足利家のならい。ゆえに私は、刀を持ったことも、弓を引いたこともない。その私に、武家の統領などつとまるはずもない」

 間も開けず松永がいいます。

「恐れながらただいまのお言葉、もはやどなたにも通じません。なかんずく、義輝様を討った者たちにはなおさら」障子越しに松永は問います。「お聞かせ下さい。このままここで座して死をお待ちになりますか。それとも」

 覚慶は障子を開けて松永に対面します。

「死にとうはない。私は、悟りにはほど遠いゆえ」

 松永久秀の意を受けた細川藤孝(眞島秀和)は、覚慶を密かに一条院から連れ出します。細川は覚慶の身柄を三好一派の手の届かない甲賀に移します。

 明智光秀十兵衛(長谷川博己)は将軍義輝が討ち取られたとこを越前で知ります。いても立ってもいられなくなり、馬を飛ばして旅立つのです。

 光秀が訪れたのは大和(今の奈良県)の多聞山城にいる松永久秀のところでした。光秀と対面した松永は、鉄砲をもてあそんでいます。光秀はいきなり問い詰めます。

「なにゆえ将軍をお討ちになった」

 三好一派には、松永の子、久通も加わっていたのです。松永はいいます。

「わしの読みが甘かった。息子たちがしでかしたことゆえ、わしも責めを負わねばならんと思う」

「当然のこと」

 と言い放つ光秀。松永は問います。

「腹が立つか」

「立ちます」

 と光秀は答えます。

「わしが憎いか」

「憎い」

 と光秀は叫びます。松永は鉄砲の火縄に火をつけます。

「これでわしを撃て」

 と光秀に差し出すのです。声を上げる光秀。しかし光秀は庭に向けて鉄砲を撃ち放つのです。

「十兵衛」松永は落ち着いた声を出します。「このまま将軍がいなくなれば、幕府は滅ぶぞ。幕府あっての我らなのだ。近頃そう思うのだ」

「松永様のお言葉とは思えませぬな」と、光秀。「そのお言葉、本心か」

「本心だ」しかし松永は付け加えます。「半分はな」松永は続けます。「この十四年、京でまつりごとを行い、大和一国を預けられ、ここにきてわしは身にしみておる。幕府というものは、将軍というものの威光が、人を、武士を、動かすのだということを」

「あとの半分は」

「迷うておる。まことにそうなのかどうか。答えが出ぬ」

 松永は光秀に朝倉義景から書状が来ていることを告げます。覚慶が将軍にふさわしい人物だと分かれば、越前で引き受けても良いと書いてあるとのことでした。

「朝倉殿はこう書いておられる。おぬしが来たら、甲賀の和田の館に行くようにすすめてくれと。行くかどうかは、おぬしの気持ち次第と」松永は光秀を見ていいます。「覚慶様がどのようなお方か知りたいのであろう。つまり、将軍の器か否か、おぬしのその目で確かめて来いと」松永は親しげな態度になります。「なあ十兵衛、このまま越前で、世が変わるのを座して待つつもりか。今、武士の世は、大きな曲がり角に来ておる。それをどう開いていくのか。おぬしも、わしも、正念場じゃ」

 光秀は馬を走らせて甲賀に向かうのでした。

 その頃、京では、伊呂波大夫が望月東庵の家を訪ねていました。駒と話をします。駒の作る丸薬に、さらなる注文が入ったというのです。駒は気が乗りません。太夫は駒にいいます。

「世の中の貧しい人、病(やまい)に苦しんでいる人たちを助けたいっていったのは、駒ちゃんじゃないの。どんどん作って助けなさいよ」太夫は小声になります。「これはねえ駒ちゃん。ひょっとするとあんたが思っているよりずっと大きな、大変な仕事になるよ」

 そこへ関白の近衛前久が訪ねてくるのです。近衛と太夫は、姉と弟のような関係でした。三好一派は近衛に圧力をかけ、次期将軍選びを有利に進めようとしていました。近衛は太夫に打ち明けます。

「三好の一族はとんでもない奴らで、実弟の覚慶を差し置き、今、四国におられる義栄、この者はいとこにあたるのですが、そちらを次の将軍にすえろといい立てる。太夫、どう思いますか」

 事実上、次の将軍を決めるのは近衛だったのです。血筋からいえば次の将軍は覚慶でなくてはおかしいと近衛は考えていました。

「いいんじゃないですか」と大夫はいいます。「三好のお侍たちが四国のお方を将軍したいというのなら、そうして差し上げれば」大夫はお手玉を投げ上げます。「四国のお方だろうが、もう一人のお方だろうが、私たちは痛くもかゆくもない」大夫は近衛に同意を求めます。「次のみこしに、誰を担ぐか。命がけでこだわっているのは武士だけ」

 自分が四国の者をおせば、いくさになるかもしれないと心配する近衛。大夫はこともなげにいいます。

「したけりゃすればいいのですよ。戦って、とことん戦って、どっちも滅んでしまえばいい。武士がいなくなれば、いくさはこの世から消えてなくなる。結構なことじゃありませんか」

 光秀は甲賀和田惟政の館にたどり着きました。覚慶は大和の寺に帰ろうとしていました。覚慶は会ったばかりの光秀に問うのです。将軍の大任が、自分に務まると思うか。覚慶は地面に座り込みます。

「死にとうない。その一心で大和を出てまいった。しかし今、私はそれだけでは到底事足りぬのだと、ようやく分かりかけてきた。私はいくさが好きではない。死ぬのが怖い。人を殺すなど、思うだけでも恐ろしい。私は兄とは違う」

 光秀は越前の一乗谷に帰ってきます。朝倉義景(ユースケ・サンタマリア)を前にします。義景は家臣の山崎に話します。

「ことと次第によってはこの義景、次の将軍を、わが越前におむかえしてもよい、と思うておる。まあ、この十兵衛の返答次第じゃがのう」義景は光秀を見据えます。「では聞こう。覚慶様は、おぬしの目から見て、まこと将軍のお器であったか。どうじゃ」

光秀は答えます。

「次なる将軍の大任、あのお方はいかがとは存じます」

 

『映画に溺れて』第390回 悪魔のはらわた

第390回 悪魔のはらわた

平成七年七月(1995)
六本木 俳優座劇場

 

 3Dの映画は昔からあった。私が子供の頃、片目が青、片目が赤のセルロイドの眼鏡で見た記憶がある。
 新宿高島屋のオープンに合わせてタイムズスクエア内に登場した東京アイマックスシアターは壁一面の巨大スクリーンで、偏光眼鏡による本格的な3D映画館だったが、一九九六年という時期、まだ3D作品は製作数が少なくて短編しか上映できず、結局は閉館となる。
 私が3D『悪魔のはらわた』を観たのはアイマックスができる前年の一九九五年、劇場は六本木の俳優座だった。一応は偏光眼鏡での鑑賞であったが、設備も不充分だったのか、二時間近くあの眼鏡をかけ続け、相当に目が疲れたことばかり記憶している。
 監修がアンディ・ウォーホル。古典的ホラーのフランケンシュタインを題材にして、近親相姦、ゲイ、死体愛好などインモラルな味付け。それが3Dというのだから、いかにもウォーホルらしい趣向である。
 生命創造に取り付かれ、女モンスターを完成させたフランケンシュタイン男爵は、次は男モンスターを創り、この理想のカップルを交配させることで、新人類を生み出そうと計画する。
 精力絶倫の農夫ニコラスを殺し、これを材料に男モンスターが完成かと思われたが、この農夫が人違いでゲイだったため、女モンスターに興味を示さない。
 男爵の実の姉であり妻でもある淫乱な男爵夫人はニコラスを召使いにして情事にふけるが、男モンスターにもちょっかいを出して、殺されてしまう。
 変態の助手は女モンスターの腹を引き裂き、怒り狂った男爵に殺される。このあたりが邦題になっているのだろう。悪魔のはらわた。
 最後は男爵がモンスターに槍で突き刺され、この槍がにゅうっと画面から飛び出すのだ。血みどろの立体効果で。
 男爵を演じたウド・キア、この翌年の『処女の生血』ではドラキュラ伯爵となる。

 

悪魔のはらわた/Flesh for Frankenstein
1973 イタリア・フランス/公開1974
監督:ポール・モリセイ
出演:ジョー・ダレッサンドロウド・キア、モニーク・ヴァン・ボーレン、アルノ・ジュエキング

 

書評『家康(二) 三方ヶ原の戦い』

書名『家康(二) 三方ヶ原の戦い
著者名 安部龍太郎
発売 幻冬舎
発行年月日  2020年8月10日
定価    本体690円(税別)

 

家康<二> 三方ヶ原の戦い (幻冬舎時代小説文庫)

家康<二> 三方ヶ原の戦い (幻冬舎時代小説文庫)

 

 

 本書は2016年12月に刊行された安部龍太郎の『家康(一)自立篇』の後半部を、副題を変えて文庫化したものである。以後、『家康(二)不惑篇』も二分冊されて文庫化され、『家康(三) 長篠の戦い』『家康(四) 甲州征伐』として刊行予定とのことである。

 本書『家康(二) 三方ヶ原の戦い』は「第一章決断、第二章 今川滅亡、第三章 上洛、第四章 姉川の戦い、第五章 信長と信玄、第六章 三方ヶ原」の6章構成である。
 史上の家康は桶狭間の戦い後、三河一国を掌中にし、信長と同盟するが、物語は桶狭間の戦いの8年後の永禄10年(1657)5月、家康の嫡男信康の婚礼が終わった直後の描写からはじまり、三方ヶ原の戦いで敗れるまでを描いている。
 家康は狸親父のイメージの如く稀代の策謀家として知られるが、読者の期待の一つは作家安部龍太郎がいかなる家康像を造形するかにあるが、この時期の家康を作家は次のように想い描いている。

(信長どのには、かなわない)……信長の天才的な力量に較べたなら、三河一国を手に入れて得意になっていた自分など、地を這う虫のようなものだ。が、……弱が強に勝つ、無能が有能をしのぐ道はないのか。
 思えば家康の生涯は、この探求に費やされたようなものだった。

 永禄11年(1568)9月、信長は足利義昭を擁して上洛し、将軍の権威を大義名分にして天下布武への道を突き進み統一への実権を固める。この時期、甲斐の武田信玄は西上の途に着くべく、信長の同盟者・家康と結ぶことで、今川家の領地である駿河遠江の切り取りを容易にしようと画策するのである。
 外交戦において巧妙な武田信玄に勝った家康は永禄12年(1569)1月、今川氏真掛川城に攻め、遠江一国を大略平定する。
 元亀元年(1570)は信長にとって忙しい年となったが、家康も同様であった。
 家康にとって、信長の命令による、2月の越前朝倉攻め、6月の姉川の戦いへの参陣は三河を空けることになり、留守中、信玄に背後を脅かされる危険が常に伴う。なまやさしいものではなかった。

 浅井・朝倉軍を姉川に破った後、家康は岡崎城を嫡男信康に譲り、遠州浜松城を居城とする。ここで、家康が「自分がなぜ信長に従って戦い続ける決意をしたのか」を、嫡子信康に語るシーンがある。その語りが興味深い。
「この国には人には分というものがあり、分相応に生きることが国の秩序を保つために必要だとする旧来の古い道徳観があるが、信長という人はこの国が新しく生まれ変わるためには、そうした古い道徳観を根底から覆そうとしている。信長の考えに共鳴している自分は、よって、信長殿の天下布武に生涯を賭ける。それがこの国のため、天下万民のために必要だと信じるからだ」と。

 信長包囲網という言葉がある。二年前に姉川の戦いに勝利したが、この時期信長は四方を敵に囲まれ、滅亡の危機にあった。浅井・朝倉は姉川の戦いで信長に敗れはしたものの、その後も畿内各地で織田軍を相手に転戦し、信長を苦しめ続けていた。石山本願寺顕如は長島・近江など各地の一向衆徒に決起を訴え続け、信長との間に10年戦争といわれる石山合戦を起こしている。信長は浅井・朝倉、顕如に代表される一向衆徒、信長に京都を追われた三好三人衆などの反対勢力を叩くために、東奔西走。元亀2年9月には、浅井・朝倉に味方する比叡山延暦寺を焼打ちしている。かくして、信長を追い込んで殲滅すべく、信玄をも巻き込んだ包囲網が築かれつつあった。この時期、畿内の信長の勢力と、反織田勢力は、信玄の上洛の動きを見ながら、戦っていたのである。

 はたして、信長と信玄の戦略はいかに。本巻最大の読みどころはここにある。
 武田信玄西上の話は家康にとって最大の事件といえる。時に家康30歳。信玄はすでに晩年で、その半生の総仕上げとしてかねてよりの念願である京都制圧の遠征を起こすのである。姉川の戦いで、家康麾下の三河武士団の精強さは天下に鳴り響いたが、信玄の甲府出陣の報に接した家康の心中を「胃が絞りとられるような痛み、吐き気がする。緊張と重圧、恐怖に体が悲鳴を挙げている」と作家は描く。信玄はそれほどまでに圧倒的な存在だったのである。

 信長が西の敵に備えるために、東の信玄と手を組むこともありえた。家康がこれを防ぐには、信玄との対決姿勢を明確にし、信長に、信玄を採るか家康を採るか、捨て身になって決断を迫る必要があった。計略を一歩誤れば、信長を敵に回すことになりかねず、計略が信長の気付くことになれば、即座に首を刎ねられることも。危うい賭けであった。ここにおいて、家康は自身が本当に恐れているのは信玄ではなく信長だと知る。 
 元亀3年(1572)12月、遠江の三方ヶ原で、家康は信長の支援を得て、上洛を目指す武田信玄の大軍と対決するも、惨敗。浜松城に逃げ帰る。
安部龍太郎独自の視点も新鮮である。元亀元年正月、信長による「上洛命令」に対して朝倉義景が拒否したことの真相について、信長は新将軍の知行安堵という形で諸大名から港や市の支配権を取り上げようとした。朝倉義景が頑強に上洛を拒んだのは、信長の命令に従ったなら、朝倉家の命綱というべき敦賀と小浜の二つの港を取り上げられることが分かっていたからだとする。この解釈は斬新かつ明瞭で従来の説とは一線を画す。
俗に言う信長包囲網を仕掛けたのは将軍義昭であるかも然り。元亀元年の浅井長政離反の真相も、然り。秀吉の代表的な武功とされる「金崎の退き口」の真相も、然り。読みどころ満載である。読者諸氏は自らひもといて安部流戦国史観を味わっていただきたい。
 安部版戦国絵巻の集大成ともいうべき安部龍太郎の『家康』は徳川家康の生涯を描き切った大河歴史小説になろう。

 ここで、半世紀前に、空前の家康ブームを引き起こした山岡荘八の『徳川家康』(全26巻)に触れないわけにはいかない。
徳川家康』は「北海道新聞」など新聞三社連合系の地方紙数紙に、昭和25年(1950)3月から昭和42年(1967)4月まで足掛け18年に渡り連載された超大作で、それまでの狸親父家康のイメージを一変させ、卓絶した国家経営者としての家康像を造形した作品である。
 半世紀を隔てて佇立する山岡家康と安部家康に共通するのは、奇しくも、平和国家建設のために邁進する家康像である。
 信長ほどの見識も苛烈な実行力もない家康だが、三方ヶ原の戦いの直前に、遠江三河といった立場の違いでいがみ合うようになった徳川勢を見て、「厭離(おんり)穢土(えど) 欣求(ごんぐ)浄土」と大書した本陣旗を造り、家臣団を一つ心に纏めている。
信長の同盟者として「天下布武」実現の先兵となって戦う家康だが、征服主義とも言うべき信長の方針、手法とは違う地道なやり方で、国造りを目指す青年期の家康を活写しているのが、『家康(二) 三方ヶ原の戦い』である。
                                                      (令和2年9月14日  雨宮由希夫 記)