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書評『義士切腹』

書評『義士切腹 忠臣蔵の姫 阿久利』

書名『義士切腹 忠臣蔵の姫 阿久利』
著者 佐々木裕一
発売 小学館
発行年月日  2021年4月28日
定価  ¥1600E

 

義士切腹: 忠臣蔵の姫 阿久利

義士切腹: 忠臣蔵の姫 阿久利

 
 

 

“さまざまなる忠臣蔵”がある。家を捨て、故郷を捨て、浪人に身をやつして討ち入りを果たした者たちの「正伝」があり、討ち入りに参加しなかった者たちに焦点を合わせた「異伝」があれば、浅野内匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり)の後室・瑤泉院(ようぜんいん)、内蔵助の妻リクなどをヒロインとした「女忠臣蔵」もある。一生を瑶泉院に仕え尽くした備後(びんご)国三次(みよし)藩士の落合(おちあい)与左衛門(よざえもん)を陰の主人公とした本書は「女忠臣蔵」のひとつに数えられるだろうが、通り一遍の“忠臣蔵もの”ではない。なぜなら彼は三次から阿久利に従って上京した養育係の家臣であり、四十七士の一人ではないからだ。

 本書は2019年12月14日に刊行された『忠臣蔵の姫 阿久利』の続巻である。
 前巻では、備後国三次藩5万石藩主の浅野長治の三女として三次で生を享けた阿久利(のちの瑶泉院)4歳が、延宝4年(1676)春、播磨国赤穂藩5万3千石藩主・浅野長矩に嫁ぐべく、三好を旅立ち、江戸赤坂今井谷(いまいだに)の三次浅野家の下屋敷へ召し出されるところから、元禄14年(1701)3月のいわゆる播州赤穂事件によって、鉄砲洲の赤穂藩上屋敷を出て、実家の三次浅野家下屋敷に向かうまでを描いている。
 続巻である本巻は、三次藩下屋敷のもどった阿久利29歳が1年10か月後の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)良雄(よしお)らの高家肝煎吉良(きら)上野介(こうずけのすけ)義央(よしなか)邸への討入りを見届け、正徳4年(1714)42歳の波乱の生涯を終えるまでを描いている。

 瑤泉院といえば、討ち入り直前に大石良雄が赤坂・南部坂の瑤泉院のもとに赴くという「南部坂雪の別れ」のシーンが有名だが、「南部坂雪の別れ」は事実ではなく、浅野家改易後に大石が瑤泉院に拝謁したのは、討ち入り直前ではなく、討ち入りから1年以上も前の元禄14年(1701)11月14日のことであったという。
 では、瑤泉院は浪士たちの吉良邸討ち入り計画をいつ知ったか。前巻を通じての主な登場人物として、落合与左衛門と仙桂尼の二人の存在は欠かせない。なぜなら、阿久利は二人を通して、大石ら義士とかかわりを持ち、接触するからである。
仙桂尼は鉄砲洲の屋敷で仕えてくれていたおだいで、今は増上寺塔頭にて仏に仕えている女僧、しかも将軍綱吉の生母・桂昌院の覚えめでたき者であるがゆえに、阿久利の桂昌院への謁見の設営を何度も任される。
 阿久利の胸にあるのは、「御家再興」の四文字。良人長矩から「家臣が命を落とさぬよう」と遺言されている阿久利は、「子と思う家臣たちの寄る辺となる御家を再興せねば、良人は成仏できぬ」と念仏する一方、浪士らの仇討ちを思い止まらせるべく、桂昌院へ御家再興の嘆願をはじめる。

 元禄15年2月15日、山科会議。「討ち入りを見送り、御家再興の道を探るという結果は、吉良方を欺くためではないか」と阿久利は落合に問い質す。つぎに、高田郡兵衛が脱盟した。このことから「仇討ちが具体的に進んでいること」を知った阿久利は「仇討ちのことを、どうして教えてくれなかったのです」と落合を叱る。
 7月19日、長矩の弟で養嗣子としていた浅野大学の処分が決まる。この瞬間に、阿久利の奔走も虚しく、御家再興の望みは絶たれるが、阿久利は「大石殿が大学殿の処遇を不服として、安兵衛殿と動く恐れがある」と察し、「何としても、止めるのです」と落合に指示する。が、「もはや、止めることはできませぬ」と落合。
 7月28日、京都円山の会合で、大石はついに本心を明かす。大石は阿久利の御家再興に奔走する姿をしり目に、初めから吉良を討つと決めていた。
 12月9日、磯貝十郎左衛門が大石の落合宛ての手紙を持参して、阿久利を訪ねる。討ち入りが決まったと確信している阿久利はその48人の名の書かれた手紙を見、「止めたくとも、今となっては術がないのか」と手の震えが止まらない。

 <忠臣蔵もの>歴史小説は“従来の了解事情”を覆し、“新しい視点”で真実に迫ろうとして今後とも尽きることなく書き繋がれていくであろうが、本書における新しい視点と言えば、討ち入りと吉良上野介の描かれ方も特筆するに値する。
「内匠頭が亡くなって1年と10カ月が過ぎていたこともあり、討ち入りはないものと油断していた吉良家の家臣たちに、戦備えをしている者は誰一人いない」とする背景描写。さらに、吉良上野介の最期のシーンでは、大石に、「『おのれ上野介、遺恨、覚えたるや!』(と叫ばせ、それを耳にした)「上野介は、松の廊下で聞いた内匠頭と同じ言葉に、息を呑んだ」とする。このわずか二行の文章が絶妙である。

 浅野内匠頭はなぜ刃傷に及んだか。事件の発端となる肝心かなめのことが謎に包まれているが、本書においても、結局不明のままに止めている。
 三次下屋敷に出戻った阿久利に対して養母は、「どうして内匠頭殿を止められなかったのです。仲睦まじいと聞いていましたが、そうであるならば、夫の異変に気付くはず。違いますか」と迫る。
 将軍綱吉の佞臣で元禄期の幕政を牛耳ったお側御用人・柳沢(やなぎさわ)吉保(よしやす)は即日切腹を綱吉に進言した張本人である。もともと吉良に贔屓する悪役として存在するというが従来の吉保像だが、「四十六士の命を助けたいなら、仇討ちを命じたと言え」と阿久利を恫喝する吉保が不気味である。吉保と阿久利の問答、駆け引きが面白い。
「内匠頭が刃傷に及んだ理由に、心当たりがあるからではございませぬか。言われては不都合なことが、あったのでは」と吉保の口封じを疑う阿久利に、「そちは内匠頭と仲睦まじかったそうだが、まことであれば、上野介殿を恨む理由を聞いていたはず」と応ずる吉保。吉保ははぐらかしているのか、本当に知らないのか。それとともに、吉保と養母の阿久利への問いが図らずも同じであることが何とも意味深い。
 一方、策を弄して阿久利を陥れようとする吉保を「それは上様の思し召しではなかろう」と一喝、叱責して阿久利の窮地を救う桂昌院がいる。「義士切腹」後、阿久利は事件に連座して伊豆大島へ遠島になった赤穂浪士の遺児たちの赦免嘆願に奔走している。その際、頼りとしたのは他ならぬ桂昌院であった。
 四十六士や浪士の遺児たちの「赦免」に関して、綱吉が次期将軍家宣(いえのぶ)に「本心」を伝えるシーンがある。綱吉の末期の政治情勢を巧みに抉り出し描いているのであるが、これまた微妙な人物造形といえる。
 内匠頭刃傷についての作家の見解は結局、「刃傷に及んだ理由を、言わなかったのは、御公儀に訴えたとしても、釈明にしかとってもらえぬから。釈明が命乞いと取られれば、赤穂浅野の家名に傷が付くと考えたのでは」との仙桂尼の発言に込められているとみるべきなのであろうか。

 阿久利が活躍する主な作品をふりかえる。湯川裕光の『瑶(よう)泉院(ぜいいん)』(新潮社 1998年)は題名そのもの瑶泉院が主人公で、瑶泉院は大石内蔵助らを陰になり日なたになって支え一党の討ち入りの絵図を描いているとする大作である。諸田玲子の『おんな泉岳寺』(集英社 2007年)は高輪泉岳寺を舞台とし、夫の運命に翻弄される二人、浅野家の阿久利と吉良家の未亡人富子を対峙させた作品で、しみじみとした人生観照を味わうことができる。諸田玲子の『四十八人目の忠臣』(毎日新聞社 2011年)はかつて瑶泉院に仕えたきよを主人公としている。磯貝十郎左衛門の恋人のきよは、後に6代将軍家宣の側室で7代将軍家継の生母となる月光院であるが、「四十八人目の忠臣」は他ならぬ瑶泉院であるとする作品である。
 こうした先行作品と比較して読めば、本書から、柳沢吉保桂昌院と互角以上に渡り合った阿久利のしたたかかつ健気な生き方が浮かび上がるであろう。

 佐々木裕一は1967年、広島県三次市の生まれ。阿久利と同郷出身の佐々木の「忠臣蔵」に対する作家的関心度の深さには並々ならぬものがあったのであろう。亡き夫との約束を守るため、家臣の助命に人生を懸けた悲姫を生身の女性として蘇らせ“忠臣蔵の世界”をさらに味わい深いものにしている。
  

             (令和3年4月26日 雨宮由希夫 記)

 

大河ドラマウォッチ「青天を衝け」 第11回 横濱焼き討ち計画

 栄一(吉沢亮)は上州に逃がしたはずの長七郎(満島真之介)が、江戸に向かおうとしていることを知ります。

「長七郎が危ねえ」

 と、栄一は夜道を駆け出すのでした。

 長七郎は熊谷の常宿を発とうとしていました。そこに栄一が駆け込んできます。

「栄一、どうした。なぜここに」

 倒れ込む栄一に長七郎は声を掛けます。

「お前こそ、どこに行く気だったんだ」栄一は起き上がろうとします。「やっぱり、江戸に出る気だったのか」

「兄ぃにいえばまた止められるに決まってる。こんな時にいつまでも上州に安穏(あんのん)としておられるか」

 長七郎は出かけようとします。栄一は声を掛けます。

「河野が死んだ」

 河野とは、江戸の思誠塾の筆頭のような存在だった人物です。長七郎も思誠塾で学んでいました。栄一は話します。安藤対馬守を襲ったが、襲撃者全員が護衛に斬られた。安藤は取り逃がした。江戸ではその一味を探そうと、火のついたような騒ぎになっている。そんな中に江戸に行くのは、命を捨てに行くようなものだ。

「俺はもとより命など惜しくはない。俺がいれば、たとえ……」

 栄一は長七郎の言葉をさえぎります。

「だからそれが無駄死にだといってんだい」

「何だと」

 栄一は激高する長七郎の肩をつかみます。

「分かってくれ、長七郎。生き残ったお前には、今、生きている俺たちには、河野の代わりに、為すべき定めがまだあるはずだ」

 長七郎はわずかにうなずきます。荒い息をつき、栄一から離れます。その悔しさに栄一の襟首を持って揺さぶり、涙を流すのでした。長七郎は一旦、京に逃れることになりました。

 その一ヶ月後のことです。栄一の妻の千代(橋本愛)が子を産みました。栄一は子を抱いて妻にいいます。

「やったぞ、お千代。俺たちの子だい」

 栄一の伯父の宗助(平泉成)が、歩けるようになった千代にいいます。

「これで中の家(なかんち)は安泰だい。よく働き、良く儲け、いいおとっつあんじゃねえか」

「まことに」

 千代も笑顔で答えます。栄一の父の市郎右衛門がいいます。

「これも、お千代と(生まれてきた)市太郎のおかげだい。これで攘夷がどうのなんて戯(ざ)れ言は、はかなくなるだんべ」

 栄一は夜、そろばんをはじいていました。銭を分けて小袋に詰めてゆきます。栄一はしばらく考えた後、小袋の一つを懐にしまうのでした。

 栄一は尾高惇忠(田辺誠一)のところに来ていました。喜作(高良健吾)の姿もあります。惇忠は語ります。

「目的は、攘夷遂行と、封建打破。栄一のいうように、幕府が腐ったのは封建制の弊害(へいがい)だ。幕府を根本から正し、国を一家のように、家が国、国が家であるようにして、はじめて攘夷が為る。そのためには、天下の耳目を驚かす大騒動を起こし、世間を目覚めさせなくてはならねえ。そこで俺は考えた。異人の商館のある横浜を、焼き討ちにする」

「焼き討ち」

 意気込んだように喜作がいいます。

「そうだ。横浜の異人の居留地を、異人ごとすべて焼き払う」

 栄一がいいます。

「そうか、一歩、横浜がやられりゃ異国が黙って見てるはずがねえ。異国は幕府を責め、幕府はそれを到底支えきれず転覆(てんぷく)する」栄一は二人を見回します。「そうなった暁には、いよいよ忠臣である俺たちが、天子様をいただき、王道をもって天下を治める」

「よし、やってやんべえ」

 喜作もいいます。長七郎に文(ふみ)を送ろうということになります。この実行には長七郎が必要です。惇忠が宣言します。

「俺たちは、この北武蔵から攘夷を決行する」

 文久二年(1862)。徳川慶喜(草彅剛)は、将軍後見職に任命されました。薩摩の島津久光が、大軍を率いて江戸に入り、幕府に圧力を掛けてのことでした。

 江戸の薩摩藩邸に慶喜は来ていました。久光のおかげで幕府の要職に復活した松平春獄(要潤)もいます。久光はいいます。

「こん先は、我らで力を合わせ、ご公儀を動かし、攘夷を行いもうそう」

 それに対して慶喜はいい放ちます。

「攘夷、攘夷とおっしゃるが、攘夷が可能だと本気で思われているのか。攘夷などもはや詭弁(きべん)。父が攘夷、攘夷と申したのも、ひとえに国が辱(はずかし)められるのを恐れたためだ。いまだ兵備とて足りず、異国に攻められればひとたまりもない。それを知りながらあなたは、その場逃れの空虚な妄想をしているだけではございませぬか」

 慶喜は帰って妻の美賀君(川栄李奈)にこぼします。

将軍後見職も飾り物であった。薩摩は、私や越前殿(松平春獄)を、みずからの覇権のために利用しようとたくらんでいるのみ。公儀も、わが名を、朝廷のご機嫌取りに都合よく使おうとしている」

 血洗島では、息子の生まれたことで栄一は浮かれていました。ところが家に帰ってみると様子がおかしいのです。千代が「はしか」にかかっていたのでした。息子の市太郎は亡くなりました。栄一は息子の遺骸を抱いて泣き崩れるのでした。

 この年の暮れまでに、関東では、はしかとこれらで20万人もの死亡者が出ていました。

 栄一は惇忠のところに来ていました。血判状に血印を押します。惇忠が宣言します。

「まずはこの先、高崎城を乗っ取る」

 栄一が言葉を継ぎます。

「岡部の陣屋では小さすぎるからな。ここから七里の、松平右京之介八万二千五石の高崎城を襲撃し、城を制圧して武器弾薬を奪い、そこを本拠地に決起するんだい」栄一は地図を指でたどります。「城を奪ったら幕吏の守りが一番手薄な鎌倉街道を横浜に向け、一気に進撃する。そして横浜を焼き払い、夷狄を討つ」

 惇忠がいいます。

「横浜をとことん燃やすには、火の早く回る時節でなければならねえ。今年の冬至、十一月十二日の決行としよう」

 栄一がいいます。

「死の覚悟をもってすれば、きっと爪痕を残せる。俺たちは、命をかけ、国のために一矢報いることができりゃそれでいい。それで十分だ」

 そして年の明けた文久三年(1863)。京では過激な志士たちが「天誅(てんちゅう)」と称し、和宮降嫁に力を貸した者や、開国に賛成する者に次々と危害を加えました。そしてその首が慶喜に届けられることもあったのです。攘夷決行の血祭り、お祝いのしるしとして、一橋殿へご披露くださるべく候、との文(ふみ)が添えられていました。

 この京の攘夷運動の先頭にいたのは、長州の志士と、彼らに持ち上げられた公家の三条実美でした。三条は慶喜にいつ攘夷を行うのかと迫ります。慶喜は近臣にこぼします。

「もう無茶苦茶だ。イギリスは軍艦を率いて攘夷事件の賠償金を支払えと脅してくる。そんな中、朝廷は、早く攘夷をせよとのたまう。攘夷、攘夷、攘夷。攘夷など詭弁だとなぜわからぬ。私には天子様が、今、日本に起っていることをすべてお分かりの上で攘夷とおおせられているとは決して思えぬ」

 そんな慶喜にうれしい出来事が起ります。平岡円四郎(堤真一)が慶喜に仕えるために戻ってきたのです。

 栄一と喜作は、仲間を募り、武器を集めるため、江戸に来ていました。武具屋に入ります。刀を買いたいと率直にいいます。商人はいぶかしみます。

「失礼でございますが、お客様は、お武家様ではございませんな」

 栄一は商人の前に銭の袋を置いていいます。

「日の本はお武家様だけのもんじゃねえ。俺たちにも志(こころざし)はあります」

「何です、志って」

 商人は笑みを浮かべてたずねます。ひるむこともなく栄一は述べます。

「今、すっかりよどんで沈みかけちまってるこの国に、一石を投じることです。この国をよみがえらせることです」

 商人は二人を奥に案内します。そこはおびただしい武具が並べられた倉庫でした。商人はいいます。

「近頃じゃ、威張り腐った貧乏な侍が、金を払わねえで俺たち町人にたかってきやがる。あれに比べたら、お前さんたちの方がよっぽど気持ちがいいよ。あなた方の、志とやらに乗らしてもらいましょう」

 商人は栄一に刀を差し出すのでした。

 栄一たちが集めた武器は、ひそかに惇忠のもとに送られました。血洗島やその周辺からは、計画に参加したいという者が続々と集まっていました。

 栄一たちが焼き討ち計画にのめりこむ一方で、日本と外国の関係は刻々と変化していました。長州藩薩摩藩は、イギリスをはじめとする諸国の艦隊との戦いに敗れ、攘夷は無謀であることを知りました。京でも、過激な攘夷を唱える公家や志士たちが突然追放され、事態は混とんとしていました。

 そんな中、栄一と千代は新たな命を授かりました。しかし娘の、うた、を見る栄一には、あきらかに失望の表情が浮かんでいました。

 夜、栄一は父の市郎右衛門の前に膝をつきます。

「とっさま、俺を、この中の家から勘当してください。こんな乱れた世の中になっちまった以上、もう安穏とはしていられねえ。家を出て、天下のために働きてえと思う」

「天下だと、お前、何をする気だ」

「それはいえねえ。しかし、天下のために働くとあっては、この家に迷惑をかけるかもしれねえ。どうか、おていに婿養子をとって、家を継がせてください」

 栄一は深く頭を下げるのでした。母のゑいが栄一の背後からいいます。

「苦労もあるけど、一家みんなで働いて、村のみんなと助け合って、いい暮らしだよ。そのうえ働き者の嫁がいて、あんなかわいい子まで生まれて、あんたこれ以上、何がたりねえっていうんだい」

 頭を下げたまま栄一は母にいいます。

「すまねえ、かっさま。俺一人満足でも、この家の商いがうまくいっても、この世の中みんなが幸せでなかったら、俺はうれしいと思えねえ。みんなが幸せなのが一番なんだ」栄一は顔を上げます。「俺は、この国が間違った方向に行こうとしてるっつうのに、それを見ねえふりして、何でもねえような顔して生きていくことは決してできねえ。何度も、何度も胸に手を当てて考えた。でも俺は、この世を変えることに命をかけてえ。この村にいるだけでは決してできねえ、大義のために生きてみてえんだ」

 皆が黙り込みます。栄一は再び深く頭を下げます。すると妻の千代が栄一の隣に座り、共に市郎右衛門に頭を下げるのでした。

「私からも、お願いいたします。栄一さんはこの日の本のことを、おのれの家のように、一家のように、大事に思っていらっしゃるんです。家のことに励むみてえに、この日の本のために懸命に励みてえって。ひとつだけじゃない。どっちも、どっちもに、栄一さんの道はあるんです」

 市郎右衛門はいいます。

「強情っぱりのお前のことだ。俺が何をいおうが、しまいには思うようにするんだんべ。もう、お前という息子はいねえものと思って、俺が十年若返って、働くことにすらあ。俺は、政(まつりごと)がどんなに悪かろうが、百姓の分は守り通す。それが、俺の道だ。栄一、お前はお前の道を行け」

 

 

『映画に溺れて』第407回 ステージ・マザー

第407回 ステージ・マザー

令和三年三月(2021)
日比谷 TOHOシネマズシャンテ

 

 コロナ禍でハリウッド大作がほとんど映画館で上映されない状況が続く。逆に、今は地味な佳作を映画館で観ることのできるチャンスかもしれない。そんな一本がカナダ映画の『ステージ・マザー』である。
 テキサスの田舎町に住む初老のメイベリンはごく普通の専業主婦で、地元の教会の聖歌隊の指揮を受け持っていた。そこへ突然、息子リッキーの死の知らせが届く。リッキーは若い頃に父親と対立して家を捨て、音信不通となっていたのだ。
 死んだ息子をなおも嫌い続ける夫の反対を押し切って、メイベリンはひとりサンフランシスコで執り行われる葬儀に向かう。
 教会に集う女装の男たち。葬儀はさながらゲイバーのショウタイムのようだった。思わず飛び出してしまうメイベリン
 リッキーはゲイだった。夫はそれが許せず、メイベリンは息子を愛してはいたが、やはり認めたくなかった。そのためにリッキーはサンフランシスコでゲイバーの経営者となっても、死ぬまで両親と会うことはなかった。
 息子の死によってゲイバーを相続したメイベリンは、息子の恋人で店のパートナーでもあったネイサンに敵視されながらも、聖歌隊で培った指導力でドラッグクイーンたちの魅力を引き出し、落ち目のゲイバーを人気スポットとして成功させる。が、結局は店をネイサンに譲ってテキサスの田舎に帰って行く。
 なにか、似たような話があったな。
 ジェームズ・スチュアート主演のコメディ西部劇『テキサス魂』を思い出した。
 テキサスの野暮なカウボーイが双子の兄の死で、町の売春宿を相続する。そこでいろいろと事件があって、最後には店を娼婦たちに譲り、テキサスに戻るという話。どちらもテキサスつながり。関係ないかな。

 

ステージ・マザー/Stage Mother
2020 カナダ/公開2021
監督:トム・フィッツジェラルド
出演:ジャッキー・ウィーバールーシー・リュー、エイドリアン・グレニアー、マイア・テイラー、アリスターマクドナルド、オスカー・モレノ、ジャッキー・ビート

 

書評『作家という生き方』

書   名  『作家という生き方 評伝高橋克彦
著   者  道又 力
発行年月日  2021年4月25日
定   価  本体1700円(税別)
発   売  現代書館

 

作家という生き方 評伝 高橋克彦

作家という生き方 評伝 高橋克彦

  • 作者:道又力
  • 発売日: 2021/04/16
  • メディア: 単行本
 

 

 岩手県釜石市生まれで現在も盛岡市に居を構えて書き続けている高橋克彦の「評伝」が刊行された。
 著者は高橋克彦の秘書兼運転手兼弟子にして、盛岡文士劇の脚本を長く手がけている脚本家の道又力(みちまたつとむ)である。

 SF、ホラー、本格推理小説、冒険小説、伝奇小説、歴史小説、時代小説とほとんどのジャンルを手掛け、それぞれに名作が軒を並べている高橋克彦は1983年『写楽殺人事件』で第29回江戸川乱歩賞を受賞し作家デビュー、1992年『緋(あか)い記憶』で第106直木三十五賞を受賞 (1992年)、かつ、吉川英治文学新人賞(1986年)、日本推理作家協会賞(1987年)、吉川英治文学賞(2000年)、NHK放送文化賞(2002年)、日本ミステリー文学大賞(2012年)、歴史時代作家クラブ賞実績功労賞(2013年)など、賞という賞を総なめにしている。
「こんなにも多面的に才能を発揮し得た作家はこれまでいなかったし、今後も現れないだろう」と道又が記すように、各分野で頂点を極めた大作家である。

 道又は誕生から今日までの克彦の半生を克彦の作品を引用し、克彦の秘蔵写真70枚ほどを織り込みながら綴っていく。このオムニバス形式はきわめて刺激的かつ魅力的である。引用する作品はかなり読み込まねば容易く引用できないであろう。加えて、評伝著述のための即席の取材インタビューではなく、長い歳月を通じ、過去と現在との往復を繰り返しつつ蓄積した「インタビュー」であるから、言葉に重みがある。時には、「見栄っ張りで思い込みの強い克彦」、「日本史の知識に欠落が多い克彦」などと決めつける毒舌の道又がいるのも愛嬌である。道又と克彦の遭遇はいつで、秘書になったのはどういう経緯かと想像しながら読むのも楽しい。本文中に固有名詞としての道又の登場はないが、克彦を長く支えてきた身近な存在である著者にして綴ることが可能な作品に仕上がっている。

 構成は、「第一章 空飛ぶ円盤に導かれて――高校卒業まで。第二章 十年書くのを止めなさい――作家になるまで。第三章 岩手で物語を紡ぐ――作家になる。第四章 大衆文学の頂点を目指す――直木賞以後。第五章 大震災が変えた人生――あの日から」の5章構成。どの章から読み始めても面白いが、一つの読み方として「作家になる前の克彦」と「作家になった後の克彦」の2部に分けて読む方法があろう。

「作家になる前の克彦」――。少年克彦の贔屓は栃錦若乃花は嫌いだった/線路に釘を置き、汽車に轢かせて手裏剣を作った/「笛吹童子」シャラーリ、ヒャリーコ/「ぼくらは少年探偵団」のBDバッチを20、30個も買い集めた。
 母のこと/母の弟の木村毅(ロシア文学者)のこと/佐々木喜善は父方の祖父・高橋菊治の盛岡の医学校時代の友人であるという。
 中二の冬、生まれて初めて生霊を見、高一では自分の生霊を見る/ホクサイ、フミ、タマゴら愛猫との交感など目には見えない世界が実在すると確信する克彦/一線を越えぬまま別れた初恋の人/医者を継ぐつもりではいたこと/ビートルズに会いにゆくべく、ソ連から欧州への大旅行を敢行/浮世絵との出逢いもすでに高校時代であること/浪人生活一年目の克彦を虜にした札幌の街の美しさと楽しさ/生涯の伴侶・市川育子との出会い/親の金で安逸を貪っていた時代、すれ違いざま「豚」と呟く父。脛をかじらせてくれた父への思い……。

 配置された写真がこれまた絶妙である。生後まもなくから、小中高と、よくぞここまで豊富に残っているものか。「永遠のアイドル ミコちゃん」と並んで映る記念写真も。若き恋人・奥様の育子のなんと可憐で愛らしいことか(私はまだお目にかかったことがないが)。
 まったく知らない克彦がいる。面白さ満載。克彦ファンにはたまらない。

「作家になった後の克彦」――。
 担当編集者に「十年書くのを止めなさい」と言われたことや乱歩賞の記者会見での爆弾発言、『倫敦暗殺塔』で挫折感を味わうことのエピソードはつとに知られたものであるが、克彦の小説を読み続けている者だけが知る醍醐味を再度味わうことができる。
 歴史小説とのかかわりでいえば次のエピソードもまた欠かせない。
 京都大原の山中で道に迷った克彦はそこで出会った老婆の郷土愛に感銘を受け、生まれ育った郷土の歴史を知らねばならないことを知り、いずれは生まれ育った東北の歴史を題材に小説を書かねばと決意するのである。

 本書は「評伝」の形式をとった優れた文芸評論でもある。
 歴史小説と時代小説の違いを語ることは「歴史時代小説」なる奇妙な用語が存在するほどに難しいが、道又は、「克彦の場合、実在の人物を主人公に地方の視点から歴史をとらえ直すのは歴史小説、江戸を舞台に正義のヒーローを自由な発想で活躍させるのは時代小説、と使い分けている」と記す。なんとも明快この上なく、さりげないことか。目から鱗とはこのことである。

 また、歴史小説を書く者は司馬遼太郎の呪縛から逃れられないのがほとんどである。次なる文章も見逃せない。
「『炎(ほむら)立つ』を執筆することで、克彦は新しい歴史小説の書き方を掴んだ。司馬遼太郎は常に歴史を俯瞰して書いた。(中略)克彦は『炎立つ』で、その書き方を捨てた。作者と違って、登場人物は自分の未来を知らない。その瞬間起きることに、その都度向き合って行動するだけである。克彦も同じ立場に自分の身を置いた。ある事件に遭遇した時、彼らがどう乗り越えるかを一緒に必死で考える。歴史が今まさに目の前で動いているところを、まるで目撃しているかのように書こうとしたのである。(中略)克彦はそれによって、ようやく司馬の呪縛を抜け出したのである」。

炎立つ』は93年放映の NHK大河ドラマ原作となった作品である。奥州藤原一族の歴史を敗者である藤原氏側から描いた『炎立つ』を書き終えて、克彦はライフワークのテーマ、「敗者によって抹殺された蝦夷の歴史を掘り起こし、東北の誇りを取り戻すこと」を見つけたという。
 締めくくりは3.11 東日本大震災である。著者は、この震災に遭遇した克彦が、小説がいかに無力であるかを痛感し、打ちのめされ、苦悩し続けながらも、作家という生き方を選んだ克彦を目の当たりにし、その上で、克彦と共に「だが、小説は無力ではけっしてない」と断言し、再び筆を執る不屈の克彦を描いている。本書の本題「作家という生き方」には東日本大震災が込められているのである。
 一貫して盛岡にこだわり、盛岡で書き続ける克彦が「心の故郷は、私がかつて暮らした昭和30年代の盛岡だ」と盛岡を語るシーンがある。

 克彦は1947年(昭和22)8月6日の生まれで、比べるのも烏滸がましいが評者(私)より2歳年上。同世代の私は当時を思い浮かべながら読んだ。とりわけ「作家になる前の克彦」は、故郷と心の故郷とは異なることにも思いを馳せつつ、「昭和世相史」として読みふけったことも蛇足ながら付記したい。
 巻末に附された「高橋克彦全著作」も労作で貴重なものである。欲を言えば、「高橋克彦年譜」も欲しかったが。
 長年、苦楽を共にした作家と秘書との阿吽の呼吸で醸し出される本音が随所に溢れている本書は史料性も高く、克彦の全てがわかる本として、克彦研究の基本書、必読書となるであろう。

 道又力 は1961年岩手県遠野市生まれ。大阪芸術大学映像学科卒。脚本家。『文學の國いわて』(岩手日報社)、『芝居を愛した作家たち』(文藝春秋)などの著書がある。本書と共に紐解き、こころ篤き街・盛岡を堪能したい。

 
               (令和3年4月21日 雨宮由希夫 記)

 

大河ドラマウォッチ「青天を衝け」 第10回 栄一、志士になる

「俺を江戸に行かせて欲しい」

 と、栄一(吉沢亮)は父の市郎右衛門(小林薫)に頼みます。

「何の話かと思ったら」

 市郎右衛門は作業の手を休めません。

「前に、とっさまと一緒に江戸に行ったんべ。そっから、この国がどんどん変わった」

「だから、百姓には何の関わりもねえ事といっただんべ」

「関わりねえ事ねえで。とっさまも知ってるはずだ。横浜に港が開かれてから、物の値は上がるばっかりで、麦なんてもう三倍だで。かっさまやお千代が育ててる、お蚕さんだって、横浜の異人が買いあさるせいで、みんな外に流れちまってる。百姓だって、この世の一片をになってんだ。俺はもっと知りてえ。今、この国がどうなってんだか。江戸で、この目で見てきてえんだ」栄一は膝を突き、頭を下げます。「頼む、とっさま。江戸に行かせてくれ」

「まっことお前は良くしゃべる。でもまあ、そんなに行きたけりゃ行ってこい」驚く妻のゑい(和久井映見)に、市郎右衛門はいいます。「なあに、百姓の分さえ守りゃ文句はねえ」そして栄一に向き直ります。「けど、仕事の少ねえひと月だけだ。けえって来たら、うんと働けよ」

 栄一は喜びの声をあげます。栄一の妻の千代(橋本愛)は、複雑な表情を浮かべるのでした。

 その頃、栄一の目指す江戸では、大老井伊直弼が攘夷派の志士に暗殺され、代わりに政務を執ることになったのが老中、安藤信正対馬守)でした。安藤は天皇の妹君、和宮(かずのみや)を将軍家へむかえ、朝廷との結びつきを深めようとしていました。

 栄一は江戸に出てきました。あまり浮かれた表情ではありません。先に来ていた喜作(高良健吾)が栄一を迎えに来て、思誠塾に案内します。塾頭の大橋訥庵(山崎銀之丞)が栄一にいいます。

「江戸は、呪われたのじゃ。とてつもない大地震で、街は崩れ、火の海となり、ようやく天の怒りが収まるかと思えば、桜田門で、天下の大老が血祭とは。なあ河野」

 訥庵は片目の傷を隠す者に声を掛けます。河野と呼ばれた男が言葉を継ぎます。

「はい。これもすべて、神の国に異人を入れた天罰」

 栄一は納得いきません。

「そんなら、どうして日の本の神様は、神風を起こしてくれねえんだ。天罰なんか起こしてねえで、風で異人も病(やまい)も吹き飛ばしてくれりゃいいのに」

 栄一の背後にいた男たちが、神を冒涜するかと栄一に迫ります。栄一は外に押し出されます。河野が叫びます。

「貴様、ここから出て行け」

 しかし大橋訥庵が声を上げるのです。

「さもありなん。おそらく、幕吏の大罪の悪行に、神はもう、助けたいという力も出ぬのであろう。病弱な将軍ではなく、水戸の出の、一橋様が将軍であれば、このようなことにはならなかったはず」訥庵は栄一に開いた扇子を突きつけます。「よいか減らず口よ。我らが、神風を起こすのじゃ」

 男たちが賛同の声を放ちます。そこに長七郎がやってきて、栄一に親しげに声をかけるのでした。

 夜になり、栄一は長七郎と喜作の三人で酒を酌み交わします。長七郎がいいます。

「今や幕吏は夷狄(いてき)のいいなりだ」

 栄一は幕吏の意味を聞きます。喜作が説明します。夷狄のいいなりの幕府の犬どもを、尊王攘夷の志士はそう呼ぶとのことでした。

 栄一たちは片目の傷を隠した、河野顕三たちとも話します。

「今一番倒すべき幕吏は、国賊、安藤対馬守だ」

 と、河野は言い放ちます。水戸と長州が手を組んで、安藤を倒そうとしたが、国元にもめごとが起こって頼りにならない。河野はいいます。

「そう考えれば、そのような後ろ盾のない俺たち、草莽(そうもう)の志士の方が、いっそ動きやすい」河野は「草莽」の意味を説明します。「日の本を思う心のみで動く、名もなき志士。つまり我らのことだ」

 剣術家の真田範之助(板橋俊谷)が栄一や喜作にいいます。

「いずれは、尾高先生やおぬしらも奮起する時が来るであろう。覚悟しとけ」

 しかし河野は栄一たちを見下ろしていうのです。

「尾高はともかく、田舎に引っ込んで百姓をしているこいつらに何ができる」

 栄一は立ち上がります。

「いちいち気に食わねえ奴だな。しかしお前の言葉には胸を打たれた。俺も、今日この日から、草莽の志士になる」

 栄一はひと月が過ぎても血洗島に帰ってきません。女たちが作業している中を、明るい表情で入ってくるのです。

 夕暮れ時、栄一は千代と二人きりで話します。

「俺はなんだか、まだ頭ん中がごちゃごちゃしてる。ここと、江戸の風があまりに違いすぎて」

「江戸の風はどのように」

 栄一は千代を背後から抱きしめます。

「お前に会いたかった」

 この頃から、血洗島には日本各地から志士や脱藩浪士が立ち寄るようになりました。尾高惇忠(田辺誠一)が皆にいいます。

「このままでは日の本は骨抜きにされ、食い潰されてしまう」

 和宮降嫁の道筋に、中山道が選ばれました。総勢三万人を超える行列が、血洗島付近を通ることになったのです。岡部も総出で人足を出すことになります。栄一が市郎右衛門にたずねます。

「俺たちに道中の世話をしろというのか」

「その間、田畑はまた荒れ放題だ」

「ちょっと待ってくれ、とっさま。これは幕吏のはかりごとだ。いわれるがままにそんな末端な御用を務めろというのか」

「ああ、しょうがねえ。それが百姓の務めだ」

「だとしたら、百姓とはなんとむなしいもんだい」

 栄一は叫ぶようにいうのでした。それを聞いていた千代がうずくまります。子を授かったのでした。栄一は喜び、笑い出します。

 作業をする栄一に千代はいいます。

「よかった。このお子のおかげで」千代は自分の腹をさすります。「ようやく栄一さんの、そんなお顔を見ることができた気がします」

「そうか。俺はそんなに険しい顔をしておったか。江戸では、この世を動かすのはなんも、お武家様だけじゃねえってことを学んだ。俺たちだって、風を起こせるんだと。俺は今、この日の本を身内のように感じてる。わが身のことのようにさえ思えてくる。だから、いろいろ納得がいかね。すまねえ。腹に子のいるおなごにする話でねえな」

 千代が口を開きます。

「私は、兄や栄一さんたちが、この国のことを思う気持ちは、尊いものだと思っております。そしてそれと同じように、お父様が、この村や、この家のみんなを守ろうと思われる気持ちも、決して負けねえ、尊いものだとありがたく思っております」

 それを聞いて栄一は考え込むのでした。

 文久元年十月二十日。和宮の一行は江戸を目指し、京を出発しました。血洗島にもその行列が近づいてきます。嫁入りというより、いくさの支度のようだ、と女たちが話します。栄一もその仕事に追われます。代官たちの怒鳴り声が響き渡りました。栄一は威張り散らす代官と、働く村人たちの様子を手を止めて見つめるのでした。

 和宮の一行は十一月十五日、江戸に到着しました。

 思誠塾では和宮江戸城に入ったことが話し合われていました。河野顕三が訥庵にいいます。

「先生。こうなれば義挙に乗り出すしかありません。水戸の浪士と組み、奸臣安藤対馬守を討つのです。安藤を生かしておけばやがて天子様も廃され、わが国は夷狄に支配されます」

 訥庵は長七郎に呼びかけます。

「その手で、安藤を斬れ」

 血洗島に長七郎が戻ってきます。

「兄さま」

 との千代の呼びかけにもこたえません。

 夜、長七郎は栄一たちと話します。

「訥庵先生は今、一橋宰相様を擁して、幕府に攘夷を迫るべく動いておる。年が明けて一月、河野と俺たちで、安藤を斬る」長七郎の言葉は穏やかです。「俺が安藤を斬り、うまくいった暁には、切腹する」

 皆は驚きます。喜作が聞きます。

「待て、長七郎。なぜ腹を切る必要がある」

「喜作。俺は武士になった。武士の本懐を果たせば、あとは潔く死ぬのみよ」長七郎は反対しようとする栄一にいいます。「栄一。一介の百姓のこの俺が、老中を斬って名を遺すのだ。これ以上何を望む」

 栄一は沈黙します。しかし惇忠がいうのです。

「いや、それはならねえ。安藤一人斬ったところで何が変わる。一人殺して、急に幕府が攘夷に傾くわけはねえんだ」

「しかし兄ぃ」

 長七郎は身を乗り出します。

「その話では一橋様は動かぬ。その暗殺はかなうも今は、国を挙げて攘夷の志を果たす口火にはならねえ。いいか長七郎。これは無駄死にだ。暗殺に一命をかけるのは、お前のような大丈夫のなすことではねえ」

「ならばどうしろというのです」長七郎は立ち上がります。「兄ぃはそうして知識ばかりを身につけ、一生動かぬおつもりですか」

「いいや、兄ぃのいう通りだ」と、栄一が口を開きます。「安藤を動かしてるのも、井伊を動かしていたのも結局は幕府だ。幕吏が何人死のうが入れ替わろうがなんも変わらねえ。武士は武士、百姓は百姓と決めちまっている幕府がある限り、何も変わらねえんだ。そうだんべ」栄一も立ち上がります。「いつだって、幕吏らがおのれの利のために、勝手にはかりごとをこねくり回し、俺たち下のもんは何も知らされずその尻ぬぐいばかりだ。もっと根本から正さねえと、世の中なんも変わらねえ」

 惇忠も立ち上がります。自分たちも、もはやじっとしてはいない。自分たちが口火となり、

「幕府を転覆させる」

 と、宣言するのです。惇忠はどうしてもお前が必要だ、と長七郎にいいます。お前のようなかけがえのない剣士を、安藤一人のために失いたくない。長七郎は上州に身を隠すことになります。

 血洗島に、見知らぬ商人のような者がうろつき始めます。幕府が探りを入れてきたようなのです。

 大橋訥庵らは、慶喜へともに決起するよう、書状を送りました。しかし、慶喜が応じることはなく、一行は安藤襲撃を決行します。しかし結果は失敗。安藤はわずかに背を斬られたのみで、襲撃者六人はすべて護衛に斬り捨てられました。訥庵は捕らえられ、幕府はまだ残党がいると見て、関わった志士たちを次々に捕縛していきます。

 布団に横になる栄一のもとへ声をかける者がいます。長七郎に深谷宿で会ったというのです。これから江戸に出る、と長七郎はいったとのことでした。栄一は闇の中を飛び出して行こうとします。

 

 

書評『田中家の三十二万石』

書名『田中家の三十二万石』                
著者名 岩井三四二
発売 光文社
発行年月日  2021年2月28日
定価   本体1800円(税別)

 

田中家の三十二万石

田中家の三十二万石

 

 

 表題は『田中家の三十二万石』である。「田中」というありふれた苗字を冠した家の何の話か思う。田中吉政(よしまさ)と言われて、戦国から江戸前期の武将で、関ヶ原の戦いで敗北した石田三成を捕縛した男であると答えることのできる人はかなりの戦国通であろう。
 『光秀曜変』(明智光秀)、『三成の不思議なる条々』(石田三成)、『天命』(毛利元就)、『政宗の遺言』(伊達政宗)など戦国時代と人物をテーマに数多くの歴史小説を描いてきた著者の最新作は一般的にはなじみの薄い人物であろう田中吉政(1548~1609)を主人公にした作品である。

 物語は近江国浅井郡三川村の、五反の田畑しかない貧しい百姓久兵衛(のちの吉政)16歳がただ苦境を抜けだしたい一心で、父の反対を押し切って侍になるところから始まる。浅井長政の家臣で宮部村の国人領主である宮部(みやべ)善祥坊(ぜんしょうぼう)継潤(けいじゅん)の家人となった吉政は合戦での手柄を求め、味方が止めるのも聞かず自慢の槍を振るって猪突猛進してゆく。

 善祥坊は吉政の生涯に欠かせない、後のストーリーとも絡んでくる人物である。信長の浅井・朝倉攻めに際し、善祥坊が織田方に寝返った顛末が描かれる。
 浅井・朝倉方が惨敗した姉川の戦いの後の元亀3年(1572)9月、善祥坊は横山城木下藤吉郎(秀吉)の調略に応じ、織田家の配下となる。藤吉郎は寝返った善祥坊を見捨てない証にと、自分の甥・万丸(のちの羽柴孫七郎、関白豊臣秀次)を善祥坊に送ってきた。吉政はその万丸の守り役を善祥坊に命じられるのだ。
 秀次は初め宮部継潤の、ついで三好康長(咲岩)の養子となり、やがては豊臣家の相続を約束されるも謀叛人として謀殺されることになるという数奇な運命をたどった人物だが、「この時にはこの万丸に自らの人生を左右されることになろうとは吉政はつゆ知らない」のは道理である。著者は、「そもそも近江でももう少し北に住んでいたら、善祥坊に仕えることもなく、したがって秀吉の配下になることもなかったろう」と描く。
「旭日の勢いで勢力を伸ばす織田家の、その中でも出世頭の秀吉。吉政にとって秀吉はまばゆいほどの栄達の道をつけてくれた福の神であった。秀吉の配下をはなれぬことだ。

 秀吉に仕えたからこそ、石田三成との出会いがあった。一説によると三成の推挙によって吉政は秀吉に仕えたという。また、山岡荘八の『徳川家康』では三成は吉政の「昔からの親しい友」として登場するが、本書では、三成は「ひと回り年下の同郷者」であるにすぎず、秀吉についていきさえすれば、自分の夢はかなえられるとする吉政にとって、秀吉の側近中の側近の三成は大いに利用できる人物なのであったと造形されている。
天正10年(1582)6月2日の本能寺の変で、「織田家は崩壊した」。吉政にとっては「信じられぬ出来事」が続くばかりだが、世の中が激変する中、信長の後継者として躍り出た秀吉は危ない橋を渡りつつ、天下人への階段を上っていく。それは吉政にとっては「まばゆい出世の道が開く」ことであった。「いままでも運にめぐまれてきたが、これからはさらに強い運が回ってきそうだ」と夢を膨らませる。
 小牧長久手の戦いの後の天正13年(1585)に秀吉の養子の秀次が近江八幡43万石を与えられるや、吉政は秀次の付家老筆頭、3万石取りとなり、秀次との関係をますます強めていく。
 天正18年(1590)、豊臣秀吉は関東の北条氏を滅ぼし、諸大名の配置換えを行う。三河遠江などの徳川旧領をそっくり没収し、家康を関八州に封じ込めるや、秀吉は家康西上の進路を遮るべく、岐阜から駿河までに秀次の老臣衆を配置。吉政は山内一豊(掛川城)、堀尾吉晴(浜松城)らと共に、三河国岡崎城5万7,400石の所領が与えられた。吉政は生涯の夢であった城持ち大名となる。

 文禄4年(1595)秀次切腹事件。関白秀次は秀吉に疎んぜられ、高野山に放逐されて自刃。秀次側近のほとんどが切腹させられ、秀次の妻妾、子女ら30数名が京三条河原で惨殺された。晩年の秀吉の老妄が地獄絵図さながらの凄惨な情景を生み出したのである。この事件は根強い三成陰謀説で語られることがあるが、本書では、吉政は秀吉の起こした禍の渦に「わしの運もこれまでかな」と唇を噛んだが、三成の助言もあり、連座処分を受けるどころか、加増され10万石の大名となる。
 秀吉の死後は家康に接近し、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは東軍に属した。が、吉政の立場は微妙であった。吉政は大坂方に寝返りするのではないかという疑惑の中で、「襲ってくる破滅の予感にじっと耐え」つつ、三成の動向を探る。関ヶ原の戦いは吉政にとっても「大名として生き残りをかけた戦い」であった。小牧長久手の戦いのように長引くと見た吉政が、一時は三成に勝たせたいとまで思う。吉政の心境の変化が面白い。

 7月、下野国小山の陣。掛川城主の山内一豊が三成打倒の西上の軍をおこす家康に、掛川城を差し上げると申し出るや、これに吉政も倣う。東海道に配置された豊臣恩顧の諸大名がことごとく家康の足下にひれ伏す。
 東軍勝利後、吉政は家康に三成捕縛を申し入れ、伊吹山中で逃亡中の三成を捕縛する大功を挙げた。これらの功により、外様大名でありながら筑後国柳川城32万石を与えられる。城持ちどころか、国持ち大名となった。
「人間、運次第やのう」と回想する吉政がいる。一方、武運に恵まれて出世していくものの、糟糠の妻は出世のために離縁するなど女房運はいいとは言えなかった吉政をも著者は活写している。これが後の改易の遠因となった。
 吉政は慶長14年(1609)に没した。享年62。徳川家の示唆により家督を継いだ四男忠政が男子を残さぬまま死去したために、田中家は元和6年(1620)に廃絶されたなお、田中家断絶の後、筑後に返り咲いのは、関ヶ原の戦いで領地を完全に没収された立花宗茂であった。
「巻頭」で吉政の家人・宮川新兵衛が、寛永6年(1629)江戸、幕府老中の御用部屋で、語っている。「あんなしようもない男が大名になれたのも、戦国というおかしな世の中のせいでござろうて」。
 百姓・足軽から身を起こし天下人にまで登り詰めた秀吉の生涯は書き尽くされた感があるが、天下人の目線ではなく、秀吉同様に卑賎の身から、初代筑後藩主となった田中吉政の目線から、かの時代を捉えているところが実におもしろい。 因縁浅からぬ吉政と三成の結びつきなど戦国の世を駆け抜けてきた同時代の人物への迫りようもまた、本書の読みどころである。 戦国を生き抜くために必死で足掻き、時には策を弄して、生き抜いた吉政。著者によって蘇った吉政の生きざまを心ゆくまで味わいたい。

 デビュー以来25年、著者の円熟の境地をみせるとともに面目躍如の歴史小説の傑作、読み応えのある佳品である。
 岩井(いわい)三四二(みよじ)は1958年岐阜県生まれ。第64回小説現代新人賞受賞の『一所懸命』で1996年デビュー。2003年『月ノ浦惣庄公事置書』で第10回松本清張賞、2008年『清佑、ただいま在住』で第14回中山義秀文学賞など多くの文学賞を受賞。史実への探求にこだわりを見せる歴史小説の正統を引き継ぐ作家である。

             (令和3年4月17日  雨宮由希夫 記)

『映画に溺れて』第406回 ミッドナイトスワン

第406回 ミッドナイトスワン

令和二年十二月(2020)
新宿歌舞伎町 TOHOシネマズ新宿

 

 トロカデロ・デ・モンテカルロバレエ団はニューヨークに本拠を置く舞踊団であり、男性のダンサーたちが『白鳥の湖』などクラシックの名作をユーモラスな演出でパロディとして踊るので人気がある。もちろんダンサーたちがいずれも高い技術を持っていればこそのパロディではあるが、派手な化粧の大柄な男たちがバレリーナの衣装で踊るのは、そもそもどこか滑稽なのだ。
 『ミッドナイトスワン』の出だしは新宿のゲイバーでのショウタイム『白鳥の湖』である。決して上手ではないが、客には受けている。踊っているのは草彅剛演じる凪沙、もう若くないし、店は不景気でもある。
 そんな凪沙のアパートへ従妹の娘、中学生の一果が転がり込む。母親の育児放棄と虐待が原因で故郷の広島から東京へ短期転校することになった。不愛想で打ち解けない一果と親元からの送金につられて渋々世話をする凪沙。お互い不本意ながらの同居生活が始まる。
 そんな一果が通学の途中でバレエ教室を見つけ、興味を示す。幼い頃からバレエを習っていた様子で、教室の先生に声をかけられ、見学から、やがてはレッスンに通うことになる。先生は彼女の素質に気付き、これを伸ばそうとする。
 最初は反対していた凪沙が、次第に一果に肩入れし、彼女をバレエコンクールに出すために、なりふりかまわず働く。まるで母親のように。
 才能をどんどん伸ばし、上昇する白鳥のごとき一果。
 逆にどん底に転落していく凪沙は『瀕死の白鳥』を思わせる。
 そう思うと、最初のゲイバーでのトラストジェンダーによる『白鳥の湖』のなんと物悲しいことであろう。彼らはみな、呪いが解けず、白鳥のまま人間の女性に戻れないオデットそのものではないか。
 この名曲を作曲したチャイコフスキーもまた、同性愛者だったそうである。

 

ミッドナイトスワン
2020
監督:内田英治
出演:草彅剛、服部樹咲、田中俊介吉村界人、真田怜臣、上野鈴華佐藤江梨子、平山祐介、根岸季衣水川あさみ田口トモロヲ真飛聖

 

 

大河ドラマウォッチ「青天を衝け」 第9回 栄一と桜田門外の変

 大老井伊直弼(掃部頭【かもんのかみ】)(岸谷五朗)は名簿に朱で線を引いていきます。次々と尊皇攘夷派の者たちを処罰していたのです。すでに登城停止となっていた一橋慶喜(草彅剛)には、隠居、謹慎が申しつけられました。さらに謹慎中だった徳川斉昭(竹中直人)は、国元での永蟄居、つまり生涯、出仕や外出をせず、水戸にこもることが命じられたのでした。

 江戸屋敷を出る斉昭を家臣たちが声をあげて見送ります。斉昭も駕籠の中で声をあげて泣きます。若い家臣がいいます。どんな手を使っても、井伊を引きずり落とさなければ。

「ご老公の望みは」

 そういって若い家臣たちはうなずきあうのでした。

 血洗島では、祝言から一夜明けた栄一(吉沢亮)と千代(橋本愛)が、共に農作業を行っていました。時折二人は見つめあい、微笑みあいます。そこへ笠をかぶった男が近づいてきます。侍のような格好をした尾高長七郎でした。再会を喜ぶ栄一と千代。

「このたびは誠におめでとうございます」

 と、長七郎は栄一の父の市郎右衛門(小林薫)と、その妻のゑい(和久井映見)にあいさつするのでした。長七郎はすぐに江戸に戻らねばならぬといい、栄一にあとで家に来るように告げるのです。

 栄一がやって来てみると、長七郎の回りには、多くの仲間がすでに集まってきています。そこには喜作(高良健吾)の姿もありました。長七郎は語ります。

「今、江戸の街はむちゃくちゃだ。異人の運び入れたコロリのせいだ」

「コロリ」

 喜作が聞き返します。

「朝には元気だった者が、突然吐き気をもよおし、夕方には死んでしまう恐ろしい妖術だ。男もおなごも、若いのも年寄りも死ぬ。何百もの棺桶が焼き場に運ばれ、いちいち焼くのも間に合わねえ。ごろごろ転がってる」

 長七郎の兄の尾高惇忠(田辺誠一)がいいます。

「これもすべて、井伊大老が、異人の入るのを許したせいだ」

 市郎右衛門が作業をしているところに、栄一が戻ってきます。作業を行いながら栄一はしゃべります。

「えらくためんなる話が聞けた。今な、江戸の公儀には、井伊掃部頭っつうとんでもねえ大老がいてな、その大老がわりいことばっかりしてる。天子様のお言葉を退けて、自分のいうこと聞かねえ奴を次々と血祭りにあげてるっつう話だ」

「そんな話してたか」

 市郎右衛門は作業の手を止めて栄一を見ます。

「ああ、いまのままじゃ、日の本が危ねえ」

 市郎右衛門の様子に気付かず、栄一はいいます。

「そんなこと、わしら百姓には何の関わりもねえ。ご公儀がどうのこうの。百姓の分際で、あれこれ物申すのはとんでもねえ間違いだ。長七郎の奴、お武家様にでもなったつもりか」

 市郎右衛門の様子に栄一は驚き、むっとした表情のまま黙り込みます。

 その夜、栄一は千代にいうのです。

「承服できねえな」

「久しぶりに聞きました。栄一さんのその言葉。昔、お代官様がいらしたときに」

「ああ」栄一は笑い声をたてます。「あの時はとっさまがひでえ目にあって、腹が立ったな。しかし俺はあのあとも、あのお代官を殴りつけてやりたくなったことがある。でも、あとになって気がついた。あのお代官は、岡部のお殿様の命(めい)を、俺たち百姓にそのまま伝えてただけだ。俺たちから御用金をとれなければ、おのれがお殿様から罰をくらう。だからあんなにも威張って百姓を脅すんだ。あんなもんいっちまえばただのお使いだ」

「お代官様がただのお使い」

「そう、あやつを殴ったとしても、ま、一瞬スキッとはするかもしれねえが、根本は何も変わりやしねえ。だったら、俺はいったい誰を倒せばいいんだ。岡部のお殿様か。いや、駄目だ。お代官を倒しても、お殿様をとっちめても、また別の武士がやって来て俺ら百姓に命令する。その仕組みは永遠に変わらねえ。とっさまには、あの時も叱られた。でも俺は別に、金を出すことに腹が立ったわけじゃねえ。馬鹿馬鹿しくなったんだ。お代官やお殿様は、人の上に立つ人間だっていうのに、民のことを何も考えちゃいねえ。そんなもんのために俺らは、手を青く染め、雨や日照りと戦い土を起こし、汗を流して働いてんのか。俺らは生きてる限り、そのように生きねばならねえのか。つまり、百姓だからって、こんなにも軽く見られっちまうのか。兄ぃのいうとおり、この世自体がおかしいのかもしれねえ」

「この世」

「お武家様とか百姓とか、生まれつきそういう身分があるこの世自体が、つまり、幕府が、おかしいのかもしれねえ。だとしたら、俺はどうすればいい。幕府を変えるには。この世を変えるには」

 千代は困惑してうつむきます。栄一は笑い出します。

「なんだか、胸がぐるぐるしてきたで」栄一は布団に身を投げ出します。「お千代に話したらすっきりした。お前を嫁にもらった俺は百人力だ。今夜はよーく寝れそうだで」

 千代はその姿を見て微笑むのでした。

 江戸城の一橋邸では、慶喜の謹慎処分が三ヶ月にも及ぼうとしていました。昼でも雨戸を閉じ、風呂にも入らずに部屋に閉じこもっていました。

「身に覚えなく罪をかぶった者の意地でござりましょう」慶喜の妻、美賀姫(川栄李奈)が、徳信院(美村理江)と平岡円四郎(堤真一)にいいます。「わが殿には、そのような途方もない強情っ張りなとこがあらしゃられまするゆえ」

 円四郎がいいます。

「強情っ張りか。まことにそうでございまするなあ」

「そもそも、ご老公はともかく、わが殿には何の落ち度もなかったはず。それが隠居までさせられるとは。平岡。その方(ほう)のせいぞ。越前殿やご老公や、その方たちが勝手に殿を慕い、勝手に殿をまつりあげるゆえ、かようなことになったのじゃ」

「美賀君、お言葉が過ぎまする」
 徳信院がそういうのも聞かず、美賀姫は円四郎をなじります。

「かようなお歳で謹慎とは、命を奪われたも同じぞ。わらわはそなたらを決して許さぬ」

 円四郎は慶喜の閉ざされた部屋の前で声をあげます。

「命により、本日より甲府へ勤番となりましたゆえ、最後のごあいさつに参りました」円四郎は慶喜の気持ちも考えず、突っ走ってしまった自分を責めます。「俺は生き延び伸ますぜ。いつか、いつかきっとまた、あなたの家臣になるために」

 慶喜から声がかかります。

「そうか。それならば、少し酒は控えろ。長命の秘訣は乾いておることじゃ。濡れる湿るは万病の元、目の病は口で含んだ水で洗い、常に肛門を中指にて打てば、一生、痔を患うこともない」慶喜は、斉昭より教えられた健康法を話します。「息災を祈っておる」

 後に安政の大獄と呼ばれる、井伊直弼の弾圧政策は、公卿や大名など百人以上を処罰。橋本左内吉田松陰など、多くの志士を死に追いやり、日本中に暗い影を落としました。

 幕府が朝廷への不敬を繰り返したことで、尊皇攘夷の志士たちが過激化します。イギリス公使館通訳殺害事件や、オランダ人船長が斬殺されるなど、外国人を狙った襲撃事件が、次々と起りました。

 井伊の仕事場に、将軍家茂が訪れます。

「良くない噂を聞いた。近頃、水戸家中の多くが浪士となって江戸に入り、そなたを狙っておるとのこと」

「誰がそのようなことを上様に」

「私は若輩ではあるが、このような立場になったからには、世の事を知りたいと思うておる。そなたは一度、大老の職を退き、ほとぼりのさめるまでおとなしくしていてはどうか」

「なんの。案じることはございません」井伊は立ち上がります。「井伊家は藩祖直政公以来、井伊の赤備(あかぞな)えとして、大将みずからお家の先鋒をお勤め申しております。憎まれごとはこの直弼が甘んじて受けましょう」井伊は座ります。「そして、上様がご成長あそばされれば、すらりとお役御免を仰せつかる。それで十分でございまする」

 井伊は家茂に、自分が作った狂言の話をします。家茂にも見て欲しいといいます。

 その日は雪が降っていました。井伊は駕籠の中で狂言の台本を確認しています。書面を掲げた侍が井伊の行列を妨げます。その者は書面を投げ捨てると素早く腰の刀を抜き放ち、警護の者に斬りかかります。井伊の駕籠に向かって短銃が撃ち放たれます。井伊の持つ脚本が血に染まります。ぼんやりと井伊は外の斬り合いをながめていました。やがて井伊は駕籠から引きずり出され、とどめを受けるのです。

 水戸では斉昭が、妻の吉子に告げます。

「今、江戸より、急報が入った。外桜田門にて、井伊掃部頭が襲撃された。下手人は恐らく、わが家中を出た者たち」

「なんてこと」

 吉子は動揺します。

「これで水戸は、かたき討ちになってしまった」

 血洗島では栄一が仲間たちに確認します。

「井伊大老が討たれた」

「長七郎が見たそうだ」

 と、惇忠が説明します。喜作が憧れのまなざしでしゃべります。

「命を失ったとはいえ、大老を血祭りに上げるとはあっぱれだいなあ」

 喜助は長七郎の手紙から、その時の様子を皆に語って聞かせます。そして栄一は喜作が江戸に行くことを聞くのです。

 水戸では宴が行われていました。しかしその場は陰気に静まりかえっています。斉昭が厠に立ちます。廊下で苦しみ始めるのです。斉昭は妻にいいます。

「案ずるは、このわしではない。案ずるべきは、この水戸ぞ」そして斉昭はいいます。「吉子、ありがとう」

 斉昭は妻の膝の上に伏すのでした。

 江戸の慶喜は徳信院から斉昭の死を知らされます。

「謹慎というのは親の見舞いどころか、死に顔も見られんのか」慶喜は泣き声をたてます。「私は何という親不孝者だ」

 血洗島では栄一が市郎左衛門に訴えていました。

「春の一時(いっとき)でいい。俺を、江戸に行かせて欲しい」

 

 

大河ドラマウォッチ「青天を衝け」 第8回 栄一の祝言

 栄一(吉沢亮)は、神社に来ていた千代(橋本愛)に声をかけます。

「俺は、お前が欲しい」

 という栄一。千代はうつむいたまま答えません。

「ごめんなさい」と泣き出してしまいます。「いや、悲しいんではなくて、ずっと、嫌われたかと思ってたもんだから。ほっとして」

「なあ、もうちっとしゃべってもいいか。お千代に話したかったことが、いっぺえあるんだ」

 と、栄一。千代は微笑んでうなずきます。

 二人は距離を置いて座ります。

「お千代にも見せてやりたかったなあ。あの靑」

「靑」

 と、千代は聞き返します。

「険しい山道だったのよ。俺も兄ぃも商いに行ったってのに、詩が読みたくて寄り道して、どんどんどんどん山ん中、進んでった。ずーっと上まで登って気がついたら、岩だらけの場所を這いつくばるようにして登っててよ、後悔した」栄一は笑います。「でもそこにはな、その苦労をしねえと、見れねえ景色があった。ぐるりと俺を中心に、回りすべてが見渡す限りの美しさだった。この世にこんな景色があんのかって、特にそう、空一面の青だ。藍の青さとも、谷の水の青さともちげえ。すっげー靑が広がってた。俺は、おのれの力で立っている。そして、青い天に拳を突き上げている。霧が晴れて、道が開かれた気がした。俺の道だ」

「栄一さんの道」

「お千代もいってたよな。人は弱えばっかりじゃねえ。強えばっかりでもねえ。どっちもある。藍を作って、百姓といえども大いに戦って、俺は、この世を変えたい。その道を、お千代と共に歩み……」

「ほんとになっからしゃべる男だのう、おめえは」

 栄一の言葉をさえぎったのは喜作(高良健吾)でした。喜作はいいます。

「俺がもらった長七郎からの手紙にはこうあった。お千代を嫁に欲しいなら、俺とではなく、栄一と勝負しろとな」

 二人は道場で試合をすることになります。二人は互角に戦いますが、道場にやって来た謎の女性が

「喜作さん、きばって」

 と、声を掛けます。戦いは続きますが、お千代が声をあげます。

「栄一さん、きばって」

 なおも試合は続きます。二人はほぼ同時に撃ち合い、倒れ込みます。

「そこまで」

 と、声を掛けたのは、お千代の兄でもある尾高惇忠(田辺誠一)でした。事情を知らぬ惇忠は、喜作の勝ちを宣言します。喜作は千代に近づきます。

「お千代、あいつは俺の弟分だ。見ての通り、実にまだまだの男だ。そのくせ、この世を変えたいなどと、でかいことをいいだす。あいつには、おめえのようなしっかり者の嫁がいたほうが良い。悪いがこの先、あいつの面倒を見てやってくれ」喜作は今度は栄一の前にしゃがみます。「幸せにしろよ」

 と、喜作は立ち去るのでした。事態がまだ飲み込めない惇忠に栄一は頭を下げます。

「お千代を俺の嫁に下さい」

 千代も栄一の隣で頭を下げるのでした。

 こうして、栄一と千代は祝言を挙げることになるのでした。

 道を歩く喜作に、先ほどの謎の女性が追いついてきます。

「よし、は喜作さんに惚れ直しました」

 彼女は、気が強くて喜作が嫌がっていた、結婚を勧められた娘の、よし、だったのです。

 江戸城では、将軍家定(渡辺大和)から井伊直弼掃部頭【かもんのかみ】)(岸谷五朗)が、大老の職を申しつけられていました。驚く一同。家定は宣言します。

掃部頭と一致同心の上、皆、一層励むように。

 井伊の大老就任は誰も予想しなかった、突然の抜擢でした。井伊は廊下で老中たちが話しているのを聞いてしまいます。

掃部頭様は、大老の器ではございません。この異国との一大事に、西洋諸国のことも何一つ知らず、掃部頭様が大老で天下が治まるはずがない」老中の者は臣下にもいいます。「掃部頭など、政(まつりごと)に関しては子供同然の男ではないか」

 井伊はつぶやきます。

「まあよい。自分でも、柄でないのは分かっておる」

 江戸城の庭園で茶会を行われていました。家定は井伊にこぼします。

「阿部はわしに何も話そうとしなかった。将軍とは名ばかりで、政(まつりごと)はすべて蚊帳(かや)の外。誰もわしのことなど見ておらぬ。父上はどうであったかのう。父上が見ていたものは……。そもそも家臣どもが世継ぎに口を出すこと自体が、不届きなのじゃ。わしはもう、誰にも思うようにはさせぬ。慶喜を世継ぎにするのは嫌じゃ。何としても許さん」

 井伊は姿勢を正して家定に近づき、ひれ伏します。

「承知、つかまつりました。お世継ぎは上様がお決めになられるのがごもっとも。上様に血筋の近い、紀州様こそふさわしいと存じます」

 家定は感激して、井伊の前にしゃがみます。

「そうじゃ。そうよのう」

 井伊は改めて家定に頭を下げるのでした。

 井伊は老中の者たちに言い放ちます。

「将軍お世継ぎには、紀州様を推()したいと思う」

 ざわめく老中たち。反対意見を井伊は一喝します。

「我らは臣として、君(きみ)の命に背くことがあってはならぬ」

 老中たちは、次々に賛同していきます。

 井伊大老による一橋派への弾圧が始まり、一橋慶喜を将軍にと建白した川路聖謨(平田満)らは閑職に回されました。

 安政五年(1858)六月十九日、ハリスと交渉を重ねていた岩瀬忠震らは「日米修好通商条約」に調印してしまいます。これは天皇や朝廷の意見に背いた、明らかな罪「違勅」になります。

 井伊は調印の事実を知らされ驚きます。

 慶喜は天子への条約調印の知らせを「宿継奉書」という書面で知らせようとしていることを知ります。そのような軽々しい扱いをしてはならぬと慶喜は怒ります。そして井伊と会う手はずを整えるのです。

 慶喜は井伊を怒鳴りつけ、老中の一人が京に弁解に行くことを承知させます。

「私に謝ることではない」慶喜は井伊に優しく声を掛けます。「すべて徳川のためじゃ。お世継ぎの件はどうなったのだ」

「恐れ入り奉ります」

「そうか、いよいよ紀州殿に決まったのだな」慶喜は明るい表情になります。「それは大慶至極ではないか。私もなんやかんやといわれ、案じていたが安心した。紀州殿は先ほどお姿を見たが、心穏やかで背丈も年齢の割に大きくご立派だ。幼いとの声もあるようだが、そこもとが大老として補佐すれば、何の不足があろうか」

「それでは一橋様は、紀州様でよろしいと」

「さもありなん」

 井伊は大きくため息をつくのでした。

 こうして将軍世継ぎ問題は、紀州藩主、徳川慶福に決定しました。

 家定の体調が悪化します。床に伏す家定に井伊が寄り添います。家定は井伊の襟を力強く握ります。

「よいか井伊。水戸や越前、みな処分せよ。慶喜もじゃ。頼むぞ。頼む。わしの願いを叶えよ」

 それだけいうと家定は倒れ込むのでした。

 井伊は決然たる意思で皆にいいます。徳川斉昭(竹中直人)を謹慎。松平慶永(要潤)は隠居。徳川慶喜を登城禁止に処す。この翌日、第十三代将軍、徳川家定は逝去しました。これが後にいわれる「安政の大獄」の始まりだったのです。

 水戸の斉昭らを処罰した井伊直弼の噂は、攘夷の志士たちの間にもすぐに広がりました。

 冬になり、血洗島では、栄一と千代の祝言が行われました。喜作はすでに結婚した、まさ、と共に皆を回ります。そして祝いの歌をうたうのでした。

 その栄一の家に、下駄を履いた長七郎が静かに向かっていました。

 

 

 

 

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