日本歴史時代作家協会 公式ブログ

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『映画に溺れて』第447回 羊たちの沈黙

第447回 羊たちの沈黙

平成三年十一月(1991)
池袋 文芸坐

 

 不気味な映画だった。おぞましい場面があるからぞっとするのではない。映像と音楽と俳優たちの演技で不気味な雰囲気を醸し出していた。
 ジョディ・フォスターふんするFBI実習生クラリスがランニングしている場面から、すでに不安をあおりたてるような始まりなのだ。
 被害者の女性が皮膚を剥がされた死体で発見されるという連続猟奇殺人事件。
 クラリスは上司クロフォードに呼び出され、事件の手がかりを得るために、異常犯罪の専門家に会いに行く。
 ハンニバル・レクター博士。ふんするはアンソニー・ホプキンス
 天才的な犯罪心理学者でありながら、殺人鬼であり人肉嗜食者であり、異常犯罪者を収容する特殊精神病院に隔離されている。
 古城の地下室を思わせるような監房にクラリスが降りて行く場面でぞくぞくする。そして、ガラス戸の向こうに拘束されたレクターが姿を現す。
 一見知的で温厚な紳士である人食いレクターは、彼女の服装や話し方から出身や階層までを推理する。彼はまったく意外なタイプのシャーロック・ホームズなのだ。
 レクターはクラリスを気に入り、彼女が示す手がかりに助言を与える。
 そんな最中に上院議員の娘が誘拐され、犯人は一連の猟奇殺人鬼だとわかる。
 出世主義者の病院長チルトン博士によって、レクターは地方の刑務所に移送される。
 クラリスはレクターの言葉にヒントを見つけ独自に犯人を追う。
 やがて、レクターはトリックを使って刑務所を脱出する。
 事件解決後、クラリスの表彰パーティの会場にレクターから祝いの電話がかかるラスト。レクターはこれから旧友と食事だからといって電話を切るが、彼の食事とは。
 レクター博士役でアカデミー主演男優賞を受賞したアンソニー・ホプキンス出世作であり、その後『ハンニバル』『レッド・ドラゴン』でもレクターを演じた。

 

羊たちの沈黙/The Silence of the Lambs
1991 アメリカ/公開1991
監督:ジョナサン・デミ
出演:ジョディ・フォスターアンソニー・ホプキンス、スコット・グレン、テッド・レビン、アンソニー・ヒールド

 

 

『映画に溺れて』第446回 キャラクター

第446回 キャラクター

 

令和三年六月(2021)

六本木 TOHOシネマズ六本木ヒルズ

 

 ホラー漫画を愛する青年がいる。山城圭吾は長年、著名な漫画家のアシスタントをしながら、なんとか独立して一本立ちしようと新人賞に応募し続けている。いつもいい線までいくのだが入選は一度もしていない。絵が抜群にうまく、ぱっと見てなんでもスケッチしてしまう。そんな才能の持ち主がなぜプロの漫画家としてデビューできないのか。

 ようやく面談が叶った人気雑誌の編集者に言われる。絵はよく描けているが、キャラクターが凡庸で、全然魅力がないと。彼自身、根が善人で優しすぎて凶悪な人間が描けないのだ。

 そんな山城がたまたま猟奇殺人の現場に出会う。一家四人をナイフで残忍に刺し殺し、死体をロープで椅子に縛り付けて、これ見よがしに展示したかのような恐ろしい情景である。逃げ去る犯人をちらっと目撃するが、警察での取り調べで、そのことは黙っている。そして、家に帰るなり、憑かれたように机に向かって描き始める。

 一年後、一家四人殺しの猟奇殺人を題材にした『34(さんじゅうし)』という作品が大ヒットし、山城圭吾は超売れっ子の漫画家となっている。主人公の殺人鬼の顔は、彼が一年前に目撃した犯人がモデルである。

 その後、前科者の変質者が犯人として逮捕され、事件は解決したかに思えたが、山城は気が気でない。彼が目撃した真犯人とは似ても似つかない中年男なのだ。案の定、第二の猟奇犯罪が発生する。山城の『34』に描かれた第二の一家四人殺しをそのまま再現したものだった。やがて彼の前に犯人が姿を現す。

 あれは山城先生と僕との合作ですよね。先生の『34』は大好きです。

 猟奇犯罪ものは配役がリアルでないとしらけるのだが、まったく見事である。山城圭吾役の菅田将暉、真相に迫る熱血刑事の小栗旬、そして不気味な犯人のFukase。これに加えて先輩刑事の中村獅童、編集者の中尾明慶もいい雰囲気。

 人気漫画の映画化が多いので、これもそうかと思ったら、オリジナルストーリーであるとのこと。仲のいい家族が次々に標的にされるのは『レッド・ドラゴン』を思わせる。

 

キャラクター

2021

監督:永井聡

出演:菅田将暉Fukase高畑充希中村獅童小栗旬中尾明慶松田洋治宮崎吐夢岡部たかし橋爪淳小島聖、見上愛、テイ龍進、小木茂光

 

書評『果ての海』

書名『果ての海』                    
著者 花房観音
発売 新潮社
発行年月日  2021年8月30日
定価  ¥1750E

 

果ての海

果ての海

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 花房観音の最新作『果ての海』は舞台を日本海側のわびしい町、主人公は京都文化圏を故郷とするという、花房作品のエキスを濃厚に取り入れた上に、サスペンスの要素も加わった意欲作である。
 物語は鶴野(つるの)圭子(けいこ)46歳が、ある年の10月に、埼玉県川口市内で同居する愛人・糸井(いとい)慎吾(しんご)55歳の死に直面するところから始まる。
圭子には「死ぬか」、「警察に出頭するか」の選択の他に、「逃げるか」というもう一つの選択肢があった。
 男運が悪く、不幸なシングルマザー、学歴も資格も才能もなくて、容姿にも自信の無い冴えない女である圭子は慎吾と内縁の関係にあり、娘灯(あか)里(り)と共に川口市内の駅から徒歩10分の慎吾の持ち家に住んでいた。慎吾に妻と3人の子供がいるのは当初からわかっていたことだった。「慎吾のおかげで暮らせているし、娘だって大学に行くことができた。だから、慎吾に嫌われ捨てられてはいけない」と、愛人の言いなりになることで生きてきた中年女であった。
 圭子はそんな自分が大嫌いだった。母親としても最低の自分を捨てて、生き直したい。だから逃げた。「逃げる」という選択を選んだのである。

 圭子の生まれた場所は若狭湾に面した京都府丹後の宮津市、父の故郷であった。 三歳まで日本海のそばで育った。三歳で両親が離婚したのだ。母の田舎の千葉で祖父母に世話になって育った。父親の輪郭さえ霧の彼方であり、故郷の記憶といえば広い空と青い海であり、海のある場所で暮らしたいと思っている。
 逃げるに際し、圭子は整形する。整形して顔は美しくなり、若返り、顔を変えて別人となる。ここに、出会い系のサイトで知り合った元ホストの若くて美しい男・「鈴木太郎」が登場する。鈴木と出逢ったのは事件の半年前というから、桜の季節か。得体の知れない人間の鈴木に圭子は整形を斡旋してもらい、逃亡の手助けを頼んだのだ。
 10月の終わり。逃げた先は「関西の奥座敷」といわれる北陸の芦原(あわら)温泉。
 事件発生から10日ほどが経っている。その間、圭子は新大久保当たりの安いビジネスホテルにでも潜んでいたのだろうか。娘灯里への連絡はどうしたのだろうか。
 整形して顔を変えた圭子は、温泉地でコンパニオンをしている。
 圭子は「倉田沙(くらたさ)世(よ) 43歳、東京生まれの東京育ち。若いときに結婚、専業主婦をしていたが、離婚して仕事を探している。バツイチ 子供はいない」との嘘の経歴で、芦原温泉の「花やぎ旅館」の住み込みの仲居となる。

 このように「あらすじ」を書き出すと、多くの読者は「松山ホステス殺害事件」の犯人・福田(ふくだ)和子(かずこ)を想起するであろう。和子は犯行後、1997年に逮捕されるまで、美容整形を繰り返しては顔を変え、偽名を使い逃走し、福井市金沢市などの全国のキャバレーを転々とする生活を送った。
 福田和子と圭子の違いは、福田の逃走劇が15年に及んだのに比し、圭子はわずか半年足らずで終わりを告げることである。
 仲居の圭子はやがて、「美人」を武器にスカウトされて、コンパニオンとなる。
 芦原で、東尋坊でと、ストリッパーのレイラとの出会いがある。圭子は自分と同い年のレイラという踊り子に惹かれる。「芦原の舞姫 雪レイラ嬢」は北陸で唯一残っているストリップ劇場「あわらミュージック劇場」で、女のすべてをさらけ出し、生きていることを見せつけて踊っている。レイラの舞台を見て、多くの人が感動したように圭子も感動する。したたかに生き抜く女の生き方に自分にないものを見出して感動したのだろう。北海道は道東の出身であるというレイラ。ストリッパーになる他に生きる術はなかったのか。互いの生い立ちからつらい体験までが赤裸々に語られることはないが、二人にはなぜかひかれあう運命的なものがあったのだろうか。
 レイラも圭子に好意を持ち、親切にしてくれる。越前海岸、永平寺でと、親密になっていく。が、圭子はレイラとの距離が縮まっていくことが怖い。自分は逃亡者であり、追われる身なのだ。いつまで逃げられるかわからないが、このままの生活が続けばいいと思っている。

 この世で唯一、「沙世」が「圭子」であることを知っている鈴木が死ぬ。鈴木は鶴野圭子を生き返らせてくれた、かけがえのない存在だった。圭子は鈴木のおかげで「急造の「美人」となり、別人を演じることで、生き直すことができたのである
 レイラの他に、登場人物で重要な役割を演じるのは、同じコンパニオンとして働くアカリこと片山聡子である。アカリは娘の灯里と同い年で、同じ名前という奇縁で結ばれている。圭子のコンパニオンとして最初の仕事は「70歳を超えた坊主6人の宴席」で、そのとき、コンビを組んだのがアカリであった。
 圭子には一人娘の灯里 23歳がいる。父親のいない子どもとして生まれ、今は逃亡犯の娘である。
 心の奥底にあつい人情がある芦原は居心地のいい場所だった。圭子はそんな芦原が好きだったか、どうしても人間関係のしがらみが生じてしまう。芦原に来てから接した人々には訳アリと察して同情するもの、下に見て、優越感に浸るものもいるが、「女を売る女」コンパニオン派遣の会社オーナーの咲村美加、圭子を採用した「上司」でしつこく誘いのLINEを送って来る“雇われ支配人”の和田、のように愛情と見せかけて支配しようとするものもいるのだった。
 自分は逃亡者だから、目立たぬように、厄介事に巻き込まれないように生きていくつもりだった圭子は、和田の誘いを断った3月にはすでに「逃げる」ことを決心していた。
 逃亡の旅。顔を変えて逃げる殺人事件の容疑者たる圭子は「京都から何処へ行こうか」と思案する。花房文学の起点は京都なのである。さて、「逃げて何処へ行く」。身寄りもなく、戻るべき実家もない。灯里は唯一の身寄りだが灯里を頼って戻れるはずもない。
 本書は8章構成。最終章の「8」では、ふたりの「あかり」が“母”を語る。
圭子にとって、結婚もせずに、ひとりで産んで育てた子どもだけは確かな存在だ。娘には何事も知らせずに逃げてきた自分は最低の母親であり、すまないという気持ちはある。逃亡中の圭子は灯里のインスタを検索して灯里はどうしているかと娘の状況を知ろうとする。
 一方、灯里は、あの母が、整形して顔を変え、温泉地でコンパニオンをしていたと聞かされて、想像もつかなかった母の姿に思いを致す……。アカリは「倉田沙世」から、「ひとりで生きていける人間になりなさい」と言われたことを思い出している……。
 主人公圭子の人間像と、意図せずとも「倉田沙世」に関心が向く登場人物たちの人物造形が秀逸でラストに至るまで目が離せない。
 人と人との出会いの面白さ、そして、出会いによる人間関係がもたらすしがらみが、行間から染み出す余韻となってこだまし、ラストまで関わっていく。
 鶴野圭子という中年女の数奇な逃走劇を辿ることにより作家が熱い思いを込めて描こうとしているものは、単なる男女の愛憎でも、母と娘の愛憎でもなく、家族とは何かでもない。人間存在の生きるとは何かである。
 東尋坊に佇み日本海を見つめる圭子と灯里の心象風景を、作家は次のように描写している。「逃げないといけないのかも。けれど、どこへ。断崖の向こうの深く青い海、この世の果ての美しい海、果ての海」(圭子)、「多くの人の死を呑みこんできた、深く青い海」(灯里)と。果ての海は“情”の海流であり、“故郷”への回路であることがわかる。書名『果ての海』の由来はここにある。

 

            (令和3年9月5日  雨宮由希夫 記) 

 

 

『映画に溺れて』第445回 プロミシング・ヤング・ウーマン

第445回 プロミシング・ヤング・ウーマン

令和三年七月(2021)
立川 キノシネマ立川

 

 凄惨な復讐劇でありながら、どことなくユーモラスで、方向が変わればラブコメディになっていたかもしれないと思わせる奇妙な味わいである。
 カサンドラ・トーマス、通称キャシーは両親と同居、昼間は知り合いのカフェで働き、夜は酒場でべろべろに酔いつぶれている。下心のある男が声をかけ、自宅に連れ込み、事に及ぼうとすると、「あんた、なにする気?」突然素面に戻って男をあわてさせる。酔ったふりをして男を愚弄する危険なゲームを彼女はなぜ続けているのか。
 十年前、キャシーは優秀な医学生で、幼馴染で親友のニーナも同じ医学部に通っていた。ある夜、学生たちのパーティで酔ったニーナがみんなの見ている前で男子学生に強姦される事件が起きる。大学側は将来有望な男子学生に瑕をつけるにしのびずと、ニーナの被害届を無視し、告訴も却下される。ニーナは自殺し、キャシーは大学を中退した。
 そんな彼女の前に当時の学友ライアンが現れる。たまたまカフェに寄っただけだが、十年ぶりに懐かしい会話を交わし、その後、デートに誘われる。当時の学友の近況が話題となり、ニーナを強姦し死に追いやった男子学生は、今では医者として成功し、近々金持ちの美人と結婚するという。キャシーの中で怒りが煮えたぎる。
 だが、ライアンと会うのは楽しい。小児科医となったライアンは他の男たちと違い、誠実で優しくユーモアのセンスがあり、キャシーはいつしか彼と愛し合い、家に招いて両親に紹介するまでになる。
 過去への復讐を忘れ、ライアンとの今のしあわせを選ぶべきか。揺れ動くキャシーにさらに新たな真実が突きつけられる。
 キャシーの本名がカサンドラ。この名前には意味がある。トロイの王女カサンドラアポロン神に愛され、予言の能力を与えられる。それゆえ、アポロンの心変わりが見えてしまい愛を拒絶する。怒ったアポロンは彼女の予言に条件を加える。予言は必ず当たるが、だれひとりそれを信じる者はいないと。

 

プロミシング・ヤング・ウーマン/Promising Young Woman
2020 アメリカ/公開2021
監督:エメラルド・フェネル
出演:キャリー・マリガン、ボー・バーナム、アリソン・ブリークランシー・ブラウン、ジェニファー・クーリッジ、ラバーン・コックス、コニー・ブリットン

 

頼迅庵の新書専門書レビュー13

 頼迅庵の新書専門書レビュー13


『地図で考える中世 ―交通と社会―』(榎原雅治、吉川弘文館

 

 

 歴史・時代小説を書くためには、その時代の景色や生活を理解する必要があります。日本の中世を舞台に、あるいは背景にした作品はそれほど多くありませんが、歴史学の分野では中世史の研究が活発になって多くの成果が蓄積されてきました。では、その頃の都市や交通はどうなっていたのでしょうか。「交通と社会」という副題を持つ本書は、そのことを考えるうえで興味深い専門書です。
 本書は、4部11章(序章を含む)と補論2つから成る367ページ(あとがきを含まず)に及ぶ専門書です。それぞれ関連はありますが、もともと独立した論文として発表されたものです。研究者ではない私には、単なる紹介しかできませんが、読んでいて様々な刺激を受けることとなりました。中世の人馬の動きや宿泊、旅館等に興味がある方は、ぜひどうぞ――。

 

 本書は「13世紀から16世紀半ばころまでの陸上交通の具体的な様子を検討することによって、中世日本社会の一端を垣間見ること」を目的としています。序章で「連釈之大事」という文書に注目しますが、これは中世の行商人である連雀商人(注1)に伝わった秘伝書で、そこには当時の小都市(注2)の構造を示した図があるのです。
 本書では、それを「宿立図」と再命名(注3)し、このような中世都市が実在したのかをまず検討しています。そこには、宿(小都市)の両端を阿弥陀と薬師で結界し、門外に旦過屋と風呂屋が描かれているのです。宿の大きさは360ヒロ(注4)、広さ12ヒロあると記されています。

 

 第1部第1章では、海道の近江国守山宿、柏原宿、尾張国下津宿(斯波氏の守護所)、萱津宿(中世東海道で最も賑わった宿の一つ)、遠江国見附宿(入り海で今之浦に面した湊町)、藤枝宿、相模国葦河宿、酒匂宿(鎌倉に最も近い宿)を昔の絵図や地図などから検討し、いずれも東海道に沿って伸びる軸線(町並み)を持っていること、阿弥陀如来薬師如来を本尊とする、あるいは所縁のある寺などがあることを論じています。宿立図にある構造と同じだということです。
 また、三河国矢作川西岸の矢作西宿(東宿は、鎌倉時代三河国の守護所)、豊川西岸の渡津宿、天竜川東岸の池田宿を検討します。これにより東海道が横断する河川には、その両岸に宿があり、町並みは東海道ではなく、渡るべき河川と平行し、東海道とは直交する形で存在していたことが分かります。当時、橋が架かっている河川は珍しく、多くは船で渡るか浅瀬を見つけて歩いて渡っていたようです。
 ただし、阿弥陀如来で結界された宿は、「尾張三河、相模では見いだせるが美濃では見いだせず、遠江で2例、駿河で1例のみ」でした。

 山陽道の宿では「宿立図」に「合致する事例は1つも見いだせない」ことから、第2章では、鎌倉街道上道((注5)以下「上道」と略します。)の宿を検討しています。
 阿弥陀と薬師を検出できる事例として、小野路宿(現町田市小野路)、関戸宿(現多摩市関戸)、久米川宿(現東村山市久米川町)、入間川宿(現狭山市入間川)、女影宿(日高市女影)、苦林宿・大類宿(入間郡毛呂山町川角・大類)、大蔵宿(比企郡嵐山町大蔵)、奈良梨宿(比企郡小川町奈良梨)、塚田宿・高見宿(本庄市赤浜・高見)、児玉宿(本庄市児玉町児玉)、板鼻宿安中市板鼻)を取り上げます。
 上道は東海道と同様あるいはそれ以上に「宿立図」の描く小都市の理想空間に合致する事例が多いようですが、上道の支線である下野線や川越街道では見いだせないようです。

 

 第3章では、三河国山中郷の土地台帳名寄帳や上州下室田の町割図の検討等を通じて中世の宿は、幹線道に沿って500~700メートルにわたって片側30軒程度の在家が並び、一軒の在家の敷地は、間口10~13間程度であったこと。それぞれの在家は、建物の周囲に作業庭をもっていたと推定しています。(注6)
 また、法隆寺僧快訓の日記(延徳2年(1490))によると、当時の「宿賃」が300文から800文であること、食事(「旅籠」というらしい)が供されていたこと、50~100文程度の「座敷賃」を支払っていたようです。本書では、座敷賃とは、庭の使用料(馬つなぎ等)ではないかと推測しています。

 第2部では、そうした宿を誰が作ったのか、中世社会の中にどう位置づくのかを検討しています。
 第1章では、室町期の旅ではしばしば寺院が宿泊所として利用されていたこと、小栗判官伝承から時衆やそれに共感した人々によって社会的弱者のための宿送りも中世社会に広がっていたこと等、時衆の活動と交通へのかかわりを検討し、時衆たちが交通路の物理的な構築、宿送り、宿泊施設の経営などに関わっていたとしています。
 また、播磨西部東大寺領矢野庄内(山陽道)の二木宿を取り上げ、小河(二木)氏は、その二木宿の長者で、交通・運輸にも関与していた地元の武士でもあり、それによってなした財を元手に荘民対象の金融、守護から人夫挑発があった場合の減員交渉や必要人員の雇用、荘園領主に対する年貢の代納など多様な活動を行っていたことを紹介しています。(注7)

 第2章では、鎌倉後期に始まった三河浄土真宗が、戦国期には東海道や矢作宿の水系を通じて、奥三河高原の谷々や、下流の平野部の村々に浸透していた様子を見ながら東海道の宿は、東西の陸路だけでなく、南北の水上交通の接点でもあったと結論づけています。

 第3章は中世の旅館等の概観です。事例等を検討し、それぞれ次のように述べています。
① 鎌倉時代には遊女自身による宿泊施設があり、宿泊を許すかどうかを判断していました。また、他の生業もあわせた者の影響する宿泊施設が並んでいたのです。
② 南北朝・室町期になると屋号をもった専業の旅館の存在が見られるようになり、奈良は転害大路や今小路、伊勢の宇治や山田(御師の経営、京都では三条や五条あたりに建ち並んでいました。また、馬を提供する旅館もあり、そのうえ、飛び込みだけでなく予約しておくシステムもあったようです。ちなみに、有馬の町には、二階建ての旅館が建ち並び、二階を客室とし、一階は家主の住居としていました。
③ 宿の長者同士の婚姻関係をともなった情報交換のネットワークがあり、それが強力な統治能力を欠いた地域でも円滑な陸上交通が可能な状況を生み出していました。つまり政治的に不安定な地域でも旅にそれほどの支障がなかったわけです。
④ 旅館は旅行者に宿泊場所や食事を提供するだけではなく、馬を所有し、近辺の住人に貸して馬借としての営業をさせるような活動も行っていました。
⑤ 宿から宿まで送夫、兵士をつけて送り届ける宿送りが、幕府の命令だけでなく礼銭を伴う依頼があれば、守護や被官たちによって宿送りの兵士が手配されたのではないかと述べています。さらに、兵士が山中やその入口で雇われ、そのまま鎌倉や京都の近傍まで護衛してきたことは十分考えられるし、それは当然、山賊とは裏腹の関係であったろうと述べています。つまり、安全に旅をするには、相応の通行料が必要だったというわけです。
⑥ 旅館は、また領主支配の拠点でもあったようです。

 第3部は、阿弥陀と薬師に加え、旦過と風呂を結界に持つ町場を検討していますが、読むと有馬温泉(当時は湯山宿)の繁栄に驚かされます。
  第1章では、旦過と湯屋について検討しています。旦過とは、本来禅宗寺院において、諸国を修行する僧が、宿泊するために設けられた施設のことです。(注8)
 本書では、瑞渓周鳳の『温泉行記』等の文献史料から摂津国の温泉町湯山(有馬)の宿の入口に無垢庵と呼ばれる旦過が存在したこと。併せて、「タンカ」が地名に生きる地として、①熊本・二本木、②小倉・旦過市場、③今津(福岡)、④姪浜(福岡)、⑤備前福岡、⑥海津(現滋賀県高島市)、⑦南部(現和歌山県みなべ町)、⑧名手市場(同紀の川市)、⑨下諏訪、⑩青柳(現長野県筑北市)を紹介しています。ただし、九州が圧倒的です。
 また、東海道や上道の宿とは、阿弥陀と薬師で結界していること、熊野修験や時衆の影響が認められる点は共通しながらも、上記の旦過のある町は、家々がまとまった(塊村)形態であり「宿立図」にある家々が並ぶ(軸線)形態とは異なっているといいます。
 旦過のある町は、塊村形態の小都市が港町だけでなく宿にまで及んでいることから、旦過、湯屋阿弥陀、薬師を配する思想のほうが、先により広く展開しており、後に鎌倉を中心とした幹道においても「宿立図」に定式化された宿町が整備されていったのでないかと推論しています。(注9)
 さらに、東海道や上道の宿町は、後の「連雀町」の分布範囲とおおむね一致しており、「宿立図」と関連深い連雀商人を城下町に定住させることができる政治権力を想定し、「宿立図」に基づく宿町の建設時期を鎌倉末から南北朝期までとしています。(注10)

 第2章では、都市空間の宗教性について展開しています。
 中世末期の連雀商人は、自分たちを修験者の子孫であると認識していたことから、香具師を取り上げます。そして、売薬と修験の関係を探り、熊野修験の思想に基づいてデザインされた都市空間が宗教性を帯びることによって、都市は交易や旅行者の止住に必要な平等原理によって律せられた場となりえたのだといいます。
 阿弥陀、薬師、旦過、風呂で結界された空間においては、人々が世俗の身分と関係なく行動することが保証されていたといい、交易都市においては、この原理が、そこを交易の場として成り立たせるために何よりも必要だったのではないか。西日本の港町にこの4つの表象で結界された場が目立つのは、そのためであろうと推論しています。
 ただ、「平等」の場は、平和な空間であることを意味せず、逆にそこは順番を争う喧嘩、騒擾と隣り合わせの場だったとも述べています。(注11)
 最後に、旦過は香具師の「たんかをきる」のたんかに通じるが、その語源はわからないといいながらも『日本隠語辞典』から「仁義と啖呵。雲水という行脚僧が寺々を回って、宿を乞う玄関先の口上が最初だといわれる。その口上が上手にできると、旦過(たんが)という泊まり部屋に通される。もし上手に口上が言えないと、ののしられて追い返される。これから「啖呵を切る」という言葉が生まれたという。これによれば、啖呵は旅宿の室名になる」という興味深い説を紹介しています。想像力を刺激される説です。(注12)

 第4部は東海道沿道地域の変遷と開発の関係を補論1は足利義教の富士紀行を補論2は摂津国山陽道の宿について検討していますが、長くなりましたので省略します。

 以上、今回はやや難しい専門書の紹介でしたが、中世の豊かな世界に興味を持っていただければ幸いです。そうした世界をもとに魅力的なキャラクターと豊饒な物語が生み出されることを期待して。

 

(注1)    『連釈之大事』の始めに「国相伝之事」として、「天竺ニテハ本釈ト名付ク三蔵法師玄奘大般若経をセヲイ給フニ(中略) 唐土ニテハ別釈とト名付ル事ハ善道和尚経をセヲイ給フニ(中略) 日本ニテハ連釈ト云フ事ハ(以下略)」とあって連釈について述べています。商品の入った千駄櫃を背負うことから、「連雀」をこの連釈に求めたものと思われます。
(注2)    中世の都市というと、京都、奈良、鎌倉、博多辺りを思い浮かべます。宿を小都市というとやや戸惑いますが、「都市的な場」に関する研究の延長で、宿などを小都市と呼んでいるようです。
(注3)    従来は「市立図」と呼んでいたそうです。
(注4)    「ヒロ」とは、人が左右に手を伸ばした長さのことをいいます。現在では、使う人はほとんどいないのではないでしょうか。
(注5)    「鎌倉街道」は近世になってからの呼称で、中世史料には「鎌倉道」「鎌倉大道」「武蔵道」などと書かれているようで、研究者間でもまだ確立した呼称とはなっていないようです。
(注6)    約600メートルが、360ヒロに相当するようです。
(注7)    日本昔話によく登場する「長者」とはどのような存在だったのか、私にはまだ具体的なイメージがつかめません。
(注8)    それが、いつしか本堂と独立して旅人の旅宿に開放され、やがて、俗家にも宿泊所として利用され、俗家の建立にかかるものも出てくるという新城常三氏の論を紹介しています。
(注9)    永和3年(1377)作成の三河国山中郷の土地台帳名寄帳では、馬五郎、孫三郎等○郎、左近二郎等△△○郎、弥七、願阿弥、重安尼、藤内入道等の名前がありますが、およそ300年後の寛文10年(1670)の上州下室田の町割図では、助左衛門、弥五左衛門等○(または○○)左衛門、治兵衛、多兵衛等○兵衛、藤右衛門、又右衛門等○右衛門、平蔵、七重郎等の名前があり、女性と思しき名前はありません。興味深い変化だと思います。
(注10)    西日本の塊村形態の小都市(宿)の存在 → 旦過、湯屋阿弥陀、薬師が共通していること → 宿には、旦過、湯屋阿弥陀、薬師を配するものである(という考え方の浸透) → 「宿立図」に定式化 → 鎌倉幕府や鎌倉府による建設、整備という流れになるのでしょうか。
(注11)    それゆえに、世俗の政治権力とは異なる権力(顔役等)の存在が、想定されるのではないでしょうか。
(注12)    股旅小説や仁侠映画で名高い「仁義をきる」ことが、禅宗(雲水)に淵源を持つと考えると日本における仏教の影響には、感慨深いものがあります。

『映画に溺れて』第444回 夏への扉 キミのいる未来へ

第444回 夏への扉 キミのいる未来へ

 

令和三年六月(2021)

新宿 新宿ピカデリー

 

 ロバート・A・ハインラインの『夏への扉』は一九五〇年代に書かれた時間SFで、人工冬眠とタイムマシンが題材となっており、今でもファンが多い。

 原作では一九七〇年と三十年後の二〇〇〇年が舞台になるのだが、これを日本に置き換えて、時代設定も現代に近い形でずらしている。

 一九九五年の日本、主人公の若き科学者高倉宗一郎は共同経営者の松下と恋人鈴に裏切られ、自分が開発した画期的なロボットの研究成果をすべて奪われる。

 世をはかなんで話題の人工冬眠請負会社に申し込む。が、思い直して松下の家に行くと、そこにいた鈴に陥れられ、結局人工冬眠で三十年後に目覚めることになる。

 時代は二〇二五年。

 目覚めた彼を世話するのが人間そっくりのロボット、その名もピート。宗一郎の飼い猫と同名であった。

 世の中の変化、自分を裏切った松下はすでにこの世になく、松下の会社も存在しない。三十年後の鈴はゴミ屋敷のような安アパートで醜い初老に変貌していた。

 宗一郎を慕っていた少女璃子は三十年前の事故で死亡したと知らされる。

 様々な記録を調べて、宗一郎は時空転移を研究している物理学者の遠井博士に面会すると、博士はすでに待ち構えており、完成したばかりのタイムマシンで宗一郎を三十年前に送り返す。過去に戻った宗一郎は自分を陥れた松下と鈴に復讐する。

 原作を現代の日本にうまく置き換え、無理なくわかりやすい設定になっている。

 藤木直人のロボットピートは味はあるが、特殊メイクなどでもう少しロボットらしくしたほうがよかったかもしれない。田口トモロヲの遠井博士は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のブラウン博士を思わせる。というか、そもそも『バック・トゥ・ザ・フューチャー』がハインラインの影響を強く受けているのだろう。あのパート2の二〇一五年はとっくに過ぎたが、この映画の二〇二五年の未来も、現実にはすぐに過ぎていく。

 

夏への扉 キミのいる未来へ

2021

監督:三木孝浩

出演:山崎賢人、清原果耶、藤木直人夏菜眞島秀和、浜野謙太、田口トモロヲ高梨臨原田泰造

『映画に溺れて』第443回 バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2

第443回 バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2

平成元年七月(1989)
吉祥寺 吉祥寺スカラ座

 

バック・トゥ・ザ・フューチャー』第一作はストーリーも完璧で、個性的な脇役に恵まれた。天才科学者でありながら常識はずれで、どこか抜けているブラウン博士役のクリストファー・ロイド、マーティの父親で虚栄心はあるが気弱で卑屈な負け犬ジョージ・マクフライ役のクリスピン・グローバー、このふたりの演技があまりにエキセントリックで、もうひとりの脇役、ビフ・タネン役のトーマス・F・ウィルソンの印象が薄くなりがちである。
 実はウィルソンの役作り、とても丁寧で見事なのだ。ビフ・タネンのような人物はどこにでもいる。なんて嫌な奴だろうと思わせるリアルな演技。下品で頭は空っぽ、知性や教養とは無縁だが、卑怯でずる賢い。金と女が大好きで、セクハラ、パワハラ、弱い者いじめで人を支配する権力志向のブタ。大統領にだけはしたくないタイプだが、第二作にはそんなビフが支配するパラレル「クソ」ワールドが出現するのだ。
 第一作のラストシーンから物語は始まる。ブラウン博士がマーティとジェニファーを三十年後の二〇一五年に連れて行く。マーティの息子が事件に巻き込まれるのを阻止するために。老人となった未来のビフ・タネンがその場を目撃し、タイムマシンの秘密を知り、スポーツ年鑑を一九五五年の若かりし自分自身に手渡す。
 一九八五年の現代に戻ったマーティは驚く。そこは堕落と退廃の町になっていた。父のジョージは亡くなり、母がビフの妻になっている歪んだ世界。未来のスポーツ年鑑の記録から賭博で大儲けしたビフが億万長者となり、汚い金と悪の力で支配する一九八五年。まるで『素晴らしき哉、人生』である。
 マーティとブラウン博士は歴史を修正するためにまた一九五五年のあの日に戻る。そして、この作品自体、第三作ウエスタン編への伏線であり、架け橋となっている。
 残念なのは二〇一五年の未来世界がおざなりなこと。第一作でSF作家になったジョージ・マクフライが脇で活躍する未来なら、もっと面白かったに違いない。その二〇一五年も現実にはとっくに過ぎ去ってしまったが。

 

バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2/Back to the Future Part II
1989 アメリカ/公開1989
監督:ロバート・ゼメキス
出演:マイケル・J・フォックスクリストファー・ロイドリー・トンプソン、トーマス・F・ウィルソン、エリザベス・シュー、ジェームズ・トルカン

 

『映画に溺れて』第442回 妖婆 死棺の呪い

第442回 妖婆 死棺の呪い

平成二十三年三月(2011)

渋谷 アップリンクファクトリー

 

 東日本大震災の直後、ひっそりと静まった夜の渋谷、アップリンクで観たのが『妖婆 死棺の呪い』である。

 神学生が帰省の途中で立ち寄った村で、一夜の宿を頼んだ農家。そこの老婆が夜中に彼に迫って馬乗りになり、そのまま空に舞い上がる。老婆の手にはホウキ。魔女そのもの。野原に降り立つと、彼はあまりのおぞましさに老婆を思い切り叩きのめす。

 すると、老婆はいつしか若い娘に変身して、これが虫の息。大きな胸がどっくんどっくん、なんともエロチック。禁欲家の彼は魔女の色香に興味を示さず、命からがら、教会に逃げ込む。そこへ大地主のところから、彼を名指しで娘が何者かに殴り殺されたので、通夜をして祈ってほしいとの依頼。

 断れずに行ってみると、棺には老婆が変身した例の娘の死体。夜がふけて、村人たちは彼ひとりをそこに残して出て行く。とたんにむっくりと起き上がる娘の死体。

 信仰あつい彼は聖なる円を描いて、その中で祈り続ける。その円がある限り魔物は近づけず、娘には彼が見えない。

 二日目の夜、娘の死体はまた彼を襲おうとするが果たせず、とうとう三日目。その夜は、地獄の魔物たちがぞろぞろ這い出し、彼を取り囲むが、やはり、魔物たちには彼が見えない。

 そのとき、娘が言うのだ。ヴィイを連れて来て。

 化物の群れの中にぬうっと現われるヴィイ

 ユーモアと恐怖。

 原作はゴーゴリの短編『妖女(ヴィイ)』で、創元推理文庫怪奇小説傑作集』の中にあったのを高校生のときに読んだ。水木しげるの漫画にもなっている。

 お通夜で死んだ老婆がむっくり起き上がるのは上方落語の『七度狐』、化け物たちに姿が見えないのは怪談『耳なし芳一』、信仰が幽霊から身を守るのは『牡丹燈籠』を思わせる。

 

妖婆 死棺の呪い/ВИЙ

1967 ソ連/公開1985

監督:コンスタンティン・エルショフ

出演:レオニート・クラヴレフ、ナターリヤ・ヴァルレイ、ニコライ・クトゥーソフ

『映画に溺れて』第441回 けっこう仮面

第441回 けっこう仮面

平成十六年二月(2004)
渋谷 アップリンクファクトリー

 

 アップリンクファクトリーは最初、渋谷公会堂にほど近い小さなビルの一室にあって、一万円の年会費で全作品が見放題だった。どれだけ通ったことか。ほとんどがマイナー映画で、五十人ほどの客席はいつもがらがら、私ひとりだけの貸し切り状態というのも経験した。
 ここで超満員になったのが、永井豪原作の『けっこう仮面』である。夜間のみ、短期間だけの上映にどんどん客が詰めかけたのだ。
 永井豪のコミックは『ハレンチ学園』がヒットし、私も漫画本を読み、児島美ゆき主演の実写映画も観ていた。エロではあるが、ポルノではない。登場人物の少女たちが不条理にもなぜか服を脱がされ裸にされてしまうのだ。もともと少年漫画だから、それ以上の過激な描写はないが、それでも下手なポルノよりもよほど欲情を刺激されたものである。
けっこう仮面』も永井豪の一連のハレンチ漫画で、月光仮面をもじって赤い仮面、赤いマフラー、赤いブーツのヒロインが悪をやっつける物語だ。ただし、身につけているのはこの仮面、マフラー、ブーツのみ。つまり顔は隠しているが、ほとんど全裸なのである。主題歌もまた月光仮面をもじって「顔はだれかは知らないけれど/からだはみんな知っている/けっこう仮面の姉さんは/正義の味方だ/いいひとだ」というもの。
 映画版は他愛ない。アナウンサー養成学園で女生徒たちが過酷なセクハラまがいのお仕置を受ける。そこへ謎のヒロインけっこう仮面が現れて女生徒を救う。
 学園長役の鈴木ヒロミツは以前にモップスという『月光仮面』をブルース風に歌うグループの一員だった関係で出演したのだろうか。石丸謙二郎の怪演が光る。
 それにしてもアップリンクを超満員にするほど『けっこう仮面』ファンが多いのには驚いた。客席は男ばかりかと思いきや、けっこう若い女性も半分ぐらい占めていた。続けて河崎実監督の『まぼろしパンティVSへんちんポコイダー』もここで観ることができた。
 他にも『ゾンビ極道』『会田誠無気力大陸』『ひなぎく』『美しき冒険旅行』『ルル』『援助交際撲滅運動地獄変』などなど、たくさん観た。その後、アップリンクは宇田川町の大きなビルに移転し、吉祥寺にも新たに劇場を開いたが、コロナ禍で渋谷は閉館となった。

 

けっこう仮面
2004
監督:長嶺高文
出演:斎藤志乃、稲原樹莉、石丸謙二郎鈴木ヒロミツ久保恵子、湯浅奈央

 

大河ドラマウォッチ「青天を衝け」 第25回 篤太夫、帰国する

 明治元年(1868)、十月。パリを出発した篤太夫吉沢亮)一行の船は、横浜に到着します。民部公子(板垣李光人)は小舟に乗り換え、品川に向かいます。薩長の者たちに無礼な扱いをされる可能性のあるためです。

 横浜で下船する篤太夫は検査する薩摩の兵にしゃべりかけられます。

「かわいそうに。海ば越えて戻れば、主(あるじ)もすでにおらんとは。まさに浦島太郎ばい」

 篤太夫は黙っていました。

 篤太夫は横浜の宿には入り、日本を留守にしていた頃の出来事を聞くことになります。

 正月を過ぎてしばらく経ってから、慶喜(草彅剛)は江戸に戻ってきます。鳥羽、伏見で公儀は薩長に破れたのです。薩長軍は錦(にしき)の御旗(みはた)を掲げ、進軍していました。敵対すれば朝敵となります。慶喜はそれを恐れたのでした。 

 慶喜江戸城に戻るとすぐに、先の天子の妹であり、将軍家茂の妻であった静寛院宮(せいかんいんのみや)(和宮)に拝謁を願いましたが、出てきたのは天璋院天璋院)(上白石萌音)でした。

「静寛院宮は顔を合わせぬと申すのはもっともなこと。お逃げになられたとは何事じゃ」

 慶喜はいいます。

「しかしそれがしは、断じて朝廷に刃向かう気はございませぬ。どうかその心だけでも宮様にお伝えいたしたく」

 天璋院慶喜に近づきます。

「まっこて、こげんちゃちなお方じゃったとは。私はかつて父に、徳川の世のため、そなたを将軍後見に推(お)すよう申しつかって江戸へ参りました。その頃から、皆がそれほどいうにはどれほどご立派なお方かと、思いを馳(は)せておりましたが。そうですか。これが」天璋院は元のの座に戻ります。「そなたは、武士の統領として、潔(いさぎよ)くお腹を召されませ」

 その後慶喜は、上野寛永寺にて謹慎しました。江戸の城はいくさもなく、薩長軍に明け渡されました。小栗上野介(こうずけのすけ)(武田真治)は、捕えられ、首を切られました。

 上野には、多くの兵が慶喜を守ろうと集まっていました。皆が成一郎(高良健吾)に、指揮者になって欲しいと頼みます。成一郎が慶喜の側近であったからです。そこには血洗島にいたはずの尾高惇忠(田辺誠一)や、篤太夫の養子である平九郎の姿もありました。成一郎はその役を引き受けます。

「今や黙す時にあらず。家臣のわれらが身命を投げ打って、上様のご無念を晴らす」

 成一郎は一団を彰義隊(しょうぎたい)と名付けます。

「われら彰義隊はこの江戸で、命をかけて上様をお守りし、その真心を世に示すのだ」

 と、成一郎は宣言します。

 しかし慶喜は、江戸を出て、水戸に移ることを決めました。慶喜は見送りに集まった彰義隊に、言葉をかけることはありませんでした。

 その後、彰義隊は分裂し、振武(しんぶ)軍と名乗った成一郎たちは、秩父の山に移りました。そこで襲撃を受けるのです。平九郎は皆とはぐれ、抵抗もむなしく、官軍に撃ち倒されてしまうのでした。

 成一郎と惇忠は落ち延び、成一郎は函館に向かいました。

 篤太夫は、五稜郭にこもる成一郎に文(ふみ)を送ります。

「顔を合わせ、話ができるのを楽しみに帰国したところ、おぬしが函館に行ったと聞き、遺憾(いかん)千万だ。主(あるじ)もなく、残された烏合の衆がいくら集まろうとも、勝てるわけがない。こうなっては、もはや互いに生きて会うことは叶わぬだろう。潔く死を遂げろ」

 篤太夫は水戸に移る民部公子に会っていました。

「先日、天子様にお会いした」と、民部公子はいいます。「そして朝廷より、水戸に戻り次第、函館の榎本軍との戦いに兵を出せとの命を受けた」

「そんな」と、篤太夫は声を出します。「函館にいるのは、元は公儀の忠臣たち。それを、民部公子様に成敗せよとは」

「渋沢」と、民部公子は篤太夫を呼びます。「今一度頼む。この先も水戸で私を支えてほしい」

 篤太夫は考えた末、ついに頭を下げて承諾の返事をするのです。

「それにもまずは、御主君のご意志をうかがわねばと思っております」

「そうか。兄か」

「上様に、民部公子様ご帰国のご報告をいたしたいと存じます」

「私も兄に会いたいが、水戸を継いだ以上、朝敵に会うことは許されぬ。文(ふみ)を書くゆえ届けてくれ。そして必ず、兄の返事を私に届けて欲しい」

 篤太夫は数ヶ月かけて、旅の残務整理をしました。そこで為替紙幣が使われているのを目撃するのです。篤太夫に話しかけてくる老人がいます。

「あたしら三井やこの島田が為替方となって扱っておりますがね、これが、ちっとも信用がねえ。金もねえのに、御一新をしちまったもんで、いろいろ必死なんでござんすよ」

 老人は三井組番頭の三野村利左衛門でした。利左衛門は言い放ちます。

「まことのいくさはこれからざんす。わしら商人の戦いは」

 成一郎からの文が篤太夫に届きます。

「無事に帰国したとのこと。憧憬(どうけい)の至りだ。俺は今、おのれの全てを賭けて戦っている。命に替えて、徳川と上様をお守りする所存だ。お前は、上様の本当の心根を分かっておらぬ。徳川の家臣として、朝敵の汚名をすすぐことなく、この先どうして生きていけよう。俺は、俺の道を行く。もう会うこともなかろう。さらばだ」

 篤太夫は、六年ぶりに故郷、血洗島へと向かっていました。