日本歴史時代作家協会 公式ブログ

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大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 信長公と蘭奢待(らんじゃたい)

 元亀四年(1573年)、三月。将軍足利義昭滝藤賢一)は、織田信長染谷将太)に対し、討伐の兵を挙げます。義昭の井を汲(く)んだ、甲斐の武田信玄は、三方原で徳川、織田の連合軍を打ち破り、三河に侵攻していました。しかし武田軍は突如、兵を引き返したのです。

 武田軍の引き上げる様子を見ていた徳川の忍び、菊丸(岡村隆史)は何か感じるところがありました。

 義昭は宇治の慎島(まきしま)城に陣を構えていました。義昭は両の拳で床を打ち付けます。

「朝倉、浅井、そして信玄。なぜじゃ。なぜ姿を見せん。皆、わしを助け、信長を討つと書いておるではないか」

 その部屋に敵兵がなだれ込んでくるのです。家臣たちは次々に討ち取られ、木下藤吉郎佐々木蔵之介)が乗り込んできます。

織田信長様のご下命により、木下藤吉郎が召し捕える」

 将軍足利義昭は、とらわれの身となるのでした。

 義昭は宇治の枇杷庄(びわのしょう)に置かれましたが、命を取られることはありませんでした。

 明智光秀十兵衛(長谷川博己)が通りを歩いていると、ぶつかってくる子供がいました。その子を助け起こそうとした男が、光秀に紙片を渡します。それは菊丸の書いたものでした。「信玄」の文字が見えます。

 光秀が信長に報告のために訪れると、信長は五つの半紙を床に並べてながめていました。

改元を言上した」と、信長はいいます。「本来、改元の申し出は、将軍が行うべきもの。なれど、今や将軍はおらん。わしがその役目を負わずばなるまい。違うか。そうしたら見よ。さっそく朝廷から、五つの案を出してきた」

 信長はその中から「天正」に決めるのでした。信長は武田軍のことを気にしています。光秀は菊丸からの情報を披露します。

「まだ確かなことは分かりませぬが。武田信玄が、死んだという噂がございます」

 元号が改まった、天正元年八月、浅井家の重臣が寝返ったという、大きな知らせが入ります。信長はすぐさま、近江に出陣します。同じ頃、朝倉義景も越前から出陣します。信長は再び、朝倉、浅井軍と相対(あいたい)しました。織田軍の奇襲により、朝倉家家老、山崎吉家(榎本孝明)が討ち死にします。勢いを増す織田軍は、朝倉義景の本拠、一条谷へも突き進み、火をかけます。

 地図を見て作戦を考える朝倉義景に対して、脇差しが置かれます。置いたのは義景のいとこである朝倉景鏡(手塚とおる)でした。

「もはやこれまで。義景殿、ここは潔(いさぎよ)くお腹を召されませ」

 寝返った景鏡はすでに義景の居場所を包囲していました。越前の朝倉義景は散り、朝倉家は滅亡します。

 信長は小谷城も攻め落とし、近江、浅井家も滅ぼしました。

 二百四十年続いた室町幕府は、ついに倒れました。群雄が割拠した乱世は、信長による、新しき時代を迎えようとしていました。

京の妙覚寺では、商人の今井宗久陣内孝則)が、朝倉家の持っていた箱や壺などの鑑定を行っていました。信長は光秀を近くに呼びます。松永久秀が許しを請うてきたというのです。信長は光秀に意見を聞き、許すことにするのです。その代わりに多聞山城を取りあげることにします。

鑑定が終わったあと、宗久は信長にいいます。

「これだけのものを一手に収められた方は、ほかにはございますまい。もはや天下を取ったも同然」

 信長はつぶやきます。

蘭奢待

 それは古くから伝わる香木でした。宗久はいいます。

「大きなことを成し遂げた者しか、見ることかないません」

「そのようじゃな」と、信長。「わしはどうかな。今のわしは、蘭奢待を拝見できると思うか。」

 と、宗久に聞きます。宗久はしばし考え、笑い出します。

「それはもう。今や、この国のお武家衆で、織田様の右に出る者はおりませぬ。拝見には、何の障(さわ)りもございますまい」

 光秀はいいます。

「もし拝見となれば、東大寺はもとより、帝(みかど)のお許しを得ませんと」

光秀と宗久は廊下で話します。

「宗久殿はどう思われますか。蘭奢待拝見について。殿はいったい何をお考えなのか」

 宗久はいいます。

「公方様を京から追われ、朝倉、浅井を討ち果たした。今や、京の回りに敵なし。いわば、一つの山の頂(いただき)に立たれた。そういうお方なればこそ、見たい景色があるということでございましょう」

 光秀は同意しかねます。

「そうであろうか。まことに、そうであろうか。私にいわせれば、頂はまだこれから。公方様を退(しりぞ)け、さて、これからどのような世をおつくりになるのか。今はそれを熟慮すべき大事な時。まだ山の中腹なのです。頂は遠い」

「なるほど。しかしあのお方は今、ここでご自分の値うちを知りたがっておられる。人の値打ちは目には見えません。しかし何か見える形でお知りになりたい。違いますか。見る景色が変われば、人もまた変わるとは」

 内裏にて、三条西実澄(石橋蓮司)が、帝に拝謁していました。

「将軍家なき今、信長を、しかるべき官位につけねばなりません」

「今、信長には勢いがある。天下静謐(せいひつ)のための働きは見事である。褒美をやっても良い。とは思うが。蘭奢待を所望というて参った」

 天正二年(1574年)、三月二十八日。東大寺正倉院の扉が開かれました。古きより伝わる、香木の蘭奢待が、百十年ぶりに運び出されました。多聞山城にて、その箱が開けられます。蘭奢待が信長の前に姿を現しました。蘭奢待には、切り取ったあとがありました。三代将軍、六代将軍、八代将軍が持ち帰ったと僧が説明します。

「その次が、わしか」信長は感に堪えた表情です。「拝領つかまつりたい。この信長にも、ぜひ」

 僧が蘭奢待にノミを打ち込みます。蘭奢待が切り出されました。

 信長は家臣の佐久間信盛と話します。佐久間はいいます。

「殿もこれで、歴代将軍と肩を並べられました」

 信長は二つの蘭奢待の破片を持ちます。

「ひとつ、帝に差し上げよう。帝もきっとお喜びじゃ」

 帝のもとへ蘭奢待が持ってこられます。驚く三条西実澄。帝が発言します。

「朕が喜ぶと思うたのであろうか。信長は」

「まことにもって恐れ多いことにございまする」

毛利輝元が関白に、これを所望したいと願うているそうじゃ。毛利に送ってやるが良い」

「しかし毛利は目下、信長とにらみおうている間柄」

「それは朕のあずかり知らぬこと。織田信長。よくよくの変わり者よのう」 

大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第三十六回 訣別(けつべつ)

 元亀三年(1572年)、冬。明智光秀十兵衛(長谷川博己)は、三条西実澄(石橋蓮司)の用人として、内裏に向かいました。光秀では廊下の途中で待たされます。光秀の耳に、花や春風について詠んだ歌が聞こえてきます。

 実澄(さねずみ)は帝(みかど)に拝謁していました。

「今日は庭に、珍しき鳥が舞い降りております」

 と、実澄は述べます。

「かの者が参っておるのか」

 と、帝はたずねます。うなずく実澄。帝は御簾の間から、紙片を落とします。

 紙片は光秀に届けられます。朕はこの詩の如く生きたいと思う。との文字がありました。光秀は思わず叫んでしまうのです。

「わたくしもそのように生きたく存じまする。さりながら、迷いながらの道でございます」

 驚いたことに、それに応える声が聞こえてきたのです。

「目指すはいずこぞ」

 光秀は思わず膝をつきます。

「穏やかな世でございます」

「その道は遠いな。朕も迷う。なれど、迷わずに歩もうではないか。明智十兵衛。その名を胸に留め置くぞよ」

 感激の表情で、見えない帝に向かい、光秀は頭を下げるのでした。

 光秀は自分の館に帰ってきます。柴田勝家安藤政信)と佐久間信盛金子ノブアキ)が訪ねてきていました。その座には木下藤吉郎もいたのです。光秀は信長から文(ふみ)を受け取っていました。大和の国で、松永久秀筒井順慶が争っているため、出陣の備えをせよとの内容でした。柴田勝家が言います。

「やっかいな話じゃ。殿は、公方様の強いご意向ゆえ、松永を討つとおおせられ、我らに出陣を命じられたが、いつになく歯切れが悪うての」

 木下藤吉郎が口を出します。

「そりゃあ、やる気がないからじゃ」

 佐久間信盛は将軍義昭に会ってきていました。何としても松永の首を取れ、明智にも相談するように、といっていたというのです。藤吉郎が話し始めます。

「公方様は、ああ見えて油断のならぬお方じゃ。わしは、公方様が朝倉や浅井に密書を送り、上洛を促しておるのはつかんでおる。信長様が大和と河内に兵を送って、近江や美濃が手薄になったところで、朝倉たちに一気に信長様を攻めさせようとの魂胆とにらんでおりますがいかがか」

 元亀二年から三年にかけ、大和の松永久秀は、筒井順慶ら、近隣の幕府方といくさを繰り広げていました。その松永に対し、足利義昭と幕府は、鎮圧に乗り出そうとしていました。

 京の館で、光秀は月をながめてくつろいでいました。妻の熙子(木村文乃)がやって来ます。近江の坂本城がだいぶできあがったというのです。光秀は熙子に、城を見に行こうと提案します。

 光秀と熙子は坂本城にやって来ます。その天守閣に上がるのです。光秀は説明します。この城の堀は外海に通じている。

「そなたと子供たちを船に乗せ、月見にこぎ出して行くのだ。湖の上で、子供たちに古き歌を教える」光秀は熙子を自分に向かせます。「必ず皆をここに呼び寄せる。人質として、そなたたちを京に残せと。いかに公方様でも、何とおおせになろうと、その義だけは飲めん」

 熙子はいいます。

「この近江の国は、美濃の国と、京との、ちょうど中ほどでございましょうか。今、どちらに心を引かれておられますか」

 光秀は眉根を寄せて首を振ります。

「どちらも大事なのだ。どちらも。ただ、今のままではすまぬやも知れぬ」

 元亀三年(1572年)、春。幕府と織田の連合軍が河内の国に向けて出陣をしました。松永久秀と、松永に急接近してきた三好の一頭を討つための、大がかりな出陣でした。しかし織田信長は、このいくさに加わらず、河内に攻め込んだ連合軍も、松永久秀を取り逃がし、いくさを終えました。

 その頃、甲斐の躑躅(つつじ)ケ崎館では、武田信玄石橋凌)が家臣団を前にしていました。

「このところ、信長の動きが鈍い。公方様との足並みにも、乱れがある。その公方様は、わしに上洛せよと、矢の催促じゃ。出陣の機は熟したと思うが、どうじゃ」

 家臣団は一斉に頭を下げるのでした。まずは浜松城徳川家康を討つ、と信玄は宣言します。

 その年の十月、信玄は京都に向かって、進撃を開始しました。

 美濃の岐阜城で、織田信長染谷将太)と光秀は会っていました。信長は話します。

「三日前、夢を見た。甲斐より、大入道が上洛し、わしを捕えて、公方様の前に突き出すのじゃ。公方様はこともなげに、耳と鼻とをそぎ落とし、五条の橋にさらせとおおせになる。そこで目が覚めた。恐ろしい夢じゃ。しかしこう思うた。近頃わしは、公方様に冷たく当たったかも知れぬ。そなたも目を通したであろう。公方様に送った、あの文(ふみ)を。いくつもの例を挙げて、公方様をお諫(いさ)めした。よく働いた家臣に、ほうびをやらず、おのれがかわいいと思う近習の者にのみ金品を与える。わしの許しも得ず、諸国に御内書を送り、寺社の領地を没収したり、お支えするこの信長も、面目が立たぬと」信長は続けます。「松永久秀を討てと命じられた折に、すかさず兵を出した。わしなりに気を遣うておるのじゃ。そう思わぬか」

「気をお遣いになるのであれば、親しきお大名にも、いま少しお気を遣われるべきかと。徳川家康殿の領地に、武田信玄が入り込んでいるとの知らせが入りました。武田勢は、二万以上の兵だと聞いております。家康殿の軍は、せいぜい七、八千。三千の援軍では、とうてい勝ち目はございますまい」

「仕方あるまい。こちらもぎりぎりでやっておる。越前の朝倉が、北近江に一万五千の兵を繰り出し、明日、わしも出陣する。家康を助けても、わしが負けたら元も子もあるまい」

 信長は立ち去ろうとします。

「信長様には公方様がついておられます。そのお声一つで、機内の大名が馳せ参じましょう。しかし家康殿は違います。家康殿は信長様をうやまい、頼りにしておられます。我らも、家康殿にどれほど助けられたか分かりません。せめてあと三千、いや、二千でも構いません。援軍を」

「十兵衛。夢の話をしたであろう。公方様が、そうまで当てになるお方と思うか。信玄も、朝倉も、浅井も、皆、公方様が上洛を促しておられる。わしを追い落とすつもりか」

「さようなことは断じて。公方様をお支えしているのは、信長様であると、公方様もご存じのはず。決して追い落とすなど。もしさような動きがあれば、この十兵衛が食い止めてご覧に入れまする」

 その場に徳川と信長の軍勢が、武田軍に大敗したとの報告がもたらされるのです。

 光秀は、京の二条城にやって来ます。将軍義昭を前にしていました。義昭はいいます。

「わしは信長とのいくさを覚悟したのじゃ」

あっけにとられる光秀。義昭は、信長からの文を投げてよこします。

「信長がわしによこした、十七ケ条の意見書じゃ。罵詈雑言じゃ。帝への配慮が足りぬだの。将軍の立場を利用し、金銀をため込んで誠に評判悪(あ)しきゆえ、恥ずべきである。もはや我慢がならぬ。今や武田信玄が上洛の途上にある。朝倉ああ在が信玄に呼応して、近江で信長を挟み撃ちにすると伝えてきておる。徳川もすでに敗れ、松永も敵に回った。信長の命運は尽きた」

 同席していた三淵藤英(谷原章介)が、光秀も将軍側につくよういいます。考え直すように請う光秀。義昭は目に涙を浮かべて宣言します。

「わしは信玄と共に戦う」そして光秀に呼びかけます。「信長から離れろ。わしのために」

「公方様」光秀は慟哭します。「それはできませぬ」

 元亀四年(1573年)、三月。将軍足利義昭が、機内の大名を集め、織田信長に対し、兵を挙げたのでした。

『映画に溺れて』第404回 ふるさとポルノ記 津軽シコシコ節

第404回 ふるさとポルノ記 津軽シコシコ節

昭和四十九年七月(1974)
大阪 梅田 日活関西支社試写室

 

 初めて映画会社の試写室で試写を観たのは、大阪の梅田にある日活関西支社だった。映画関係の仕事をしていたわけではない。当時、私はまだ大学一年で、「プレイガイドジャーナル」という関西中心の月刊情報誌を毎月購読していた。そのプレゼントコーナーに応募したら当選し、試写状が送られてきたのだ。
 作品は『ふるさとポルノ記 津軽シコシコ節』だった。当時の日活は石原裕次郎吉永小百合が主演する時代は終わっていて、ロマンポルノ路線の真っただ中である。私が日活ロマンポルノを観たのは、実はこれが初体験であった。
 タイトルは話題になった『津軽じょんがら節』をあざとく真似たものだが、私はこういう遊び心に昔から惹かれていた。
 舞台は東北の農村地帯、男たちが出稼ぎに行った後、寺の若い僧侶が修行から帰ってきて、これがいい男なので、村に残された女たちが騒ぐ。
 僧侶が想いを寄せているのが幼馴染の女教師で、鄙にも稀な清楚で知的な美女である。
 女教師も僧侶を憎からず思っているが、男は純情、女は気位が高くてロマンポルノなのになかなか結ばれない。そのうち、僧侶が偶然にも村の女たちといい仲になる。
 女教師に下心のある村の医者がそれを知って、僧侶の名前で偽の恋文を女教師に送り、夜中に雨戸をはずして忍び込む。僧侶だと思って迎え入れる女教師。若くて奥手の私には、なんとも刺激的な忘れられない場面である。
 女教師役の川村真樹は長身の美女で、元タカラジェンヌだったと後に知る。
 明るくおおらかなセックスコメディはこの少し前に公開されたパゾリーニの艶笑喜劇『デカメロン』や『カンタベリー物語』を思わせた。
 初めて観た日活ロマンポルノがとても気に入って、だが、日活の直営館にはなかなか行けず、何度かプレイガイドジャーナルの試写招待に応募したが当選せず、ようやく次に当たった映画がじめじめした陰惨な凌辱もので、がっかりした。それぞれ好みもあろうが、喜劇好きの私はポルノもやっぱりコメディ調が好きなのだ。

 

ふるさとポルノ記 津軽シコシコ節
1974
監督:白井伸明
出演:川村真樹、谷本一、前野霜一郎、島村謙次、高橋明、薊千露、吉野あい、南昌子

 

大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第三十五回 義昭、まよいの中で

 元亀二年(1571年)、秋。比叡山の戦いで、一番手柄をあげた明智光秀十兵衛(長谷川博己)は、信長から、近江の国、滋賀の地を与えられ、琵琶湖のほとり、坂本に、新たな城を建てようとしていました。

 光秀は京の館で、その城の造りについて考えていました。しかし気がすすまない様子なのです。

「住むのはやはり、ここが良い」

 と、妻の熙子(ひろこ)(木村文乃)にいうのです。

「上洛してわずか三年で城持ちの大名になられるのですよ。家中の者は皆、喜んでおります。坂本に参る日を、皆、楽しみにしております」

 と、無邪気に熙子は語ります。そこへ木下藤吉郎佐々木蔵之介)がやってくるのです。

 藤吉郎は信長からの命令書を持って来ていました。

「殿は朝廷の方々をどうお助けし、喜んでいただくか。それで頭がいっぱいのご様子」

 そういう藤吉郎に対し、光秀の表情は曇ります。

「お気持ちは分かるが、これでは幕府に喧嘩を売るような中身ばかりだ」

 藤吉郎は軽く言い放ちます。

「よろしいではござりませぬか。明智様もそうしてこられた」藤吉郎は間を置きます。「もはや、殿は、公方様や幕府なんぞはどうでもよい。朝廷と共に敵を討ち果たし、天下を治める。私などはそれで結構かと存じますが」

「それは違う」光秀ははっきりといいます。「公方様を頭にいただく幕府が、諸国の武家を束ねてこそ世が治まるのだ。今、その幕府は病んでおる。我らがそれを正せば……」

「正せますか」藤吉郎は光秀から視線を離しません。「幕府は、もう百年以上も内輪もめといくさで明け暮れてきたのです。百年も。私は幼き頃より百姓の下働きや物売りをさせられ、公方様や幕府がどれほどありがたいものかを知らずに育ちました。それゆえかえって世がよう見える時があります。幕府は、そろそろ見切り時では」

 光秀は何もいうことができませんでした。

 二条城の政所(まんどころ)では、摂津晴門片岡鶴太郎)が家臣たちに話していました。

「公方様が、本国寺で茶会を開かれる。明智十兵衛も参る。その席で、明智を討つ。そう決めた。明智幕臣でありながら、織田信長がすすめる朝廷よりのまつりごとを、我らの頭越しに行うておる。まず明智を討って、織田の力を削ごうと思う」

 家臣がいいます。

「織田とのいくさも覚悟せねばなりませぬが」

「甲斐の武田もいよいよ動く。朝倉も、浅井も、皆、一斉に攻め寄せる手はずはつけた。ここは我らが断を下して、前へ進むよりほかない」

 その頃、東庵の診察所に来ていた、たまと熙子は、藤吉郎の母の、なか、から、光秀が家族を坂本に連れて行かぬようにと、幕府から命令を受けていることを聞くのでした。光秀がいつ敵になるかもしれぬから、人質として京に残しておくのだというのです。

 二条城で、将軍義昭(滝藤賢一)と共にいた駒は、義昭がいらついている様子を目にします。義昭は苦しんでいました。

「摂津が十兵衛を幕府から追い出したいといえば、やむを得ぬ。斬りたいといえば、ああそうかと、そういうほかあるまい」

 駒は驚きます。義昭は摂津を憎んでいました。しかし味方がほかにいないというのです。義昭は自分から離れ、近江に行こうとする光秀が許せなかったのでした。

 駒は伊呂波太夫尾野真千子)を訪ねます。光秀が討たれるかも知れないことを告げます。駒は太夫に銭の入った袋を差し出すのでした。

 本国寺で茶会が催されます。細川藤孝眞島秀和)が茶会に向かおうとする光秀を待っていました。

「京の茶会には、お出にならぬ方が良い」と藤孝は告げます。「ここから奥は危ない。摂津晴門が貴殿を斬るつもりらしい。すぐ引き返されよ」

 光秀は決意の表情を浮かべ、次に微笑んで見せます。

「ご厚意、かたじけのうございます。心して行きます」

 そういって光秀は、義昭のいる部屋に、急ぎ足で向かうのです。

 途中の部屋で、摂津の手の者たちが、槍を構えて光秀を待ち伏せしています。廊下を渡る光秀に槍が突き出されます。応戦する光秀。繰り出された槍の一つが、光秀に傷を与えるのでした。もとより光秀は、敵を倒すつもりはありません。摂津の手の者たちを振り払い、義昭のいる場所へと急ぎます。

「ここは公方様の」

 と止める者たちを

「どけ」

 と押しのけて光秀は進みます。ついに義昭のいる部屋にたどり着くのです。ひれ伏し、

明智十兵衛でございます」

 と、叫びます。おののく義昭。やがて義昭は光秀を追ってきた者たちを一喝します。

「何事じゃ。下がれ」

 おもてをあげよ、と命じられた光秀の顔は笑顔でした。

「何がおかしい」

 と、問う義昭に、光秀は語ります。三年前にも、この本国寺で大騒ぎがあったことを思い出した。三好の一党に襲われ、義昭と穴蔵へ逃げ込んだ。その時は恐ろしくもあったが、楽しくもあった。花の咲き誇る都にまた戻さねば、と話し合った。

「近江で初めてお会いして、上洛するまで三年。そしてこの三年」光秀は言葉に力を込めます。「古きものを捨て去る、良い区切りではありませぬか。摂津殿や、幕府内の古き者たちを」

「捨て去って」義昭は涙を流して激高します。「その後はどうする。信長が、勝手気ままに京を治めるのを黙って見ておれというのか」

「わたくしがそうならぬよう努めます。信長様が道を外れるようなら、坂本城はただちにお返しいたし、この二条城で、公方様をお守りいたす所存。越前を公方様と出るとき、おのれに言い聞かせました。我ら武士は、将軍をお守りせねばと」

 義昭は立ち上がって光秀に近づきます。今日の茶会は取りやめにすることを告げます。そこへ三淵藤英(谷原章介)がやってくるのです。茶会の取りやめを命じると、摂津にそれを伝えても、引き下がることはしないだろうといいます。三淵は提案します。

「弟、細川藤孝の家来どもが門前に控えております。公方様のお下知とあらば、その者たちを中に入れたく存じますが、それでよろしゅうございますか」

「やむを得まい。そなたに任せる」

「万が一」三淵は問います。「摂津殿が従われぬ場合、いかが計らえばよろしゅうございますか」

「従わねば捕えよ」と、義昭は叫びます。「政所の役を免ずる」

「ただちに」

 三淵は立ち上がるのでした。義昭は立ったまま光秀にいいます。

「ただ、いうておくぞ。信長と、わしは性(しょう)が合わぬ。会うた時から、そう思うてきた」

 これにより摂津は、三淵の指揮により捕えられるのです。

 数日後、光秀は伊呂波太夫を訪ねます。細川藤孝に危機を知らせ、今度の手はずを整えたのは駒に頼まれたからだと太夫は打ち明けます。大夫はいいます。

「それにつけても、幕府のお偉方がごっそり抜けて、これからいよいよ、明智様の肩の荷が、重くおなりですね」

「肩が悲鳴を上げております」

 と、光秀は冗談を言い、二人は笑い合うのです。光秀は顔を直していいます。

「以前、太夫から、帝(みかど)は美しいお方だという話をうかがいました。信長様は御所に足繁く通っておられる。帝よりお褒めいただくのが、なによりうれしい。我ら武士にとって、将軍、公方様がそうであると、私は思うのだが。しかし、信長様は帝に。分からなくはないが、やはり、分からない」

 立ち去ろうとする光秀に太夫は声を掛けます。

「帝の覚えがめでたいお方がいますよ。この近くに。これからそのお方に、栗をお届けしようと思っていたところです。お会いになってみます? 」

 大夫と共に訪れた先の人物は、書物を読んでいて、光秀を相手にしません。栗を口に運んでいます。その人物は三条西実澄(石橋蓮司)でした。実澄は万葉集の歌読みは誰が好きかと光秀に問います。柿本人麿だと光秀が答えると、実澄はその理由をたずねます。さわやかに光秀は語ります。

「国と帝。家と妻への想い。そのどちらも、胸に響く歌と存じまする」

 実澄は栗を口に入れながら、書物に目を落とします。

 実澄は内裏にやって来ていました。御簾ごしに帝に拝謁します。帝がいいます。

「実澄の館に、明智が参ったのか」

明智をご存じであらせられますか」

「近頃その名をよく耳にする。信長が一目置く武将じゃと」

 実澄は光秀が柿本人麿の話をしたことを伝えます。

「久しぶりに、歯ごたえのあるもののふに会うたなと」

「実澄、気に入ったのであろう。明智を。折を見て連れて参るが良い」

明治一五一年 第19回

明治一五一年 第19回

 

いくつかの目の内側を

すり抜ける私たちだから

小さな傷口が増えていく日日

の残景が過ぎていき

どろどろに流れてく体の

感触が一五一年を伝う

いつの私たちだった

壊れてしまった人の時間

かと聞きなれた声たちが流れ

荒れ果てたまま北へ流れ

いく足をなお追う足の

いくつかの目裏に晒される

朽ちいく私たちの掌を

小さな傷口がどこまでも

壊れてしまった人たちの時間

さらけ出すまで追われ

どろどろに流れていく体の

細胞の一つにまで反る

いつの私たちの血の色は

一五一年の形代を抜き

荒れ果てたまま南にまで崩れ

つづける波間だから

壊れてしまった人の時間の

いくつかの目裏の端に

写る私たちの五指だから

小さな傷口は一五一年

の終わりえない人影に緩み

どろどろに流れていく

体の破綻する刹那を語る

いつの私たちが呼ばれるそば

から傾く山脈を眺め

壊れてしまった人の時間の

荒れ果てたまま北からの

騒めく声たちの輝きを

いくつかの目の内側

から一五一年を囁く私たちと

小さな傷口は訪れる

あり得なかった眺めを留め

壊れたしまった人の時間

どろどろに流れていく

体のうすく滲む亡骸を摘む

いつの私たちであるなら

細かくなる青空を噛み

荒れ果てたまま南へと地滑り

する一五一年だから

『映画に溺れて』第403回 1917 命をかけた伝令

第403回 1917 命をかけた伝令

 

令和二年十月(2020)

飯田橋 ギンレイホール

 

 戦場で起きた午後から翌朝までの出来事を二時間足らずで描いて、しかもワンカット。いったいどうやって撮影したのだろう。まるで魔法ではないか。

 いい映画の条件はいろいろある。ユニークなアイディア、練られた脚本、熟練した俳優のリアルな演技。そして、やはり映画である以上、映像のすばらしさが作品の質を左右する。

 一九一七年、第一次大戦中のフランス。撤退したドイツ軍を翌朝、英軍の部隊が追撃する準備をしている。ところが、撤退は見せかけで、深追いする英軍を待ち伏せて一気に全滅させるのがドイツ側の作戦だと判明する。電話線が切られ、司令部から最前線へ攻撃中止の命令が出せない。そこで二人の兵士が伝令に選ばれる。設定としては『まぼろしの市街戦』に近いかもしれない。

 草原でのんびり昼寝しているブレイクとスコフィールドが司令部へ呼ばれ、明朝までに中止命令を届けるよう命じられる。間に合わなければ味方に多くの犠牲が出る。ブレイクが選ばれたのは兄が将校として最前線の部隊にいるからで、スコフィールドはたまたまブレイクといっしょに昼寝していただけ。とんでもない事態に驚きながらも、ふたりは戦場を駆けて行く。途中の様々な危難。ほんとにたどりつけるのだろうか。

 これがすべてワンカットなのだ。デジタルで長時間の長回しが可能になったればこそ、こんな撮影ができるのだろう。そして、すべての場面が絵になる美しさ。

 もちろん、午後に司令部を出発し、平野や村や森を通り抜け、夕暮れになり、夜になり、朝になるまでを二時間足らずのワンカットで撮れるわけがないので、そこには様々な工夫がなされている。その技術とリハーサルと計算は並大抵ではなかろう。

 映画を観ている観客は、まるで兵士といっしょに戦場を駆けめぐっているような一体感を経験する。

 映画館にはなかなか行きづらい状況だが、これこそ、劇場の大画面で観るべき作品である。

 

1917 命をかけた伝令/1917

2019 イギリス・アメリカ/公開2020

監督:サム・メンデス

出演:ジョージ・マッケイ、ディーン=チャールズ・チャップマン、マーク・ストロングアンドリュー・スコット、クレア・デュバーク、リチャード・マッデンコリン・ファースベネディクト・カンバーバッチ

『映画に溺れて』第402回 まぼろしの市街戦

第402回 まぼろしの市街戦

 

昭和五十三年四月(1978)

大阪 中之島 SABホール

 

『マラー/サド』と二本立てで観たのが『まぼろしの市街戦』だった。どちらも精神病院が題材になっている。こんな組み合わせを考える上映会の主催者、よほどの映画好きなのだろう。

 第一次大戦中のフランスの小さな村。占拠していたドイツ軍が撤退する際、巨大な時限爆弾を仕掛ける。間もなく進攻してくるであろう英軍を村ごと吹き飛ばすために。村人はすべて逃げ去り、精神病院の患者と巡業中だったサーカスの動物だけが取り残される。

 だれもいなくなった村で、病院から抜け出した患者たちはそこらじゅうの店に勝手に入り込み、好きな衣装に着替えて、それぞれが侯爵や将軍や娼館のマダムなどになりきって遊んでいる。

 いち早くレジスタンスから爆弾の情報をつかんだ英軍は、爆弾解除を若い通信兵チャールズに命じる。伝書鳩とともに村に単身乗り込んだチャールズを患者たちは王様に仕立てて、歓迎する。爆弾の場所を知るレジスタンスはドイツ兵に射殺されたあとで、爆破の刻限はだんだんと迫る。

 患者のひとりである綱渡りの踊り子コクリコとチャールズは仲良くなり、患者たちによる結婚パーティが繰り広げられる。

 そんな中、チャールズは間一髪で爆弾を発見し、危機を救って、英軍を呼び寄せる。英軍の一隊は患者たちを本物の侯爵や将軍と思い込み、いっしょになってお祭り騒ぎ。

 が、最後には英独の合戦で殺し合う。患者たちは遊びは終わったとばかり、病院へと帰っていく。戦争の狂気よりは精神病院の患者たちがよほどまともという皮肉な結末。

 撤退するドイツ兵のひとり、ちょび髭の男がアドルフと呼ばれていて、演じたのが監督のフィリップ・ド・ブロカ本人だった。

 

まぼろしの市街戦/Le Roi de Cœur

1966 フランス/公開1967

監督:フィリップ・ド・ブロカ

出演:アラン・ベイツジュヌヴィエーヴ・ビジョルドジャン=クロード・ブリアリ、フランソワーズ・クリストフ、ピエール・ブラッスールジュリアン・ギオマール、ミシェル・セロー、ミシュリーヌ・プレール

 

大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第三十四回 焼討ちの代償

 元亀二年(1571年)九月。織田信長染谷将太)は、比叡山延暦寺を攻め、僧侶やそこで暮らす人々を、男女の区別なくことごとく殺戮しました。明智光秀十兵衛(長谷川博己)は、比叡山の事実上の主(あるじ)である覚恕(春風亭小朝)を取り逃がしたことを知らされます。家臣の柴田勝家安藤政信)から

「坊主どもはことごとく討ち果たしましたぞ。もはや比叡山は死に絶えたも同然」

 との報告を受けた信長は、皆に鬨(とき)の声を上げさせます。光秀は布に包まれた首が積まれた場所にやって来ます。すると信長に声を掛けられるのです。

「此度(こたび)の勝ちは、そなたに負う所、大(だい)じゃ」

 と、比叡山周辺の滋賀郡を、光秀に褒美として与えることを伝えるのでした。二万石の領地です。

 京の二条城では、将軍足利義昭滝藤賢一)が摂津晴門片岡鶴太郎)を前にしていました。

「信長は何をしでかすか分からぬ男ぞ。これを見て、京の者がなんというか分かるか。幕府は、信長のいいなりで、叡山滅亡の片棒をかついだ。仏法の灯りが消え、世に闇が訪れるのは、幕府が無能ゆえとな」

 と、悲鳴を上げるように義昭はいいます。摂津は提言します。

「この際はっきりと、織田との関わりを断つべきかと存じます」

「どのようにして」

「今、大和の国では、筒井順慶駿河太郎)殿が、松永久秀吉田鋼太郎)とにらみおうておられます。筒井殿は公方様の分身のようなお方。松永の後ろ盾は織田信長。この両者のいくさが始まるとき、幕府は筒井殿に援軍を送ればよろしいのです。松永は必ず織田に助けを求めましょう。となればいくさの内実は、幕府と織田のぶつかり合いとなり、互いの立場がはっきりいたします」摂津はさらに語ります。「織田が幕府の敵と分かれば、近隣の大名たちが馳せ参じましょう。皆、田舎大名には頭を下げたくありませぬ。いくさは所詮、数を集めた者が勝つ」

 義昭は声を出すことができません。

 光秀は京にある自分の館に戻っていました。そこで娘のたまが市場へ出かけたと知らされます。

 たまは藤田伝吾(徳重聡)を共に、京の街を歩いていました。珍しい鳥に心を奪われます。しかし突然飛んできた石つぶてに、たまは傷を受けるのです。群衆の中に、叫ぶ者たちが見えます。

明智光秀。鬼。比叡のお山で、何人殺した」

 叫ぶ男たちは、さらに石を投げつけてくるのです。伝吾は近くにいる医者を尋ね、望月東庵の名を聞きます。

 光秀は街を走り、東庵の所にやって来ます。たまの傷の様子を見て、光秀はいいます。

「悪いのは、父だ。父が叡山でいくさをしたからだ。この都には、身内を失った者もあまたいよう。皆、気が立っておる。そうさせたのは父だ。そなたをそのような目にあわせたのも、父だ。謝る」

 東庵の医院で、光秀は駒から、将軍義昭が信長から離れようとしていることを聞きます。幕府は筒井順慶の後ろ盾として、松永といくさを始めるとことになるかもしれない。義昭がそのようになるかも知れないといったというのです。やがて義昭と信長が敵として向き合うことになるのではないか。

「それがまことなら。それは止めねば」

 という光秀。筒井順慶は、京にいるはずでした。光秀は順慶の宿所を訪れます。順慶はいいます。

「わたくしは信長様を敵にするつもりはありません」

 しかし松永を放っておく訳にはいかないとも話します。光秀は提案します。堺へ寄って今井宗久陣内孝則)のもとで茶を飲むのはどうか。順慶はそれを承諾します。

 堺の今井宗久の屋敷に順慶と光秀はやって来ます。宗久は二人を案内しながらしゃべります。

明智様がお話しをされたいというお方も、昨日からこちらへ逗留され、この上においででございます」宗久は二階の部屋を見つめます。「いかがいたしましょう」

 光秀は宗久にいいます。

「茶をいただく前にお会いしておきたい」

「筒井様もご一緒に」

 と、宗久はたずねます。順慶が返答する前に光秀がいいます。

「二階に松永様がおられます。しばしお話しなさりませぬか」

「よろしい」

 と、順慶はうなずくのです。

 松永と順慶はとても打ち解ける様子はありません。松永は階段に光秀を呼び出します。

「わしにどうしろというのだ」

 と、訴える松永。

「筒井様とのいくさをやめていただきたいのです。お分かりでしょう。公方様と信長様の立場が」

 松永は納得しません。

「大和でなくてはいけませんか」光秀は切り出します。「近江はいかがか。私が信長様から拝領した滋賀は良いところです。お譲りいたします。石高は二万石。それでいかがでございましょう」

 松永はあっけにとられます。松永は腰を下ろし、光秀にも階段に座るようにいいます。

「よいか。わしはな、信長殿が公方様と上洛されて以来、あの二人は永くは保つまいと思うておる。おぬしがいくら案じようとも、二人はいずれ必ず袂(たもと)をわかつ」

「それでは困るのです」

 という光秀。

「信長殿は何でも壊してしまうお方だ。だが公方様は守ろうとする。古きもの、仏、家柄。あの二人はまるで水と油ほどにも違う。わしは信長殿が好きだが、比叡山をああまでしろと命じられれば二の足を踏むだろう。神仏を、あそこまで焼き滅ぼすほどの図太さは、わしにはない。あれが天下を穫っていたら」

「それは、私も」光秀は手で顔をおおいます。「松永様と同じでございます。あのいくさのやり方は、私には」

「だが、信長殿を尾張から引っ張り出し、ここまで動かしてきたのはそなたではないか。比叡山のことは心が痛むが、あれをやらねば世は変わらん。おぬしはそう思うておる。違うか。所詮、信長殿とおぬしは根がひとつ。公方様とは相容れぬ者たちだ。いつか必ず、公方様と争うときが来る。わしはそう思うておる」

 松永は一人、階段を降ります。呼び止める光秀。

「だが、滋賀の領地をわしによこすというそなたの心意気は了としよう。筒井とのいくさ、一旦、手を止めても良い」

 美濃の岐阜城にて、光秀は信長に報告します。松永が和議に応じたことを信長は喜びます。実は信長は、筒井側に立って、松永を討つつもりでした。

「仕方があるまい。松永側に立って、公方様と角突き合わせることになれば、都に荒波が立つ。それでは御所におわす帝(みかど)の、御心(みこころ)を悩まし奉(たてまつ)ることになる。それはまずい」

「公方様のご意向にそうため、ではないのですか」

「ちがう」信長は書を閉じ、光秀に向き直ります。「公方様のいわれることは、いちいち的外れじゃ。相手にしておれぬ。それを思えば、帝のおおせになることは、万事重く、胸に届くお言葉じゃ」

「また、御所へ参られたと、聞きました」

「うむ。比叡山のいくさの奏上のためにな」

「帝はあのいくさを何と」

「叡山の座主(ざす)、覚恕は我が弟であり、誠にいたましきいくさであったが、やむを得まいとおおせられた。それで都に、末永く安寧(あんねい)がもたらせるなら、よしとしよう。この後(のち)も、天下静謐(せいひつ)のため、励むようにと」

「お褒めをたまわったのでございますか」

「そうだ。最後にこうおおせられた。大儀であった。頼みにしておると」

 信長は笑い声をあげるのでした。

 京の内裏では帝と望月東庵が碁を指していました。帝がいいます。

「昨日、関白が参り、世に流れている噂を聞かせてくれた。朕(ちん)が、織田信長を使うて、叡山から覚恕を追い払うたのではないかと、戯れ言にいいなす者があるという」

「不埒(ふらち)千万な戯れ言でございますな」

 と、東庵。

「あるいはそうかもしれぬと、関白にいうてやった。関白はあきれて、信長は荒々しき者ゆえ、あまりお近づけににならめ方が良いのでは、と苦言を呈して帰って行った。なれど、信長のほかに誰があの覚恕を叡山から追い払うことができたであろう。覚恕は僧侶でありながら、有り余る富と武具で大名を従え、この都を我が物にせんとしたではないか」

 京のはるか東に、甲斐の国があります。そこに覚恕が逃げ込んできていたのです。

比叡山のいたましき有様。つぶさに聞き及んでおります。信長は、仏法の火を消した鬼じゃ。覚恕様。憎き信長を、この信玄が、討ち滅ぼしてご覧に入れまする」

 武田信玄はそういって覚恕に頭を下げるのでした。

 

『映画に溺れて』第401回 マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺

第401回 マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺

昭和五十三年四月(1978)
大阪 中之島 SABホール

 

 長いタイトルの映画は『博士の異常な愛情』やウディ・アレンの『SEXのすべて』などいくつかあるが、中でも略称『マラー/サド』の元のタイトル、あまり長すぎて落語の寿限無を思わず連想してしまう。原作はペーター・ヴァイスの戯曲でドイツ語で書かれているが、背景はフランス革命後のフランス。それを英国のロイヤルシェイクスピア劇団が英語で上演し、演出家ピーター・ブルックが舞台そのままに映画化したのがこの作品である。
 サディズムの語源ともなったサド侯爵。貴族でありながら、不道徳な行いによってバスティーユの牢獄に入っていたため、フランス革命ではギロチンにもかけられず、その後はナポレオンによってシャラントンの精神病院に死ぬまで幽閉される。文学者サドの作品の大半は、牢獄と精神病院で書かれた。
ペーター・ヴァイスの劇はタイトルそのまま、精神病院内でサドが戯曲を書いて患者たちに上演させたという史実に基づいている。革命の指導者のひとりジャン=ポール・マラーが皮膚病で自宅療養中、訪ねて来た美女シャルロット・コルデーに浴槽で暗殺される場面。これをサド侯爵自ら演出している設定である。
出演は舞台同様にロイヤルシェイクスピア劇団の俳優。サドを演じたパトリック・マギーは『時計じかけのオレンジ』で通り魔マルコム・マクダウェル一味に妻を強姦される作家だった。マラーのイアン・リチャードソンは『ラ・マンチャの男』の神父をはじめ、TV版のシャーロック・ホームズも演じている。コルデー役のグレンダ・ジャクソンは私の好きな英国コメディ『ウィークエンド・ラブ』でジョージ・シーガルの相手役だった。まさにシェイクスピア俳優たちによる精神病院の革命劇である。

 

マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺/he Persecution and Assassination of Jean-Paul Marat as Performed by the Inmates of the Asylum of Charenton Under the Direction of the Marquis de Sade
1967 イギリス/公開1968
監督:ピーター・ブルック
出演:パトリック・マギー、イアン・リチャードソン、グレンダ・ジャクソン