日本歴史時代作家協会 公式ブログ

歴史時代小説を書く作家、時代物イラストレーター、時代物記事を書くライター、研究者などが集う会です。Welcome to Japan Historical Writers' Association! Don't hesitate to contact us!

大河ドラマウォッチ「鎌倉殿の13人」 第39回 穏やかな一日

 時政が鎌倉を追われたあと、天然痘を患(わずら)っていた源実朝(さねとも)(柿澤勇人)が、政務に復帰します。

「ご心配をおかけしました」

 と、実朝は北条義時(よしとき)(小栗旬)と政子(小池栄子)にいいます。

「もう大丈夫なのですか」

 と、政子が声を掛けます。義時がいいます。

「今だから話せますが、一時(いっとき)、われらは覚悟を決めました」

 実朝は理解します。

「私が死んだら、誰が跡を継ぐことに」

 義時は答えます。

「善哉(ぜんざい)様です。鎌倉殿とは、親子の契(ちぎ)りを結んでおられます」

「善哉に悪いことをした」

 と、つぶやくように、実朝はいいます。話題を変えるように、政子が話します。

「全国には、国ごとに治安を守る守護(しゅご)、荘園ごとに土地を預(あず)かる地頭(じとう)が置かれています。それらに任じていただいたご恩によって、御家人たちは鎌倉殿に奉公するのです。まさに武士たちの頂(いただ)き。しっかりとお役目を果たして下さいね」

 政子は懸命に、政治について学んでいたのです。

 政子と二人になると、義時がいいます。

「政(まつりごと)は私がすすめます。鎌倉殿にはそれを見守っていただく」

「しばらくはそれがいいですね」政子は気がつきます。「ずっと」

「兄上は、坂東武者の頂きに北条が立つことを望んでおられました。私がそれを果たします」

 書庫で、訴訟の話がされます。実朝が意見を述べようとすると、義時がさえぎります。結局、義時の考えが通ることになります。

 外に出て、実朝は義時の息子である、泰時(やすとき)(坂口健太郎)にこぼします。

「私は、いてもいなくても同じなのではないか」

 泰時は優しくいいます。

「そんなことはありません」

 実朝は微笑みます。

「そうだ。太郎(泰時)に渡したいものがある」

 実朝は和歌を書いた紙を泰時に差し出します。実朝はいいます。

「楽しみにしている」

「楽しみ」

「返歌(へんか)だ」

「歌でお返事するのですか」

 実朝は黙って行ってしまいます。

 義時は、官僚の大江広元(おおえひろもと)(栗原英雄)にいいます。

「政(まつりごと)の仕組みを新しくしようと思う」

「まずはどこから」

「守護は交代で担(にな)う。親から子へ、代々受け継がれると、わずかな者に、力が偏(かたよ)ってしまう」

「では国司(こくし)も」

国司はそのまま」

「北条が目立ってしまいますが」

「かまわぬ」

 政子と実衣(みい)(宮澤エマ)が話しています。実衣は政子に近づき、声をひそめます。

「それより知ってる。侍女から聞いたんだけど、いまだに、あの二人、寝床(ねどこ)が別々なんですって。鎌倉殿と御台所(みだいどころ)」

「仲は良さそうだけど」

「このまま男の子が生まれなかったら、どうするの。側室のことも、考えに入れておいた方がいいかも」

「よしましょう」

 実朝の正室である千世(ちよ)(加藤小夏)は、夫と、貝合(かいあわせ)をして遊ぶ約束をしていました。しかし実朝は、体を休めたいといいだすのです。そこへ和田義盛横田栄司)がやってきます。打って変わった楽しそうな様子に、千世は打ちひしがれます。和田は自分を、上総介(かずさのすけ)にして欲しいと、頼みに来たのでした。御家人の柱になって欲しいと、皆にいわれているのだと話します。

「分かった。なんとかしよう」

 と、実朝は請(う)け合います。

 その頃、泰時は、実朝に宛てて書く、返歌について悩んでいました。泰時は和歌など書いたことがないのです。

 実朝は政子に話します。

「ぜひ、上総(かずさ)(現在の千葉県中部)の国司に、推挙(すいきょ)してやりたいのです」

 しかし政子はいいます。

「和田殿は、わたくしも好きですよ。でもね、政(まつりごと)というものは、身内だからとか、仲がいいとか、そんなこととは無縁な、もっと厳(おごそ)かなものだと思うのです」

 実朝は、声をうわずらせながら頭を下げます。

「ご無礼いたしました」

 実朝と入れ替わるように、政子のもとに八田知家市原隼人)がやって来ます。棚をつくことを頼まれていたのでした。八田はいいます。

「北条の方々のことですが。はっきり申し上げて、御家人たちは皆、苦々(にがにが)しく思っています。小四郎(義時)殿は相模守(さがみのかみ)、五郎(時房)(ときふさ)殿は武蔵守(むさしのかみ)。北条でなければ、国司にはなれぬのか」

 政子は義時と、このことについて話します。義時はいいます。

「それでもやらねばならんのです。二度と北条に刃向かう者を出さないために」

 政子は去ろうとする義時を呼び止めます。

「父上と母上の命を救ってくれたこと、感謝します。でも」

「むしろ殺していれば、御家人たちは恐れおののき、ひれ伏した。私の甘さです」

 義時は疲れたといって、泰時の所にやって来ます。泰時の幼なじみであり、従者である鶴丸(きづき)に、義時は声を掛けます。平盛綱(たいらのもりつな)という名を与え、今日の弓の技比べで成果を出せば、御家人にしてやると約束します。

 義時は、和田義盛を書庫に呼んでいました。

「上総介の件は忘れて欲しい」

 和田は抗議します。

「鎌倉殿は約束してくれたぜ」

「直(じか)に鎌倉殿にお願いするのも、これが最後だ」

 和田は立ち上がり、吐き捨てるようにいいます。

「変わっちまったよな。鎌倉も、お前も」

 和田は去って行きます。残された義時に、大江広元がいいます。

「絵に描いたような坂東武者」

「ずいぶん少なくなった」

「そしていずれはいなくなる。和田殿は、御家人の間で人気があります。慎重にかからねばなりませんな。和田には、三浦がついています」

 弓の技比べが始まります。泰時が的を割ったりして、大いに盛り上がります。最後に鶴丸が的を射貫(いぬ)きます。

 技比べが終わり、実朝と義時は二人きりになります。義時は、平盛綱と名を改(あらた)めた鶴丸を、御家人にしてやりたいと話します。

「それはならん」と、珍しく実朝が強くいいます。「分不相応(ぶんふそうおう)の取り立ては、災(わざわ)いを呼ぶ」

「あの者は、十分な働きをして参りました」

「一介(いっかい)の郎党を、御家人に取り立てるなど、あり得ぬ」実朝は義時に向き直ります。「和田義盛の上総介推挙を止めたのは、お前ではないか。守護の任期を定めたのも、御家人たちに勝手をさせぬためではなかったのか。お前らしくもない」

 義時は穏やかに話します。

「鎌倉殿のいうとおりにございます。忘れて下さい。さて、どうやら私はもう、いらぬようです。あとは、鎌倉殿のお好きなように進められるが良い。伊豆へ、引き下がらせていただきます」

 立ち去ろうとする義時を、実朝は呼び止めます。

「私が、間違えていた。その者を御家人に」

「鎌倉殿が一度口にしたことを翻(ひるがえ)しては、政(まつりごと)の大本(おおもと)が揺るぎます。私のやることに、口を挟(はさ)まれぬこと。鎌倉殿は、見守って下さればよろしい」

 夜、実朝は妻の千世といました。千世が話します。

「皆さん、世継ぎができないことを、心配されています。私に、そのお役目がかなわぬのなら、ぜひ、側室を」

 実朝はいいます。

「あなたが嫌いなわけではないのだ。嘘ではない」

「なら、どうして私から、お逃げになるのですか。私の何が気に入らないのですか」

 実朝は千世の手を取ります。

「初めて、人に打ち明ける。私には、世継ぎをつくることが、できないのだ。あなたのせいではない。私は、どうしても、そういう気持ちに、なれない。もっと早くいうべきだった。すまなく思うから、一緒にも居づらかった」

「ずっと、お一人で悩んでいらっしゃったのですね。話して下さり、嬉しゅうございました」

 と、千世は実朝を抱きしめるのでした。

 返歌について悩んでいる泰時の所に、都からやって来た源仲章(みなもとのなかあきら)(生田斗真)が通りかかります。歌の書かれた紙を取り上げます。

「これは、恋する気持ちを読んだものだ」

 と、説明します。

「そうなのですか」

 と、驚く泰時。

「春のかすみのせいで、はっきりと姿を見せない、桜の花のように、病でやつれたおのれの姿を見られたくはない。されど恋しい、あなたに会いたい。切なきは、恋心。どなたのお作で」

 泰時はすぐにその場を立ち去るのでした。

 泰時は実朝の所にやって来ていました。歌の紙を返します。

「鎌倉殿は間違えておられます。これは、恋の歌ではないのですか」

「そうであった。間違えて、渡してしまったようだ」

 と、実朝は泰時の持ってきた紙を受け取り、別の歌を渡すのです。実朝は歌を詠んで聞かせます。それは打ち寄せる波が砕け散ったという内容でした。

 和田と三浦は、鍋を囲んでいました。和田がうめくようにいいます。

「どうも気に入らん。小四郎の奴、親父(おやじ)を追い出した途端にやりたい放題。俺たち古株の御家人をないがしろにしたら、痛い目に遭(あ)うってことを、思い知らせてやろうぜ」

 建永元年(1206)九月二十二日。出家して、公暁(こうぎょう)(寛一郎)と名を変えた善哉が、京へ上ります。戻ったら、鶴岡八幡宮別当(べっとう)になることになっていました。

 公暁が戻って来たとき、鎌倉最大の悲劇が、幕を開けることになるのです。それはこの時から六年後になります。

 

大河ドラマウォッチ「鎌倉殿の13人」 第38回 時を継ぐ者

 北条時政坂東彌十郎)が、源実朝(さねとも)(柿澤勇人)にいいます。

「鎌倉殿(実朝)の起請文(きしょうもん)がねえと、じいは死ななくちゃならねえんです」

 和田義盛横田栄司)が、無理矢理、二人のいる部屋に入っていきます。刀を抜いている時政にいいます。

「何をされておる。仔細(しさい)はわからねえが、このお方に刃(やいば)を向けるなんてとんでもねえ」

 時政が和田にいいます。

「鎌倉殿が起請文を書いてくれねえんじゃ」

 和田は実朝を振り返ります。

「書いちゃいなさい。起請文なんて、あとで破いちまえばいいんですから」

 和田の乱入によって、場の空気は乱れ、時政もそれ以上強要できなくなります。

 時政の館はすでに包囲されていました。

 自室に引き上げた時政に、りく(宮沢りえ)がいいます。

「鎌倉殿に、囲みを解くようにいわせて下さい。早く」

「しかし」

「痛い思いをさせればあの子だって。ためらっている場合ですか。鎌倉殿を引き渡せば、攻め込まれて終わりです。生き延びるためです」

 外の囲みでは、時房(瀬戸康史)が義時(小栗旬)に訴えています。

「私が行って、父上と話してきましょうか」

 義時は時房の訴えを即座に退けます。

「平六(三浦義村)が父上を説き伏せる」

「父上はこれからどうなるのです」

「このようなことをしでかして、許すわけにはいかん」

 これに抗議する泰時(やすとき)(坂口健太郎)に対して、八田知家市原隼人)がいいます。

「いいかげん分かってやれ、このお人は、今まで何人も御家人を謀反の科(とが)で殺してきた。親だからと許したらどうなる。御家人すべてを敵に回すことになるんだよ」八田は義時に向かいます。「構うことはねえ。首、はねちまえ」

 義時は八田から目をそらします。

「まずは鎌倉殿をお助けする。それからだ」

 一人、暗い部屋にいる時政に、三浦義村山本耕史)が話しかけます。

「館(やかた)は、すっかり囲まれています。実は、私は小四郎(義時)に頼まれてここにいます」

 時政はいいます。

「頼みがある」

 時政は、りく、に話します。

「お前は鎌倉を離れろ。京に(平賀)朝雅(ともまさ)と、菊がおる。奴らを頼れ」

「しい様(時政)は」

「ここに残る」

「嫌です」

「鎌倉殿のお側におれば、外の奴らは手出しできん。平六が連れて行ってくれる。お前が無事、逃げ延びたら、わしは鎌倉殿を引き渡し、降参する。小四郎は親思いじゃ。頭丸めて、手ぇついて謝ったら、きっと許してくれるさ」時政は、りく、に近づきます。「ほとぼりが冷めれば、また会える日も来る」時政は三浦を振り返ります。「平六、あとは頼んだ」

 三浦は頭を下げます。

「りく殿のことは、お任せ下さい」

 門が開き、三浦が包囲する者たちの前に姿を現します。

「執権殿は」

 と、義時が聞きます。三浦が答えます。

「あれを説き伏せるのは骨だぜ。りく、さんも親父さんの横で、石みたいに動かない」

 義時は三浦が連れている、館の使用人や女中たちに声を掛けます。

「怖い思いをさせて悪かった。事が片付くまで、館の外で待っていてくれ」

 三浦が女中たちを連れて行きます。その中に、りく、が紛れていたのです。

 りく、は北条政子小池栄子)の所に来ていました。政子に深々と頭を下げます。

「どうか頭をお上げ下さい」

 と、政子がいいます。

「夫は、死ぬつもりでいます」ひれ伏したまま、りく、がいいます。「このようなことになってしまって。事を収めるには、みずから命を断つよりないと思っています。こたびのこと、たくらんだのはすべて私。四郎殿(時政)は、私の言葉に従っただけ。悪いのは、私です」

 政子は立ち上がり、去っていきます。

 義時が包囲している場所に、政子がやって来ます。

「父上を助けてあげて」

 と、義時にいいます。

「鎌倉殿をお助けしたら、すぐに攻め込みます」

 と、義時はいい放ちます。

 館の中では、時政がつぶやくようにいいます。

「頃合いかな」実朝に近づいて頭を下げます。「鎌倉殿。このたびは無理強(むりじ)いをしてしまい、申し訳なく存じまする。鎌倉殿の芯(しん)の強さ、感服いたしました。いずれは、頼朝様を越える、鎌倉殿となられます」時政は和田にいいます。「お連れしろ」

 実朝が問います。

「じいは来ないのか」

「ここでお別れでござる」

「来てくれ」

 時政はゆっくりと首を振ります。実朝を連れて出ようとする和田に、時政がいいます。

「小四郎に伝えてくれ。あとは託(たく)したと。北条を、鎌倉を引っ張っていくのは、お前だと」

 門が開き、義時たちの前に実朝が現れます。

「執権殿は」

 と、義時は和田に聞きます。

「覚悟を決めておられる」

「何かを申されていたか」

「小四郎に伝えてくれといわれた」

 しかしその内容を、和田は忘れてしまったのです。実朝が代わりにいいます。

「あとは託した。北条と鎌倉を、引っ張っていけ」

 実朝と和田は去って行きます。攻め込もうとする義時に政子が訴えます。

「子が親を殺すような事だけはあってはなりませぬ。それだけは」

「政(まつりごと)に、私情をはさむことはできません。尼御台(あまみだい)」

「わたくしは娘(むすめ)として、父の命乞いをしているのです」政子は義時の背後にいる御家人たちにひれ伏します。「方々(かたがた)、どうか父をお許し下さい」

 御家人たちもひれ伏して応えるのでした。

 館の中で、時政が脇差しを抜いていました。自分の首に刃を当てます。それをおさえる者がいました。八田知家です。

「息子でなくて、悪かったな」 

 との一言を述べます。

 翌朝、泰時が妻の初(福地桃子)にいいます。時政と、りく、は別々に押し込められている。沙汰はまもなく出る。

「出家ですむんでしょ」

 と、初がいいます。

「父上のことだ。口ではああいっておきながらも、裏から手を回す事だってあり得る」

「考えすぎ」

「父の怖さを知らないんだ。そもそも父は、じさまを討ち取ろうとしていたんだ」

 結局、時政の処分は、伊豆に流されることに決まります。

 義時は、それを伝えるために、囚(とら)われの時政に会いに行きます。

「生まれ育った地で、ごゆっくり残りの人生をお過ごし下さい」

「りく、はどうなる」

「共に伊豆へ」

「あれがいれば、わしはそれだけでいい。よう骨を折ってくれたな」

「私は首をはねられても、やむなしと思っていました。感謝するなら、鎌倉殿や文官の方々に」義時は顔を上げます。「父上。小四郎は、無念にございます。父上には、この先もずっとそばにいて欲しかった。頼朝様がおつくりになられた鎌倉を、父上と共に守っていきたかった。父上の背中を見て、ここまでやって参りました。父上は、常に私の前にいた。私は父上」

 義時は言葉が続けられません。

「もういい」

 と、時政がいいます。

「今生(こんじょう)のお別れにございます。父が世を去るとき、私はそばにいられません。父の手を、握ってやることができません。あなたがその機会を奪った。お恨み申し上げます」

 元久(げんきゅう)二年(1204)、閏(うるう)七月二十日。初代執権、北条時政が鎌倉を去ります。彼が戻ってくることは二度とありませんでした。

 捕われた、りく、の部屋に女中が入って来ます。善児に育てられた、暗殺者のトウが変装した姿でした。三浦義村がそれを見抜き、トウを追い払うのでした。

 義時は、りく、に会いに行きます。

「これより、伊豆に向かっていただきます」 

 りく、はふてぶてしくいってのけます。

「都でなければ、鎌倉であろうが、伊豆であろうが、私には同じこと。私を殺そうとしたでしょ。安心なさい。私はもう、あなたのお父上を焚きつけたりしないわ」

 義時は京にいる御家人たちに、平賀智雅(ひらがのともまさ)を殺すよう命じます。罪状は、実朝に成り代わり、鎌倉殿の座を狙ったこと、でした。

 義時は御家人たちを前に宣言します。

「これより、この北条義時は、執権時政に代わり、鎌倉の政(まつりごと)を取り仕切る」

『映画に溺れて』第523回 シャーロック・ホームズ シークレット・ウェポン

第523回 シャーロック・ホームズ シークレット・ウェポン

平成二十七年十一月(2015)
曳舟 すみだ生涯学習センター

 

 ベイジル・ラスボーンといえば、シャーロック・ホームズである。
 南アフリカ生まれの英国人で、ロンドンで俳優修業、アメリカに渡ってブロードウェイに出演した後、トーキー初期の映画で活躍、一九三九年に20世紀フォックスの『バスカヴィル家の犬』と『シャーロック・ホームズの冒険』でホームズを演じ、一九四二年から四六年にかけてユニバーサルで十二本のホームズ映画に主演した。細面の鋭い容貌はまさにホームズそのものである。
 フォックスの二本のうち、『バスカヴィル家の犬』はコナン・ドイルの原作を脚色。『シャーロック・ホームズの冒険』は映画独自のストーリーで、ホームズが悪の天才モリアーティと対決する。いずれも十九世紀末のヴィクトリア朝が舞台である。
 それに対してユニバーサルの十二本は一九四〇年代が背景になっており、ナチスドイツとの戦争にホームズとワトスンが駆り出されたりもする。
 残念なことにラスボーンのホームズ映画は日米開戦の影響で、わが国では封切られず、戦後も劇場未公開のままだった。今世紀に入って、私が映画館で観ることができたのは、渋谷のシネマヴェーラでの三作、また墨田区生涯学習センターでの十六ミリフィルム上映会で二作、全十四作のうち都合五作を鑑賞できたのは僥倖である。
 一九四二年の『シークレット・ウェポン』はまさにドイツとの大戦の最中に作られた一種プロパガンダ映画で、スイスの科学者が発明した高性能の照準器をめぐり、ホームズがドイツスパイを出し抜くが、ドイツ側に金で雇われたモリアーティ教授に科学者を拉致され、その行方を探るというもの。コナン・ドイル原作とはあまり関連はないが、失踪する直前に科学者がホームズに書き残した手紙が踊る人形の暗号文になっている。

 

シャーロック・ホームズ シークレット・ウェポン/Sherlock Holmes and the Secret Weapon
1942 アメリカ/未公開
監督:ロイ・ウィリアム・ニール
出演:ベイジル・ラスボーン、ナイジェル・ブルース、ライオネル・アトウィル、カーレン・ヴァーン、ウィリアム・ポスト・ジュニア、デニス・ホーイ

 

『映画に溺れて』第522回 ヤング・シャーロック ピラミッドの謎

第522回 ヤング・シャーロック ピラミッドの謎

昭和六十一年三月(1986)
新宿 新宿ピカデリー

 

 イアン・マッケラン主演『Mr.ホームズ 名探偵最後の事件』は老後のシャーロック・ホームズを描いているが、それとは逆に、まだ世に出る前の少年ホームズが活躍するミステリが『ヤング・シャーロック ピラミッドの謎』である。
 地方からロンドンの寄宿学校に転校したばかりのワトスンは、同室の背の高い少年に挨拶し、名乗ろうとすると、彼は遮る。
「僕が当てよう。君の名前はジェームズ・ワトスン、父親は医者、君は医者志望。そして甘いお菓子が大好きだ」
 ワトスンは驚く。どうしてわかったの。名前はジョン・ワトスンだが、それ以外は当たっている。
「鞄にJ・ワトスンの名札。Jはたいていジェームズかジョンだ」
 次々に種明かしする少年はシャーロック・ホームズと名乗る。ワトスンはこの風変りな少年と仲良くなる。
 その頃、ロンドンで奇妙な変死事件が続く。恐怖の幻覚を見て、二階の窓から飛び降りたり、走る馬車に飛び込んでひかれたり。ホームズ少年はロンドン警視庁の若い刑事レストレードに会い、捜査を勧めるが、一笑にふされる。
 敬愛する引退した老教授がやはり幻覚のせいで自死し、ホームズはワトスンとともに邪悪な陰謀の謎に挑む。
 この映画の本編終了後のエンドクレジットがやたら長くて、途中退席する観客が多かった。スタッフやキャストの名前がえんえんと続く間、雪道を馬車が走る映像が流れる。そして……。途中で映画館を出たお客さんは最後のおまけを見られずに残念でした。
 ホームズ少年を演じたニコラス・ロウは後に『Mr.ホームズ 名探偵最後の事件』にちらっと出演している。どこで出てくるか、見つけるのも映画の楽しみである。

 

ヤング・シャーロック ピラミッドの謎/Young Sherlock Holmes
1985 アメリカ/公開1986
監督:    バリー・レヴィンソン
出演:ニコラス・ロウ、アラン・コックス、ソフィー・ワード、アンソニー・ヒギンズ、スーザン・フリートウッド、フレディ・ジョーンズ、ナイジェル・ストック、ロジャー・アシュトン=グリフィス

 

大河ドラマウォッチ「鎌倉殿の13人」 第37回 オンベレブンビンバ

 書庫で、義時(小栗旬)たちが、訴訟について話し合っていました。そこへ北条時政坂東彌十郎)がやって来ます。

「なぜわしを評議に呼ばん」

 義時が答えます。

「私が呼ばなくて良いと申しました」

「訴訟は鎌倉殿に代わって、執権(しっけん)のわしが裁く。そうじゃねえのか」

「これは、執権殿あての訴えではございませぬゆえ」

「なんだと」

「これも、これも、これも」

 三善信康(小林隆)が言葉を継ぎます。

「すべて尼御台(あまみだい)(北条政子)あてに届いたものにございます。先の恩賞の沙汰を尼御台が行ってから皆、政(まつりごと)の仕組みが変わったと、悟ったようです」

 大江広元栗原英雄)もいいます。

「このこと、すでに鎌倉殿もお認めにございます」

 時政は立ち上がります。

「勝手にせい」

 時政は妻の、りく(宮沢りえ)と話します。りくが興奮していいます。

「実の父をないがしろにするとは何事(なにごと)ですか。しい様(時政)は執権ですよ。何様(なにさま)のつもり」

「わしを厄介払(やっかいばら)いしたいらしい」

「しい様。小四郎(義時)を許してはなりません。あの者たちに思い知らせてやりましょう」

「ああ」

「正念場(しょうねんば)でございます」

「これから話すこと、心してお聞き下さい。実朝(さねとも)様には、鎌倉殿を降(お)りていただきます」

「何」

 と、さすがの時政も声をあげます。りく、は続けます。

「そして、わが婿殿(むこどの)に、跡を継いでもらうのです」

「平賀(ひらが)殿に」

「あのお方も源氏の血筋、何もおかしなことはありませぬ」りく、は時政に近づきます。「政子から力を奪い取ってしまうのです。そして、平賀殿の跡は、菊が生んだ子が継ぐ。そうすれば、私たちは鎌倉殿の祖父と祖母」

「そうなるな」

「成り行きによっては、政子と小四郎(義時)を討つことになるやも知れません。その覚悟はおありですね。向こうも同じことを考えているかも知れないのですよ。きっと、政範(まさのり)の魂が見守ってくれています。志(こころざし)半(なか)ばでこの世を去ったあの子のためにも、何としても成し遂げて下さいませ」

 時政はまず、三浦義村山本耕史)を味方につけようとします。

「実朝(さねとも)は鎌倉殿には向いておらん。おとなしすぎてあれでは、まわりのものが調子に乗るばかりじゃ」

 三浦がいいます。

「威勢が良すぎて、つぶれていったお方もおりますが」

「力になってくれんか」

 と、親しげに時政は三浦のそばにしゃがみます。りくがいいます。

「実朝様を引きずり下ろし、平賀殿を鎌倉殿に」

 京にいる平賀朝雅(ひらがのともまさ)(山中崇)は、ある僧に打ち明けます。

「昨日(きのう)、執権殿より文(ふみ)が届いた。こんな時にわしは、鎌倉殿などなりとうない。恐ろし過ぎるわ。乗るわけがなかろう。鎌倉でこの先、何が起こるか全く読めん。ひとつ手を間違えると、命取りぞ」

 鎌倉では実朝が、気晴らしに、和田義盛横田栄司)の館を訪ねていました。

 時政は三浦義村を呼び出しています。

「今宵(こよい)、鎌倉殿の身柄を、この館へお移しする。御所では人目があるゆえ、こちらにて、出家する旨(むね)の起請文(きしょうもん)を書いていただく。しかるのち、平賀朝雅殿を新しき鎌倉殿とする。さすればもはや政子も小四郎(義時)も、政(まつりごと)には口を出せん」

 三浦が帰った後、りく、が浮かれた様子で、時政に話します。

「あとは鎌倉殿を、こちらへお迎えし、一筆書かせれば万事めでたし。あなたを軽んじた者たちの、慌てふためく顔が目に浮かびます。ようやく鎌倉があなたのものに」りく、は時政の前に座ります。「浮かぬ顔の訳を聞かせて下さいな」

「そう見えたか」

「まさかこの後に及んで、怖(お)じ気(け)づいたとはいわせませんよ」

「とっくに腹はくくっておる。りく、わしゃのう、望むものはもうない」

「何を申されます」

「わしにとって一番の宝はお前じゃ。お前の喜ぶ顔をそばで見られたらそれで満足。あとは何もいらん」

「だったら、もっと、りくを喜ばせて下さいな。りくは強欲にございます」

「よう分かった」

 時政はりくを抱きしめるのでした。

 義時は、三浦から、事の次第を聞かされます。

「父上も愚かなことを考えたものだ」

 三浦がいいます。

「どうせあのおなごの手引きだろう」

「それにしても、平賀殿というのは」

「正気の沙汰ではない」

「よくまた裏切ってくれたな、平六(三浦義村)。礼をいう」義時は三浦に向き直ります。「このこと、私は知らなかったことにする。お前はそのまま、父上にいわれたとおりに」

「わかった」

 義時は、このことを政子に伝えます。政子は興奮していいます。

「これはもう謀反ではないですか。あり得ない。今すぐやめさせて」

 義時がいいます。

「父上には、誰の目にも明(あき)らかな謀反を起こしてもらわなければなりません。さもなくば、われらが信(しん)を失います。それゆえ、しばらく泳がせておくことに」

「鎌倉殿が危ない目にあうことはないでしょうね」

 そこへ陽気な様子で、時政がやってくるのです。手には酒を持っています。北条の一族がそろいます。大姫の唱えていた呪文などを思い出し、一同は笑いあうのです。

 和田の館に遊びに来ていた実朝に、鎧を着た家人と共にやって来た三浦義村が述べます。

「この先は三浦がお連れいたします」

 実朝は困惑します。

「どういうことだ」

 三浦は答えます。

「執権殿がひどく心配されております。参りましょう」

 実朝は三浦に従うのでした。

 実朝と共にいた八田知家市原隼人)が、義時に報告します。

「一行は、御所へは戻らず、別の方角へ消えていった」

 義時はその方角を当てて見せます。そちらに時政の館があったのです。

「兵を出す」

 と、義時はいいます。

 時政は実朝を上座に置いて頭を下げます。

「わが北条館(やかた)へ、ようこそお越し下さいました」

 実朝がたずねます。

「これは、どういうことか」

 義時の所へ時房(瀬戸康史)がやって来て述べます。

「三浦から知らせが。鎌倉殿は、北条館で、父上に押し込められているご様子」

 政子がいいます。

「こんな企(くわだ)て、無謀すぎますよ。なぜ父上はそのことに気付かないのでしょう」

 義時がいいます。

「父上は気付いておられます。昼間、なにゆえ父上が皆を集めたとお思いですか」

 政子がつぶやくようにいいます。

「お別れをいいたかったんでしょう。事と次第(しだい)によっては、わたくしたちを殺すつもりなのではないかしら」

 義時が首を振ります。

「逆です。父上は、この企てがうまくいかないことを、見越しておられる。りく殿のいうとおりにすれば、必ず行き詰まる。しかし、父上はあえてその道を選ばれた」

 時政は実朝の前に紙を置きます。実朝はいいます。

「書くことは、できぬ」

 時政は実朝に近づきます。

「お願いいたしまする」

 その頃、義時は立ち上がって皆に叫んでいました。

「執権北条時政謀反。これより討ち取る」

 政子が義時に追いすがります。

「命だけは助けてあげて」

「それをすれば、北条は身内に甘いと、日の本中から誹(そし)りを受けます。こたびの父上の振るまい、決して許すわけにはいきませぬ」

 時政は、実朝に頭を下げていました。

「お願いでございます。鎌倉殿の起請文(きしょうもん)がねえと、じいは死ななくちゃならねえんです」

 実朝はついに筆をとります。何と書けば、と時政に聞きます。時政はいいます。

「すみやかに出家し、鎌倉殿の座を、平賀朝雅殿に譲(ゆず)る」

 実朝は筆を上げます。

「小四郎と相談したい。母上にも会わせて欲しい」

「なりません」

「ならば書けん」

 時政は立ち上がります。刀を鞘から抜くのです。

 

書評『武蔵 残日の剣』

書名『武蔵 残日の剣』               
著者 稲葉 稔
発売 角川書店
発行年月日  2022年8月26日
定価  ¥2000E

 

 

 六十余回戦って負けたことがない「古今無双の武芸者・剣豪」といわれる武蔵。武蔵は全国各地を転々としており、その兵法修業の足跡が全国各地に残っているが、出生地、生年ですら諸説入り乱れており、その真の姿は意外に知られていない。
 武蔵についてこれまで多くの小説が書かれてきた。吉川英治の『宮本武蔵』に代表されるように、幼年期から巌流島の決闘までを描く作品が圧倒的に多いが、稲葉稔の本作は武蔵の生涯を、本能寺の変の2年後の天正12年(1584)に生まれ、島原の乱の8年後の正保2年(1645)に死去したとして、特に晩年の武蔵を活写したものである。一乗下り松での吉岡一門や巌流島での佐々木小次郎との決闘などは晩年の武蔵の「回想」、あるいは「夢」という形式で作中に再現されている。

 有名な巌流島の決闘について――。そもそも、二人はいったいなんのために戦ったのか疑問が残る。「果し合い」「御前試合」「大名への仕官を目指したもの」とする説もあるが、本作の解釈はシンプルである。「巌流島」を「巌流小次郎(がんりゅうこじろう)との舟島(ふなしま)(巌流島)」とし、「己の剣こそ天下無双である」という自負がある武蔵は「天下一の兵法こそ巌流である」と喧伝する小次郎が許せず、小次郎を徴発、試合をけしかけたとする。武蔵は29歳と明記されるが、小次郎の年齢は不記。小次郎の姓は佐々木とされるのが一般的だが、佐々木という姓も記されず、「巌流(がんりゅう)小次郎(こじろう)」とある。
 実は、武蔵以上に小次郎は謎に包まれている人物であり、決闘当時、小次郎が何歳だったか、また、実名さえも定かではない。作家はこうした実情を踏まえ、俗説、異説を選り分け、踏み込んだ解釈のもと妥当と思しき仮説を積み上げて繋ぎ、書き上げていることが「舟(ふな)島(しま)の決闘」の描写だけでもわかる。

 ここで、武蔵の生涯に起きた歴史的事件と武蔵の年齢との関りを整理しておきたい。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い――。17歳の武蔵は西軍の宇喜多秀家(あるいは黒田長政とも)配下の足軽として参戦、西軍の敗北で命からがら戦場を脱した。 
 慶長19年(1614)の大坂冬の陣、翌年の大坂の夏の陣――。武蔵31から32歳にかけておこった戦乱において、風雲に乗じて一国一城の夢を抱いていたに違いない武蔵は大坂城の牢人募集に応じて入城したと設定することが多いが、一方、等しく「牢人」ではあるが、武蔵は豊臣方ではなく、徳川方の三河苅屋水野勝成(家康の従兄弟)の手勢に「牢人」として加わっていたとする説もある。
 慶長9年(1604)21歳の武蔵が吉岡清十郎を倒し、名声をとどろかすことになる吉岡一門との決闘、慶長17年(1612)の29歳時の「舟島」は関ヶ原の戦い大坂の陣の間のできごとである。

 物語のスタートは寛永15年(1638)の天草・島原の乱である。
すでに55歳の武蔵はこの時、中津藩小笠原信濃守長次の「軍監」として島原入りし長次の側にいた。長次の叔父の小倉藩主小笠原忠(ただ)真(ざね)の「客分」として仕えた武蔵は小笠原忠真の要請に応じた(12頁)。
 幾たびも死地を潜り抜けた武蔵は一揆勢の立て籠もる原城(はらじょう)を見つめて、「徳川の世になって、これがほんとうに最後の戦いかもしれぬ」と観る。
陸海両面から包囲し3カ月以上にわたり原城兵糧攻めする幕府軍(討伐軍)は総勢12万。徹底抗戦を厭わない2万数千人の籠城勢(一揆勢)に勝ち目はない。武蔵は一揆勢が帰伏することを願っていた。
 幕府軍による掃討戦。原城内の地獄絵図。胸の前で十字を切り、死を恐れることなく受け入れた女子供たち。「おのれは喜んで殺され死んでいく百姓や女子供たちに負けたのではないか……」。武蔵にとって天草・島原の乱は「天下一の武芸者だと自負して生きてきたおのれの生き方をあらためて考えるとき」(37頁)となったのである。
 寛永17年(1640)  武蔵57歳。島原の乱が終わり、武蔵は小倉に戻っている。小倉藩小笠原忠真の客分となって6年になるが、武蔵は忠真に召し抱かれることは望まなかった。青年時代には、大藩に破格の禄をもって召し抱えられたいという思いがあったが、「若いころの野望は消え失せていた」(43頁)。諸国を渡り歩いてきた武蔵にとって長すぎる逗留であった(48頁)。伊織を頼りその傍にいれば何の不自由のない余生を送れるはずだが、それでは己の信念が死ぬと考えた。武蔵はあくまでも武芸一辺倒の男。武芸者として生き抜くのだという意地があった。(74頁)
 この年、六十に近い老境の武蔵は肥後熊本54万石の細川家の当主・細川(ほそかわ)忠(ただ)利(とし)の招きで「客分」として迎えられる。客分とは主従関係を持つ「家臣」でないが、武蔵は藩の単なる剣術指南役ではなく藩政に関わる顧問役の立場で、最晩年の5年間を熊本で過ごすことになる。
 熊本藩細川家の当主の細川忠利は細川幽斎(ゆうさい)の孫、忠(ただ)興(おき)の子である。忠利は武蔵の養子伊織が国家老を務めている小倉藩小笠原忠真(家康の外孫)から「面白い男がいる」と聞かされる(64頁)

 武蔵の人脈というべきであろうか、細川・小笠原両大名家の繋がりが面白い。小笠原忠真の妹は細川忠利の妻であった。加えて、ここに、小倉藩細川家の重臣・長岡佐渡守興長(おきなが)が再登場する。父無二斎の門人で、島で小次郎との試合の仲介をなしてくれた興長が「自分を過剰とも思えるほどもてなしてくれた真意」ひいては「舟島」の隠された真相があきらかになる(139頁)
 忠利は柳生新陰流免許皆伝、剣の達人。将軍家兵法指南役・柳生宗矩より秘伝書『兵法家伝書』を授与されている。細川家にはすでに柳生新陰流の氏井弥四郎なる剣術指南役がいるが、武蔵の技に感服した忠利は自ら二天一流の稽古をするようになる。
 武蔵の晩年を描いた作品は加藤廣の『求天記 宮本武蔵正伝』(2010年)など他にもあるが、稲葉の独創は武蔵と藩主忠利との親密な交流を克明に描き、武蔵にとって「2歳年下の名君」である忠利は武蔵の人生において唯一「友」「心の友」と呼べる人だった(193頁) としていることである。

 武蔵が静かな余生に入ったかと思いきや、読みすすめる読者の前に、将軍家兵法指南役・柳生宗矩の子である柳生十兵衛が登場し、予想もしない展開となる(206頁)のは興趣深い。十兵衛は、細川家が天下の柳生新陰流から武蔵の二天一流に鞍替えしたことは柳生の恥であると受け止め、武蔵が書きあげようとしている兵法書は「まやかしの兵法書」であり、世に残すべき兵法書は柳生家の『兵法家伝書』と『月之妙』であると激高し、武蔵暗殺のための刺客を放つ(292頁)。
 本作はまた、熊本城の西方に在る谷尾崎村の百姓の娘・清(きよ)の物語でもある。
 細川藩は武蔵の熊本滞在中の居住地として、城下の近くの千葉城址の空き屋敷300坪を武蔵に与える。清は細川家の重臣浅山修理亮に奉公する屋敷女中であったが、
武蔵を世話する女手として、千葉城址の武蔵屋敷に出向く。武蔵との穏やかな交流を通じて、暗い過去を持つ清がやがて武蔵を「父様」とも慕うことになる。
 武蔵は「一生妻を娶らず、生涯女を知らず」とする俗説もある。また、晩年肥後熊本に滞在していた頃、子どもを作ったとも伝えられているが、清の物語は作家によるこころ和む武蔵と女の物語である。
 ここには吉川英治の『宮本武蔵』のような、「悟り」を開くべく禁欲的で刻苦奮闘する武蔵、孤高に生きた剣聖とされてきた武蔵ではなく、青年期には一国一城の主を夢見たが、晩年にはほほえましいまでに頑なにわが道を行くべく肥後熊本を安住の地、終の棲家とした武蔵、これまで他の作家誰もが書いていない武蔵がある。

 稲葉稔は武蔵ゆかりの熊本県宇城市豊野町の出身。1955年生まれ。「文庫書き下ろし時代小説シリーズ」の『隠密船頭』『浪人奉行』でなじみ深い作家であるが、時代小説と歴史小説の類まれなる「二刀流」の使い手であることを読者は思い知った。

 

                (令和4年10月7日  雨宮由希夫 記)    

 

大河ドラマウォッチ「鎌倉殿の13人」 第36回 武士の鑑(かがみ)

 三浦義村山本耕史)が、北条時政坂東彌十郎)にいいます。たい

「畠山追討の、御下文(おんくだしぶみ)、拝見しました」

 時政はうなずきます。

「これよりすべての御家人に送る」

「驚きました。なにゆえ畠山が鎌倉殿に反旗を」

「よう分からん。しかしあいつは今、武蔵で兵を整えておる。鎌倉殿をお守りするため、これより畠山一族を滅ぼす」

 時政は手はずを述べます。畠山の息子の重保(杉田雷鱗)を、由比ヶ浜に誘い出す。三浦は待ち伏せして、それを捕える。息子を人質に取られれば、畠山重忠中川大志)も観念するだろう。

 義時(小栗旬)は、弟の時房(瀬戸康史)を怒鳴りつけます。

「では、鎌倉殿はすでに畠山追討を、命じられたのか。どうしてそういうことになる」

 時房はいいます。

「父上に押し切られたようで」

「次郎(畠山重忠)には、いくさをする気などない」

 畠山重忠はすでに鎌倉に向かっていました。義時に、鎌倉殿と話をするようにと、説き伏せられたのです。

 由比ヶ浜で、三浦義村は、畠山重保を捕えようとします。しかし抵抗されて殺してしまうのです。畠山重忠は、二股川の向こうに留まりました。そのまま進めば、すぐに鎌倉へ入れます。息子の死を知ったようでした。時政の妻の、りく(宮沢りえ)がいいます。

「すぐに兵を差し向けなさい」

 義時は従いません。

「様子を見るべきです。このまま所領へ戻れば、兵を整え、いくさに応じるということ。しかしそうでなければ……」

 りく、は義時の言葉をさえぎります。

「そこまで来ているのですよ。すぐに兵を出しなさい」

 三浦義村がいいます。

「もしこのまま鎌倉に進めば、戦うつもりはないということだな」

 義時が答えます。

「戦うには手勢が少なすぎる」

 和田義盛横田栄司)が発言します。

「向こうが、いくさをする気がねえのなら、戦ってもしょうがねえぞ、これは」

 りく、が強くいいます。

「畠山は謀反人ですよ」

 今まで黙っていた時房が口を切ります。

「母上。政範を失った無念はお察しします。だからといって、すべてを畠山殿に押しつけようというのは良くない」

 りく、は時房に食ってかかります。

「そんなに私が憎いですか。憎いからそうやって、畠山の肩を持つ。政範がああいうことになって、いい気味だと腹の底で笑っているのだ」

 そこへ畠山の手勢が、鶴ヶ峰に陣を敷いたとの知らせが入ります。鶴ヶ峰は敵を迎え撃つには絶好の高台です。三浦がいいます。

「今の手勢で戦うつもりか。腹をくくったようだな」

 和田がいいます。

「あいつは死ぬ気だ」

 りく、が皆を見回します。

「だったら、望みを叶えてあげましょう」

 ここに至って時政が、りくに怒声を放つのです。

「それ以上、口をはさむな」時政は声を落とします。「腹をくくった兵が、どれだけ強いか、お前は知らんのだ」

 三浦がいいます。

「こっちも本腰を入れるしかなさそうだな」

 義時が時政の前に進み出ます。

「お願いがございます。私を、大将にしてはいただけないでしょうか」

 時政はうなずくのでした。

 北条政子小池栄子)は、鎧(よろい)を身につけた義時と話します。

「畠山殿は、本当に謀反をたくらんでいたのですか」

 義時はうめくようにいいます。

「父上がいっているに過ぎません」

「だったら」

「しかし、執権(しっけん)殿がそう申される以上、従うしかない。姉上、いずれ、腹を決めていただくことになるかもしれません」

「どういうことですか」

「政(まつりごと)を正しく導くことのできぬ者が上に立つ。あってはならないことです。その時は、誰かが正さねばなりません」

「何を考えているの。何をする気」

「これまでと同じことをするだけです」

 義時の陣では、軍議が行われていました。畠山は見通しの良い丘の上にいます。攻め手の動きは丸見えです。和田義盛がいいます。

「次郎(畠山重忠)は、はなから逃げるつもりなんてない。暴れるだけ暴れて名を残す気なんだよ。死を怖れない兵は怖えぞ」

 義時が立ち上がります。

「まずは次郎に会って、矛(ほこ)を収(おさ)めさせる」

 三浦がいいます。

「収めるかな」

 義時が言葉に力を込めます。

「望みは捨てん」

 その役目を、和田義盛が買って出ます。

 和田が畠山の陣にやって来ます。親しげに話します。

「お前もさ、いい歳なんだから、やけになってどうする」

 畠山がいいます。

「やけではない。筋を通すだけです。今の鎌倉は、北条のやりたい放題。武蔵をわが物とし、息子には身に覚えのない罪を着せ、だまし討ちにした。私も小四郎(義時)殿の言葉を信じて、このざまだ」畠山は立ち上がって叫びます。「いくさなど誰がしたいと思うか」そして和田を振り返ります。「ここで退けば、畠山は北条に屈した臆病者として、そしりを受けます。最後の一人になるので戦いぬき、畠山の名を、歴史に刻むことにいたしました」

 和田が訴えます。

「もうちょっと生きようぜ。楽しいこともあるぞ」

「もはや、今の鎌倉で生きるつもりはない。命を惜しんで泥水をすすっては、末代までの恥」

 和田も説得をあきらめます。

「その心意気、あっぱれ。あとは正々堂々、いくさで決着をつけよう」

「手加減抜きで」

「武士なら当然よ」

 和田義盛が義時の陣に帰ってきます。義時は皆に宣言します。

「これより謀反人、畠山次郎重忠(はたけやまのじろうしげただ)。討ち取る」

 両軍が対峙(たいじ)します。畠山重忠が、かぶら矢を放ち、戦闘が開始されます。

 畠山は義時の息子、泰時(坂口健太郎)に狙いをつけます。一騎、義時がそこに駆けつけるのです。畠山と義時は激しい戦いを繰り広げます。義時は馬上の畠山に飛びつき、地面にひきずり下ろします。刀も失い、両者は取っ組み合いになります。ついに畠山が馬乗りになり、義時に脇差しを突きつけます。しかし畠山は義時を殺しません。畠山は騎乗し、戦場を抜けていきます。顔に満足げな笑顔を浮かべていました。

 いくさは夕方には終わりました。時政が鎌倉殿である、源実朝(みなもとのさねとも)(柿澤勇人)に報告します。

畠山重忠の謀反、無事、鎮(しず)め申した」

 実朝が聞きます。

「重忠は」

 北条時房が報告します。手負いの所を討ち取られた。まもなく首がこちらに届く。実朝は精一杯の声を出します。

「ご苦労であった」

 義時は、父の時政の前に畠山の首桶を置きます。うめくようにいいます。

「次郎(畠山)は、決して逃げようとしなかった。逃げるいわれがなかったからです。所領に戻って、兵を集めることもしなかった。戦ういわれがなかったからです」

「もういい」

 と、時政が立ち上がります。義時は声を強めます。

「次郎がしたのは、ただ、おのれの誇りを守ることのみ」義時は首桶を持って時政に近づきます。「あらためていただきたい。あなたの目で。執権を続けていくのであれば、あなたは見るべきだ。父上」

 時政は行ってしまうのでした。

 義時は大江広元栗原英雄)にいわれます。時政が強引すぎた。御家人たちのほとんどは、畠山に非がなかったことを察している。どうすれば良いのかと問う義時に、大江は、罪を他の者に押しつけることを提案します。時政の娘婿である稲毛重成(いなげのしげなり)(村上誠基)の名を上げます。

 稲毛を殺すことを抗議する時房に、

「それで良いのだ」

 と、義時はいい放ちます。稲毛を見殺しにしたとなれば、御家人たちの心は、時政からますます離れる。これぐらいしなければ、事は動かない。

 稲毛は首をはねられます。義時は、畠山の残した所領の分配を、北条政子小池栄子)にやらせようとします。政(まつりごと)が混乱すると辞退する政子に、義時はいいます。

「恐れながら、すでに混乱の極みでございます。今こそ、尼御台(あまみだい)のお力が必要なのです」

「それで事がおさまるのならば」

 と、政子は承諾(しょうだく)します。政子は稲毛が時政に殺されたことをいいます。なぜ止めなかったのかと義時を責めます。義時はこともなげにいいます。

「私がそうするようにお勧(すす)めしたからです」義時は政子の前に座ります。「これで執権殿(時政)は、御家人たちの信を失いました。執権殿がおられる限り、鎌倉はいずれ立ちゆかなくなります。此度(こたび)のことは、父上に政(まつりごと)から退(しりぞ)いていただく、はじめの一歩。(稲毛)重成殿は、そのための捨て石」

「小四郎(義時)。恐ろしい人になりましたね」

「すべて、頼朝様に教えていただいたことです」

「父上を殺すなんていわないで」

「私の今があるのは、父上がおられたから。それを忘れたことはございません」

「その先は。あなたが執権になるのですか」

「私がなれば、そのために父を追いやったと思われます」

「わたくしが引き受けるしかなさそうですね」

「鎌倉殿が、十分にご成長なさるまでの間です」

 義時は時政に名を連ねた紙を見せます。

「訴状に名を連ねた御家人の数は、梶原殿の時の比ではございません。少々、度が過ぎたようにございます」

 時政はいいます。

「小四郎(義時)。わしをはめたな」

「ご安心下さい」義時は紙を破いて見せます。「これは、なかったことにいたします。あとは、われらで何とか。ただし、執権殿には、しばらくおとなしくしていただきます。執権殿が前に出れば出るほど、反発が強まるのです。どうか、慎(つつし)んでいただきたい」

「恩賞の沙汰は、やらせてもらうぞ」

 との時政の言葉に、義時は首を振るのでした。

「すべて、ご自分のまかれた種とお考えください」

 時政は大声を上げて笑い出します。

「やりおったな。見事じゃ」

 七月八日。北条政子の計らいにより、勲功(くんこう)のあった御家人たちに、恩賞が与えられます。

 

『映画に溺れて』第521回 赤頭巾ちゃん気をつけて

第521回 赤頭巾ちゃん気をつけて

昭和四十七年十月(1972)
大阪 梅田 北野シネマ

 

 一九六九年の芥川賞受賞作、庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』がベストセラーになったのは私が高校生のころで、薫君シリーズは『白鳥の歌なんか聞こえない』『ぼくの大好きな青髭』『さよなら怪傑黒頭巾』と全部、出るたびに買って読んだ。今読み返しても、軽やかな文体に引き込まれ、あのころが思い出される。
 日比谷高校の三年生で受験を控えた薫君の一日の出来事。東大入試は学園紛争で中止になり、薫君は足を怪我して病院に行き、なまめかしい女医さんに手当てされ、家で友人の訪問を受け、地下鉄で銀座まで出て、といった流れにそって、頭にめぐるあらゆることを一人称で語って行く。このスタイルはサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を連想させるとして、類似が取りざたされた。
 そんなことよりも、当時の私がなによりも驚いたのは、この高校生の独白という瑞々しい小説を書いた作者が、なんと三十過ぎのおじさんだったことだ。思えば、私自身が初心な高校生だったのだ。
 映画は一九七〇年に公開された。私が観たのは二年遅れで、羽仁進監督の『午前中の時間割』と二本立てだった。
 主演の薫君はオーディションで選ばれた新人の岡田裕介。その後、続編の『白鳥の歌なんか聞こえない』にも主演し、岡本喜八監督の『吶喊』やいくつかのTVドラマにも顔を出していたが、見かけなくなったと思ったら、東映の社長に就任していた。
 ガールフレンドの由実が森和代、女医さんが森秋子、母親が風見章子、エリートの兄が中尾彬、理屈っぽい友人小林が富岡徹夫だった。ほとんどせりふのない不良じみた同級生の役で出ていた広瀬正助は、このあと藤田敏八監督『八月の濡れた砂』に広瀬昌助の名で主演する。
 佐良直美の歌う主題歌もヒットした。

 

赤頭巾ちゃん気をつけて
1970
監督:森谷司郎
出演:岡田裕介森和代、富川徹夫、風見章子、中尾彬、山岸映子、四方正美、結城美栄子、広瀬正助、松村幸子、宝生あやこ山岡久乃

 

『映画に溺れて』第520回 NOPE ノープ

第520回 NOPE ノープ

令和四年九月(2022)
府中 TOHOシネマズ府中

 

 UFOを信じるか、信じないか。という議論はそもそもおかしいと思う。UFOとは未確認飛行物体の略語であり、なんだかよくわからないものが空を飛んでいるだけなのだ。それは人工的な気球や自然現象の流れ星や鳥のような生物かもしれない。
 しかるに多くの人たちがUFOといえば宇宙人と思い込んでいる。宇宙人の存在なんて信じていない人たちまでがそうなのだ。UFOとは宇宙人ではなく、確認できないものなのだから、信じるも信じないもない。
 そもそも空飛ぶ円盤が宇宙人の乗り物と結びついたのは映画やTVの宇宙SFが大量に作られてからである。私は宇宙人が登場する『スタートレック』や『ギャラクシークエスト』や『宇宙人ポール』は大好きだが、宇宙人の存在を強く主張する人たちと議論はしたくない。楽しむことと信じることははっきりと区別すべきだと思っている。
 だから『NOPE ノープ』のUFOはまさにUFOであり、ユニークでなのである。
 カリフォルニアで牧場を営む黒人の親子。映画の撮影に馬を貸し出すのが主な商売だが、ある日、父親が空からの落下物に直撃され、病院で息を引き取る。
 牧場経営は赤字続きでうまくいかず、息子は落ち込んでいる。父の葬儀で帰ってきた妹が牧場上空に浮かぶ雲の異変に気付く。雲の中になにかがある。
 それがUFOなら、撮影してTVに売り込めば大金になると兄に勧め、大型電気店で何台もカメラを買い込む。カメラ設置に来た店員が怪しみ、結局UFOの撮影と知り、協力する。さてUFOの正体は。
 これにウエスタンパークを運営する隣人の元TV俳優が絡み、彼が子役時代のチンパンジーのエピソードが挿入され、最後はUFOとの対決がホラー色豊かに展開する。
 妹役のキキ・パーマーが全体をコメディ調でひっぱるので、最後までどきどきしながら楽しめる。懐かしい悪役のマイケル・ウィンコットがいい役で出ているのもうれしい。

NOPE ノープ/Nope
2022 アメリカ/公開2022
監督:ジョーダン・ピール
出演:ダニエル・カルーヤ、キキ・パーマー、ブランドン・ペレアマイケル・ウィンコット、スティーブン・ユァン、キース・デビッド

 

書評『宮澤賢治 百年の謎解き』

書名『宮澤賢治  百年の謎解き』           
著者 澤口たまみ
発売 T&K Quarto BOOK
発行年月日  2022年8月1日
定価  2420円(税込) 

 

 

 1933年(昭和8年)9月21日、37歳で夭折した宮澤賢治には、禁欲を守った“聖人のイメージ”が浸透しているということを本書で知って驚いている。はたして賢治はその生涯を童貞で女性体験もなく終えたのだろうか。

 賢治に相思相愛の恋人がいたらしい。それも一度は結婚を考えた恋人が。その女の名を大畠ヤスさん。ヤスは賢治より4歳年下で、花巻の賢治の家からほど近い蕎麦屋の長女であった。ヤスの発見者は今は亡き在野の文学研究家・佐藤勝治で、「全くの偶然から」1975年(昭和50年)ごろ、盛岡に住んでいた勝治が発見したという。
 本書は賢治の相思相愛の恋を読み解くべく賢治の言葉と向き合ってきた記録である。著者の澤口たまみは1960年(昭和35年)、盛岡の生まれの絵本作家・コラムニストで、著者が賢治の恋愛を明らかにしようと決心したのは、2003年(平成15)のことであるという。以来20年もの長きにわたり賢治とヤスの恋を読み解くべく、賢治自身が書き残した言葉に耳を澄ませて来たことになる。

 著者は言う。「恋も女性体験も、本当のことは賢治にしかわからない。しかも賢治の恋はさまざまな事情があったにしろ、隠されてきた。いわゆる賢治研究に必要な物証や証言を集めることは困難ならば賢治の恋をその作品の中に探る他ない」と。また、「聖人のイメージを壊すつもりは毛頭ないが、賢治が恋愛を経験していないという前提に立てば、理解できない作品が数多くでてきてしまう」とも。
 「さまざまな事情」とは何か。あえて「聖人のイメージを壊すつもりは毛頭ないが」と断り書きを添えざるを得ないのはなぜか。読者は早くも著者の解き明かそうとする世界に惹きこまれるであろう。
 1921年(大正10年) 25歳の賢治は1月に家出し、東京で暮らしていたが、8月中旬、故郷花巻で療養していた妹のトシが喀血する。「スグカエレ」の電報を受け取るや、賢治は書き溜めた原稿をトランクに詰めて直ちに花巻に戻っている。
賢治とヤスが以前から知り合いであった可能性があるが、賢治がヤスを見初めたのはこのころのことであろうか。
 1924年(大正13年)4月20日に賢治が自費出版した『心象スケッチ 春と修羅』は大正11年1月6日から12年12月10日の賢治の“心象スケッチ”であるという。心象スケッチには深い意味がある。賢治は自らの作品を「詩歌」と区別し、自らの心象を「そのとおり」に写し取った「心象スケッチ」であると主張しているのである。現存する賢治の書簡は500通にのぼるが、賢治とヤスが恋愛していたと思われる大正11年から13年にかけてはぽっかりと書簡がないという。書簡を書く暇を惜しんで「心象スケッチ」の創作に打ち込んでいたのであろう。
 1922年(大正11年)1月、賢治はヤスと冬の小岩井農場を訪れていると著者は推察している(313頁)。岩手山の南麓に位置する国内最大級の民間総合農場である小岩井農場は賢治お気に入りの場所で詩や童話にも取り上げられているが、農場以外では盛岡劇場や開館したばかりの県立図書館をヤスとのデートの場にしているという。盛岡は賢治が13歳で盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)に入学し、22歳で盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)を卒業するまでのおよそ10年もの歳月を過ごした青春時代の思い出の街であり、ヤスとのデートで再訪していたことになる。
 しかし、春はやく、密かに始まっていたと推定される賢治とヤスの恋だが、二人の恋が再びの春を迎えることはなかった。前年11月27日、結核で病臥中のトシが死去したことも影響しているであろう。賢治の良き理解者であった最愛の妹・トシ享年24であった。
 ヤスとの恋が暗礁に乗り上げ、ヤスとの縁談がいよいよ壊れる1923年(大正12年)春、「やまなし」、「氷河鼠の毛皮」、「シグナルとシグナレス」を岩手毎日新聞に発表。著者は「時期的に見てこの3作を“失恋三部作”と呼んでいい」とする(167頁)。
結果としてふたりの恋が成就せず、ヤスは失意のままアメリカ在住の男性と結婚している。賢治との縁談については、ヤスの母・大畠潤が賢治をヤスの結婚相手として不適格と見做し反対だったことは判明しているが、これに対する宮澤家の反応については不明であるという。
 「さまざまな事情」とは宮澤家の噂、妹トシの病、賢治自らの肋膜炎などであろうか。かつての花巻の町には、宮沢家は結核の多い家系であるとの噂がまことしやかに囁かれるなど、裕福な商家である宮沢家に対する反感が少なからずあり。加えるに、賢治個人は、花巻では「貴人」ならぬ「奇人」で通っていたという。
 1924年(大正13年)4月20日、賢治は『心象スケッチ 春と修羅』を自費出版している。『春と修羅』の出版を思い立った背景には、自らの恋と妹トシの病、この二つのテーマがあり、自費出版の動機の一つは、まもなくアメリカに旅立つヤスに渡すためだったと著者は推察している。(230頁)
 著者は断言する。「ヤスを好ましく思ったことが、賢治を詩人にし、『春と修羅』を書かせた一つのエネルギーになった」(57頁)と。そして、「最も重要に思っているのは、大畠ヤスが相思相愛の恋の相手であるが、それが作品にどう反映されているか」であると自問し、「賢治はヤスさんへの恋を作中に記している」と自答している。
 母音に注目して言葉の意味を見直しながら、『春と修羅』を声を出して丹念に読む ことによって、ついに、著者は発見する!
 「ヤス」の名前は「a-u」。羅須地人(らすちじん)協会の「羅須」の母音も「a-u」。「春と修羅」の「春」も「a-u」であることを。
 「韻を踏むことと恋を記すことは賢治のなかで分かちがたく結びついている」(199頁)。賢治は相思相愛の恋人ヤスさんの名前と同じ母音を持つ言葉を作中に隠して、密かに恋を記している(202頁)。
 「20年近く賢治の恋を読み解いてきたわたしの、これが一つの答えです」(204頁)と著者は控え目だが誇らし気である。
 

 賢治との恋を諦めたヤスのその後について――。
 大正13年6月、ヤスはアメリカ在住の及川姓なる男性との縁談を受け入れ、横浜港からアメリカへと旅立つ。シカゴ着は7月2日(その前日の7月1日 アメリカで排日移民法が成立している)。が、渡米からわずか3年後の1927年(昭和2年)4月13日未明、ヤスはシカゴで死去している。
 『銀河鉄道の夜』はヤスが海を渡った頃に書きだされ、最晩年まで繰り返し改稿された作品だが、『銀河鉄道の夜』には「コロラドの高原」「インデアン」などアメリカを思わせる言葉がちりばめられている部分があるとも著者は指摘している(316頁)。
 生涯を禁欲的に終えたと伝えられる従来の賢治像を打ち砕いて、著者は記す。
 「恋とは縁がなかったとされてきた宮澤賢治だが、賢治が相思相愛の恋を経験していて、その相手が大畠ヤスだったことは、広く信じられるには至っていない。けれども、賢治はヤスさんの名前を母音で踏む言葉に託して確かに書き残していた。もしも賢治の作品を、作者の意図に沿って読み取りたいと願うなら、大畠ヤスさんの存在を無視することはできない。この本でお伝えしたいのはただそれだけです」(346頁)と。
 蛇足ながら。賢治の聖人性を重視する“専門家”からの異論もあり、中には、
何でもかんでもヤスに結び付けるな、不用意な発言を控えるべきとの叱声に近い意見もあるとのことである。
 若い頃、評者(わたし)はほんの少しばかり賢治を齧ったことがあるが、当時もそして今も、賢治はユーモアに富んだ人柄で言葉遊びの好きな人で、賢治といえば、詩集『春と修羅』、童話集『イーハトーブ童話 注文の多い料理店』の2冊を自費出版しただけの、生前ほとんど知られることなく生涯を閉じた無名作家、といった“知識”しか持ち合わせていなかったように思う。致命的なことは賢治の作品そのものを読んでいないことである。「賢治と大畠ヤスさんの恋をめぐる長い長い旅」の物語である本書を紐解き、賢治がユーモアに富んだ言葉遊びの好きな人であると再確信した。澤口たまみさんの呼びかけに誘われて、賢治作品を読み直す旅に出かけようと思う。

              (令和4年9月29日 雨宮由希夫 記)