日本歴史時代作家協会 公式ブログ

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大河ドラマウォッチ「鎌倉殿の13人」 第39回 穏やかな一日

 時政が鎌倉を追われたあと、天然痘を患(わずら)っていた源実朝(さねとも)(柿澤勇人)が、政務に復帰します。

「ご心配をおかけしました」

 と、実朝は北条義時(よしとき)(小栗旬)と政子(小池栄子)にいいます。

「もう大丈夫なのですか」

 と、政子が声を掛けます。義時がいいます。

「今だから話せますが、一時(いっとき)、われらは覚悟を決めました」

 実朝は理解します。

「私が死んだら、誰が跡を継ぐことに」

 義時は答えます。

「善哉(ぜんざい)様です。鎌倉殿とは、親子の契(ちぎ)りを結んでおられます」

「善哉に悪いことをした」

 と、つぶやくように、実朝はいいます。話題を変えるように、政子が話します。

「全国には、国ごとに治安を守る守護(しゅご)、荘園ごとに土地を預(あず)かる地頭(じとう)が置かれています。それらに任じていただいたご恩によって、御家人たちは鎌倉殿に奉公するのです。まさに武士たちの頂(いただ)き。しっかりとお役目を果たして下さいね」

 政子は懸命に、政治について学んでいたのです。

 政子と二人になると、義時がいいます。

「政(まつりごと)は私がすすめます。鎌倉殿にはそれを見守っていただく」

「しばらくはそれがいいですね」政子は気がつきます。「ずっと」

「兄上は、坂東武者の頂きに北条が立つことを望んでおられました。私がそれを果たします」

 書庫で、訴訟の話がされます。実朝が意見を述べようとすると、義時がさえぎります。結局、義時の考えが通ることになります。

 外に出て、実朝は義時の息子である、泰時(やすとき)(坂口健太郎)にこぼします。

「私は、いてもいなくても同じなのではないか」

 泰時は優しくいいます。

「そんなことはありません」

 実朝は微笑みます。

「そうだ。太郎(泰時)に渡したいものがある」

 実朝は和歌を書いた紙を泰時に差し出します。実朝はいいます。

「楽しみにしている」

「楽しみ」

「返歌(へんか)だ」

「歌でお返事するのですか」

 実朝は黙って行ってしまいます。

 義時は、官僚の大江広元(おおえひろもと)(栗原英雄)にいいます。

「政(まつりごと)の仕組みを新しくしようと思う」

「まずはどこから」

「守護は交代で担(にな)う。親から子へ、代々受け継がれると、わずかな者に、力が偏(かたよ)ってしまう」

「では国司(こくし)も」

国司はそのまま」

「北条が目立ってしまいますが」

「かまわぬ」

 政子と実衣(みい)(宮澤エマ)が話しています。実衣は政子に近づき、声をひそめます。

「それより知ってる。侍女から聞いたんだけど、いまだに、あの二人、寝床(ねどこ)が別々なんですって。鎌倉殿と御台所(みだいどころ)」

「仲は良さそうだけど」

「このまま男の子が生まれなかったら、どうするの。側室のことも、考えに入れておいた方がいいかも」

「よしましょう」

 実朝の正室である千世(ちよ)(加藤小夏)は、夫と、貝合(かいあわせ)をして遊ぶ約束をしていました。しかし実朝は、体を休めたいといいだすのです。そこへ和田義盛横田栄司)がやってきます。打って変わった楽しそうな様子に、千世は打ちひしがれます。和田は自分を、上総介(かずさのすけ)にして欲しいと、頼みに来たのでした。御家人の柱になって欲しいと、皆にいわれているのだと話します。

「分かった。なんとかしよう」

 と、実朝は請(う)け合います。

 その頃、泰時は、実朝に宛てて書く、返歌について悩んでいました。泰時は和歌など書いたことがないのです。

 実朝は政子に話します。

「ぜひ、上総(かずさ)(現在の千葉県中部)の国司に、推挙(すいきょ)してやりたいのです」

 しかし政子はいいます。

「和田殿は、わたくしも好きですよ。でもね、政(まつりごと)というものは、身内だからとか、仲がいいとか、そんなこととは無縁な、もっと厳(おごそ)かなものだと思うのです」

 実朝は、声をうわずらせながら頭を下げます。

「ご無礼いたしました」

 実朝と入れ替わるように、政子のもとに八田知家市原隼人)がやって来ます。棚をつくことを頼まれていたのでした。八田はいいます。

「北条の方々のことですが。はっきり申し上げて、御家人たちは皆、苦々(にがにが)しく思っています。小四郎(義時)殿は相模守(さがみのかみ)、五郎(時房)(ときふさ)殿は武蔵守(むさしのかみ)。北条でなければ、国司にはなれぬのか」

 政子は義時と、このことについて話します。義時はいいます。

「それでもやらねばならんのです。二度と北条に刃向かう者を出さないために」

 政子は去ろうとする義時を呼び止めます。

「父上と母上の命を救ってくれたこと、感謝します。でも」

「むしろ殺していれば、御家人たちは恐れおののき、ひれ伏した。私の甘さです」

 義時は疲れたといって、泰時の所にやって来ます。泰時の幼なじみであり、従者である鶴丸(きづき)に、義時は声を掛けます。平盛綱(たいらのもりつな)という名を与え、今日の弓の技比べで成果を出せば、御家人にしてやると約束します。

 義時は、和田義盛を書庫に呼んでいました。

「上総介の件は忘れて欲しい」

 和田は抗議します。

「鎌倉殿は約束してくれたぜ」

「直(じか)に鎌倉殿にお願いするのも、これが最後だ」

 和田は立ち上がり、吐き捨てるようにいいます。

「変わっちまったよな。鎌倉も、お前も」

 和田は去って行きます。残された義時に、大江広元がいいます。

「絵に描いたような坂東武者」

「ずいぶん少なくなった」

「そしていずれはいなくなる。和田殿は、御家人の間で人気があります。慎重にかからねばなりませんな。和田には、三浦がついています」

 弓の技比べが始まります。泰時が的を割ったりして、大いに盛り上がります。最後に鶴丸が的を射貫(いぬ)きます。

 技比べが終わり、実朝と義時は二人きりになります。義時は、平盛綱と名を改(あらた)めた鶴丸を、御家人にしてやりたいと話します。

「それはならん」と、珍しく実朝が強くいいます。「分不相応(ぶんふそうおう)の取り立ては、災(わざわ)いを呼ぶ」

「あの者は、十分な働きをして参りました」

「一介(いっかい)の郎党を、御家人に取り立てるなど、あり得ぬ」実朝は義時に向き直ります。「和田義盛の上総介推挙を止めたのは、お前ではないか。守護の任期を定めたのも、御家人たちに勝手をさせぬためではなかったのか。お前らしくもない」

 義時は穏やかに話します。

「鎌倉殿のいうとおりにございます。忘れて下さい。さて、どうやら私はもう、いらぬようです。あとは、鎌倉殿のお好きなように進められるが良い。伊豆へ、引き下がらせていただきます」

 立ち去ろうとする義時を、実朝は呼び止めます。

「私が、間違えていた。その者を御家人に」

「鎌倉殿が一度口にしたことを翻(ひるがえ)しては、政(まつりごと)の大本(おおもと)が揺るぎます。私のやることに、口を挟(はさ)まれぬこと。鎌倉殿は、見守って下さればよろしい」

 夜、実朝は妻の千世といました。千世が話します。

「皆さん、世継ぎができないことを、心配されています。私に、そのお役目がかなわぬのなら、ぜひ、側室を」

 実朝はいいます。

「あなたが嫌いなわけではないのだ。嘘ではない」

「なら、どうして私から、お逃げになるのですか。私の何が気に入らないのですか」

 実朝は千世の手を取ります。

「初めて、人に打ち明ける。私には、世継ぎをつくることが、できないのだ。あなたのせいではない。私は、どうしても、そういう気持ちに、なれない。もっと早くいうべきだった。すまなく思うから、一緒にも居づらかった」

「ずっと、お一人で悩んでいらっしゃったのですね。話して下さり、嬉しゅうございました」

 と、千世は実朝を抱きしめるのでした。

 返歌について悩んでいる泰時の所に、都からやって来た源仲章(みなもとのなかあきら)(生田斗真)が通りかかります。歌の書かれた紙を取り上げます。

「これは、恋する気持ちを読んだものだ」

 と、説明します。

「そうなのですか」

 と、驚く泰時。

「春のかすみのせいで、はっきりと姿を見せない、桜の花のように、病でやつれたおのれの姿を見られたくはない。されど恋しい、あなたに会いたい。切なきは、恋心。どなたのお作で」

 泰時はすぐにその場を立ち去るのでした。

 泰時は実朝の所にやって来ていました。歌の紙を返します。

「鎌倉殿は間違えておられます。これは、恋の歌ではないのですか」

「そうであった。間違えて、渡してしまったようだ」

 と、実朝は泰時の持ってきた紙を受け取り、別の歌を渡すのです。実朝は歌を詠んで聞かせます。それは打ち寄せる波が砕け散ったという内容でした。

 和田と三浦は、鍋を囲んでいました。和田がうめくようにいいます。

「どうも気に入らん。小四郎の奴、親父(おやじ)を追い出した途端にやりたい放題。俺たち古株の御家人をないがしろにしたら、痛い目に遭(あ)うってことを、思い知らせてやろうぜ」

 建永元年(1206)九月二十二日。出家して、公暁(こうぎょう)(寛一郎)と名を変えた善哉が、京へ上ります。戻ったら、鶴岡八幡宮別当(べっとう)になることになっていました。

 公暁が戻って来たとき、鎌倉最大の悲劇が、幕を開けることになるのです。それはこの時から六年後になります。