大河ドラマウォッチ「鎌倉殿の13人」 第33回 修善寺
頼家の弟であり、「千幡」の呼び名であった実朝(さねとも)(嶺岸煌桜)が、北条政子(小池栄子)に、髑髏(どくろ)を見せられます。
「頼朝様は挙兵の折、この髑髏に誓われました。この命、おぬしにかけようと。すべてはこの髑髏から始まったのです。これからは、あなたが持っていなさい」
義時(小栗旬)がいいます。
「上に立つ者の、証(あかし)でございます」
その頃、伊豆の修善寺(しゅぜんじ)では、元の鎌倉殿である、頼家が酒を飲んで荒れています。
「鎌倉殿は、このわしじゃ」
と、叫んでいました。
建仁三年(1203)十月九日。実朝の、政務開始の儀式、政所(まんどころ)始め、が行われました。取り仕切ったのは、執権別当となった、北条時政(坂東彌十郎)です。「執権別当」とは、行政の筆頭人を意味し、時政が、実質的な政治指導者となったことを示しています。
時政は書庫で、御家人たちに、新しい鎌倉殿に忠誠を誓う「起請文(きしょうもん)」を書かせることを提案します。さらに比企の領地であった武蔵を、自分が武蔵守(むさしのかみ)となって、治めることを宣言します。それを朝廷に願い出ることを命じます。
りく(宮沢りえ)は時政と酒を酌み交わし、上機嫌です。
「よい具合、よい具合」
と、酒を飲み干します。時政はりくに酒を注(つ)ぎます。
「お前のいうとおりに、運んでおるぞ」
「執権殿」
と、呼びかける、りくに、時政はおどけて
「はい」
と、返事をするのです。
「これで名実ともに、御家人の頂(いただ)きに立たれましたね。執権というのは、代々北条が引き継ぐんですよね。では次は政範(まさのり)が」
「気が早いのう。少しはわしにやらせてくれ」
二人は和やかに夜を過ごすのでした。
都では、後鳥羽上皇(尾上松也)が僧の慈円(山寺宏一)に話しています。
「鎌倉は、実朝の正室を都より差し出せといってきおった」
誰の考えだ。と後鳥羽上皇は、りくの娘婿である平賀朝雅(山中崇)を問い詰めます。何とかごまかそうとしていた平賀でしたが、時政の考えだと白状してします。後鳥羽上皇は顔をしかめます。
「身の程知らずの、田舎者め。まあよい。わしは実朝の名付け親じゃ。ひと肌脱いでやってもよいぞ。わが血筋に近い者から選ぼう」
平賀朝雅を去らせると、後鳥羽上皇はある人物を招き入れます。その者はいいます。
「比企を滅ぼしたのは北条の謀略。何としても頼家殿から、実朝殿へ代替わりさせたかったようです」
「源氏はわが忠臣。その棟梁(とうりょう)の座を、坂東の田舎侍に良いようにされるなどもってのほか」
「いっそ、北条を潰されますか」
「実朝は大事な駒(こま)じゃ。奴らに取り込まれぬよう導くのじゃ。鎌倉へ下れ」
「かしこまりました」
頼家から鎌倉に文(ふみ)が届いています。義時が書庫にて、皆に内容を披露します。一つには、退屈でたまらないので近習が欲しい。二つには、安達景盛の身柄をよこせ、というものでした。安達景盛については、頼家はその妻を手に入れようとして、果たせないでいました。その身柄を討ち取ろうというのです。二つの要求を、捨て置くことにします。義時がいいます。
「つまり頼家様は、ご自分がまだ鎌倉殿だということを、お示しになりたいのだ」
三浦義村(山本耕史)が、使者として、頼家のもとにやって来ます。三浦は「せつ」「一幡」と書いた紙が飾られているのを目にします。
「別に腹は立ててはおらん」と、頼家はいいます。「はなから受け入れられるとは思っていなかった。わしを忘れぬように、こうしてたまに喧嘩を売ってやる」
三浦はいいます。
「執権殿にそうお伝えいたします。では、これで」
「善哉(ぜんざい)はどうしておる。つつじは」
「鶴岡八幡宮の別当が、面倒を見てくれています」三浦は頼家を振り返ります。「お変わりございませんので、ご心配なく」
行こうとする三浦を、またしても頼家は呼び止めます。
「平六(へいろく)。わが父、源頼朝は、石橋山(いしばしやま)の戦いで敗れてから、わずかひと月半で、大軍を率いて鎌倉へ乗り込んだ。わしは必ず鎌倉へ戻ると、そう奴らに伝えよ。軍勢を率い、鎌倉を火の海にし、北条の者どもの首をはねる。覚悟して待っていろとな」
三浦は振り向きもしません。
「その通り、お伝えいたします」
「このままここで朽ち果てるつもりはない。忘れるな。鎌倉殿はこのわしだ」
三浦は振り返って頼家に歩み寄ります。
「確かに。この先、何十年、猿楽くらいしか慰(なぐさ)めもないまま暮らすことを考えれば、華々しく散るのも、悪くはないかもしれません。おやりなさい」
「力を貸してくれ」
「お断りいたします」
頼家の言葉が、鎌倉で報告されます。
「挙兵されると思うか」
と、義時は三浦にたずねます。
「いってるだけだろ。兵が集まらない」
「しかし鎌倉に対する恨みは強うございます。早めに手を打たれることを、おすすめします」
「曲がりなりにも先の鎌倉殿にございます」
「それが何か」
と、大江が問います。
「いいにくいなら俺がいってやるよ」と、八田知家(市原隼人)。「鎌倉殿は二人いらねえ」
ため息をつく義時に、時政がいいます。
「やるか」
「頼朝様の、実のお子でございますぞ」
時政は大声を出します。
「そなことは、分かっている。わしの孫じゃ。お生まれになったときのことだって、しっかり目ん玉の裏に残ってるわ。わしだって、つれえんじゃ」
「小四郎殿」
と、大江が義時に意見を求めます。
「ここは様子を見る」と、義時は宣言します。「不審な動きがあれば、そのときはわれらも覚悟を決めましょう」
建仁四年(1204)正月。実朝の、読書始めの儀式が行われます。儒学の講義を行ったのは、後鳥羽上皇に招き入れられていた、源仲章(みなもとのなかあきら)(生田斗真)でした。
北条政子にいわれ、三善康信が実朝に和歌を教えています。三善の教えは、韻律に乗せ、花鳥風月を感じるままに詠(よ)むというものでした。そこへ実衣(宮澤エマ)に呼ばれ、源仲章がやってくるのです。
「鎌倉殿。今のはお忘れください」と、仲章はいい放ちます。「和歌とは、気の向くままに詠むものなどではございません。帝(みかど)が、代々、詠みついでこられたもの。帝のお望みの世の姿、ありがたいお考えが、そこにある。それを知らねば、学んだことにはなりません」
実朝の乳母(めのと)である美羽がいいます。
「和歌は、政(まつりごと)には欠かせぬものなんですって。ですよね」
実衣は仲章を振り返ります。仲章それを受けていいます。
「さよう。和歌に長ずるものが、国を動かします」
「しっかり学んでくださいませ」
と、実衣は実朝にいいきかせるのでした。
「よもやとは思いますが、都と通じておるのでは」
義時がいいます。
「軽はずみなことをいうべきではない」
そこへ八田知家がやって来ます。
「修善寺で、猿楽師の一人を捕えた。京へ向かおうとしていた。こんなものを」
八田は扇(おうぎ)に書かれた文章を皆に見せます。頼家は上皇に、北条追討の院宣(いんぜん)を願い出ようとしていました。時政がいいます。
「決まりのようだな」
皆が黙り込みます。義時が口を切ります。
「頼家様を、討ち取る」
義時は息子の泰時(坂口健太郎)と話します。
「なりませぬ」
と、泰時はいいます。
「これは謀反だ」
と、義時ははねつけます。義時の異母弟である時房(瀬戸康史)がいいます。
「頼家様の後ろには上皇様がいる。このままここでは大きないくさになる。今のうちに火種を消しておくんだ」
義時がいいます。
「上皇様は北条をお認めにはならんだろう」
泰時が聞きます。
「なにゆえ」
「あのお方からしてみれば、われらは一介の御家人。源氏を差し置いて全国の武士に指図をすることを、お許しになるはずがない」
泰時は叫びます。
「頼家様に死んで欲しくないのです」
「私も同じ思いだ」義時は泰時を見つめます。「しかしこうなった以上、ほかに道はない」
「父上は間違っている。私は承服できません」
泰時は立ち去るのでした。
義時は時房と善児(梶原善)を訪ねます。そこに兄の宗時の遺品を見つけるのです。善児が宗時を殺した証拠でした。
「善児は私が斬ります」
と、時房がいいます。
「ならぬ」と、義時は即座に反応します。「あれは必要な男だ。私に善児が責められようか」
義時は外で薪を割っている善児に呼びかけます。
「善児、仕事だ」
修善寺では、泰時が頼家に訴えていました。
「お逃げください」
「逃げはせぬ」
と、頼家は答えます。
「命を大事にしてください。生きてさえいれば、また道も開けます」
「道などない。いずれわしは殺される。座して死を待つつもりはない。最後の最後までたてついてやる。これより、京からやって来た猿楽が始まる。上皇様の肝いりだ。お前も見ていけ」
猿楽が始まります。泰時は、猿楽師の一人が、死んでいることを知るのです。泰時は刀を引き抜き、猿楽が行われている中に入り込みます。やはり善児が猿楽師の中にまぎれ込んでいました。泰時は斬りつけますが、善児にたやすくねじ伏せられてしまいます。
「あんたは殺すなといわれている」
と、善児は泰時を放し、頼家に迫ります。頼家は刀を抜いて立ち向かいます。善児は戦いの途中、一幡の文字を見つけるのです。躊躇(ちゅうちょ)する善児に隙が生まれ、頼家の反撃を許してしまいます。善児にとどめを刺そうとした頼家でしたが、背後から善児の弟子であるトウ(山本千尋)に貫かれてしまいます。
源頼家。享年二十三でした。
傷ついた善児は、草むらに潜んでいました。その背中をトウが貫きます。
「ずっとこの時を待っていた」トウは前に回って善児にいいます。「父の敵(かたき)、母の敵」
と、善児にとどめを刺すのでした。