日本歴史時代作家協会 公式ブログ

歴史時代小説を書く作家、時代物イラストレーター、時代物記事を書くライター、研究者などが集う会です。Welcome to Japan Historical Writers' Association! Don't hesitate to contact us!

大河ドラマウォッチ「鎌倉殿の13人」 第42回 夢のゆくえ

 鎌倉殿である源実朝(みなもとのさねとも)(柿澤勇人)は、北条義時(よしとき)(小栗旬)の息子である北条泰樹(やすとき)(坂口健太郎)に宣言します。

「父上がつくられた、この鎌倉を、源氏の手に取り戻す」

 泰時が確かめます。

「北条から取り戻すということですか」

 実朝は直接には答えません。

上皇様を手本としたい。あのお方は、何事も人任せにせず、ご自分でお裁(さば)きをなされる」実朝は泰時を見つめます。「お前の力を借りたい」

「私も、北条の者ですが」

「義時に異(い)を唱えることができるのは、お前だけだ」

 泰時は頭を下げます。

「鎌倉殿のために、この身を捧げます」

 実朝は、義時をはじめとする宿老たちの前で話します。

「今年は日照りが続いた。将軍家領だけでも、秋から年貢を、去年の三分の一にしたい」

 宿老たちが口々に反対します。やがて泰時が話し始めます。

「一度にすべての領地で年貢を減らすわけではありません。御所領をいくつかに区切り、年ごとに、年貢を減らす土地を変えていく」

 義時が泰時を怒鳴りつけます。

「お前はどういう立場でそこにいるのか」

 実朝がいいます。

「太郎(泰時)は私が頼んで、ここにいてもらっている」 

 泰時もいいます。

「父上が、義理の弟というだけのことで、頼朝様のそばにお仕えしたのと同じです。私も、鎌倉殿の従弟(いとこ)ということで、ここにおりますが、何か」

 義時は泰時をにらむのでした。

 義時は、父の時政の印象の強い、執権(しっけん)になることをためらっていましたが、ついにそれを名乗ることにします。

 執務(しつむ)を行う実朝のもとへ、訴えが読み上げられます。米の取れ高が、半分で苦しいところに、近くの将軍家領が年貢を三分の一に引き下げた。農民たちが不公平だと怒っている。義時が泰時を見据えて発言します。

「将軍家領だけ年貢を減らしたら、こういうことになる」

 執務が終わった後、泰時は実朝に謝ります。

「私の考えが甘かったのです。申し訳ございませんでした」

 実朝は、上皇から贈られた絵を泰時に見せます。

「世を治めるためには、私自身が慈悲深い名君とならねばならぬ。聖徳太子様は、尊(とおと)いお生まれに満足されることなく、功徳(くどく)を積まれた。私の、道しるべだ」 

 源仲章(なかあきら)(生田斗真)が、宋(そう)の技術者、陳和卿(ちんなけい)(テイ龍進)を伴って京から戻ってきます。実朝は陳和卿との出会いの場面を、夢に見ていました。夢日記にそのことが記してあます。実朝は陳和卿を信頼する気になります。陳和卿は実朝にいいます。

「大きな船をつくりましょう。誰も見たことのない、大きな船。それで宋へ渡り、交易(こうえき)をおこなうのです」

「船は作れるか」

 と、実朝は聞きます。

「もちろん」

 と、陳和卿は返事をします。実朝は目を輝かせます。

「すぐにとりかかってくれ」

 義時たちは、船の建造について話していました。泰時が発言します。

「ひとつ、気がかりなことが。陳和卿は、鎌倉殿の夢を当て、信頼を得ました。しかしながら、鎌倉殿の夢日記は、あの部屋に出入りする者なら、いつでも見られます」

 陳和卿は、前もって夢日記の内容を知っていたのです。源仲章なら、それを見ることが可能でした。義時がいいます。

「つまり、西のお方が糸を引いているということか。この船は坂東のためにはならぬ。完成させるわけにはいかんなあ」

 八田知家(市原隼人)が現場を仕切り、船造りは進められます。

 義時は北条政子(小池栄子)と話します。

「頼朝様は西と一線を画(かく)し、鎌倉を武家の都にと考えておられました。されど鎌倉殿は今、上皇様のいいなりです。頼朝様のご意思に反します。誤ったものは改(あらた)めなくてはなりません。鎌倉殿には、表(おもて)から退(しりぞい)いていただきます。以後、政(まつりごと)は我ら宿老が」

 実朝は、建造中の船に乗って、自分も宋へ渡りたいと夢を口にします。泰時も千世(ちよ)(加藤小夏)も連れて行きたいというのです。

 執務の場で、北条時房(瀬戸康史)が実朝に述べます。

「船の建造を中止していただきたいのです。御家人の間からも不満が出ております」

 実朝がいいます。

「私は父上と違い、何の苦労もなく、この座についた。人心をつかむためには、功徳(くどく)を積むよりない」

 義時が声を張ります。

上皇様にそそのかされて作る船など、必要ござらぬ」

「母上の考えをうかがいたい」

 と、弱々しく実朝がいいます。政子はいます。

「徳を高めるのも大事かもしれません。でもそればかりを求めていると、疲れてしまいませんか。生き急ぐことはない。ゆっくりと時をかけて、立派な鎌倉殿になれば良いのです」

「結局、兄上と同じではないか」実朝は立ち上がります。「もうよい。船は中止だ」

「お待ちください」と、三善康信(小林隆)が呼び止めます。「今やめては、御家人たちの苦労は水の泡」三善は政子に頭を下げます。「どうか、船の建造は続けさせてください。鎌倉殿の思いがこもっておるのです」

 結局、造船は、政子の決断で続けられることになります。

 実朝は、船の建設現場を訪れます。そこで八田知家に質問します。

「どうやって、海まで運ぶ」

 八田は答えます。

「よくぞ聞いてくれました。船の下に、丸太のコロが敷いてあります。完成したところで支えを外し、コロに乗せて、引き潮の間に、皆で引っ張る。

 夜中、皆が寝静まったころ、時房はトウ(山本千尋)を連れて、図面の数字に細工するのでした。

 建保(けんぽう)五年(1217)四月十七日。船の出航を見ようと物見台に集まった実朝らのもとへ、八田がやってきます。

「えらいことになった。支えを外して、コロに乗せたまではよかったが、引き始めたら、船が浜にめり込んじまった」

 皆で船を引きますが、一向に動く様子は見られません。重さの計算が間違っていたのです。ついにコロが折れてしまいます。船を海に浮かべることは、とうとうできませんでした。

 その後、船は、浜辺で朽ち果てた姿をさらし続けます。

 政子が実朝に発破(はっぱ)をかけます。

「これくらいでくじけて、どうするのですか。やるならとことんやりなさい。自分の政(まつりごと)がしたければ、もっと力をつけなさい。御家人たちが束になってかかっても、跳ね返すだけの大きな力を」

 力なく実朝は聞きます。

「しかし、どうすれば」

 政子は立ち上がります。

「母は考えました。あなたが鎌倉の、ゆるぎない主(あるじ)となる手を」

 執務の場で、実朝は宣言します。

家督(かとく)を譲る。鎌倉殿を辞(じ)し、大御所となる。外から養子をとることにした」

 義時が発言します。

「お待ちください。嫡流(ちゃくりゅう)であれば公暁(こうぎょう)殿がおられます」

 実朝が返答します。

「あれは、仏門に入った。おいそれと還俗(げんぞく)はできぬ。朝廷に連なる、特に高貴なお血筋の方をもらい受ける。上皇様にお願いしてみるつもりだ」

 義時がいいます。

「鎌倉殿は、源氏の血筋から代々出すことになっております」

「誰が決めた。文書(もんじょ)は残ってなかろう。すぐに仲章(なかあきら)と話を進めろ」

 義時が声を張ります。

「鎌倉殿とは、武士の頂(いただき)に立つ者のことでございます」

 実朝も負けじと、大声で義時をさえぎります。

「その鎌倉殿を、今後は私が、大御所として支えていく」

「どなたの入れ知恵かは分かりませぬが、そのようなこと、お一人で決めてしまわれてはならない」

 ここで政子が発言します。

「鎌倉殿の、好きなようにさせてあげましょう」

 義時が言葉に力を込めます。

「鎌倉殿は、源氏と北条の血を引く者がつとめてきました。これからもそうあるべきです」

 政子が声を上げます。

「北条が何ですか。小四郎(義時)、あなたがいったのですよ。北条あっての鎌倉ではない。鎌倉会っての北条、と。まずは鎌倉のことを考えなさい」

 泰時が義時の背後からいいます。

「執権殿は、ご自分の思い通りに事を動かしたいだけなのです。鎌倉は、父上一人のものではない」

 結論を出すように政子がいいます。

「都(みやこ)の、やんごとなき貴族から養子をとる。実現すれば、これ以上の喜びはございません」

 六年ぶりに、公暁(寛一郎)が京から戻ってきます。