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書評『葵の残葉』奥山景布子

書名『葵の残葉』
著者 奥山景布子
発売 文藝春秋
発行日 2017年12月15日
定価  本体1800円(税別)

 

葵の残葉

葵の残葉

 

 

 明治維新に引き裂かれた悲運の高須(たかす)四兄弟。尾張徳川家の分家である美濃(みの)高須(たかす)松平家の当主松平義(よし)建(たつ)を父とする四兄弟――次男慶(よし)勝(かつ)(尾張徳川家十四代当主)、五男茂(もち)栄(はる)(一橋徳川家第十代当主)、六男容(かた)保(もり)(会津松平家第九代当主)、八男定敬(さだあき)(桑名久松松平家第四代当主)――は激動の幕末維新において国政を左右する枢要な地位に置かれていた。

 本書は条約勅許、将軍継嗣問題、大政奉還王政復古の大号令鳥羽伏見の戦い、東北戊辰戦争と奔流の如く動いた幕末維新史を「葵の残葉」たる最後の徳川の殿様・高須四兄弟から見た歴史小説である。
 城山三郎に、御三家筆頭尾張徳川家の総帥たる慶勝を主人公とした歴史小説『冬の派閥』(昭和57年1月刊 新潮社)がある。
 幕末の尾張藩には尊王攘夷を唱える下級藩士を主体とした金鉄組と親藩大名の本分を唱える佐幕派のふいご党の両派閥があり藩政を奪いあっていた。城山は、慶勝が金鉄組に担ぎ出される形で藩主となったことから書き起こし、維新前夜、14名の藩士を「朝命」の名のもと斬首した青松葉事件の悲劇、明治新政府下の尾張藩士の北海道移住など尾張藩の苦難の歴史をつづりつつ、転換期の指導者のあり方を問うている。
 奥山(おくやま)景布子(きょうこ)は果たして、慶勝と尾張藩をどう描くのか。興味と期待を持って『葵の残葉』をひもといた。

 先ず、四兄弟が揃って一堂に会した「一枚の写真」が目を引く(本書巻末に掲載されている)。明治11年(1878)9月3日、銀座の写真館で撮影されたものである。四人にとって最初で最後の集合写真であるこの写真は慶勝の呼びかけで四兄弟が参集して撮られ、撮影後は本所相吉町の慶勝邸で会食されたことがわかっている。四兄弟は申し合わせたように正装である。一見、和やかそうな表情だがその視線は各自各様である。美濃高須の松平家から、それぞれ、若くして諸家に養子に入った彼らは年齢差もあり、兄弟といっても四人うち揃って親しく兄弟らしい語らいをすることもなかったに違いない。四兄弟がその時、何を思い何を語ろうとしたかは当人以外、誰も分からない。作家奥山は物語のスタートとラストエンドにこの「一葉の写真」を配して、互いに、時には頼りに思い、時には恨み激しく憤ったこともあろう四兄弟の幕末明治に読者を誘う。
 会津藩松平容保京都守護職として、桑名藩松平定敬京都所司代として、尊攘勢力と戦い、幕末の京都の治安を守った人物であり、いち早く幕府を見限り新政府側についた兄慶勝は戊辰戦争では賊軍となった容保、定敬の二弟を討伐する役割を負わされる。
「最後の将軍」徳川慶喜の造形も秀抜である。慶勝の母は水戸の徳川斉昭の妹で、叔父斉昭の子慶喜は慶勝にとって13歳年下の従弟にあたる。気味が悪いほど「自分と瓜二つ」の慶喜を幼少時から知っている慶勝は、何かと面倒な性格の持主の慶喜という人物の本当に困ったところは押さえているものの慶喜の心底にあるものが何であるかは相変わらずわからない。かくて、慶勝らとは対照的な策略家慶喜に四兄弟は翻弄されしばしば窮地に立たされる。変節が激しく、いともあっさりと前言を翻し、本心を明かしてくれないのが慶喜だが、慶勝は慶応3年(1867)10月の大政奉還を「あの男」慶喜の「茶番だ」と見破る。

 幕末維新の動乱。四兄弟の中で、最大の悲劇を体験することになるのは幕府の要請で京都守護職を奉ずるはめになり挙句の果てに賊の汚名を着る容保と、会津、米沢、仙台、函館とラスト・サムライの意地で転戦、流浪して、しばらく行方知らずとなった定敬である。容保・定敬に比べると、慶勝のイメージは、一般に薄いであろうか。
 慶勝が幕末政治史の表舞台に登場するのは安政5年(1858)日米修好通商条約の批准をめぐっての不時登城で、井伊大老より隠居謹慎を命じられることである。これにより、慶勝は尾張藩主の座を追われ、江戸戸山の別邸に幽閉される。この不時登城の折の「苦い記憶」は終生、慶勝の胸中を占有したと作家は描いている。

 再びの登場は元治元年(1864)の第一次長州征伐。その家柄と立場上、長州征伐の総帥たる長州征討軍総督を引き受けさせられた慶勝は、征伐を長州藩三家老の切腹で決着させてしまうのだが、容保、定敬からは「長州への処罰が寛容すぎる。弱腰だ」とさんざん非難され、慶勝の処分案をいったん同意したはずの慶喜からは「尾張どのは薩摩の芋(西郷隆盛)に酔うたか」と揶揄される。慶勝は「自分の思い描く形での終結」を目指したが、弟たちにその構想を否定され、「互いに見限ったということだ」。兄弟の亀裂が最も激しくなったのが第一次長州征伐時である、と作家はみなしている。確かに第一次長州征伐は幕末終盤の分水嶺である。
 大政奉還以前は、「幕府の権威が落ちないうちに、新しい衆議の体制を整えるべし」と考え、維新前夜には、「どう言われてもいい。新しい政治体制に、せめて尾張だけでも参画しておく」とするのが、慶勝の持論であり深い信念であった。
 兄弟親類の中に攘夷・開国、勤王・佐幕の両派があり、骨肉相食む形で幕末史は進行するわけだが、維新後、再会を果たした際、兄慶勝は弟たちとどのような形で相対峙したのか。

 文久2年(1862)、四兄弟の父慶建が死す。幕府の崩壊を見ることなく逝ったことがせめてもの救いであったか。父には弟たちを託された慶勝は江戸と京都の両極に分断された政治に利用されながらも、斜陽の幕府を必死に支えようとし、かつ、弟たちを思い支えていたのだ。本書のタイトル『葵の残葉』にはそのような意味が込められている。表紙絵は葵の葉と4匹のアサギマダラ。アサギマダラはふわふわと飛翔し、人をあまり恐れないという。まさに四兄弟の生きざまが重なり合う。
「一枚の写真」が撮られた前年の明治10年(1877)は、西南戦争が勃発した年である。この年、慶勝は生涯最後の仕事としての北海道開拓を手掛けている。『冬の派閥』では、青松葉事件の後遺症をいやすべく考えられたのが藩士移住による八雲町(渡島半島の北部)の開拓だったとし、北海道開拓に多くのページが費やされている。

『冬の派閥』に比べ、本書では、「黎明期の写真家」という慶勝のもう一つの顔が活写されている。
 慶勝は長州征討の遠征に、写真撮影のための機材を持参して、多くの写真を残しているが、本書には、慶勝が切腹した長州藩家老一名ずつの写真を証拠として残そうとして、部下に拒否される場面がある。
 慶勝の死後、新政府軍の集中砲火を浴び白壁が無残にも崩れかけた会津若松鶴ヶ城の「一枚の写真」が慶勝の手許文庫の中から発見されたという。このエピソードをもとに、作家はまた一つの物語をつむぎ出している。慶勝はどんな思いでこの写真を入手保管し、またどんな思いでこの写真を眺めていたのか。尾張家の象徴つまりは徳川家のシンボルたる金の鯱の流浪の旅も織り込まれている。共に、これまた読みどころである。読者自らひもといてほしい。
 幕府の親藩、御三家筆頭たるにもかかわらず、真っ先に幕府を裏切ったのは合点がいかないと、裏切り男としてのイメージが強かった慶勝だが、本書を読んで、慶勝は最後まで徳川の一員として振舞って生きたことを読者は知るであろう。

 愛知県津島生まれ名古屋育ちの作家奥山景布子にとって、慶勝をはじめとする高須四兄弟への思いは同郷の先輩・城山三郎同様やみがたいものがあるのであろう。
 来年は「明治維新150年」。維新とは何であったか。「三つ葉葵」の最後の藩主を切々と描き、一見華やかでにぎにぎしい維新の裏面に秘められた真実を浮かび上がらせる人間ドラマである本書は〈幕末もの〉歴史小説として、出色であり、『冬の派閥』と甲乙つけがたい名作である。あわせ読みたい。
           (平成29年12月25日 雨宮由希夫 記)