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書評『島津三国志』

書名『島津三国志
著者 井川香四郎
発売 徳間書店
発行年月日  2019年9月30日
定価  ¥2500E

島津三国志 (文芸書)

島津三国志 (文芸書)

 

  書名に刻まれた「三国志」の意味は島津氏の薩摩、大隅、日向の「三州統一」から九州制覇をめぐって、豊後の大友氏、肥前の龍造寺氏など九州の有力大名との三つ巴の熾烈な戦いを意味しているのであろうが、本書は織田信長とは一歳若く、徳川家康より長生きした、島津家17代目の当主の島津義弘(しまづよしひろ)(1535~1619 85歳)の生涯を描いた歴史小説である。


 本書は「序」プラス12話の構成。「序」では、義弘の菩提寺妙円寺(みょうえんじ)(鹿児島県日置市伊集院町)の「十三基の地蔵塔」の前で、「若者」が「野守」に義弘の生涯を問いただすという形で進められる。この若者と野守の二人は誰なのかと読者に想像させながら読みすすめ、幾度となく存亡の危機に立たされた戦国期の島津家の苦難の歴史に思いを馳せる手法は優れており、歴史小説の醍醐味を味わうことができた。
 親兄弟でも殺し合うあの戦国の世にあって、深く信頼しあい、お互いが疑り合うことなどなく生きた、長男義久(よしひさ)、次男義弘、三男歳久(としひさ)、四男家久(いえひさ)の「島津四兄弟」の、肉親の情の厚さ、鋼に喩えられるほどの結束の固さには心底感動させられる。
「第一話 敵中突破」では、関ヶ原では西軍に与した義弘主従が家康本陣前を強行突破した「島津の退き口(のきぐち)」が先ず描かれる。義弘と豊久(とよひさ)の今生の別れのシーンは歴史の名場面であり、二人の会話は何度読み返しても感動的である。
 弟家久亡き後、義弘は家久の嫡子豊久を我が子同然に育て、豊久も義弘を実父のように懐き尊敬している。その豊久31歳が「御家の存亡はまだまだ義弘様にかかっております。必ず生き延びて、薩摩の土を踏んで貰いたい」と義弘の戦場離脱を懇願哀訴し、66歳の伯父義弘を助けるべく義弘の身代わりとなり、関ヶ原南方の烏頭坂で討死する。
 この伯父と甥の熱い信頼関係は島津軍の撤退を成就させ、ひいては島津家の将来を確かなものにした。関ヶ原の戦いでは、西軍の諸侯の中には参戦はしたものの、傍観的な態度をとったりするものが少なくなかった。そうした大名である毛利や長宗我部が減封、改易されたに対し、島津のみは戦い前の封土を維持できたのである。

「第五話 急ぐなよ」から「第六話 花の宗麟」「第七話 肥前の熊」までの3章は、島津氏による「三州統一」から、九州全土の覇権を握るまでの過程を描いている。
 元亀3年(1572)「九州の桶狭間」といわれる木崎原の戦いで日向の伊東氏を、天正6年(1578)「西の関ヶ原の戦い」といわれる耳川の戦いで豊後の大友氏を、天正12年(1584)3月、沖田畷の戦い肥前の龍造寺氏を降し、秀吉の九州侵攻より早く、全九州を制圧する手はずを整える。島津に勢いがあったこの時期を読むのはたのしい。
「第八話 闘将と愚将」から「第九話 おのれ秀吉」、「第十話 三顧の礼」までは秀吉の九州平定の有り様を描いている。


 天正14年(1586) 天下人太閤秀吉は惣無事令を掲げて軍を発動し、自らの策した「国分け」を問答無用で島津氏に呑むよう迫る。秀吉の大軍を前に、危機に直面した島津氏は「三十余年もかけて手に入れた九州全土をほんのわずかな間に、秀吉に奪われるとはまことに悔しい」と、父祖伝来の封土を死守すべく、四兄弟が一丸となって総力を振り絞る。自前の危機に直面した際、秀吉に泣きついて援けを乞うた「愚将」大友宗麟(おおともそうりん)とは異なり、「闘将」たる彼らは、安易な妥協策はとらず、かなわぬまでも対決の意志を堅持。全滅するのを避けるために、誰かひとりが残ればよいとの深慮遠謀から、根白坂(ねしろざか)の合戦を仕掛ける。歳久にあることを託して合戦した四兄弟の秘めたる思いとは……。
 戦いの最中で、意に反して秀吉の直臣になった家久は41歳で不慮の死を遂げる。家久の死は秀吉による毒殺という陰謀もぬぐい切れない。秀吉の軍門に降ることを肯ぜず、秀吉を狙撃した歳久は、後に、「梅北の乱」の首謀者とされ、義久は秀吉の命令によって泣く泣く弟歳久を誅殺せねばならなかった。
 豊臣政権下、島津氏は、内政は義久、外征は義弘の二頭体制を布く。内政の義久は秀吉と距離を置く「反豊臣」。外征の義弘は、「九州征伐」の段階では打倒秀吉の急先鋒だったが、「九州征伐」以後は豊臣政権とうまく歩調をとらねば島津家の生きる道はないとして、一見「親豊臣」の如く振舞う。義久と義弘は二人で一人のようにふるまい、豊臣政権に対して頑強に抵抗したのである。
 では、関ヶ原で、義弘が西軍に与したのはなぜか。義弘は初めから西軍に加わったのか、それとも、初めから加わる考えはなく、やむを得ず加わったのか。
 家康による上杉討伐が策された時、少数の手勢を率いて伏見にあった義弘は、家康に東軍による伏見城留守居役を命じられながら、家康老臣の鳥居元忠に入城を拒否され、石田三成の西軍に与せざるを得なかった。
「豊臣家に恩義はない」と感じている兄義久は「朝鮮出兵」に続き、「庄内の乱」で疲弊した領内の疲弊を理由に、兵を出し渋る。「朝鮮出兵」でも支援しなかった兄が、秀吉亡き後の豊臣政権内の争いに本腰を入れるとは思えないことを義弘はむろん熟知、了解している。「せめて5000の手勢があれば」と呻く義弘。どう動くにも、軍勢がおらねば話にならないのである。
「島津氏と関ヶ原」を作家はあざやかに描く。「石田三成による関ヶ原の合戦には、義久は断固、関わるなと反対した。が、義弘は石田三成への『義』から寡兵ながら参加した」と。言い得て妙ではないか。島津家の取次役であり、島津が生き残るためには頼るしかなかった男である石田三成と島津家は「国分け」「太閤検地」や「朝鮮出兵」などの局面において不思議な縁で結ばれていた。
 かくして、この義弘の決断が「島津の退き口」につながる。三成自ら義弘の陣地に出向いて援軍を乞うも、「動くなよ又急ぐなよ世の中の 定まる風の吹かぬ限りは」(日新公いろは歌)と義弘は動かない。やがて、「時の風」を感じた義弘は島津家を守るために、家康本陣に突撃する覚悟を決める。
 合戦の最中にも動かず、様子を眺めていた義弘だが、日和見していたわけではなく、寡兵であるがゆえに動きようがなかったのである。もし、義弘に5千、いや3千の兵があり、総大将として指揮を執っていれば、関ヶ原の戦いは西軍の勝利となっていたであろうことは想像するに難くない。慶長の役の「泗川(しせん)の戦い」では一万余りの兵で20万の明軍を撃ち破って殲滅的な大打撃を与え、敵兵から「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と呼び恐れられた義弘なのである。


 また、作家は、島津にあって、徳川にないものとして、“海に開かれた薩摩”を描いている。事実上のスタートの章である「第二話 遥かな海」では、元服前の又四郎こと義弘13歳が、生まれ育った薩摩国の伊作(いざく)亀丸城から、東シナ海を眺めつつ、夢である「異国との交易」に思いを馳せつつ、祖父の日新斎(じっしんさい)忠良(ただよし)(島津家中興の祖)の住む加世田の城に向かうシーンが描かれ、最終章では、晩年の義弘が、徳川幕府の厳しい鎖国政策を尻目に、琉球を通じての交易を摸索する様が活写されている。
 黒地に白の筆の「十文字」の旗の下、島津魂を発揮して戦場を駆けた義弘には「戦国時代の猛将」がいつしか世間に流布したイメージであろうが、本書で描かれる義弘は、あくまでも島津家の生きる道を摸索すべく、兄義久を補佐した知将。人間的にも情感豊かで、国際情勢にもバランス感覚に優れた魅力ある人物である。


 ついでながら、国の内外において、閉塞感のある現状において、人生道の味わいが感得される島津義弘ほど、NHK大河ドラマの主人公に相応しい人物はいないことを付記したい。

             (令和元年11月5日 雨宮由希夫 記)