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書評『尚、赫々たれ 立花宗茂残照』

書名『尚、赫々たれ 立花宗茂残照』
著者 羽鳥好之
発売 早川書房
発行年月日  2022年10月25日
定価  ¥2000E

 

 

 関ヶ原の合戦の後日談として、徳川家康が「立花宗茂関ヶ原に参加していれば、負けていた」と語ったというものが伝わっている。文禄の役碧蹄館の戦いで明の大軍を破るなど、当時「西国無双」と讃えられた勇猛な武人であった立花宗茂(たちばなむねしげ)(1567~1642)は関ヶ原で西軍に与した。が、敗戦で柳川13万石を没収され廃絶の憂き目にあったが、2代将軍秀忠の寵遇を得て、大名に復帰した。宗茂は改易されながらも、後に旧領に復活を果たした唯一無比の武将である。

 本書は第一章「関ケ原の闇」、第二章「鎌倉の雪」、第三章「江戸の火花」の3章構成である。「第一章」では、寛永8年(1631)、江戸城内において、3代将軍家光に伺候した御伽衆(おとぎしゅう)の宗茂が家光から関ヶ原の戦いにおける神君家康の深謀遠慮を問われるという形で物語は進行する。なぜ家光は今この時期に「関ヶ原」を持ち出してきたのか? 家光は家康に対して異常と思えるほどの崇敬の念を抱いていたと史家は評する。家光はそうした家康に敵対し大坂方に与して敗れた将たちの、生の声による関ヶ原を知りたがっていた、との設営である。
 が、家光の真の願いがそこにあるとしても、諸大名、特に外様大名は家光の諮問には大名取り潰しの意図が潜んでいるのではないかと、神経をとがらせ戦々恐々とならざるを得ない。将軍の代替わりごとに、難癖をつけて目障りの大名を改易に処することは幕府の常套手段であった。秀忠の死は翌寛永9年正月のことであり、加藤(かとう)肥後守(ひごのかみ)忠広(ただひろ)が改易され、同腹の舎弟駿河(するが)大納言(だいなごん)忠長(ただなが)が幽閉やがて自刃に追い込まれるのは、同年のことである。ゆえに、関ヶ原で西軍に与した宗茂は家光の剣呑な下命に強い不安を募らせる。代替わりを予知した不穏な世情の許に身を晒していた宗茂は時期が時期だけに、ある覚悟を決めて、自ら知る「天下分け目」を語り出していく。

 ついで、家光の御前に召し出されるのは同じく御伽衆の毛利(もうり)甲斐守(かいのかみ)秀元(ひでもと)(安芸宰相)である。関ヶ原で歯向い勝敗の鍵を握ったとみなされる戦国大名の雄・毛利氏こそが“代替わり改易”の格好の餌食にふさわしい。物語のスタートから、読者はその後の息詰まる展開に名状しがたい緊張と興奮を味わうことであろう。「関ヶ原」について、徳川家に都合の悪いこと、神君家康を軽んじるような失言などをすれば、答え如何によっては、「生まれながらの将軍」を自任する家光の勘気に触れる恐れもあった。下手をすれば宗茂もただではすまない。宗茂と秀元はかつて豊臣恩顧の一将として在り、今は共に将軍家の御伽衆として格別の扱いを受ける者として、この剣呑な動きに巻き込まれていく。
 秀元は思いのところを率直に開陳すべきか逡巡するが、真実を話さねばなるまいと、肚を括る。    
関ヶ原」の解釈は多種多様だが、毛利家一統の一連の動きこそが雌雄を決する鍵となったとすることは異論がないであろう。
 関ヶ原の戦いでは、西軍の諸侯の中には参戦はしたものの、傍観的な態度をとる者も少なくなかった。
 毛利(もうり)輝元(てるもと)の甥で毛利本家を継いだが、輝元に男児が生れるや本家を廃嫡され別家を強いられた毛利秀元の思惑。それに吉川(きっかわ)広家(ひろいえ)(民部少輔)の思惑、本家輝元の思惑もあった。毛利は東西どちらに与すべきか合意に至らぬまま西軍に合流したのである。

 よく言われるように、西軍は関ヶ原に於いて、先に布陣を終え、絶対優位な陣形で戦いに臨んだ。では、なぜ西軍は敗れたのか?
 あの日、関ヶ原の両軍対峙の戦場を目の当たりにはしていない宗茂は、南宮山(なんぐうざん)(東軍の本営岡山の西方に位する西軍の陣地)に布陣した毛利家一統の陣中で何が起こったか、かねてより疑問視していた。時に、宗茂自身は東軍方の京極(きょうごく)高次(たかつぐ)が籠る近江大津城を攻め落とす軍勢の中にあった。大津城が落ちたのは慶長5年(1600)9月15日。関ヶ原での勝負はわずか半日、宗茂の手のとどかぬところで終わっていた。宗茂関ヶ原の決戦には間に合わなかったのだが、30年前の「あの日」の毛利の布陣は宗茂にとって「(寛永8年の)いまも理解に苦しむ布陣」であり、積年の疑念であった。
 極めて重要な局面で、一進一退の攻防が繰り広げられた。石田三(いしだ)成(みつなり)は狼煙を上げ、松尾山の小早川隊、南宮山の毛利隊に参戦を促すも、彼らは動かない。南宮山の毛利隊が一転、山を降りて家康の背後に迫っていたら、勝敗は全く測りがたいものとなっていたことだろう。「刻一刻と変わる情勢の中、一時でも天が三成に味方したならば、関ヶ原は別の結果になっていたろう」(106頁)。
 宗茂は「宰相(さいしょう)の空弁当(からべんとう)」という後日談に深い疑問を抱いていた。毛利の表裏比興の動きがすべてを決した――との解釈には与しない。なぜ、あのような無様な結末でおわったのか――それが知りたい宗茂は家光御前で端座する秀元が真実を語ることを固唾をのんで見守っている。
 小早川(こばやかわ)秀秋(ひであき)の裏切りほど決定的ではなかったとはいえ、南宮山の毛利隊の動向は東軍の勝利に大きく貢献したことになる。ならば、吉川広家が内府家康に通じたことを、秀元はいつ知ったのか? それを知った時の秀元の驚きと怒りはいかばかりか。広家は早くから黒田(くろだ)長政(ながまさ)を通じて家康に内通し、表面上は西軍側を偽装した。広家は毛利隊の先鋒として南宮山の麓に陣することにより、秀元を山頂に押し上げた。よって、山頂の秀元は麓の広家が動かない限り動けなかった。
 加えるに、輝元は西軍の総大将でありながら、最後まで戦おうとせず、戦場どころか大坂城を一歩も出ることはなかった。欺瞞に満ちた戦いであった。
 秀元は関ヶ原の戦場で戦うことができずに、敗軍の将となる。不運の部将となったのは宗茂とおなじだが、秀元には「戦況を日和見して実戦に参加しなかった怯懦者」のレッテルが加味され嘲笑された。これに過ぎる屈辱はあるまい。
 南宮山では「攻め際を誤った」とする秀元の限りない悔恨は「吉川家は毛利であって毛利でない」の一言に集約されている。「毛利一統の進退は私の判断にあったが、広家を甘く見て、その独断を許し、最後の局面で優柔不断に終始した」との秀元の率直な述懐に宗茂は心打たれる。秀元はどうしても語れないこと「あの日の絶望と決意を」(63頁)をあえて語ったのだ。「最大の謎は方針の変更、ここだったのか!やはり秀元は決戦を望んでいた!」と宗茂は思い知る。

「毛利氏と関ヶ原」を作家はあざやかに描く。宗茂にとって「本当に初めて聞かされる話」(133頁)は読者にとっても同様であろう。  
 宗茂を主人公とした歴史小説には海音寺潮五郎の『剣と笛』や八尋舜右『立花宗茂』、上田秀人『孤闘 立花宗茂』、葉室麟『無双の花』などがあるが、本作が先行作品と著しく趣を異にするのは戦国の世を武勇で生き抜いてきた男・宗茂の晩年に焦点を当てていることである。
 戦乱の世の残り火など微塵もない家光の時代である寛永年間を舞台に、慶長年間の「関ヶ原」を体験した戦国の世の生き残りである主人公が、将軍の絶対権の確立を目指す3代将軍家光を前にして、将軍家になにがしかを伝えることが戦国生き残りとしての務めであるとする「尚、赫々たれ」との矜持で、「関ヶ原」の真実を述べるという手法には心底感動させられ、歴史小説の醍醐味を味わった。立花宗茂という男の出所進退の清潔な人柄、歩んできた人生の重み、そこから来る人間的な魅力が余すところなく描かれている。なお、本作は作者の歴史小説のデビュー作であるという。これまた驚くべきことである。

           (令和4年12月6日 雨宮由希夫 記)