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大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第四十二回 離れゆく心

 天正六年(1578年)、秋。明智光秀十兵衛(長谷川博己)を巻き込む、大きな事件が起きました。有岡城城主、荒木村重が信長を裏切り、城に立てこもったのでした。

 羽柴秀吉佐々木蔵之介)と、光秀は、荒木の説得にやって来ていました。光秀は娘の岸を、荒木の息子の嫁にやっていたのです。恫喝にも従わない荒木に、秀吉は怒って去っていきます。光秀も立ち去ろうとしますが、引き返してたずねます。

「そなたとはこれまで、身内として腹蔵なく話し合うてきた仲だ。何がご不満で、かかる仕儀となったのか、お聞かせ願えぬか」

 必秀は荒木の前に腰を下ろします。

「信長様は、わしに摂津の国を任せると仰せられながら、摂津の国衆や寺社から、過酷な税を取り、国衆たちがわしを恨み、離れていくのを、そしらぬ顔で見ておられる。将軍足利義昭(滝藤賢一)公を京から追い出した折もそうじゃ。いかなる理由があるにせよ、将軍はわれら武士の統領。それを犬でも扱うように、あの秀吉に任せ、裸足のみじめなお姿で追い立てていったその心がわからぬ」荒木は立ち上がります。「毛利殿は、将軍を再び京都へお戻しし、政(まつりごと)を行うと申されておる。わしはそれに従いたい」

 摂津の織田方の陣に戻った光秀は、細川藤孝(眞島秀和)にその場を任せ、備後の鞆(とも)にいる足利義昭に会いに行こうとします。藤孝に理由を聞かれ、光秀は答えます。

「すべての争いが公方(足利義昭)様につながっておる。このまま、放ってはおけぬ」

 鞆にある、義昭のいる館では、侍たちが殺気立っていました。しかし光秀は目通りを許されるのです。義昭は一日中釣りをして過ごしていたのでした。義昭と並び、釣り糸を垂らす光秀。

丹波の国衆がなかなかまとまらず、苦労しております」光秀は切り出します。「此度(こたび)は、荒木村重殿が、われわれから離れてしまわれた。皆口をそろえて、公方様をお慕いすると申します。公方様が毛利殿と共に上洛されるのを待ち望むと。しかし、毛利殿にその気配はない。かつて越前の朝倉がそうであったように、公方様をこの備後に留(と)め置くのは、おのれの威光を高めるためであり、上洛には興味はない。私にはそのように見受けられまする」

 義昭はうなずきます。

「その通りじゃ。毛利はこの西国一縁が手に入れば、それでよしとしておる。わしが信長を討て、上洛せよと文(ふみ)を送るのが、内心迷惑なのじゃ。ただ、わしの名を出せば何事も大義名分が立ち、味方も増える。それゆえ、わしが能役者のごとく、将軍の役を演じてくれればそれでよい」

「ならば」光秀はつばを飲み込みます。「京へお戻りになりませぬか。信長様は私が説得いたします。今のままでは、いくさが終わりませぬ。公方様がお戻りになれば、諸国の武士は、矛をおさめましょう」

 義昭はため息をつきます。

「どうであろう。昔、わしの兄、義輝は、三好の一党の誘いに乗り、京へ戻ったが、所詮、京を美しく飾る人形でしかなかった。そして殺された。信長のいる京へは戻らない」義昭は光秀を振り返ります。「そなた一人の京であれば、考えもしよう」

 光秀は摂津にある、織田方の陣に帰ってきました。そこに待ち構えていた秀吉に、

「今までどこへ行っておられた」

 と、問い詰められるのです。ごまかす光秀。秀吉は光秀と共に再度、荒木村重の説得に当たるように信長に命じられていました。光秀は一人で荒木の説得に出ようとします。一緒に行こうとする秀吉に、

「おぬしは説得に妨げになる。来るな」と言い放ちます。「おぬしがいては、まとまるものもまとまらん」

 しかし、光秀の説得もむなしく、荒木村重は織田軍に対し、籠城を続けました。光秀の娘、岸は、離縁されて戻ってきます。

 二条の館では、信長が家臣たちを前にして述べていました。

「寝返った者がいかなる末路をたどるか、白日のもとにさらさねばならん。明朝出陣し、荒木の有岡城をひと呑みに下して見せようぞ」信長は地図を踏みつけます。「見せしめに落城の後には、荒木の家中すべて、女子供も一人残らず殺せ。哀れみはいらぬ」信長は家臣たちの中から、光秀を見つけて話しかけます。「十兵衛。何か申すことはあるのか」

 光秀は述べます。

「西の毛利、大阪の本願寺丹波の赤井、東には武田勝頼。そし此度(こたび)の荒木。皆一つにつながった輪と見るべきでございます。我らは、その輪に囲まれ、まことに苦しきいくさを続けなければなりません。荒木とは、争うより、もそっと話し合うて折り合いをつけるべきかと」

 信長は意外にも穏やかにいいます。

「案ずるな。本願寺と毛利は、朝廷にお願いして、和議に持ち込むつもりじゃ。手筈は秀吉がつけておる」

「かかる折こそ帝(みかど)にお働きいただかねば」

 という秀吉。信長は引き続き、光秀に話します。

丹波はそなたに任せる。武田は、家康が始末をつければよい。さすれば、荒木は丸裸じゃ。大軍率いて一気に片をつける」

 天正六年末、織田信長の軍勢は、荒木村重有岡城を力攻めにしました。しかし堅牢な城と、勇猛果敢な荒木勢を前に、苦戦となり、いくさは一年にわたる持久戦となりました。 

 光秀の館に、ひそかに菊丸(岡村隆史)がやってきます。徳川家康が会いたがっているというのです。光秀は菊丸に、摂津沖に浮かんだ船に案内されます。家康は光秀に話します。

「私は相も変わらず何かに束縛され、そこから逃げ出したい。おのれが思うままに生きてみたいと願うて暮らしております」

「家康殿のような大大名を束縛するものとは、いかなるものでございますか」

 と、光秀はたずねます。

「例えば、織田信長様」家康は言い切ります。「実は私は、敦賀の今川家に人質としていたころ、京よりお越しになっていた和歌の大家、三条西真澄様より教えを受け、以来なにかと相談をいたし、心の師として参りました。此度の難題はぜひぜひ、明智様をお頼りすべしと。信長様が、私の嫡男、信康を殺せと命じてこられました。その母である、私の妻も共に殺せと。二人は敵の武田勝頼に通じ、三河を乗っ取るたくらみがあるというのです。たとえそれが事実であったとしても、わが息子に不始末があれば、私がしかるべく処断いたします。信長様に殺せといわれるような筋合いのものではない。今は武田と戦うため、共に手を携えておりますが、武田を討った後、我らがいかように扱われるか、疑う者があまたおります」家康は決意の表情です。「私は事を構えるつもりは毛頭ございませぬが、あまりに理不尽な申されようがあれば、おのれを貫くほかありませぬ」

 京の二条の館に、光秀は信長を訪ねます。

三河の徳川家に関わる、噂話でございますが」

 と、光秀は話し始めます。信長が家康に妻子を殺すように命じたと聞いたが、本当なのか。敵の武田に通じているのだ。やむを得まい。という信長。

「もしそうだとして、信康殿に死をお命じになるのは、いかがかと存じまするが」

「なにゆえ」

「家康殿がもしそれを拒まれた時、殿は面目を失うことになりかねません」

 それに対し、信長は、家康を試しているのだ、と答えます。

「わしは白か黒かをはっきりさせたいだけじゃ」

「それでは人はついてまいりませぬ」

「ついてまいらねば成敗するまでじゃ」

 いつの間にか二人は怒鳴りあっていました。信長は吐息をつきます。

「頼む。これ以上わしを困らせるな。わしが唯一頼りに思うておるそなたじゃ」しかし信長は表情を変えるのです。「だが、そなたは近頃、妙なふるまいをしておる。わしには、その方が気がかりじゃ」

「私が」

「帝(みかど)に招かれ、御所へ参ったであろう。帝は何の用で、そなたを呼ばれた」

「それは」

「いかなる用で、わしの頭越しにそなたを招かれた」

「月見のお供をせよと」

「そこで、わしの話が出たのか。申せ。帝は、わしのことについて話されたのであろう。何と仰せになった」

「真澄卿より、御所でのことは恐れ多いゆえ、一切口外をせぬようにと」

「この信長にもいうなと」

「何人(なんぴと)にであれ、帝のお言葉は、他言をはばかるべしと」

「わしが言えと命じてもか。わしが手をついて頼んでもか」

「平にご容赦くださいませ」

 頭を下げる光秀。信長は目をむいて立ち上がります。

「容赦ならぬ。帝は、わしを悪しざまに仰せられたのか。それゆえ言えぬのか」

 申せ、と叫んで信長は必秀の額に、何度も扇子を振り下ろします。光秀の額の端に、血が滲みます。信長は荒い息をついて、扇子を投げ出します。

「なぜじゃ。なぜこうなる」信長は戻って座ります。「帝を変えよう。譲位していただこう。それを急がせよう。それが良い」

 信長は光秀に、丹波平定に励め、と申しつけます。そして、帰れ、と命じるのです。

 光秀は京の館に帰ってきます。そこに駒(門脇麦)が来ていたのです。光秀の額の傷を見て驚き、洗おうとします。駒は備後にいる義昭から文(ふみ)が届いたことを話します。光秀と釣りをして嬉しかった。光秀となら、麒麟を呼んでこれるかも知れない。そう義昭は書いてきたのでした。