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頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー14

 頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー14

『秀吉を討て 薩摩・明・家康の密約』(松尾千歳、新潮新書

 

 慶長5年(1600)に起きた関ヶ原の戦いで、石田三成を中心とする西軍は、徳川家康に率いられた東軍に敗れた。
 その関ヶ原で、目前の合戦には参加せず、ほぼ勝敗が決してから敵中突破を決行したのが、島津義弘を大将とする島津軍である。敵中に活路を見いだすという前代未聞の退却戦を決行した島津軍だったが、負け戦に変わりはない。
 だが、そんな島津だが、戦後、所領は安堵された。

①    事実上の処分なしというべきで、所領を没収された宇喜多秀家長宗我部盛親立花宗茂(後に復活)等に比べて余りにも優遇されていないだろうか。(合戦に参加しなかった毛利輝元も、ほぼ三分の一に減じられている。)
②    さらに、徳川家康は、慶長11年(1606)に島津義弘の子で(兄良久の養子となって)当主となっていた島津忠恒偏諱を与え「家久」と名乗らせている。「家」は徳川宗家の通字であり、御三家、前田家にも与えられていない。島津家への優遇というべきだろう。
③    そして、翌慶長12年には、島津氏の琉球出兵を認めている。これは事実上の琉球(12万石)加増というべきで、他に似たような事例はなく、これも優遇というべきである。

 島津の勇猛を恐れた、あるいは辺鄙な薩摩の処分などどうでもよかった等の説はある。しかしながら、それでもこれほどの優遇は、奇異というべきで、筆者は、その理由は定かではないとしながらも次のような考察を行っている。

①    まず、家康は反豊臣であり、朝鮮出兵を止めるために島津義久と手を組んでいたのではないか、文書などには出てこない裏の繋がりがあった可能性がある、という。
②    次に、家康は島津が明と太いパイプを持っていて、明との国交回復は、島津を頼らざるを得なかったのではないか。(家康の死により、明との国交回復方針は破棄される。)
③    そして、島津氏に琉球出兵を許可したのも、より明との太いパイプを持つ琉球を島津の支配下におき勘合貿易を実現しようとしたのではないか、というのである。

 室町時代足利義満(一時中断後、足利義教から再開)に始まった明との朝貢貿易は、勘合貿易として足利氏から細川氏大内氏へとその主体を変えるが、いずれも戦国時代を生き残れなかった。(細川幽斎の細川家は、細川家の末流で、かつ没落しており、そもそも貿易に従事していなかった。)
 徳川家康は、明との勘合貿易の復活、つまり国家間の貿易実現を目指していた。そのために島津氏を優遇したのではないか、というのである。
 島津氏の支配する薩摩、大隅、日向の三州を中心とする南九州各地は、古くから大陸との交易が盛んで、中国等の異国人が立ち寄り、あるいは居住していた。その名残が「唐人坊」や「唐坊」などの地名として今日も残っている。(坊津は、日本三津の一つとして有名。)
 島津義久によって三州が統一された後は、許儀後、郭国安など島津氏に仕える中国人もいた。さらに、藤原惺窩の見た日記から薩摩の港に異国船が停泊し、異国人が町を歩き回り、異国へ渡ろうとする者たちが集まっていた光景が、南九州では当たり前であったと紹介している。
 そうしたなか、朝鮮出兵を知った許儀後の知らせにより明から薩摩に工作員が派遣され、明と島津が合力する計画があったというのである。この計画は、筆者の独創というわけではなく、すでに先行する研究が文中で紹介されている。
この計画に家康も加わっていたのではないかというのが筆者の主張で、それがタイトルに反映されているのである。 

 本書は、新書という性格上、朝鮮出兵を巡る明と島津そして家康との合力計画から明との交易を目指す家康と義久の思惑の違い、さらには海洋国家としての薩摩を総論的、概説的にに述べているが、その構想、叙述は魅力的であるばかりでなく、夢がありロマンがある。
 ほぼ戦国末と明治維新のときしか話題となることのない島津氏と薩摩だが、こうした新たな視点は、島津氏や薩摩に対してさらなる興味をかきたてずにはおかないだろう。
 東シナ海を地中海のように「環シナ海」として周りの国々を見ると、さらに島国日本を巡る歴史はより豊穣なものになるのではないかとの認識を新たにする本である。
 日本からみれば辺境、僻地の薩摩だが、環シナ海としてみれば、外国への玄関口となる。これだから、歴史は面白い!