天正三年(1575年)。将軍、足利義昭を追放した織田信長(染谷将太)は、幕府に変わり、畿内を掌握し始めました。しかし、信長に抗(あらが)う勢力は、各地に残っていました。
本願寺にて宗主の顕如(顕如)が、武装した信者たちに語ります。
「信長は無体にも、この本願寺の地を、明け渡せといっておる」顕如は扇子を突き出します。「仏法の危機は、今、この時ぞ。この戦いに粉骨し、仏敵をたいらげるのじゃ」
顕如率いる本願寺に対し、信長は五年にわたって攻略を続け、天下の静謐(せいひつ)を目指していました。
朝廷は信長に対し、武士には異例ともいえる高い官職を授けます。「権大納言 右大将」というものでした。
信長は岐阜に戻り、次なるいくさ支度にかかり始めます。
その岐阜城に、三条西実澄(石橋蓮司)がやって来ます。実澄は信長に述べます。
「京には京の理(ことわり)がある。それを是非ともお伝え申さねばと。なぜ京を離れられた。右大将に任じられたあと、任官のごあいさつにも見えられぬ。名代として、みどもが帝(みかど)にごあいさつ申し上げた次第。これは前代未聞のこと」
「武田が美濃に攻め入りまして」信長が話します。「事と次第では、この信長も、出陣いたす所存でございましたゆえ」
「もそっと、京にいていただかねば。そして、朝廷のしきたりに従っていただかなくては」実澄は声を張ります。「帝をおろそかにされては困る」
信長は了解します。京には嫡男の織田信忠(井上瑞稀)留らせるといいます。家督を譲ることにしたというのです。実澄は驚きます。
「そもそも信長殿は、いつまでいくさをなされるおつもりか。かの本願寺とのいくさも、この五年、一向におさまらん。お上は、それを案じておられる」
「帝が」信長は片眉を上げます。「ならばおうかがいいたす。信長が献上いたした蘭奢待(らんじゃたい)、毛利に下しおかれたと聞くが、なにゆえ。毛利は裏で本願寺を支えておる、いわば敵方。そういうお話を聞くにつけ、この頃、帝のお姿が遠ざかって見えまするが」
信長は、京に近い近江の国、安土に城を築き始め、政(まつりごと)の中心を移しました。「天下布武」の旗印のもと、信長の目指す世は、大詰めを迎えていました。
織田軍は、本願寺の南に位置する、天王寺砦を拠点に、本願寺と熾烈(しれつ)ないくさを続けていました。そうした中、本願寺攻めの総大将、原田直政が討ち死にします。戦意を失った織田軍は、天王寺砦から、打って出ることも、逃げ出すこともできぬほど追い込まれ、籠城するほかありませんでした。松永久秀(吉田鋼太郎)がいいます。
「敵は一万三千。鉄砲も千挺はある。手強いぞ」
「この天王寺のだけでは手勢少なく、事を進めるには無理がある」
信長がこちらに向かっていると佐久間信盛(金子ノブアキ)がいいます。それまでに打つ手を考えなくてはなりません。光秀は腕に怪我をしていました。丹波攻めから引き続いての戦いで、光秀は疲れ果てていました。信長が到着します。甲冑(かっちゅう)も身につけていません。
「何を手間取っておる」
信長はいらだちを伝令兵にぶつけます。一向宗の信者ではないかと言いがかりをつけ、棒で突いたり、蹴り飛ばしたりします。光秀がそれを止めます。敵が思った以上に手強い。鉄砲の数も多い。侮(あなど)ってはならない。信長のいらだちはおさまりません。
「数ではない。気合い足りんのじゃ」信長は叫びます。「今すぐ打って出よ。行け」
しかし動くものはいません。光秀が皆を代弁します。
「皆、疲れておりまする」
「そうか、ならばわしが行こう。いくら数があったとて、相手は坊主。坊主の鉄砲など当たらぬ」
「敵の中には紀州雑賀(さいか)の鉄砲衆があまたおり、狙いを外さず、撃ちかけて参りまする」
光秀が止めるのも聞かず、信長はひとり、砦の外に立つのです。一斉に敵の鉄砲が火を噴きます。信長は味方に命じます。
「かまわず撃て」
しかし飛来する敵弾が信長の腿(もも)を撃ち抜くのでした。とっさに飛び出して、信長を引き倒す光秀。
「鎧(よろい)も着けずに、無理でございます。殿のお命、殿お一人のものではありませぬ。お考えください」
光秀は古くからの家臣である藤田伝吾(徳重聡)に信長をかつがせ、その場を撤退するのです。信長が砦で皆に連れられていくと、光秀は松永久秀に水を差し出されます。松永はいいます。
「全く近頃の信長殿にも困ったものだ。あえて見つけて、無理を申される。無理を通される」
松永がしゃべっている最中に、光秀は膝を突きます。そのまま倒れ込むのです。
倒れた光秀は京にある光秀の館にまで運ばれます。健吾が妻の熙子(ひろこ)(木村文乃)に報告します。傷は浅いが毒が入ったのか、たちまち弱ってしまった。大阪の医者は仏罰だといって怖がるばかりで、やむを得ずここまで運んできた。熙子は裸足のまま夜道に飛び出します。足が傷つくのもかまわず、走り続け、医師の望月東庵(堺正章)を呼びに行きます。東庵は光秀の容態を診ていいます。
「熱があまりに高すぎる。医者として手を尽くすが、あとは神仏がご加護を下さるよう」
熙子は雨の中、神社で、お百度参りを始めます。数珠玉を石の上に置いていきます。しかし東庵に薬を届けて帰ろうとしていた駒(門脇麦)に、倒れている姿を発見されるのです。駒に介抱され、熙子は元気を取り戻していきます。思い出話をして、駒と笑い合います。
光秀がついに意識を取り戻します。その手を熙子が握るのでした。
数日後、なんと信長が光秀の館にやって来ます。挨拶もそこそこに、いくさの話を始めます。本願寺を叩くには、兵糧や弾薬を運んでくる毛利を討つことだ。そして今後の大和についての話を始めるのです。大和を押さえていた原田直政が討ち死にした。筒井順慶に治めさせようと思う。
「しかしそれでは、長年、大和を領地として治めてこられた、松永久秀殿のお立場が」
光秀は考え直すようにいうのです。そこへ光秀の娘たちが、茶菓子を持って入ってきます。信長は上機嫌になり、次女のたまの嫁ぎ先を自分が決めてやるといいだします。そして建設中の安土の城について話し出すのです。去り際に信長はいいます。
「大和の話しゃが、やはり筒井に任せる。よいな」
三河の岡崎城では、徳川家康(風間俊介)が妻の築山殿と話していました。織田の娘が徳川に嫁いできて、孫を産もうとしていたのです。女の子が生まれたと聞いて築山殿は部屋を出て行きます。家臣に確認して家康は立ち上がります。庭に菊丸(岡村隆史)が来ていました。京の様子を聞いてから、家康はたずねます。
「信長様は今、この徳川をどう見ておられる」
「正直に申し上げて」
「かまわぬ」
「今は、三河のことなど、お忘れではないかと」
衝撃を受けた様子の家康。菊丸は続けます。
「信ずるに足るとすれば、やはり、明智様かと」
「そうか」家康はうなずきます。「やはりな」
京では、光秀の病が癒えるのと入れ替わるように、熙子が胸の病で床に伏せっていました。その熙子のために病魔退散の祭りが行われます。
その夜、熙子はひとり、花びらをもてあそんでいました。祭りの余韻を味わっていたのです。そこへ光秀がやって来ます。熙子いいます。
「坂本城に連れて行っていただいた時は、夢のようでございました。越前での暮らしは、子供たちも幼く、苦しい中にも、張りのある日々でございました」
「わしの留守を、非常に良く守ってくれた」
「十兵衛様」
「なんじゃ」
「ずっと思うておったことがあります。越前へ逃れる途中。駒さんが話していました。世を平らかにする者が現れたとき、そこに訪れる生き物のお話し」熙子は光秀を見上げます。「私は、麒麟を呼ぶ者は、十兵衛様、あなたであったなら。ずっとそう思っておりました」熙子は夜の庭を見ます。「あといくつ、いくさをしのげば、穏やかな世が見られるのでしょうか。岸やたまの子は、いくさを知らずに育つでしょうか」
光秀は熙子の肩を抱きます。
「眠くなりました」
と、熙子はいいます。
「ずっとこうしていよう」
光秀はそう声をかけます。花びらが風に吹かれていきます。
天正四年秋、光秀の妻、熙子はその生涯を閉じました。