日本歴史時代作家協会 公式ブログ

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大河ドラマウォッチ「鎌倉殿の13人」 第46回 将軍になった女

 義時(よしとき)(小栗旬)の妹でもある実衣(みい)(宮澤エマ)は、息子の阿野時元(ときもと)(森優作)を、次の鎌倉殿にしようと画策します。戯言(ざれごと)と称(しょう)し、まずは三善康信(小林隆)に相談します。三善は、朝廷が任じたという証(あかし)である「宣旨(せんじ)」が必要だと述べます。次に美衣が相談したのは、三浦義村(山本耕史)でした。三浦は、宣旨をもらうには、こちらから願い出るしかないと話します。普通は無理だが、鎌倉殿がいないこの時期に、もう時元に決まってしまったと申し出れば、朝廷は宣旨を出さないわけにはいかない。

 しかし美衣の企(くわだ)てを、義時は感づいていたのです。

「食いついてきた」と、三浦は義時に告げます。「あとは時元を挙兵に追い込むだけだ」

「それでよい」顔も上げずに義時はいいます。「災いの火種は放っておけば、いずれ必ず、燃え上がる。公暁(こうぎょう)のようにな。鎌倉は、誰にも渡さん」

 京では、後鳥羽上皇(尾上松也)が、鎌倉からの文(ふみ)を放り投げていました。

「始末を詫びて、辞退してくるかと思ったら、ぬけぬけと催促してきよった」

 慈円(じえん)(山寺宏一)がいいます。

「あくまでも我らの側から断らせようとしているようで」

慈円僧正(そうじょう)。決して向こうの思い通りにさせるな」

「何か手を考えましょう」

「こうなったら化(ばか)し合いよ」

 実朝暗殺から、ひと月も経たない二月二十二日。阿野時元は挙兵を目前に、義時の差し向けた兵に囲まれ自害します。

 美衣は北条政子(小池栄子)に会いに行きます。

「みんないなくなって」

 と、政子を責めるのでした。政子はいいます。まもなく詮議(せんぎ)が始まる。何をいわれても、決して認めてはいけない。

 詮議が開始されます。大江広元(栗原英雄)が問います。

「ではあくまでも関わっていない、と申されるのですな」

「はい」

 と、美衣は力なく返答します。大江は三善康信に尋(たず)ねます。

「以前、美衣殿から、朝廷の宣旨について聞かれたと申されておりましたな」

 三善は覚えていないと、とぼけます。そこへ時元がこもっていた寺から、文書が見つかったとの知らせが入るのです。そこには、宣旨をもらえれば、あなたが鎌倉殿になる。挙兵すれば、御家人はみな従うはずだ、と書かれていました。しらを切る実衣でしたが、ついにいいます。

「もう結構。認めます。私が書きました」 

 政子は捕えられている美衣を訪ねます。美衣はいいます。

「首はどこにさらされるのかしら。きちんとお化粧してもらえるんでしょうね。だいたいみんな、顔色悪いから。かわいく、頬紅(ほおべに)つけてあげて」こらえきれなくなった美衣は政子に抱き着きます。「死にたくない」

 政子も強く美衣を抱きしめるのでした。

 京より返事が来ます。約束通り、親王を下向(げこう)させたい。が、それは今ではない。鎌倉側から断るのを、待つつもりのようでした。三善康信がいいます。

「都人(みやこびと)のやりそうなことにございます。自分から断ると、相手に借りを作ってしまうので、あえて相手に断らせる。姑息(こそく)なやり口にございます」

 政子が大江広元に相談します。

「御所の外に出てみたいの。外の者たちと話がしたい。どのような暮らしをしているのか、この目で確かめたい。つらい思いをしている人がいたら、励ましてあげたい。わたくしは、わたくしの政(まつりごと)がしてみたいのです。駄目かしら」

「では、施餓鬼(せがき)を行うのはいかがですか。民と触れ合うには、よい機会かと」

 施餓鬼とは、法要の後、供え物を貧しい人にふるまうことです。政子は訪れた人々に声を掛けます。励まそうと考えていた政子でしたが、逆に人々に励まされることになります。民は三人の子を亡くした政子に、深い同情を寄せていたのです。

 夜、食事をする義時に、妻の、のえ(菊地凛子)が話します。泰時がまた歯向かったそうではしないか。跡継ぎのことを考えてもいいのではないか。義時がいいます。

「嫡男(ちゃくなん)は太郎(泰時)だ。確かにあいつは出過ぎたことをいうが、父親に平気でたてつくぐらいがちょうどよい」

「でもね、昔のことをほじくり出すのは気が引けるけど、あの子の母親は訳ありだったんでしょう」

「八重は、私も周りも大事にしていた」

「太郎では、世間が納得しません。そもそも、八重さんの比奈さんも、北条にとっては仇(かたき)の血筋ではありませんか」

 義時は膳(ぜん)に箸を投げ出します。

「何がいいたい」

「政村(まさむら)も、十五歳になりました。あなたと、私の子が、跡を継ぐべきです」

「私はまだ死なん。今する話ではない」

「こういうことは、元気なうちにしておいたほうが良いのです」

 義時は立ち去ってしまうのでした。

 京から、実朝弔問(ちょうもん)の使者が訪れます。上皇は、二つの荘園について、地頭の任を解くようにいってきました。その地頭は義時です。上皇は嫌がらせをして、事を有利に運ぼうとしているようでした。義時は要求を突っぱねることにします。しかし上皇は、また次の手を打ってくることが考えられます。

 義時は、政子とところへ話をしに行きます。

上皇様は試しておられるのです。実朝様亡き後(あと)、この鎌倉がいう事を聞くかどうか。下手に出れば、この先、我らは、西に頭が上がらなくなります」

「ではどうするのですか」

「強気でいきます。親王の下向のため、あくまで向こうが断ってくるのを待つ」

「大事なのは、一日も早く新しい鎌倉殿を決めることではないのですか」

「五郎(時房)が軍勢を率いて京へ参ります。その数一千。今すぐ返事をするように、脅しをかける。上皇様は、非を詫(わ)び、泣きついてくる。我らはそれを飲む。代わりに、新たな方をお選びいただく。こちらの意のままになるお方を」

「ほかの宿老たちも、同じ考えなのですね」

「私の考えが、鎌倉の考えです」

 三月十五日。北条時房(瀬戸康史)が上洛します。京の院御所に入り、後鳥羽上皇と対面します。上皇は、時房に蹴鞠(しゅうぎく)の勝負を迫ります。百近くまで蹴りあう二人でしたが、結果は引き分けとなります。疲労困憊の上皇は時房にいうのです。

「本音をいう。親王を鎌倉にやる気はない。代わりのものを出す。これで手を打て」

 慈円が、極秘に鎌倉へやってきます。寅の年、寅の月、寅の刻の生まれのため、三寅(みとら)と呼ばれる人物を下向させるようとしていることを伝えます。摂関家の流れをくみ、なおかつ源氏の血を引く人物。その歳は二歳でした。

 京で、後鳥羽上皇が酒を飲みほしています。

「結局は鎌倉の思いのまま。腹の虫がおさまらないのう」上皇は階下に降ります。「どう思う。秀康(ひでやす)」

 藤原秀康(星智也)は答えます。

「私が気になるのは、慈円僧正。此度(こたび)の件、お一人で話を進められ、いささか図に乗っておられるようにお見受けいたします」

 藤原兼子(かねこ)(シルビア・グラブ)がいいます。

「確かに、新しく将軍になられる三寅様は、僧正のお身内」

 藤原秀康がいいます。

「これ以上、僧正の好きにさせてよいものか」上皇の前に膝をつきます。「この藤原秀康にお任せいただければ、ひと月で鎌倉を攻め落としてごらんに入れます」

 上皇が頷(うなず)きます。

「頼もしいな。秀康」

 七月十九日。三寅が鎌倉に到着します。義時の館に入りました。実朝が殺されてから、半年が過ぎていました。

 義時は政子と話します。

「三寅様はまだ幼く、元服されるのを待ってから征夷大将軍となっていただきます」

「それまではどうするのですか」

「私が執権として政(まつりごと)を執(と)り行いますので、不都合はないかと」

「なりません。あなたは自分を過信しています。三寅様はまだ赤ん坊ですよ。御家人たちがおとなしく従うはずがない。また鎌倉が乱れます。わたくしが鎌倉殿の代わりとなりましょう」

「姉上が」

「もちろんです。鎌倉殿と同じ力を認めていただきます。呼び方はそうですね、尼将軍(あましょうぐん)にいたしましょう」

 その日の夕刻に行われた、政所(まんどころ)始め。それは、三寅のお披露目と同時に、尼将軍政子のお披露目でもありました。

 義時と政子は、廊下を歩きながら話します。

「姉上にしては珍しい」

「あら、そうですか」

 義時は政子の前に立ちふさがります。

「随分と前に出るではないですか。私への戒(いまし)めですか」

 政子は微笑みます。

「すべてが自分を軸に回っていると思うのはおよしなさい。どうしてもやっておきたいことがあります。よろしいですね。尼将軍のいう事に、逆らってはなりませんよ」

 政子は美衣の捕えられている部屋を訪ねます。

「放免(ほうめん)になりましたよ。もう大丈夫。誰もあなたをとがめはしません。わたくしは、尼将軍になりました。誰もわたくしには歯向かえない。小四郎(義時)もね」政子は美衣を抱きしめます。「みんないなくなっちゃった。とうとう二人きり」

 政子は大姫の唱えていた呪文を唱えてみせます。やがて美衣も和し、笑顔を見せ、そして涙を流すのでした。