日本歴史時代作家協会 公式ブログ

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大河ドラマウォッチ「青天を衝け」 第10回 栄一、志士になる

「俺を江戸に行かせて欲しい」

 と、栄一(吉沢亮)は父の市郎右衛門(小林薫)に頼みます。

「何の話かと思ったら」

 市郎右衛門は作業の手を休めません。

「前に、とっさまと一緒に江戸に行ったんべ。そっから、この国がどんどん変わった」

「だから、百姓には何の関わりもねえ事といっただんべ」

「関わりねえ事ねえで。とっさまも知ってるはずだ。横浜に港が開かれてから、物の値は上がるばっかりで、麦なんてもう三倍だで。かっさまやお千代が育ててる、お蚕さんだって、横浜の異人が買いあさるせいで、みんな外に流れちまってる。百姓だって、この世の一片をになってんだ。俺はもっと知りてえ。今、この国がどうなってんだか。江戸で、この目で見てきてえんだ」栄一は膝を突き、頭を下げます。「頼む、とっさま。江戸に行かせてくれ」

「まっことお前は良くしゃべる。でもまあ、そんなに行きたけりゃ行ってこい」驚く妻のゑい(和久井映見)に、市郎右衛門はいいます。「なあに、百姓の分さえ守りゃ文句はねえ」そして栄一に向き直ります。「けど、仕事の少ねえひと月だけだ。けえって来たら、うんと働けよ」

 栄一は喜びの声をあげます。栄一の妻の千代(橋本愛)は、複雑な表情を浮かべるのでした。

 その頃、栄一の目指す江戸では、大老井伊直弼が攘夷派の志士に暗殺され、代わりに政務を執ることになったのが老中、安藤信正対馬守)でした。安藤は天皇の妹君、和宮(かずのみや)を将軍家へむかえ、朝廷との結びつきを深めようとしていました。

 栄一は江戸に出てきました。あまり浮かれた表情ではありません。先に来ていた喜作(高良健吾)が栄一を迎えに来て、思誠塾に案内します。塾頭の大橋訥庵(山崎銀之丞)が栄一にいいます。

「江戸は、呪われたのじゃ。とてつもない大地震で、街は崩れ、火の海となり、ようやく天の怒りが収まるかと思えば、桜田門で、天下の大老が血祭とは。なあ河野」

 訥庵は片目の傷を隠す者に声を掛けます。河野と呼ばれた男が言葉を継ぎます。

「はい。これもすべて、神の国に異人を入れた天罰」

 栄一は納得いきません。

「そんなら、どうして日の本の神様は、神風を起こしてくれねえんだ。天罰なんか起こしてねえで、風で異人も病(やまい)も吹き飛ばしてくれりゃいいのに」

 栄一の背後にいた男たちが、神を冒涜するかと栄一に迫ります。栄一は外に押し出されます。河野が叫びます。

「貴様、ここから出て行け」

 しかし大橋訥庵が声を上げるのです。

「さもありなん。おそらく、幕吏の大罪の悪行に、神はもう、助けたいという力も出ぬのであろう。病弱な将軍ではなく、水戸の出の、一橋様が将軍であれば、このようなことにはならなかったはず」訥庵は栄一に開いた扇子を突きつけます。「よいか減らず口よ。我らが、神風を起こすのじゃ」

 男たちが賛同の声を放ちます。そこに長七郎がやってきて、栄一に親しげに声をかけるのでした。

 夜になり、栄一は長七郎と喜作の三人で酒を酌み交わします。長七郎がいいます。

「今や幕吏は夷狄(いてき)のいいなりだ」

 栄一は幕吏の意味を聞きます。喜作が説明します。夷狄のいいなりの幕府の犬どもを、尊王攘夷の志士はそう呼ぶとのことでした。

 栄一たちは片目の傷を隠した、河野顕三たちとも話します。

「今一番倒すべき幕吏は、国賊、安藤対馬守だ」

 と、河野は言い放ちます。水戸と長州が手を組んで、安藤を倒そうとしたが、国元にもめごとが起こって頼りにならない。河野はいいます。

「そう考えれば、そのような後ろ盾のない俺たち、草莽(そうもう)の志士の方が、いっそ動きやすい」河野は「草莽」の意味を説明します。「日の本を思う心のみで動く、名もなき志士。つまり我らのことだ」

 剣術家の真田範之助(板橋俊谷)が栄一や喜作にいいます。

「いずれは、尾高先生やおぬしらも奮起する時が来るであろう。覚悟しとけ」

 しかし河野は栄一たちを見下ろしていうのです。

「尾高はともかく、田舎に引っ込んで百姓をしているこいつらに何ができる」

 栄一は立ち上がります。

「いちいち気に食わねえ奴だな。しかしお前の言葉には胸を打たれた。俺も、今日この日から、草莽の志士になる」

 栄一はひと月が過ぎても血洗島に帰ってきません。女たちが作業している中を、明るい表情で入ってくるのです。

 夕暮れ時、栄一は千代と二人きりで話します。

「俺はなんだか、まだ頭ん中がごちゃごちゃしてる。ここと、江戸の風があまりに違いすぎて」

「江戸の風はどのように」

 栄一は千代を背後から抱きしめます。

「お前に会いたかった」

 この頃から、血洗島には日本各地から志士や脱藩浪士が立ち寄るようになりました。尾高惇忠(田辺誠一)が皆にいいます。

「このままでは日の本は骨抜きにされ、食い潰されてしまう」

 和宮降嫁の道筋に、中山道が選ばれました。総勢三万人を超える行列が、血洗島付近を通ることになったのです。岡部も総出で人足を出すことになります。栄一が市郎右衛門にたずねます。

「俺たちに道中の世話をしろというのか」

「その間、田畑はまた荒れ放題だ」

「ちょっと待ってくれ、とっさま。これは幕吏のはかりごとだ。いわれるがままにそんな末端な御用を務めろというのか」

「ああ、しょうがねえ。それが百姓の務めだ」

「だとしたら、百姓とはなんとむなしいもんだい」

 栄一は叫ぶようにいうのでした。それを聞いていた千代がうずくまります。子を授かったのでした。栄一は喜び、笑い出します。

 作業をする栄一に千代はいいます。

「よかった。このお子のおかげで」千代は自分の腹をさすります。「ようやく栄一さんの、そんなお顔を見ることができた気がします」

「そうか。俺はそんなに険しい顔をしておったか。江戸では、この世を動かすのはなんも、お武家様だけじゃねえってことを学んだ。俺たちだって、風を起こせるんだと。俺は今、この日の本を身内のように感じてる。わが身のことのようにさえ思えてくる。だから、いろいろ納得がいかね。すまねえ。腹に子のいるおなごにする話でねえな」

 千代が口を開きます。

「私は、兄や栄一さんたちが、この国のことを思う気持ちは、尊いものだと思っております。そしてそれと同じように、お父様が、この村や、この家のみんなを守ろうと思われる気持ちも、決して負けねえ、尊いものだとありがたく思っております」

 それを聞いて栄一は考え込むのでした。

 文久元年十月二十日。和宮の一行は江戸を目指し、京を出発しました。血洗島にもその行列が近づいてきます。嫁入りというより、いくさの支度のようだ、と女たちが話します。栄一もその仕事に追われます。代官たちの怒鳴り声が響き渡りました。栄一は威張り散らす代官と、働く村人たちの様子を手を止めて見つめるのでした。

 和宮の一行は十一月十五日、江戸に到着しました。

 思誠塾では和宮江戸城に入ったことが話し合われていました。河野顕三が訥庵にいいます。

「先生。こうなれば義挙に乗り出すしかありません。水戸の浪士と組み、奸臣安藤対馬守を討つのです。安藤を生かしておけばやがて天子様も廃され、わが国は夷狄に支配されます」

 訥庵は長七郎に呼びかけます。

「その手で、安藤を斬れ」

 血洗島に長七郎が戻ってきます。

「兄さま」

 との千代の呼びかけにもこたえません。

 夜、長七郎は栄一たちと話します。

「訥庵先生は今、一橋宰相様を擁して、幕府に攘夷を迫るべく動いておる。年が明けて一月、河野と俺たちで、安藤を斬る」長七郎の言葉は穏やかです。「俺が安藤を斬り、うまくいった暁には、切腹する」

 皆は驚きます。喜作が聞きます。

「待て、長七郎。なぜ腹を切る必要がある」

「喜作。俺は武士になった。武士の本懐を果たせば、あとは潔く死ぬのみよ」長七郎は反対しようとする栄一にいいます。「栄一。一介の百姓のこの俺が、老中を斬って名を遺すのだ。これ以上何を望む」

 栄一は沈黙します。しかし惇忠がいうのです。

「いや、それはならねえ。安藤一人斬ったところで何が変わる。一人殺して、急に幕府が攘夷に傾くわけはねえんだ」

「しかし兄ぃ」

 長七郎は身を乗り出します。

「その話では一橋様は動かぬ。その暗殺はかなうも今は、国を挙げて攘夷の志を果たす口火にはならねえ。いいか長七郎。これは無駄死にだ。暗殺に一命をかけるのは、お前のような大丈夫のなすことではねえ」

「ならばどうしろというのです」長七郎は立ち上がります。「兄ぃはそうして知識ばかりを身につけ、一生動かぬおつもりですか」

「いいや、兄ぃのいう通りだ」と、栄一が口を開きます。「安藤を動かしてるのも、井伊を動かしていたのも結局は幕府だ。幕吏が何人死のうが入れ替わろうがなんも変わらねえ。武士は武士、百姓は百姓と決めちまっている幕府がある限り、何も変わらねえんだ。そうだんべ」栄一も立ち上がります。「いつだって、幕吏らがおのれの利のために、勝手にはかりごとをこねくり回し、俺たち下のもんは何も知らされずその尻ぬぐいばかりだ。もっと根本から正さねえと、世の中なんも変わらねえ」

 惇忠も立ち上がります。自分たちも、もはやじっとしてはいない。自分たちが口火となり、

「幕府を転覆させる」

 と、宣言するのです。惇忠はどうしてもお前が必要だ、と長七郎にいいます。お前のようなかけがえのない剣士を、安藤一人のために失いたくない。長七郎は上州に身を隠すことになります。

 血洗島に、見知らぬ商人のような者がうろつき始めます。幕府が探りを入れてきたようなのです。

 大橋訥庵らは、慶喜へともに決起するよう、書状を送りました。しかし、慶喜が応じることはなく、一行は安藤襲撃を決行します。しかし結果は失敗。安藤はわずかに背を斬られたのみで、襲撃者六人はすべて護衛に斬り捨てられました。訥庵は捕らえられ、幕府はまだ残党がいると見て、関わった志士たちを次々に捕縛していきます。

 布団に横になる栄一のもとへ声をかける者がいます。長七郎に深谷宿で会ったというのです。これから江戸に出る、と長七郎はいったとのことでした。栄一は闇の中を飛び出して行こうとします。

 

 

書評『田中家の三十二万石』

書名『田中家の三十二万石』                
著者名 岩井三四二
発売 光文社
発行年月日  2021年2月28日
定価   本体1800円(税別)

 

田中家の三十二万石

田中家の三十二万石

 

 

 表題は『田中家の三十二万石』である。「田中」というありふれた苗字を冠した家の何の話か思う。田中吉政(よしまさ)と言われて、戦国から江戸前期の武将で、関ヶ原の戦いで敗北した石田三成を捕縛した男であると答えることのできる人はかなりの戦国通であろう。
 『光秀曜変』(明智光秀)、『三成の不思議なる条々』(石田三成)、『天命』(毛利元就)、『政宗の遺言』(伊達政宗)など戦国時代と人物をテーマに数多くの歴史小説を描いてきた著者の最新作は一般的にはなじみの薄い人物であろう田中吉政(1548~1609)を主人公にした作品である。

 物語は近江国浅井郡三川村の、五反の田畑しかない貧しい百姓久兵衛(のちの吉政)16歳がただ苦境を抜けだしたい一心で、父の反対を押し切って侍になるところから始まる。浅井長政の家臣で宮部村の国人領主である宮部(みやべ)善祥坊(ぜんしょうぼう)継潤(けいじゅん)の家人となった吉政は合戦での手柄を求め、味方が止めるのも聞かず自慢の槍を振るって猪突猛進してゆく。

 善祥坊は吉政の生涯に欠かせない、後のストーリーとも絡んでくる人物である。信長の浅井・朝倉攻めに際し、善祥坊が織田方に寝返った顛末が描かれる。
 浅井・朝倉方が惨敗した姉川の戦いの後の元亀3年(1572)9月、善祥坊は横山城木下藤吉郎(秀吉)の調略に応じ、織田家の配下となる。藤吉郎は寝返った善祥坊を見捨てない証にと、自分の甥・万丸(のちの羽柴孫七郎、関白豊臣秀次)を善祥坊に送ってきた。吉政はその万丸の守り役を善祥坊に命じられるのだ。
 秀次は初め宮部継潤の、ついで三好康長(咲岩)の養子となり、やがては豊臣家の相続を約束されるも謀叛人として謀殺されることになるという数奇な運命をたどった人物だが、「この時にはこの万丸に自らの人生を左右されることになろうとは吉政はつゆ知らない」のは道理である。著者は、「そもそも近江でももう少し北に住んでいたら、善祥坊に仕えることもなく、したがって秀吉の配下になることもなかったろう」と描く。
「旭日の勢いで勢力を伸ばす織田家の、その中でも出世頭の秀吉。吉政にとって秀吉はまばゆいほどの栄達の道をつけてくれた福の神であった。秀吉の配下をはなれぬことだ。

 秀吉に仕えたからこそ、石田三成との出会いがあった。一説によると三成の推挙によって吉政は秀吉に仕えたという。また、山岡荘八の『徳川家康』では三成は吉政の「昔からの親しい友」として登場するが、本書では、三成は「ひと回り年下の同郷者」であるにすぎず、秀吉についていきさえすれば、自分の夢はかなえられるとする吉政にとって、秀吉の側近中の側近の三成は大いに利用できる人物なのであったと造形されている。
天正10年(1582)6月2日の本能寺の変で、「織田家は崩壊した」。吉政にとっては「信じられぬ出来事」が続くばかりだが、世の中が激変する中、信長の後継者として躍り出た秀吉は危ない橋を渡りつつ、天下人への階段を上っていく。それは吉政にとっては「まばゆい出世の道が開く」ことであった。「いままでも運にめぐまれてきたが、これからはさらに強い運が回ってきそうだ」と夢を膨らませる。
 小牧長久手の戦いの後の天正13年(1585)に秀吉の養子の秀次が近江八幡43万石を与えられるや、吉政は秀次の付家老筆頭、3万石取りとなり、秀次との関係をますます強めていく。
 天正18年(1590)、豊臣秀吉は関東の北条氏を滅ぼし、諸大名の配置換えを行う。三河遠江などの徳川旧領をそっくり没収し、家康を関八州に封じ込めるや、秀吉は家康西上の進路を遮るべく、岐阜から駿河までに秀次の老臣衆を配置。吉政は山内一豊(掛川城)、堀尾吉晴(浜松城)らと共に、三河国岡崎城5万7,400石の所領が与えられた。吉政は生涯の夢であった城持ち大名となる。

 文禄4年(1595)秀次切腹事件。関白秀次は秀吉に疎んぜられ、高野山に放逐されて自刃。秀次側近のほとんどが切腹させられ、秀次の妻妾、子女ら30数名が京三条河原で惨殺された。晩年の秀吉の老妄が地獄絵図さながらの凄惨な情景を生み出したのである。この事件は根強い三成陰謀説で語られることがあるが、本書では、吉政は秀吉の起こした禍の渦に「わしの運もこれまでかな」と唇を噛んだが、三成の助言もあり、連座処分を受けるどころか、加増され10万石の大名となる。
 秀吉の死後は家康に接近し、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは東軍に属した。が、吉政の立場は微妙であった。吉政は大坂方に寝返りするのではないかという疑惑の中で、「襲ってくる破滅の予感にじっと耐え」つつ、三成の動向を探る。関ヶ原の戦いは吉政にとっても「大名として生き残りをかけた戦い」であった。小牧長久手の戦いのように長引くと見た吉政が、一時は三成に勝たせたいとまで思う。吉政の心境の変化が面白い。

 7月、下野国小山の陣。掛川城主の山内一豊が三成打倒の西上の軍をおこす家康に、掛川城を差し上げると申し出るや、これに吉政も倣う。東海道に配置された豊臣恩顧の諸大名がことごとく家康の足下にひれ伏す。
 東軍勝利後、吉政は家康に三成捕縛を申し入れ、伊吹山中で逃亡中の三成を捕縛する大功を挙げた。これらの功により、外様大名でありながら筑後国柳川城32万石を与えられる。城持ちどころか、国持ち大名となった。
「人間、運次第やのう」と回想する吉政がいる。一方、武運に恵まれて出世していくものの、糟糠の妻は出世のために離縁するなど女房運はいいとは言えなかった吉政をも著者は活写している。これが後の改易の遠因となった。
 吉政は慶長14年(1609)に没した。享年62。徳川家の示唆により家督を継いだ四男忠政が男子を残さぬまま死去したために、田中家は元和6年(1620)に廃絶されたなお、田中家断絶の後、筑後に返り咲いのは、関ヶ原の戦いで領地を完全に没収された立花宗茂であった。
「巻頭」で吉政の家人・宮川新兵衛が、寛永6年(1629)江戸、幕府老中の御用部屋で、語っている。「あんなしようもない男が大名になれたのも、戦国というおかしな世の中のせいでござろうて」。
 百姓・足軽から身を起こし天下人にまで登り詰めた秀吉の生涯は書き尽くされた感があるが、天下人の目線ではなく、秀吉同様に卑賎の身から、初代筑後藩主となった田中吉政の目線から、かの時代を捉えているところが実におもしろい。 因縁浅からぬ吉政と三成の結びつきなど戦国の世を駆け抜けてきた同時代の人物への迫りようもまた、本書の読みどころである。 戦国を生き抜くために必死で足掻き、時には策を弄して、生き抜いた吉政。著者によって蘇った吉政の生きざまを心ゆくまで味わいたい。

 デビュー以来25年、著者の円熟の境地をみせるとともに面目躍如の歴史小説の傑作、読み応えのある佳品である。
 岩井(いわい)三四二(みよじ)は1958年岐阜県生まれ。第64回小説現代新人賞受賞の『一所懸命』で1996年デビュー。2003年『月ノ浦惣庄公事置書』で第10回松本清張賞、2008年『清佑、ただいま在住』で第14回中山義秀文学賞など多くの文学賞を受賞。史実への探求にこだわりを見せる歴史小説の正統を引き継ぐ作家である。

             (令和3年4月17日  雨宮由希夫 記)

『映画に溺れて』第406回 ミッドナイトスワン

第406回 ミッドナイトスワン

令和二年十二月(2020)
新宿歌舞伎町 TOHOシネマズ新宿

 

 トロカデロ・デ・モンテカルロバレエ団はニューヨークに本拠を置く舞踊団であり、男性のダンサーたちが『白鳥の湖』などクラシックの名作をユーモラスな演出でパロディとして踊るので人気がある。もちろんダンサーたちがいずれも高い技術を持っていればこそのパロディではあるが、派手な化粧の大柄な男たちがバレリーナの衣装で踊るのは、そもそもどこか滑稽なのだ。
 『ミッドナイトスワン』の出だしは新宿のゲイバーでのショウタイム『白鳥の湖』である。決して上手ではないが、客には受けている。踊っているのは草彅剛演じる凪沙、もう若くないし、店は不景気でもある。
 そんな凪沙のアパートへ従妹の娘、中学生の一果が転がり込む。母親の育児放棄と虐待が原因で故郷の広島から東京へ短期転校することになった。不愛想で打ち解けない一果と親元からの送金につられて渋々世話をする凪沙。お互い不本意ながらの同居生活が始まる。
 そんな一果が通学の途中でバレエ教室を見つけ、興味を示す。幼い頃からバレエを習っていた様子で、教室の先生に声をかけられ、見学から、やがてはレッスンに通うことになる。先生は彼女の素質に気付き、これを伸ばそうとする。
 最初は反対していた凪沙が、次第に一果に肩入れし、彼女をバレエコンクールに出すために、なりふりかまわず働く。まるで母親のように。
 才能をどんどん伸ばし、上昇する白鳥のごとき一果。
 逆にどん底に転落していく凪沙は『瀕死の白鳥』を思わせる。
 そう思うと、最初のゲイバーでのトラストジェンダーによる『白鳥の湖』のなんと物悲しいことであろう。彼らはみな、呪いが解けず、白鳥のまま人間の女性に戻れないオデットそのものではないか。
 この名曲を作曲したチャイコフスキーもまた、同性愛者だったそうである。

 

ミッドナイトスワン
2020
監督:内田英治
出演:草彅剛、服部樹咲、田中俊介吉村界人、真田怜臣、上野鈴華佐藤江梨子、平山祐介、根岸季衣水川あさみ田口トモロヲ真飛聖

 

 

大河ドラマウォッチ「青天を衝け」 第9回 栄一と桜田門外の変

 大老井伊直弼(掃部頭【かもんのかみ】)(岸谷五朗)は名簿に朱で線を引いていきます。次々と尊皇攘夷派の者たちを処罰していたのです。すでに登城停止となっていた一橋慶喜(草彅剛)には、隠居、謹慎が申しつけられました。さらに謹慎中だった徳川斉昭(竹中直人)は、国元での永蟄居、つまり生涯、出仕や外出をせず、水戸にこもることが命じられたのでした。

 江戸屋敷を出る斉昭を家臣たちが声をあげて見送ります。斉昭も駕籠の中で声をあげて泣きます。若い家臣がいいます。どんな手を使っても、井伊を引きずり落とさなければ。

「ご老公の望みは」

 そういって若い家臣たちはうなずきあうのでした。

 血洗島では、祝言から一夜明けた栄一(吉沢亮)と千代(橋本愛)が、共に農作業を行っていました。時折二人は見つめあい、微笑みあいます。そこへ笠をかぶった男が近づいてきます。侍のような格好をした尾高長七郎でした。再会を喜ぶ栄一と千代。

「このたびは誠におめでとうございます」

 と、長七郎は栄一の父の市郎右衛門(小林薫)と、その妻のゑい(和久井映見)にあいさつするのでした。長七郎はすぐに江戸に戻らねばならぬといい、栄一にあとで家に来るように告げるのです。

 栄一がやって来てみると、長七郎の回りには、多くの仲間がすでに集まってきています。そこには喜作(高良健吾)の姿もありました。長七郎は語ります。

「今、江戸の街はむちゃくちゃだ。異人の運び入れたコロリのせいだ」

「コロリ」

 喜作が聞き返します。

「朝には元気だった者が、突然吐き気をもよおし、夕方には死んでしまう恐ろしい妖術だ。男もおなごも、若いのも年寄りも死ぬ。何百もの棺桶が焼き場に運ばれ、いちいち焼くのも間に合わねえ。ごろごろ転がってる」

 長七郎の兄の尾高惇忠(田辺誠一)がいいます。

「これもすべて、井伊大老が、異人の入るのを許したせいだ」

 市郎右衛門が作業をしているところに、栄一が戻ってきます。作業を行いながら栄一はしゃべります。

「えらくためんなる話が聞けた。今な、江戸の公儀には、井伊掃部頭っつうとんでもねえ大老がいてな、その大老がわりいことばっかりしてる。天子様のお言葉を退けて、自分のいうこと聞かねえ奴を次々と血祭りにあげてるっつう話だ」

「そんな話してたか」

 市郎右衛門は作業の手を止めて栄一を見ます。

「ああ、いまのままじゃ、日の本が危ねえ」

 市郎右衛門の様子に気付かず、栄一はいいます。

「そんなこと、わしら百姓には何の関わりもねえ。ご公儀がどうのこうの。百姓の分際で、あれこれ物申すのはとんでもねえ間違いだ。長七郎の奴、お武家様にでもなったつもりか」

 市郎右衛門の様子に栄一は驚き、むっとした表情のまま黙り込みます。

 その夜、栄一は千代にいうのです。

「承服できねえな」

「久しぶりに聞きました。栄一さんのその言葉。昔、お代官様がいらしたときに」

「ああ」栄一は笑い声をたてます。「あの時はとっさまがひでえ目にあって、腹が立ったな。しかし俺はあのあとも、あのお代官を殴りつけてやりたくなったことがある。でも、あとになって気がついた。あのお代官は、岡部のお殿様の命(めい)を、俺たち百姓にそのまま伝えてただけだ。俺たちから御用金をとれなければ、おのれがお殿様から罰をくらう。だからあんなにも威張って百姓を脅すんだ。あんなもんいっちまえばただのお使いだ」

「お代官様がただのお使い」

「そう、あやつを殴ったとしても、ま、一瞬スキッとはするかもしれねえが、根本は何も変わりやしねえ。だったら、俺はいったい誰を倒せばいいんだ。岡部のお殿様か。いや、駄目だ。お代官を倒しても、お殿様をとっちめても、また別の武士がやって来て俺ら百姓に命令する。その仕組みは永遠に変わらねえ。とっさまには、あの時も叱られた。でも俺は別に、金を出すことに腹が立ったわけじゃねえ。馬鹿馬鹿しくなったんだ。お代官やお殿様は、人の上に立つ人間だっていうのに、民のことを何も考えちゃいねえ。そんなもんのために俺らは、手を青く染め、雨や日照りと戦い土を起こし、汗を流して働いてんのか。俺らは生きてる限り、そのように生きねばならねえのか。つまり、百姓だからって、こんなにも軽く見られっちまうのか。兄ぃのいうとおり、この世自体がおかしいのかもしれねえ」

「この世」

「お武家様とか百姓とか、生まれつきそういう身分があるこの世自体が、つまり、幕府が、おかしいのかもしれねえ。だとしたら、俺はどうすればいい。幕府を変えるには。この世を変えるには」

 千代は困惑してうつむきます。栄一は笑い出します。

「なんだか、胸がぐるぐるしてきたで」栄一は布団に身を投げ出します。「お千代に話したらすっきりした。お前を嫁にもらった俺は百人力だ。今夜はよーく寝れそうだで」

 千代はその姿を見て微笑むのでした。

 江戸城の一橋邸では、慶喜の謹慎処分が三ヶ月にも及ぼうとしていました。昼でも雨戸を閉じ、風呂にも入らずに部屋に閉じこもっていました。

「身に覚えなく罪をかぶった者の意地でござりましょう」慶喜の妻、美賀姫(川栄李奈)が、徳信院(美村理江)と平岡円四郎(堤真一)にいいます。「わが殿には、そのような途方もない強情っ張りなとこがあらしゃられまするゆえ」

 円四郎がいいます。

「強情っ張りか。まことにそうでございまするなあ」

「そもそも、ご老公はともかく、わが殿には何の落ち度もなかったはず。それが隠居までさせられるとは。平岡。その方(ほう)のせいぞ。越前殿やご老公や、その方たちが勝手に殿を慕い、勝手に殿をまつりあげるゆえ、かようなことになったのじゃ」

「美賀君、お言葉が過ぎまする」
 徳信院がそういうのも聞かず、美賀姫は円四郎をなじります。

「かようなお歳で謹慎とは、命を奪われたも同じぞ。わらわはそなたらを決して許さぬ」

 円四郎は慶喜の閉ざされた部屋の前で声をあげます。

「命により、本日より甲府へ勤番となりましたゆえ、最後のごあいさつに参りました」円四郎は慶喜の気持ちも考えず、突っ走ってしまった自分を責めます。「俺は生き延び伸ますぜ。いつか、いつかきっとまた、あなたの家臣になるために」

 慶喜から声がかかります。

「そうか。それならば、少し酒は控えろ。長命の秘訣は乾いておることじゃ。濡れる湿るは万病の元、目の病は口で含んだ水で洗い、常に肛門を中指にて打てば、一生、痔を患うこともない」慶喜は、斉昭より教えられた健康法を話します。「息災を祈っておる」

 後に安政の大獄と呼ばれる、井伊直弼の弾圧政策は、公卿や大名など百人以上を処罰。橋本左内吉田松陰など、多くの志士を死に追いやり、日本中に暗い影を落としました。

 幕府が朝廷への不敬を繰り返したことで、尊皇攘夷の志士たちが過激化します。イギリス公使館通訳殺害事件や、オランダ人船長が斬殺されるなど、外国人を狙った襲撃事件が、次々と起りました。

 井伊の仕事場に、将軍家茂が訪れます。

「良くない噂を聞いた。近頃、水戸家中の多くが浪士となって江戸に入り、そなたを狙っておるとのこと」

「誰がそのようなことを上様に」

「私は若輩ではあるが、このような立場になったからには、世の事を知りたいと思うておる。そなたは一度、大老の職を退き、ほとぼりのさめるまでおとなしくしていてはどうか」

「なんの。案じることはございません」井伊は立ち上がります。「井伊家は藩祖直政公以来、井伊の赤備(あかぞな)えとして、大将みずからお家の先鋒をお勤め申しております。憎まれごとはこの直弼が甘んじて受けましょう」井伊は座ります。「そして、上様がご成長あそばされれば、すらりとお役御免を仰せつかる。それで十分でございまする」

 井伊は家茂に、自分が作った狂言の話をします。家茂にも見て欲しいといいます。

 その日は雪が降っていました。井伊は駕籠の中で狂言の台本を確認しています。書面を掲げた侍が井伊の行列を妨げます。その者は書面を投げ捨てると素早く腰の刀を抜き放ち、警護の者に斬りかかります。井伊の駕籠に向かって短銃が撃ち放たれます。井伊の持つ脚本が血に染まります。ぼんやりと井伊は外の斬り合いをながめていました。やがて井伊は駕籠から引きずり出され、とどめを受けるのです。

 水戸では斉昭が、妻の吉子に告げます。

「今、江戸より、急報が入った。外桜田門にて、井伊掃部頭が襲撃された。下手人は恐らく、わが家中を出た者たち」

「なんてこと」

 吉子は動揺します。

「これで水戸は、かたき討ちになってしまった」

 血洗島では栄一が仲間たちに確認します。

「井伊大老が討たれた」

「長七郎が見たそうだ」

 と、惇忠が説明します。喜作が憧れのまなざしでしゃべります。

「命を失ったとはいえ、大老を血祭りに上げるとはあっぱれだいなあ」

 喜助は長七郎の手紙から、その時の様子を皆に語って聞かせます。そして栄一は喜作が江戸に行くことを聞くのです。

 水戸では宴が行われていました。しかしその場は陰気に静まりかえっています。斉昭が厠に立ちます。廊下で苦しみ始めるのです。斉昭は妻にいいます。

「案ずるは、このわしではない。案ずるべきは、この水戸ぞ」そして斉昭はいいます。「吉子、ありがとう」

 斉昭は妻の膝の上に伏すのでした。

 江戸の慶喜は徳信院から斉昭の死を知らされます。

「謹慎というのは親の見舞いどころか、死に顔も見られんのか」慶喜は泣き声をたてます。「私は何という親不孝者だ」

 血洗島では栄一が市郎左衛門に訴えていました。

「春の一時(いっとき)でいい。俺を、江戸に行かせて欲しい」

 

 

大河ドラマウォッチ「青天を衝け」 第8回 栄一の祝言

 栄一(吉沢亮)は、神社に来ていた千代(橋本愛)に声をかけます。

「俺は、お前が欲しい」

 という栄一。千代はうつむいたまま答えません。

「ごめんなさい」と泣き出してしまいます。「いや、悲しいんではなくて、ずっと、嫌われたかと思ってたもんだから。ほっとして」

「なあ、もうちっとしゃべってもいいか。お千代に話したかったことが、いっぺえあるんだ」

 と、栄一。千代は微笑んでうなずきます。

 二人は距離を置いて座ります。

「お千代にも見せてやりたかったなあ。あの靑」

「靑」

 と、千代は聞き返します。

「険しい山道だったのよ。俺も兄ぃも商いに行ったってのに、詩が読みたくて寄り道して、どんどんどんどん山ん中、進んでった。ずーっと上まで登って気がついたら、岩だらけの場所を這いつくばるようにして登っててよ、後悔した」栄一は笑います。「でもそこにはな、その苦労をしねえと、見れねえ景色があった。ぐるりと俺を中心に、回りすべてが見渡す限りの美しさだった。この世にこんな景色があんのかって、特にそう、空一面の青だ。藍の青さとも、谷の水の青さともちげえ。すっげー靑が広がってた。俺は、おのれの力で立っている。そして、青い天に拳を突き上げている。霧が晴れて、道が開かれた気がした。俺の道だ」

「栄一さんの道」

「お千代もいってたよな。人は弱えばっかりじゃねえ。強えばっかりでもねえ。どっちもある。藍を作って、百姓といえども大いに戦って、俺は、この世を変えたい。その道を、お千代と共に歩み……」

「ほんとになっからしゃべる男だのう、おめえは」

 栄一の言葉をさえぎったのは喜作(高良健吾)でした。喜作はいいます。

「俺がもらった長七郎からの手紙にはこうあった。お千代を嫁に欲しいなら、俺とではなく、栄一と勝負しろとな」

 二人は道場で試合をすることになります。二人は互角に戦いますが、道場にやって来た謎の女性が

「喜作さん、きばって」

 と、声を掛けます。戦いは続きますが、お千代が声をあげます。

「栄一さん、きばって」

 なおも試合は続きます。二人はほぼ同時に撃ち合い、倒れ込みます。

「そこまで」

 と、声を掛けたのは、お千代の兄でもある尾高惇忠(田辺誠一)でした。事情を知らぬ惇忠は、喜作の勝ちを宣言します。喜作は千代に近づきます。

「お千代、あいつは俺の弟分だ。見ての通り、実にまだまだの男だ。そのくせ、この世を変えたいなどと、でかいことをいいだす。あいつには、おめえのようなしっかり者の嫁がいたほうが良い。悪いがこの先、あいつの面倒を見てやってくれ」喜作は今度は栄一の前にしゃがみます。「幸せにしろよ」

 と、喜作は立ち去るのでした。事態がまだ飲み込めない惇忠に栄一は頭を下げます。

「お千代を俺の嫁に下さい」

 千代も栄一の隣で頭を下げるのでした。

 こうして、栄一と千代は祝言を挙げることになるのでした。

 道を歩く喜作に、先ほどの謎の女性が追いついてきます。

「よし、は喜作さんに惚れ直しました」

 彼女は、気が強くて喜作が嫌がっていた、結婚を勧められた娘の、よし、だったのです。

 江戸城では、将軍家定(渡辺大和)から井伊直弼掃部頭【かもんのかみ】)(岸谷五朗)が、大老の職を申しつけられていました。驚く一同。家定は宣言します。

掃部頭と一致同心の上、皆、一層励むように。

 井伊の大老就任は誰も予想しなかった、突然の抜擢でした。井伊は廊下で老中たちが話しているのを聞いてしまいます。

掃部頭様は、大老の器ではございません。この異国との一大事に、西洋諸国のことも何一つ知らず、掃部頭様が大老で天下が治まるはずがない」老中の者は臣下にもいいます。「掃部頭など、政(まつりごと)に関しては子供同然の男ではないか」

 井伊はつぶやきます。

「まあよい。自分でも、柄でないのは分かっておる」

 江戸城の庭園で茶会を行われていました。家定は井伊にこぼします。

「阿部はわしに何も話そうとしなかった。将軍とは名ばかりで、政(まつりごと)はすべて蚊帳(かや)の外。誰もわしのことなど見ておらぬ。父上はどうであったかのう。父上が見ていたものは……。そもそも家臣どもが世継ぎに口を出すこと自体が、不届きなのじゃ。わしはもう、誰にも思うようにはさせぬ。慶喜を世継ぎにするのは嫌じゃ。何としても許さん」

 井伊は姿勢を正して家定に近づき、ひれ伏します。

「承知、つかまつりました。お世継ぎは上様がお決めになられるのがごもっとも。上様に血筋の近い、紀州様こそふさわしいと存じます」

 家定は感激して、井伊の前にしゃがみます。

「そうじゃ。そうよのう」

 井伊は改めて家定に頭を下げるのでした。

 井伊は老中の者たちに言い放ちます。

「将軍お世継ぎには、紀州様を推()したいと思う」

 ざわめく老中たち。反対意見を井伊は一喝します。

「我らは臣として、君(きみ)の命に背くことがあってはならぬ」

 老中たちは、次々に賛同していきます。

 井伊大老による一橋派への弾圧が始まり、一橋慶喜を将軍にと建白した川路聖謨(平田満)らは閑職に回されました。

 安政五年(1858)六月十九日、ハリスと交渉を重ねていた岩瀬忠震らは「日米修好通商条約」に調印してしまいます。これは天皇や朝廷の意見に背いた、明らかな罪「違勅」になります。

 井伊は調印の事実を知らされ驚きます。

 慶喜は天子への条約調印の知らせを「宿継奉書」という書面で知らせようとしていることを知ります。そのような軽々しい扱いをしてはならぬと慶喜は怒ります。そして井伊と会う手はずを整えるのです。

 慶喜は井伊を怒鳴りつけ、老中の一人が京に弁解に行くことを承知させます。

「私に謝ることではない」慶喜は井伊に優しく声を掛けます。「すべて徳川のためじゃ。お世継ぎの件はどうなったのだ」

「恐れ入り奉ります」

「そうか、いよいよ紀州殿に決まったのだな」慶喜は明るい表情になります。「それは大慶至極ではないか。私もなんやかんやといわれ、案じていたが安心した。紀州殿は先ほどお姿を見たが、心穏やかで背丈も年齢の割に大きくご立派だ。幼いとの声もあるようだが、そこもとが大老として補佐すれば、何の不足があろうか」

「それでは一橋様は、紀州様でよろしいと」

「さもありなん」

 井伊は大きくため息をつくのでした。

 こうして将軍世継ぎ問題は、紀州藩主、徳川慶福に決定しました。

 家定の体調が悪化します。床に伏す家定に井伊が寄り添います。家定は井伊の襟を力強く握ります。

「よいか井伊。水戸や越前、みな処分せよ。慶喜もじゃ。頼むぞ。頼む。わしの願いを叶えよ」

 それだけいうと家定は倒れ込むのでした。

 井伊は決然たる意思で皆にいいます。徳川斉昭(竹中直人)を謹慎。松平慶永(要潤)は隠居。徳川慶喜を登城禁止に処す。この翌日、第十三代将軍、徳川家定は逝去しました。これが後にいわれる「安政の大獄」の始まりだったのです。

 水戸の斉昭らを処罰した井伊直弼の噂は、攘夷の志士たちの間にもすぐに広がりました。

 冬になり、血洗島では、栄一と千代の祝言が行われました。喜作はすでに結婚した、まさ、と共に皆を回ります。そして祝いの歌をうたうのでした。

 その栄一の家に、下駄を履いた長七郎が静かに向かっていました。

 

 

 

 

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大河ドラマウォッチ「青天を衝け」 第7回 青天の栄一

 血洗島では、江戸へと旅立つことになった長七郎(満島真之介)の送別会が行われていました。兄の尾高惇忠(田辺誠一)が、長七郎に詩を贈ります。名を高め、世に知れ渡る偉大なる仕事をするのがお前の役目だ。慎(つつ)ましく暮らし、母や家を養うのは俺が引き受けた。

 長七郎が旅立った後、惇忠と喜作(高良健吾)が話します。惇忠にお見合いの話があったというのです。相手の方が喜作を見初めて、嫁に来たいと頼み込んできたということでした。

それは意気盛んな姉様だ、と感心する惇忠。

「このままじゃあその話が勝手に進んじまう。そんで、その前に俺はおのれで嫁を決めてえと思ったんだに」

 という喜作。

「それでお千代(橋本愛)を」

 惇忠に反対する様子は見られません。話しを聞いていた栄一(吉沢亮)が振り返ります。

「喜作、お前は」栄一は言葉を考えます。「お前は、いい男だ。お前はなんてえか、こう、男気がある。負けじ魂がある。それに、心根があったけえ」栄一は顔をそらします。「しかし、夫となるとどうだんべな。お前はこう、目立つことは好きだが、骨を折って真面目にコツコツと働くことが苦手だんべ。うかつなところもある。ちっとんべ新しいもんをめっけると、おっ、これはいいとすぐ流される軽薄なところがある。お千代の夫となるとなあ」

「どういう意味だ」

 喜作は立ち上がります。

「お前と一緒になったらきっと苦労する」

「なんだとこの野郎」

 喜作は栄一につかみかかります。栄一はひるみません。

「お前には、お前の尻をバンバン叩いてくれるような、意気盛んなおなごの方があってるに」

 そこに栄一の姉の、なか(村川絵梨)が通りかかります。栄一に乗りかかっている喜助の首を絞めあげます。

「全く、あんたたちは相変わらずの子どもだいね」と二人の耳をつかんで引きずり回します。「嫁の話なんて十年はええんだよ」

 江戸では、老中首座の阿部正弘(伊勢守)(大谷亮平)が亡くなりました。今まであらゆる仕事を一手に仕切っていた阿部の喪失は、幕府に大きな混乱を招くことが予想されました。

 亡くなった阿部に代わって権力の座についたのは開国派の老中、堀田正睦佐戸井けん太)でした。強硬に通商を求めるハリスに対し、幕府は、重い扉を開こうとしていました。

 徳川斉昭竹中直人)は、またしても朝廷に、幕府を非難する手紙を送りました。それをとがめに、川路聖謨平田満)らが訪れます。しかし新しい老中筆頭の備中守(堀田)は腹を切るべき、と斉昭は吠えます。そしてハリスの首をはねろというのです。

 席を立った後、斉昭は側近の武田耕雲斎津田寛治)にいいます。

「私とて、分かっておる。もう私の役目は終わったということぐらい、分かっておるのだ」

 斉昭のもとを、徳川慶喜も訪れます。

「京の高司家に対し、ご公儀の方針とは異なる意見を文(ふみ)にて申し立てたとのこと。京の都は今、攘夷、攘夷と、お父上の論を伝聞して、過激な行動を為すものが多くなり、公儀の諸役人は皆、困り果てております。また、そのことで天子様をまどわせたとしたら、父上のなされること本当に忠義にかなっておられるのでしょうか」

 沈黙の後、斉昭はいいます。

「わかった。もうせん」

「それでは、今後は京への文は一切書かぬとの一筆を(老中筆頭の)備中守にあてて書いていただきたい」

 そんなもの書けるか、と怒鳴る斉昭でしたが、妻の吉子(原日出子)もいいます。

慶喜殿のおっしゃることが理にかなっております。どうかご公儀にお詫びなされませ」

 血洗島では、栄一の姉なかが、同じ村の家に嫁いで行きました。

 栄一は高尾家の前に通りかかります。外で作業をする千代と話をします。

「なあ、お千代。おめえ、喜作と一緒になるのか」

「ああ、そういうお話しがあるみたいで」

「おめえはそれで」

「へえ、ありがてえお話です。ウチは、今、兄様たちが、あんなで。ちっとんべお金に困ってるもんだから、きっと、どこか遠くの商売人に嫁ぐことなると、覚悟してたんだに。それが、喜作さんとこなら安心だ。ちいせえ頃からよく知ってるし、ウチからも近えし、こんなありがてえお話しはねえ。喜作さんは優しいし、栄一さんとも、中の家(なかんち)の方々とも、ずっとこうしてお近くにいられるんだから」

「そうだいな」と、栄一はいってしまうのです。「良かった」

 外国に揺らぐ幕府を立て直すべく、慶喜を次期将軍に推す声が再燃。平岡円四郎(堤真一)が慶喜についてまとめた手記が書物にまとめられ、松平慶永(春獄)(要潤)は世継ぎを一橋慶喜に定めるよう、幕府に建白します。

 なぜそのように急いで世継ぎを決めなくてはならないのかと、将軍家定(渡辺大和)は不満です。

慶喜のような年寄り息子などいらぬわ」

 と、言い放ちます。家定の乳母の歌橋(峯村リエ)が告げます。

「それだけではありませんよ、上様。越前様はメリケンのハルリスとやらの拝謁を、上様の代わりに、一橋様に受けさせてはどうかと申しておるのです」歌橋はうつむきます。「一橋様なら、日の本の代表として、異人に会わせるのに恥ずかしくないお方だと」

「何、慶喜なら恥ずかしくなくて、わしでは恥ずかしいと申すか」家定は決意します。「ハルリスにはわしが会う。わしは、越前も、慶喜も好かん」

 ハリスが江戸城に向かう行列を、長七郎が見ていました。これに怒る長七郎に、剣術家の真田範之助(板橋俊也)はいいます。

「おぬしを連れて行きたいところがある」

 そこは思誠塾といい、多くの若い侍たちが話を聞いていました。

「すなわち夷狄の民は、禽獣(きんじゅう)のごとき、人にあらず」

「人にあらず」

 若い侍たちが唱和します。話していたのは大橋訥庵(山崎銀之丞)といい、早くから尊皇攘夷を唱える人物でした。大橋は話し続けます。

「狼というも、過言ではない。ゆえに払わねばならぬのである」

 長七郎はもっと良く話を聞こうと、前に進み出ます。しかし侍たちに妨げられるのです。

「百姓が。お前のようなもんが出入りする場所じゃなか」

 長七郎はあらがい、若い侍たちは刀を抜き放ちます。

「待ちなさい」長一郎のところへ大橋がやってくるのです。「実に良い目をしておる」

 血洗島に長七郎からの文が届きました。江戸では今、尊皇攘夷の志士があまた集まっていると書かれています。惇忠へのものとは別に、栄一と喜作にも長七郎は文を書いていました。栄一は家に帰って読みます。長一郎は述べていました。

「栄一、お前の欲しいものは何だ。お前の志(こころざし)は何だ。本当にお前は、このままでいいのか。いま一度、その胸によく聞いてみろ」

 栄一は惇忠と共に出発しようとします。父の市郎右衛門にいわれます。

「栄一、それでは商いに行くというより、まるで風流人の格好じゃねえか。くれぐれも道中、本を読んだり、詩を書いたりに明け暮れて、大事な商いを忘れるじゃねえで」

 栄一は惇忠と出かけたこの時の旅を、詩にしたためました。

 一巻の書を肩に、険しい峰をよじ登り、やがて、谷を歩くも、峰をよじ登るも、ますます深く険しくなり、見たこともないような大きな岩や石が横たわっている。私は、青天を衝く勢いで、白雲を突き抜けるほどの勢いで進む。

 栄一はついに山の頂上にたどり着きます。そして空に手を伸ばし、拳を握るのです。

 栄一は家に帰り着くと、荷物を置いて駆け出します。尾高の家を訪れて千代が神社に行っていることを聞くと、再び走り出すのです。栄一は神社で千代に出会います。

「お千代」と呼びかけます。「俺はお前が欲しい」

 江戸城では盛大な茶会が催されていました。家定が、自分を支える良い重臣はいないのかと嘆いています。そこへやって来たのは、井伊直弼岸谷五朗)でした。家定は井伊に菓子をやろうとします。手を差し出す井伊。しかし家定は、井伊の口に直接菓子を押し込もうとするのです。それを受ける井伊。菓子を頬張ります。

「井伊か」

 と、家定はその名を呼ぶのでした。

 

大河ドラマウォッチ「青天を衝け」 第6回 栄一、胸騒ぎ

 尾高の家の千代(橋本愛)が渋沢栄一吉沢亮)のいる中の家(なかんち)に手伝いにやって来ていました。栄一は道場でしごかれて帰って来ます。荷物を運んで二人きりになったとき、栄一は千代にいいます。

「剣筋はいいといわれたに。今日だって伝蔵に一発、食らわしたし。でも、長七郎(真島真之介)なんかはこう『叩き斬ってきってやる』っていう気迫がすげえ。どうも俺のは『よいしょ』。土掘ってる気合いになっちまうんだいなあ」

 それを聞いて千代が笑うのです。栄一は慌てていいます。

「いや違うで。俺とてその場になれば、人なんて叩き斬って」

「いえ、違うんです」千代は立ち上がります。「千代はそんな栄一さんをお慕い申しておるんだに」

 いってしまってから恥ずかしくなって、千代は逃げていくのでした。

 江戸の水戸藩邸では、徳川斉昭竹中直人)が妻の吉子(原日出子)に呼びかけられます。息子の徳川慶喜(草彅剛)が結婚することになったのです。

 その慶喜は小姓の平岡円四郎(堤真一)に髪を結わせていました。

「私は徳川の飾り物ゆえ、見栄えも大事だ」

 と、慶喜は述べます。円四郎はいいます。あなた様は飾り物には向かない。馬の扱いも弓も一級で、銃や大筒にも詳しい。自分は慶喜をこの時代に潜む、武士のモグラと見ている。

「水戸のご老公のみならず、この日の本の皆の憂いが消え、お亡くなりになった東湖先生の御霊(みたま)も喜ぶ方法が、一つだけございます」円史郎はもったいぶります。「あなた様が次の公方様になっちまうことです」

「お前までそんなことを」

「まあ小姓の戯言(ざれごと)、お聞き流しを。あたしはあなた様にほれ込んでますんで」

 数日後、先の将軍や、父の斉昭のすすめで、慶喜の嫁に迎えられたのは、公家の姫である美香君(みかぎみ)(川栄李奈)でした。

「勤めがあるのでこれで」

 と、対面が終わると、慶喜はすぐに席を立ってしまうのでした。

 江戸の薩摩藩邸には、もう一人の姫がやってきます。篤君(上白石萌音)、後の天璋院です。松平慶栄(要潤)がいいます。

「篤君が嫁がれる公方様は、御歳三十を越えても体か弱く、お世継ぎをこしらえるどころか、城の畑でとれた芋やカボチャで、菓子をおこしえになっておられる」

 篤君は公方様や徳川のためにも、丈夫な世継ぎを産んで見せる、といいます。

「いや、それよりも」と松平慶永は話します。「国のためなら一刻も早く、一橋様が公方様のお世継ぎになることが肝要じゃ」

 薩摩藩主の島津斉彬もいいます。

「そうだ篤。そしてわれら薩摩や、日の本中の諸侯が、その一橋様の政(まつりごと)を支えるのだ。篤には大奥からその後押しをしてほしい」

 篤君は驚きますが、

「承知いたしました」

 と、返事をするのです。

 福井藩士の橋本佐内(小池徹平)が円四郎と話をします。慶喜がどれほど将軍にふさわしいか、身の回りのことを教えてほしいというのです。

 嫁入りしたばかりの美賀君は、一橋家の未亡人である徳信院(美村里江)慶喜との恋仲を疑っていました。慶喜に食って掛かります。

 港を開いた下田では、アメリカ合衆国の代表として、タウンゼント・ハリスがやってきます。通商の条約を結ぶまで、下田に居座るつもりのようでした。

 江戸城では勘定奉行川路聖謨(としあき)(平田満)が、老中の阿部正弘(伊勢守)(大谷亮兵)と話していました。通商は損ばかりではなく、我が国を富ませる見込みがあると主張します。

「あいわかった」と、阿部は返事をします。「その時が来たのかもしれぬ」

 しかし阿部が斉昭にそれを話すと、

「ならん」と怒鳴りつけられます。「断じてこれ以上、国を開いてはならん」

 阿部が発言しようとしても、斉昭は受け付けません。即刻、朝廷に報告しなければならないといいます。

「今こそ天子様のお力で、我が国を一つにまとめ、断固戦うのみ」

 血洗島に戻ってきた栄一は、道場破りがやってきたことを聞きます。栄一は急いで駆けつけます。来ていたのは北辰一刀流の門人である真田範之助(板橋駿谷)という者でした。まず範之助に挑んだのは、栄一のいとこの喜作(高良健吾)でした。しかし一撃で突き飛ばされます。次に栄一が挑みます。木刀を捨てて体当たりを仕掛けますが、柔術の技で投げ飛ばされ、腕を極められます。最後に尾高家の長七郎(満島真之介)が進み出ます。範之助は長七郎の名を知っていました。

「北武蔵野天狗とは、お前のことか」

 長七郎はうなずき、構えを取ります。戦いは互角でしたが、長七郎が相手の木刀をたたき折る技を見せます。夜、範之助を囲んで、一同は酒を飲みます。

「こんな素晴らしい男たちが、この地におったとはのう」

 と、範之助も上機嫌です。そして栄一たちは範之助から、日の本の神を仰ぎ、夷狄を討つという意味の「尊皇攘夷」という言葉を聞くのでした。そこに千代が酒を持ってやって来ます。範之助が千代に見とれるのです。尾高惇忠(田辺誠一)がいいます。

「お千代は、俺ら尾高の大事な妹だね。長七郎に剣で勝った者にしか、やれねえな」

 年が明け、安政四年(1857)となります。斉昭は慶喜とその兄の慶篤に庭を見せます。

「天子様のおあす京はあちらだ」

 斉昭がその方向に手を合わせ、息子二人も同様にします。斉昭は語ります。

「これは、義光(徳川光圀)以来、代々引き継ぐ、我が水戸家の掟である。我らは三家、御三卿として、徳川の政(まつりごと)を助けるのは当然のこと。しかし、もし万が一、何かが起り、朝廷と徳川が敵対することがあったときに、徳川宗家に背くことはあっても、決して、決して、天子様に向かって弓を引くようなことはあってはならん。ゆめゆめ忘れることのなきよう」

 兄弟は斉昭に向かって頭を下げるのでした。

 慶喜阿部正弘と話します。

「父は老いました。近頃は胸の痛みもひどいようです。もし辞職願が出されましたら、お受けいただきたくお願い申し上げます」慶喜は気がつきます。「伊勢守殿も、お顔の色が優れませんな」

「ハリスの出府を認めたゆえ、その応対に追われております。そんな中、薩摩殿や越前殿からは、誰か様を一刻も早く将軍の後継にと矢の催促です」

「阿呆らしい。その誰か様は、全く威厳などありません。たいしたお勤めもなく、近いうちに遠くまで馬でも走らせようかと考えております」

「私は誰か様と共に一度、ご公儀で働いてみたかった気もします」阿部は庭をながめます。「この国は変わろうとしている。お父君や我らの世が終わり、新しい世が始まろうとしているのです」

 血洗村では、長七郎が江戸に出ようとしていました。先日来た範之助に、その腕は田舎で眠らせるのはもったいないと、武者修行を勧められたのでした。喜作が長七郎に話しかけていました。

「江戸から戻ったら俺と勝負してくれ。江戸から戻ればお前はきっと、もっと強くなってるだんべ。それでも俺は、お前に勝たなきゃなんねえんだ。お前に勝って、お千代を嫁にもらいてえ」

 そこに通りかかった栄一は声をあげるのでした。

 栄一は商売のために山道を歩いていました。立ちションを始めるのです。そこへ慶喜の一行が馬で通りかかります。お付きの者が慌てますが、慶喜

「構わぬ」

 と、馬を降ります。栄一の隣で小便を始めるのでした。

 その頃江戸城では、阿部正弘が心労のために倒れていました。

 

 

大河ドラマウォッチ「青天を衝け」 第5回 栄一、揺れる。

「承服できん」

 と、つぶやきながら渋沢栄一(吉沢亮)は農道を歩いていました。代官に銭を届けに行った帰りです。その理不尽さに、栄一は怒っていたのでした。

「どうした栄一」

 と、声を掛けてきたのは栄一のいとこの尾高惇忠(田辺誠一)でした。

「話を聞こうか」

 と、惇忠は栄一にいってくれます。栄一はいきさつを話します。

「胸ん中がむべむべして、それが腹にくだって」栄一駆け出します。「どうにも情けなくておさまんねえ。俺はいまちっとのとこで、あのお代官を殴りつけてやるとこだった」

 栄一の怒りはおさまりません。

「そうか、お前もまさに悲憤慷慨(ひふんこうがい)だな」惇忠はいいます。「慷慨とは、正義の気持ちを持ち、世の不正に憤(いきどお)り、嘆くことをいうんだ。今この世には、お前のように悲憤慷慨する者が多く生まれている。俺もそうだ」

「兄ぃは何に憤って嘆いておられるんだ」

 と、問う栄一。惇忠は答えます。

「この世だ」惇忠はあたり光景を見回します。「この世の中そのものだ」惇忠は栄一に本を差し出します。「お前も一度、これを読んでみるといい。このままではわが日の本も、この清国のように、夷狄(いてき)に踏みにじられる」

 その本にはイギリス人に襲われる清国人の絵が印刷されていました。

 その夜、栄一の父の渋沢市郎右衛門(小林薫)は、心配して妻のゑい(和久井映見)にたずねます。

「栄一はどうしている」

「変わりねえですよ。陣屋から戻ってきたら繭(まゆ)を出すのを手伝ってくれて、今はまた、尾高から借りた本を夢中になって読んでいます」

「そうか」

「でもやっぱり、あの強情っぱりは困りもんだいね。お上(かみ)に歯向かうなんて。あたしが甘やかしたんかいね」

「いや、あいつの理屈にはもっともなとこもある。だけんど、どんなに理屈が通っても、治める者と治められる者の塩梅(あんばい)が崩れれば、どんな目にあうか分からねえ。それに、他の者へ迷惑がかかる。理屈だけじゃいかねえんだ」

 栄一は剣道場に来ていました。いとこの渋沢喜作(高良健吾)に話します。

「まっことにたまげた。この本には、俺が生まれた頃の清国とエゲレスのいくさのことが書いてある」

「あの、なっからでけえはずの清国がどうしてエゲレスに破れちまったんだい」

「それがな」栄一は本のページをめくります。「まあいろいろあるが、まずは交易だ。エゲレスはまず、アヘンという人から精気を奪うおっかねえ毒を、清国にいっぺえ持ち込んで、清国人の魂を奪ったんだ」

「なんと」

「魂が奪われんのか」

 道場の他の者たちも寄ってきます。

「そうよ」栄一は答えます。「そしてふぬけになったところを軍艦で襲い、無理矢理に国を開かせたんだ」

「この日の本も危ないぞ」といったのは惇忠の弟の長七郎(真島真之介)でした。「メリケンはもう、日の本に足を踏み入れている」

メリケン人はもう入って来てんのか」

 と、栄一。嘆くように喜作がいいます。

「はあ、なんてこった。それじゃあいつ、メリケンの連中が俺たちの魂を奪おうとするか、わかんねえに」

 皆が喜作の言葉に同意の声をあげます。長七郎は木刀を構えます。

「おれはとうとう、生きる道を見つけた。なぜ俺たちが剣を学ぶか。それは」長七郎は兜をかぶせた案山子(かかし)に打ち掛かります。「敵を斬るためだ」

 栄一が家に戻ってみると、伯父の宗助(平泉成)とその妻のまさ(朝霞真由美)が市郎右衛門夫婦と話をしていました。姉のなか(村川絵梨)の縁談のことです。まさが断るようにいっています。栄一がたずねてみると、縁談の相手の家が、憑()きもの筋だと宗助がいうのです。

「そんなのただの言い伝えじゃないか」

 と、市郎右衛門は相手にしません。しかし宗助はいうのです。憑きもの筋の家と結ばれると、憑きものに縁のない家まで狐が憑いてくる。栄一もそれを笑い飛ばします。しかし宗助夫婦はあくまでも反対するというのです。

 そして栄一の姉のなかの様子が、明らかにおかしいのです。奇妙な行動が目撃されます。まさがいいます。

「もうこれは、狐のたたりをお祓(はら)いする、拝み屋を呼んだ方がいい」

 馬鹿な、と市郎右衛門はいいます。その一同の前を、なかが不自然な様子で歩いて行くのです。市郎右衛門は栄一に、なかのあとをついていくように命じます。栄一は渋々ながら従います。なかに話しかけますが、返事は帰って来ません。なかは川までやって来て滝を見つめます。栄一の見ている前でなかは川に入ろうとします。

「ねえさま、危ねえって」

 栄一が止めようとします。振り向いたなかは、思い詰めたような顔をしていました。

 その後、なかの縁談は破談となりました。

 その頃、江戸では、黒船の来航と時を同じくして、多くの疫病が流行していました。様々な迷信が信じられるようになります。

 江戸の水戸藩邸では、徳川斉昭(竹中直人)がこの現状を嘆いていました。流言飛語の類(たぐ)いが、人心を惑わしている。アメリカ船が下田へ、イギリス船が長崎に来たため、夷狄の毒が深くなってきている。

 斉昭は老中の阿部正弘(大谷亮平)を叱りつけます。

「何と無様(ぶざま)な。メリケンの次は、エゲレスと和親を結び、今度はヲロシアもと申すか。この事態、天子様はご存じなのか」斉昭は避けようとする阿部を追います。「今は、天子様を、我が国の要(かなめ)と為しまつり、この日の本の精神を、統一ならしめることこそ肝要。その前に、安易に国を開けば、たちまち清国のような、隷属(れいぞく)国となるぞ」

 阿部は立ち止まって斉昭にいいます。万が一今、異国より戦端を切られたとして、このままの防備で日の本が無事で済むと本気でお思いか。その場を斉昭の側近である藤田東湖(渡辺いっけい)が取りなします。

「伊勢守(いせのかみ)(阿部)のご苦労は、ご老公も承知のこと、ただ、伊勢守様のために何か出来ぬかと思い、励んでおるのでございます」

 そこへ知らせが入ります。下田に大地震が発生したというのです。その後、大津波が湾を襲い、和親の交渉中のロシア船が転覆したとのことでした。斉昭は喜びの声をあげます。

「下田に神風が吹いたのだ。五百人のヲロシア人どもを、ひと思いに皆殺しにせよ」

 阿部がいいます。

「天災に遭う者を不意打ちとは、人の道を外れたこと。これを機に殺戮を行えば、我が国に悪しき評判が立ち、ヲロシアはもちろん、異国が皆、絶好の口実を得て攻め寄せることでしょう」

 水戸の藩邸に帰って来た斉昭に、藤田東湖がいいます。

「異国人とて、国には親や友がありましょう。ましてや、かのヲロシア人どもは、敵ながら、国の使命を果たすため、何ヶ月も船に揺られやって来た、いわば忠臣。どうかお気をお鎮(しず)め下さい」

 

「夷狄の親や友の事など、知るか」

「しかし誰しも、かけがえのなき者を天災で失うは耐えがたきこと。また、今となっては夷狄を打ち払うよりも、いかにして日の本の誇りを守るかが肝要でございます。三千万の精神を凝結一致(ぎょうけついっち)ならしめれば、必ずや富国強兵につながり、さすれば国を開いたとしても必ずや我が国は異国に敬(うやま)われることとなるでしょう」

 そんなことは分かっておる、と斉昭は立ち去ります。

 下田ではロシア人たちの救出作業が行われていました。指揮をとるのは川路聖謨(平田満)です。炊き出しをしたり、遺体を収容したりします。このように時に、と抗議する家臣に川路はいいきります。

「このような時に異国も何もあるか」

 血洗村では、栄一が姉のなかのあとをついて回っていました。川でなかを見張る栄一のところへ、千代(橋本愛)がやって来ます。栄一は話します。

「俺は狐が憑いたなんて思っちゃいねえ。とっさまもだ。お祓いなんてするも気もねえ。でもなあ、どうやったらねえさまの気が晴れんのかわかんねえんだ」

「縁談のお相手を、好いておられたのでしょうか」千代がいいます。「縁談が決まられてから、おなかさんはどんどん美しくなられて。嫁入りとは、それほど心華(はな)やぐことかと、うらやましく思っておりましたゆえ」

「そうか。もしそうなら、ねえさまみてえな気の強えおなごまでこんなことになっちまうとは、恋心とはおっかねえもんだな」

 千代は複雑な表情を浮かべます。

「そうですか」姉を追って立ち去ろうとする栄一に千代はいいます。「強く見える者ほど、弱き者です。弱き者とて、強いところもある。人は一面ではございません」

 家に帰っても、なかは心ここにあらずの状態です。そのなかを、市郎右衛門は、一緒に出かけようと誘うのです。

 翌日、市郎右衛門は、藍玉の集金回りになかを連れて行きました。その留守の間に、栄一の伯母のまさが、修験者(修験者)たちを連れてくるのです。修験者たちは家に上がりこみます。村人たちも見物に集まってきました。修験者たちの中にいた女性が、神の声を伝えます。この家に無縁仏がいて、祟(たた)っているというのです。まさには心当たりがありました。昔、お伊勢参りに出かけ、帰ってこなかった者がいたのです。

「一つおうかがいしたい」栄一が声をあげます。「先ほど、無縁仏と申されたが、その無縁仏が出たのはおよそ何年前のことでございましょうか」

 六十年ほど前だと女性はいいます。その頃の年号は、と栄一は問います。天保三年との答え。

天保三年は二十三年前だで。えれえ神様が無縁仏のありなしは知ってて、年号を知らねえなんてことあるはずねえ。だってそうだに。人にまつられるはずの神様がこんなこともお分かりにならねえとは」栄一は結界にまたぎ入ります。「しょせんたいした神様じゃねえだんべ」

 村人たちが、栄一のいうことももっともだ、と言い始めます。修験者は怒っていいます。

「神をも恐れぬ不届き者め。お前にはいずれ、偉大なる神の、大きな罰がくだるであろう」

 栄一はひるみません。

「俺は人の弱みにつけこむ神様なんてこれっぽっちも怖かねえ。うちのねえさまだって、そんなに弱かねえぞ。こんな得体の知れねえもんで一家をまどわすのは金輪際(こんりんざい)御免こうむる。とっとと帰(けえ)れ」

 修験者たちは逃げるように立ち去るのでした。それを市郎右衛門となかが見ていました。市郎右衛門は笑って言います。

「栄一のおしゃべりもたまには役に立つ」

 なかもかすかな笑みを浮かべるのでした。

 朝、畑に水をやる栄一になかが呼びかけます。すっかり元気な様子です。

「とっさまと山ん中、歩いてるうちに気分も晴れたわ」

 栄一がからかい、二人はじゃれ合うのでした。

「栄一、ありがとね」

 と、なかはいうのでした。

 その年の秋、安政江戸地震が起ります。水戸藩邸の被害は大きく、藤田東湖が亡くなりました。斉昭は

「わしはかけがえのなき友をなくしてしまった」

 と、嘆くのでした。

 

 

『映画に溺れて』第405回 キンキーブーツ

第405回 キンキーブーツ

平成十九年一月(2007)
飯田橋 ギンレイホール

 

 英語のKinkyには性的変態という意味があるそうで、近畿大学は英語表記「KINIKI UNIVERSITY」を「KINDAI UNIVERSITY」に改めたとのこと。
 二〇〇五年製作の映画『キンキーブーツ』は二〇一三年にブロードウェイミュージカルとなって大ヒットし、二〇一六年には三浦春馬など日本人キャストによる舞台が上演され、さらにロンドンキャストでのライブ版が二〇二一年に劇場上映された。
 近畿大学の英語表記変更は、おそらくこのブロードウェイ発ミュージカルのロングランと世界的ヒットによるものと思われる。
 オリジナルの映画は実話をもとにしたコメディで、イギリスの田舎町が舞台。
 老舗の靴工場の社長が亡くなり、憧れのロンドン暮らしを始めたばかりの息子チャーリーが戻って来て、心ならずも会社を引き継ぐ。が、紳士靴は全然売れず、赤字続きで会社は倒産寸前だった。
 在庫処分の商談にロンドンを訪れたチャーリーが酔っぱらって偶然に出会ったのが、大柄な黒人の人気ドラッグクイーン、ローラ。ステージで歌い踊るのに、女性用のハイヒールはすぐに踵が折れてしまうとこぼす。
 そこでチャーリーはひらめく。ローラをデザイナーに起用し、女装男性専用の頑丈でしかもおもいきりセクシーなハイヒールのブーツを作ろうと。
 従業員の反発、ゲイに対する偏見、婚約者との不和などの試練を乗り越え、はたして男性用ハイヒールブーツは完成するのか。
 オリジナル版でローラを演じたキウェテル・イジョフォーは、どう見てもこの役にぴったりだったが、『堕天使のパスポート』ではアフリカから亡命した正義感の強い不遇の黒人医師、『それでも夜は明ける』では南部の奴隷農場に売られるミュージシャン、『ライオンキング』では声優、マラウイを舞台にした『風をつかまえた少年』では監督兼主人公の父親役。コメディ、SF、アクション、アニメ、社会派となんでもこなす才人である。

 

キンキーブーツ/Kinky Boots
2005 イギリス・アメリカ/公開2006
監督:ジュリアン・ジャロルド
出演: ジョエル・エドガートンキウェテル・イジョフォー、サラ=ジェーン・ポッツ、ジェミマ・ルーパー、リンダ・バセット、ニック・フロスト、ロバート・ピュー