日本歴史時代作家協会 公式ブログ

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書評『宗歩の角行』

書名『宗歩の角行』
著者 谷津矢車
発売 光文社
発行年月日  2022年4月30日
定価  ¥1800E

 

 

 文政3年(1820)8月、天野宗歩(あまのそうほ)は5歳で大橋本家十一代大橋宗金(後の大橋宗桂(おおはしそうけい)の門下となり、31歳の弘化3年(1846)9月、七段に昇段しているが、「棋聖」と呼ばれ、実力十三段」といわれた宗歩は将棋家の人でないために段位はついに七段で終わった。江戸時代は将棋家が家元として頂点に立ち、徳川幕府お抱えの将棋所(しょうぎどころ)名人は九段であった。次位の八段は名人である将棋所が死去すれば将棋所となる。よって、八段を許されるものは同時代では一人に限られていた。八段を与えては次期名人候補の有資格者となるからで、将棋家からしか名人を出さないしきたりを崩さなかった。
 宗歩が、将棋家の血につながらないという理由だけで八段に昇り得なかったのは遺憾なことであるが、宗歩が人間としてどう生きたかを当時の時代背景を踏まえて一考する必要がある。
 将棋三家の者(家元派)は将棋家の面子に関わることとして賭将棋(かけしょうぎ)には手を出さなかった。将棋所は免状発行権を独占していて「免状料収入」だけ、つまり将棋だけで生活していけた。一方、将棋では生活できない在野派は賭将棋渡世をせざるをえなかった。
 残存する宗歩の棋譜を全局並べた“自在流”内藤國雄九段は「一生を在野棋士で通した宗歩は、なによって生活の糧を得ていたのだろうか」と疑問を投げかけ、「その時代的性格から宗歩も幾多の真剣を指したが、真剣(賭将棋)をさすと、将棋が歪んだり濁ったりはすこしもしていない。宗歩の将棋のなかに、他の棋士の追随を許さない独特の美を感じる」(内藤國雄『棋聖天野宗歩手合集』)としている。同じように宗歩の実戦譜を並べてみた中原誠十六世名人は「私の場合、その将棋を通じてしか人間を語り得ないが、少年のころからすでに宗歩は王者の風格を備えていることを感じ取った」(中原誠日本将棋大系11 天野宗歩』)と記している。

 本作は歴史時代小説作家・谷津矢車による天野宗歩の人物伝記小説である。「江戸のどこかの商家の旦那はんで、宗歩の足跡を調べたいとする裕福な町人」による、宗歩の周囲にいた証言者20人へのインタビューという形式をとっている。
宗歩が慕い薫陶を受けた大橋柳雪、「遠見の角」の伊藤宗印、「吐血の対局」のライバル八代大橋宗珉、幼馴染みで「宗歩の四天王」のひとり市川太郎松など同時代の棋士たちはもちろん、肌身を接した前妻・後妻、弟子といった身辺の関係者。賭け将棋の胴元、行きつけの煮売り屋、職人、芸者と顔ぶれは多岐にわたる。
 トップバッターは宗歩という不世出の天才を弟子に持ったが故に晩年は不仲であったと言われる十一代大橋宗桂である。一話加わるごとに宗歩の謎に包まれた闇が解き明かされ、インタビュアの正体も輪郭がはっきりしていく。果たして、20人の証言で宗歩の実像がどのように実を結んでいくのか、読者は手に汗握るばかりである。

 インタビューによる結論から言えば、宗歩を「家族の生活の面倒さえできない変人」とみるか、「常識人」と見るかの両極に分かれるということであろうが、そもそも、宗歩には三つの謎がある。一つは生まれ、一つは京都行き、一つは死である。
 まず、生まれから。文化13年(1816)11月、江戸の本郷菊坂にて、小幡甲兵衛の次子として生まれる。幼名は留次郎。後に天野家の養子に入る。本当の父は大橋本家十代宗桂であるとする説もある。小幡甲兵衛は甲州の神官だったという説もあるが、本書では悪徳な代官所手代であったとしている。
 一つは京都行き。天保4年(1834)から天保14年(1843)までの11年間、しばしば京都を訪れているが、18歳の天保4年(1834)3月、五段に昇段するや上方に旅立った最初の京都行きは師宗桂の許しを得た将棋修業の旅との説があるが妥当だと思える。一方、「上方探題」という使命(公儀の命による探索)を帯びていたのではないだろうか(山本亮介『将棋文化史』)との説もあり、斎藤栄の小説『棋聖忍者・天野宗歩』は、宗歩は上忍で西国諸藩の動向を探るとの上忍としての役目があったとしている。
 弘化3年(1846)31歳 9月、七段を許されるや、すぐに江戸を後にしている。家元が居る生き苦しい江戸を離れたかったのであろうか。
 嘉永2年(1849)34歳 5月24日、妻お龍が死去。翌年5月 亡妻の一周忌にあたり、初代宗桂と同じ京都深草霊光寺に墓を建てている。京都の女の人と結婚するほどにお気に入りの京都で永住するつもりであったのか、あるいはこれを機に青春の思い出を刻み付けた京都の地を去ろうと決心したのかどうかはわからない。嘉永4年夏、江戸に戻るが、夫人逝去前後にあたる嘉永初期の棋譜が驚くほど少ないこともなおさらに謎を深めている。

 江戸に落ち着いて後妻ふさを迎えた宗歩は、嘉永5年(1852)5月、大橋本家の別家を立てて御城将棋に出勤するが、嘉永6年(1853)正月、定跡書『将棋精選』を開板するや、翌年、奥州路の旅に出ている。師の十一代宗桂との間は冷たくなるばかりで、やがて、東北越後を歩き、将棋普及に努めるとともに、酒と女と金(賭将棋)に遊ぶこととなったとされる。宗歩とすれば、将棋家の血に繋がらないために八段を許されないことに不満を懐き続けたことであろう。将棋家への養子という話もあった。現代に生きたならなら当然に永世名人になれた人。それが最後まで名人にならずして。“酒と女と金”とは非常に人間的な部分であり、それが自由だったということは宗歩が人間味溢れる 人物であったことの証であるが、「天野宗歩は御城将棋の出仕を許された後も、賭将棋を続けるなど不道徳な行為が多かった。将棋の強さが必ずしも高潔な人格と結びつかない典型であろう」(増川宏一『将棋の駒はなぜ40枚か』)とする冷めきった観方もある。

 最後の謎は死。安政6年(1859)5月14日 44歳で忽然と死んだ。師宗桂によって表向きは病死として寺社奉行に届け出されたという。本当は病死ではなく、別であったと言っているようなものではないか。死因については何も残していない。自殺?他殺?賭将棋との経緯で他殺、家元との諍いでの自殺も考えられる。あるいは「頓死」かも。
 享年44歳の短い生涯は奇しくも小池重明(こいけじゅうめい)と同じである。「新宿の殺し屋」と呼ばれ恐れられた最後の真剣(賭将棋)師といわれる小池重明は女に狂い、酒に溺れ、終生、放浪癖の抜けなかった人物である。この男はアマながらプロの八段をなぎ倒すほどの唯一無二の天才というだけではなく、前代未聞の愛すべき変人だったという(団鬼六真剣師小池重明』)。時代背景が比較にならない程ちがうが、勝手ながら、その重明に、宗歩を重ねている。
 将棋一途に生き抜く。ただ、将棋盤の前に座っているときだけが幸せである。天才の研ぎ澄まれた刃ほど、たやすく人を傷つけるものであるに違いない。常識という言葉をすっかり捨て去っている当人には他人の感情の機微がわからない。だが、読めないだけであって、その根底には優しい気持ちがあるのかもしれない。天才の持つ宿命。宗歩から将棋を問ったら何が残る。中原誠は「地位を望むよりは、将棋を愛し、なによりも将棋に打ち込める生活を宗歩は喜んでいたようである」とみる(前掲書)。
 本作の、20人によるさまざまな逸話が、天才だけが知る孤独と悲哀に収斂されていくさまは実に納得できるものであったが、伝説の棋士天野宗歩」はやはり難解であった。
 当時の将棋ファンはその実力と人柄を評して「棋聖」と呼んだのであり、春風駘蕩長者の風格を備えていたのは確かであろうが、晩年は不遇であり、家庭的にも恵まれず、その生涯は必ずしも幸せとは言えない。  

 本作は現代の歴史時代小説界の奇才天才である谷津矢車が孤高の勝負師・天野宗歩の数奇な人生を丹念にたどった歴史小説である。
 今日、将棋にさほどの関心がなかった人たちも、藤井聰太(ふじいそうた)(現、5冠)の出現によって将棋が注目され、約25年前、羽生善治(はぶよしはる)が全冠制覇したとき以来の盛り上がりを見せているが、この将棋人気の活況を宗歩が目の当りにしたら、宗歩は「令和の棋士たちの何と幸せなことか」と後輩たちにエールを送るだろう。本書を手にした読者諸氏、将棋ファンはむろんのこと、将棋を知らない方も、現代とは異なる幕末という苦難の時代をひたむきに将棋ひと筋に生きた一人の人間の姿に心打たれることであろう。
             (令和4年5月31日 雨宮由希夫記)

『映画に溺れて』第493回 メル・ブルックスの大脱走

第493回 メル・ブルックス大脱走

平成二年二月(1990)
中野 中野武蔵野ホール

 

 エルンスト・ルビッチが戦時中に作った反ナチコメディ『生きるべきか死ぬべきか』が日本で公開されたのが一九八九年、が、それより早い一九八四年にリメイク版『メル・ブルックス大脱走』が公開されている。
 名作のリメイクは割りに合わない。下手に細工して失敗すれば、名作への冒涜だと非難される。完璧になぞっても原作を簡単に超えられないし、うまくいっても、元が素晴らしいから当然だと言われる。
 メル・ブルックスはルビッチのオリジナルをかなり忠実になぞり、一九三九年のワルシャワを再現。内容も筋運びもほぼ同じだが、そこにブルックスらしいギャグがふんだんに入る。
 座長のブロンスキーと夫人で花形スターのアンナがポーランド語で歌って踊る「スウィート・ジョージア・ブラウン」で幕が開く。そして場内アナウンスが流れ、以後、ポーランド語は禁止、英語のせりふになる。
 オリジナルで座長を演じたジャック・ベニーは二枚目で劇中の舞台劇も正統派だったが、ブルックス版では劇中劇がミュージカルコメディになっており、ブルックス演じるブロンスキー座長はヒトラーのコントで「ハイル・マイセルフ」を連発。これが『独裁者』のチャップリンそっくり。この場面は後にミュージカル『プロデューサーズ』でヒトラーが歌って踊る「春のヒトラー」につながるのだろう。
 座長夫人アンナを演じるのが実際にブルックス夫人のアン・バンクロフトハムレットの長ぜりふを合図に楽屋で夫人と逢瀬を楽しむ空軍パイロットがティム・マティスン。ナチススパイの教授がホセ・ファーラーゲシュタポのエアハルト大佐がチャールズ・ダーニング。その部下のシュルツがクリストファー・ロイド。配役もオリジナルと比べてはるかに喜劇色が強い。アンナの付き人がゲイだったり、大量のユダヤ難民をいっしょに国外脱出させたり、オリジナルと比較しても遜色がない楽しいコメディである。

 

メル・ブルックス大脱走/To Be or Not to Be
1983 アメリカ/公開1984
監督:メル・ブルックス
出演:アン・バンクロフトメル・ブルックス、ティム・マティスン、チャールズ・ダーニングホセ・ファーラークリストファー・ロイド

 

書評『戴天』

書名『戴   天』
著者 千葉ともこ
発売 文藝春秋
発行年月日  2022年5月10日
定価  ¥1800E

 

 開元24年(736) 大唐帝国の首都長安の西市(長安城内の西側の商業中心地) 8歳の少年二人と6歳の少女の幼馴染みが遊んでいるところから物語は立ち上がる。
唐の先天元年(712)28歳で即位した李隆基(りりゅうき)(玄宗)は唐皇帝の中で在位期間が一番長く、44年間という長期に及んだ。前半は「開元の治」と呼ばれる唐の全盛期を現出させたが、晩年は長い統治に倦んで次第に放逸となり、楊貴妃に耽溺、やがて「国破れて山河在り」の安史の乱(755~763)を招く。 

「序章」では三人の幼馴染みが紹介される。崔子龍(さいしりゅう)は山東貴族の名門崔家の御曹司。陽物を失って母親から冷遇され、名家の跡継ぎから、町に潜む無法者に変わり果てる。王勇傑(おうゆうけつ)は子龍が生涯の友だと思っていた男だが、子龍に忌まわしい災厄をもたらす元凶。杜夏娘(とかじょう)は子龍が陽物を失った時も、「わたしはあなたと一緒に走れる」と子龍と共にあろうとしてくれる。

「第一章」は15年の歳月が一気に過ぎて、天宝10載(751)。主人公の崔子龍23歳は タラス河畔の戦い(天山山脈の西北麓のタラス河で、7万に及ぶ唐軍がアッバース朝イスラム帝国と戦かい殆ど全滅した戦い)に従軍している。宦官(かんがん)ではないが陽物を欠いている崔子龍は異例の配属で監軍使の隊列にあり一隊長として「蟻隊」という宦官だけを集めた部隊を率いている。 
 唐国の総大将高仙芝(こうせんし)は滅びた高句麗の遺民で唐において出世した人物。容姿端麗なうえに鬼神のような猛々しさを兼ね備え、民からも人気が高い。まさに英雄である。加えて、高仙芝に子龍自身の顔が酷似しているとなれば、子龍がすでにこの男のことが好きになっているのは当然である。
 この高仙芝の前に立ちはだかるのが、宦官にして監軍の隊を統べる監軍使(目付)宦官の辺令誠(へんれいせい)である。唐朝の征討軍には監軍使として宦官を従軍させる慣例があった。辺境における監軍使には節度使をしのぐ絶対の権限があり、武骨な将軍らと軍事の素人ながらやたらと干渉する宦官とは当然折り合いが悪く、紛糾が絶えなかった。タラスの大敗は宦官辺令誠が敵と通じたがゆえに起こった。辺令誠が仕込んだトルコ系遊牧民カルルックの裏切りで唐軍は壊滅したのであった。皇帝に報告する戦功の内容には監軍使への賄賂の量で決まる。
 撤退に際し、高仙芝の直下に組み込まれた子龍は複雑奇怪な化け物で巨悪の根源たる辺令誠を殺すべく寝込みを襲うが仕損じる……。
 安史の乱前夜の唐の国情は厳しい財政状況および機能不能の政情のもとにあった。言葉巧みに玄宗楊貴妃に取り入り唐朝簒奪の野望を抱く安禄山(あんろくざん)と、楊貴妃の従祖兄(またいとこ)という幸運によって栄耀栄華を誇る身となっている元破落戸の宰相楊国忠(ようこくちゅう)とは不倶戴天の立場にある。かくして安禄山は「君側の奸楊国忠を除く」を名目に兵を挙げる。

「第二章」は一変して、真智(しんち)という若い僧侶が視点人物。3人の少年少女との繋がりは明記されずにストーリーは展開される。幼少年期に両親を亡くした真智は「ある男」の養子となり、必死に学び、仏典の路を追求している。真智と「ある男」(義父)の間柄は隋唐期に盛んであった仮父子(かふし)(義父と義児)関係にあった。壮絶な死を遂げた義父は朝廷内の抗争に敗れた官人で、佞臣楊国忠を重んじる皇帝を諫めんとして辺鄙な西方の果てに流され、殺されたのであった。義父の遺志を継ぎ、皇帝への直訴を果たそうとする真智は、天宝14載(755)11月、驪山で催された皇帝主催の徒競争(マラソンのような競技)に参加する。ここに、夏蝶(かちょう)という女性が登場する。驪山での競争に参加した夏蝶は華清宮での楊貴妃付きの婢で、直訴に失敗した真智の窮地を救ってくれる……。

「第3章」は崔子龍の再登場である。タラスの戦いから約3年半後、長安に生還した子龍は皇帝の行幸を狙い、タラスの戦いの真実を皇帝に訴えようとしている。安禄山の挙兵に対する唐軍の募兵があり、唐軍に潜り込んだ子龍は〈巨魁〉辺令誠に近づく絶好の機会を得て、〈英雄〉高仙芝と再会を果たす。

 相互のかかわりが不明であった登場人物たちのそれぞれの立ち位置と因縁が明かになる折り返し点が「第四章」。驪山で玄宗楊国忠楊貴妃の排除を訴え身柄を拘束され長安の獄へ運ばれた真智は、楊貴妃の側にいる夏蝶という名の婢が、元は官人の娘・杜夏娘であり、楊国忠によって陥れられた「友」を助けようとして、わが子の冬蝶とともに罰をうけたこと。杜夏娘の「友」とは王勇傑であり、真智の義父の本当の名が王勇傑あることを知る。一方、真智が参加できるように取り計らってくれた「碧眼の男」こそ宦官辺令誠で、辺令誠は真智の目論見を知っていた……。

「第5章」高仙芝は、公開処刑の場にある。安史の乱が起きて副都洛陽が陥落されると、高仙芝は首都長安防衛の要衝・潼関(どうかん)に退くが、このことで玄宗の怒りを買う。加えるに、辺令誠は高が横領の罪を犯したと言上。億兆の人間の生殺与奪の権を握る皇帝が「殺せ」といえば、その者が英雄たりと言えども役人に捕らえられ、首を刎ねられる。それだけのことである。辺令誠の頭の中には義勇軍の総大将高仙芝を「いかに料理するか」しかない。
 死に臨んで高仙芝は「戴いた天に臆せず、胸を張って生きる。私は最期まで胸を張っていたい。見届けてくれるか」と子龍に託す。為す術もない崔子龍。
 第二章で真智は、皇帝は何故、楊国忠ら佞臣に権を持たせ、忠臣である義父に非業の死を遂げさせたのか、この理不尽を正さぬかと嘆いたが、ここで、崔子龍は「正気ではない天子を戴く国はどうなるのか」と天を仰ぐ。

『戴天』はデビュー作『震雷の人』と同様、安史の乱の時代を舞台とし、腐敗した権力者を除いて、国を正しくしようとする若者達たちの挑戦を描く。かつまた、宦官は国を乱す元凶だが、常人には見られない残酷で波乱に満ちた運命に身を晒し、人らしからぬ生き方を強いられた宦官の哀しみをも作者は描く。中世中国社会の構造的矛盾を照射した珠玉の中国歴史小説である。

 

              (令和4年5月31日 雨宮由希夫記) 

大河ドラマウォッチ「鎌倉殿の13人」 第21回 仏の眼差し

 義時(小栗旬)は、夕暮れの鎌倉の街を見ていました。そこへ土肥実平阿南健治)がやって来ます。

「どうした」

 と、聞く土肥に

「九郎殿のことを、考えておりました」

 と、義時は打ち明けます。

「わしもじゃ。平家とのいくさの間、ずっと共にいたもんでなあ。死なねばならなかったのか。もったいない。実に」

 そこに鎌倉の道を直す、八田知家市原隼人)が通りかかります。両親とも飢饉で死んだ、鶴丸、を義時に託すのでした。

 頼朝は全国から兵を集め、奥州に攻め込みます。いくさは、鎌倉方の圧勝に終わります。

 頼朝(大泉洋)は義時らと共に、藤原氏の財宝を目にします。

「貯めこんだものだのう」

 との声を頼朝は放ちます。そこへ藤原泰衡の首桶が運ばれてくるのです。献上したのは泰衡の家人でした。頼朝は表情をこわばらせます。

「恩を忘れて、欲得のために主人を殺すとは何事か」頼朝は命じます。「この男の首を今すぐはねよ」頼朝は義時にいいます。「これから大事になるのは、忠義の心だ。あのような男を、二度と出してはならん」頼朝は庭に踏み出します。「ついに、日の本すべてを平らげた」

「ご苦労様でございました」

 と、安達盛長(野添義弘)がいいます。

「おめでとうございます」

 と、義時も頭を下げます。頼朝が話します。

「源氏の世は、もうすぐそこだ。だがその前に」

法皇様でございますか」

 と、義時がたずねます。頼朝はうなずきます。

「京の大天狗を、何とかせねばならん。天下草創の総仕上げよ」頼朝は義時に向き直ります。「小四郎、悔やむな」

「申し訳ありません」

 と、詫びる義時。

「おのれのしたことが、正しかったのか、そうでなかったのか、自分で決めてどうする。決めるのは天だ」

「罰(ばち)が当たるのを、待てと」

「天が与えた罰なら、わしは甘んじて受ける。それまでは、突き進むのみ」

 坂東武者たちが酒を酌み交わしています。義経の住んでいた館に行って、手を合わせようという話になっていました。千葉常胤(岡本信人)がいいます。

「それにしても、九郎殿は強かった」

 神がかりの強さだった、との声も聞こえます。和田義盛横田栄司)がいいます。

「梶原平三が、鎌倉殿に余計なことをいわなきゃ、死ななくて済んだんだ、九郎殿はよ」

 義時は一人飲んでいる、梶原景時梶原景時)の隣に腰を下ろします。

「九郎殿は亡くなったが、その名は語り継がれる」梶原は姿勢良く座っています。「そして、いくさのなんたるかも知らぬ愚か者として、梶原景時の名も、また残る。これも定めか」

 鎌倉に戻った頼朝は、上洛に向けて動き出します。都から、北条時政坂東彌十郎)が戻ってきていました。時政は後白河法皇西田敏行)にひどく気に入られていました。法皇と双六をしたとき、時政は法皇のズルを許さなかったというのです。

「そなた、肝が据わっておるのう」

 と、後白河法皇は感心します。法皇の愛妾である丹後局鈴木京香)も

「さすがは坂東武者」

 と、ほめます。法皇は時政にいいます。

「のう、わしの側に、ずーっとおらんか」

「ご勘弁を。鎌倉で、美しい妻が待っておりますもので」

 と、時政は法皇の要求を、にこやかに断ります。

 その話を聞いて、頼朝は上機嫌に笑います。

「美しい妻のおかげで、わしは、鎌倉の要石(かなめいし)を手放さずに済んだわけだ」

 義時が、法皇からの文(ふみ)を確認し、望みの恩賞を出すといっていると頼朝に伝えます。

「さて、どうする、小四郎」

 と、頼朝は義時にたずねるのです。

「分かりませぬ」

 その答えに、頼朝は笑い声を上げるのです。

 法皇に、頼朝から、恩賞を断る文(ふみ)が届きます。法皇は述べます。

「奥州攻めは勝手にしたこと、だといいたいのであろう。今後わしのいいなりにはならんとな。調子に乗りよって」

 文を受け取った平知康矢柴俊博)が、内容を伝えます。

「奥州を倒した今、法皇様の事だけが心残り。近々、お目にかかりたい、とあります。やはり、頼朝追討の宣旨(せんじ)を出したこと、怒っておるのでは」

 法皇は声をあげます。

「こんな時に、平家がおったらのう。義仲。九郎。なんで滅んだ」法皇平知康をにらみます。「お前が悪い。お前はいつも、わしの言いなりじゃ。なんでわしを止めなんだ。この、役立たずが」

 鎌倉では、義時が、息子の金剛を、頼朝の嫡男である万寿に会わせていました。政子(小池栄子)が、八重(新垣結衣)にいいます。

「八重さん、なにか変った。つやつやしていない? いえ違う、面持(おもも)ちね。明るくなった。たぶんねえ、幸せなんだと思う。顔に出てる」 

 しかしこれを聞いた頼朝は面白くないようなのです。八重と付き合っていたときに待ち合わせた桜の木や、地蔵の話を始めるのです。頼朝は仕事で男たちが集まる席でも、そんな話を続けます。挙げ句の果てに、金剛が自分に似ているとまでいいだすのです。

 家に帰って義時は八重にその話をします。

「よく見てください」と、八重は寝入った金剛を義時に示します。「どこから見ても、あなたの子。不安だから、お話しになったんでしょ。鎌倉殿はそうやって、小四郎殿をもてあそんでおられるのです。腹が立ってきた」

「いわなければ良かった」

 と、義時は立ち上がります。

「もっとご自分に自信を持って下さい」

「向こうは天下の鎌倉殿。源氏の棟梁。武士の頂(いただ)きにおられるお方。どうあがいても、太刀打ちできる相手ではない。抗(あらが)っても結局はいいなり。いわれるがままに、非道なことをしているおのれが情けない」

 八重が立ち上がって義時に寄ります。

「私はあなたを選び、金剛が生まれたのです。確かに昔は、あのお方の側にいたいと思った。はっきりいいます。どうかしていました。小四郎殿でよかったと、思っています。あなたがいなければ、源頼朝だって、今もただの流人ですよ」

「それはいいすぎだ」

 と、義時は笑いながらいいます。

「いいえ。あなたが、今の、鎌倉をおつくりになられたのです」八重は微笑みます。「今のはいいすぎました」

 二人は笑い声をたてます。義時は八重を抱き寄せるのでした。

 北条の一族が、時政と、りく(宮沢りえ)の間に、男の子が生まれたことを祝って、集まっていました。畠山重信(中川大志)も時政の娘を嫁に取り、一族に加わっています。この場で、りくは皆にたるんでいる、と言い放ちます。もっと北条を盛り立ててゆくのです、と、興奮します。

 伊豆にある願成就院(がんじょうじゅいん)に、時政と義時はやって来ていました。

 その頃、八重は河で子どもたちを遊ばせていました。その場に三浦義村山本耕史)も来ていました。二人の娘と息子を、夫婦(めおと)にさせてやるか、などと話しています。

 願成就院では、奈良から呼び寄せた運慶つくらせた仏像を、時政たちが見ようとしていました。運慶が現れて住職に文句をいいます。仏像たちは、すべて出来上がっていたわけではなかったのです。

 河原で遊んでいた子の中で、鶴丸が、流されて岩にしがみついていました。八重は死んだ子である、千鶴の名をつぶやいて川に入っていきます。八重が鶴丸を抱いて戻ってくるのを、三浦義村が見つけます。慌てて肌脱ぎになって川に入り、八重から鶴丸を受け取ります。鶴丸を救出した義村でしたが、振り返ると八重がいません。 

 八重がいなくなったのは政子の知るところとなります。

「嘘でしょ。死んじゃったの」

 と、義時や政子の妹である実衣(宮澤エマ)が義村に聞きます。夜には頼朝も聞きつけます。鎌倉中の御家人を集めて探索するように命じます。

「御台所(みだいどころ)」

 と、悲壮な声をあげて仁田忠常(高岸宏行)がやって来ます。

「見つかったのですか」と、聞く政子。「様子は」

 仁田首を振るのでした。

 その時、伊豆で阿弥陀仏を見ていた義時は

「妻の顔を思い出してしまいました」

 と、運慶にいっていました。

 

『映画に溺れて』第492回 第十七捕虜収容所

第492回 第十七捕虜収容所

令和元年八月(2019)
渋谷 シネマヴェーラ

 戦争映画ではあるが、戦闘場面はなく、ビリー・ワイルダー監督らしいコメディ調で描かれた捕虜収容所のクリスマスストーリーになっている。
 第二次大戦末期、ドイツ国内のドナウ川のほとりにある捕虜収容所。米軍の軍曹ばかりを収容する兵舎で、脱走が企てられ、実行に移される。地下に掘られた穴からふたりの捕虜が有刺鉄線の柵にたどりつき、外に抜け出したとたん、待ち伏せしていたドイツ兵に射殺される。捕虜の中に所長に通じるスパイがいて、脱走計画は筒抜けだったのではないか。
 収容所内で便利屋のように世渡りするセフトンは脱走なんか無駄だと言い切り、ニヒルな態度で仲間たちをいらつかせる。酒を調達したり、賭場を開いたり、ロシアの女兵士たちが収容されている隣の兵舎を望遠鏡で覗かせたり、好き放題で稼ぐ。賄賂で懐柔したドイツ兵から優遇されているので、兵舎の仲間たちの間では評判が悪い。
 ここに新しい捕虜として将校のダンバー中尉が入ってくる。ダンバーが爆薬輸送用のドイツ軍用列車を爆破したことを知り、捕虜たちは大喜び。するとたちまち、所長のシェルバッハがダンバーを拘束し、爆破事件について尋問を始める。
 捕虜しか知らない軍用列車爆破が所長に知られたのはスパイのせいである。捕虜たちはスパイの疑いで日頃から嫌われ者のセフトンを袋叩きにする。が、セフトンがスパイでないことを知る人間がふたりいたのだ。ひとりはセフトン自身。もうひとりは本物のスパイ。
 セフトンはいかにしてスパイの正体を暴くのか。そしてゲシュタポに引き渡されるダンバーを捕虜たちはいかにして救い出そうとするのか。
 後の『大脱走』に通じるようなナチスの捕虜収容所映画である。
 皮肉屋で汚く稼ぐセフトンを『サンセット大通り』で二枚目だったウィリアム・ホールデンが演じている。捕虜のひとりに『スパイ大作戦』のフェルプス君ことピーター・グレイブスも。

第十七捕虜収容所/Stalag 17
1953 アメリカ/公開1954
監督:ビリー・ワイルダー
出演:ウィリアム・ホールデンドン・テイラーオットー・プレミンジャー、ロバート・ストラウス、ハーヴェイ・レンベック、ネヴィル・ブランド、ピーター・グレイブス、シグ・ルーマン

『映画に溺れて』第491回 シンドラーのリスト

第491回 シンドラーのリスト

平成六年三月(1994)
渋谷 渋東シネタワー2

 相次いで娯楽作品を世に出しヒットさせたスティーヴン・スピルバーグが作った『シンドラーのリスト』は執念の一作といえるだろう。ハリウッドの映画人にはユダヤ系が多く、スピルバーグもまたユダヤ系である。
 小さな町工場の息子オスカー・シンドラーは調子のいい男で、一旗揚げようとポーランドにやってくる。ちょうど戦争が勃発し、ユダヤ人の迫害が始まると、シンドラーはこれに目をつけ、ナチス高官に取り入り、軍需工場を開く。シンドラー自身、ナチス党員なのだ。ゲットーのユダヤ商人たちから資本金を引き出し、安い労働力としてユダヤ人を働かせる。
 やがてゲットーが廃止され、ユダヤ人たちは強制収容所に入れられ、選り分けられて、最終処理場のアウシュビッツへの移送が始まる。シンドラーナチス高官に多額の賄賂を送り、収容所のユダヤ人を労働力として工場で働かせることを承諾させる。
 戦局が悪化し、いよいよユダヤ人を全員アウシュビッツに送ることが決定する。戦争成金として巨万の富を得たシンドラーは札束の詰まった鞄とともに故郷へ錦を飾り、ユダヤ人たちはガス室へ。だが、シンドラーはあることを思いつく。チェコに新しい工場を建て、そこでユダヤ人を働かせよう。札束の力でナチス高官を承諾させ、ユダヤ人の工場支配人とともに名簿作りが始まり、選ばれたユダヤ人はアウシュビッツではなく、チェコの工場に送られ生き延びる。多額の賄賂と形だけで機能しない軍需工場の経営でシンドラーはついに無一文になるが、それと同時に終戦を迎える。
 シンドラーは最初、金儲けにユダヤ人を利用しただけだった。だが、あまりの悲惨さに、彼らを助ける気になった。工員として引き取られたユダヤ人は千人以上。感謝されながらシンドラーは努力が足りなかったと嘆くのだ。もっともっと努力すれば、もっともっと多くの人が助けられたのに。自分はそうしなかったと。
 ホロコーストという重い内容をスピルバーグは娯楽作品で鍛えた手法を駆使して見応えのある作品にしている。

 

シンドラーのリスト/Schindler's List
1993 アメリカ/公開1994
監督:スティーヴン・スピルバーグ
出演:リーアム・ニーソンベン・キングズレーレイフ・ファインズ、キャロライン・グッドール、エンベス・デイヴィッツ

大河ドラマウォッチ「鎌倉殿の13人」 第20回 帰って来た義経

 文治三年(1187)。義経は、平泉にたどり着いていました。藤原秀衡(ふじわらのひでひら)(田中泯)が義経菅田将暉)にいいます。

「よう戻って来たな。それにしても、悔やまれる。お前を送り出したとき、もし、わしが兵を挙げておれば。天下を目指すには、この奥州は、あまりに重かった。まあよい。代わりにお前が日の本一の英雄となった。これほど嬉しいことはない。平家を倒したのはお前だ。ようやった。九郎」

 それを聞いた義経は涙を流すのでした。

 鎌倉では、頼朝(大泉洋)が話しています。

「九郎が平泉に現れたぞ」

 安達盛長(野添義弘)がいいます。

「九郎殿が秀衡と手を組めば、強大な敵となりますぞ」

「そうなるな」

 と、頼朝はつぶやくようにいいます。

 藤原秀衡は生涯の終わりを迎えようとしていました。次男の藤原泰衡(ふじわらのやすひら)(山本浩司)を後継者に指名し、長男の藤原国衡(ふじわらのくにひら)(平山祐介)に自分の妻を、つまり国衡の母親を、嫁にするように命じます。そして義経を大将軍とします。秀衡は庭に下ります。

「もう少し、わしに時があったら、鎌倉に攻め込んで」

 そこまでいいかけると、秀衡は笑い声を上げ、膝から崩れ落ちるのでした。

 文治五年(1189)の閏四月になります。義時(小栗旬)が頼朝に述べています。

「慎重だった秀衡殿が亡くなり、この先、平泉がどう出るかは、分かりません。向こうには九郎殿がいます。いくさになれば、苦戦するは必定。平泉に行かせてください。九郎殿を連れて、必ず戻って参ります」

「任せる」頼朝は書き物から、顔も上げずにいいます。「ただし、生かして連れて帰るな。禍(わざわい)の目を、残してはならぬ。だが、決して直(じか)に手を下してはならん。国衡は泰衡の兄弟は仲が悪い。二人の間を裂け。泰衡に取り入り、焚きつけて九郎を討たせる。我らが攻め込む大義名分をつくるんだ。勝手に九郎を討ったことを理由に、平泉を滅ぼす。あくどいか。あくどいよのう」頼朝は庭を眺めます。「この日の本から、鎌倉の敵を一掃する。やらねばいくさは終わらん。新しい世をつくるためじゃ」

 出発しようとする義時を、善児(梶原善)が待ち構えていました。善児は汚れ仕事を淡淡と行う、仕事人です。梶原景時中村獅童)についていくように命じられたというのです。

 義時は奥州に到着します。藤原泰衡は、義経を引き渡すことはできないといいます。義時は、義経を頼朝に対して謀反を目論んだ大罪人、と呼びます。泰衡は、今の義経は、頼朝に刃向かう気持ちはないといい切ります。

 義時は義経に会います。義経は畑を耕していました。妻の里(三浦透子)との間に、女児をもうけていました。義経は義時にいいます。

「私はもう、いくさをするつもりは無い。案ずるな。ただし」義経は義時に顔を近づけます。「平泉に手を出してみろ。決して許さない。その時は、鎌倉が灰になるまで戦ってみせる。帰って兄上にそう伝えろ」

 農作業をする義経に義時は話しかけます。

「静(石橋静河)さんのことは残念でしたね」

「静がどうした」

 と、義経は聞きます。

「ご存じないのですか。ならば忘れてください」

「いいから話せ」

 義時は話し始めます。

 義経が都を落ち延びてすぐ、静は捕まります。静は身ごもっていました。

 頼朝は義時にいいます。

「しばらく鎌倉に留め置け。生まれてきた子が男なら、由比ヶ浜に沈めよ。九郎の子じゃ。生かしておく訳にはいかん」

 当初、自分が静御前だとは認めませんでしたが、里の母に「あなたは捨てられた」となじられ、自分が静であると認めます。

 静は頼朝の前で舞って見せます。

「しずやしず……」

 と、頼朝を当てこする歌をうたうのです。北条政子小池栄子)が頼朝にいいます。

「おなごの覚悟です。あなたが挙兵されたとき、わたくしも覚悟を決めました。それと同じことです」

 その後、静は鎌倉から出ることを許されず、子供を産みます。男の子でした。静の子は取り上げられ、善児がそれを運んでいきました。

 静は鎌倉を出て、その後行方知れずになります。美濃で静に似た遊女を見かけたという話も伝わってきた、と義時は結びます。

 義経は夜、雄叫びを上げて藁人形を切断します。それを密かに見ていた義時は、善児にいいます。

「うまく運んだようだ」

 義時は泰衡に、義経の鎌倉への憎しみが、抑えきれるところまでふくらんでいると話します。どうすればいい、と聞く泰衡に、義時は冷たい目を向けます。

「手は一つ。九郎殿の首をとり、鎌倉殿に送り届ける。それより道はありません」

 泰衡は軍勢を集め、義経の館を襲おうとします。

 義経は、京都で自分が襲われたのは、妻の里が静を殺すためだったことを知ります。てっきり頼朝から送られた刺客だと思っていた義経は驚き、激昂します。義経は里を刺してしまいます。

 鎌倉に帰ろうとした義時は、弁慶(佳久創)に待ち伏せされます。縁の下から、義経のもと連れて来られます。

 義時は冷たくなった里と、その娘を目撃します。義経はいいます。

「泰衡の手勢が来ている。お前が一枚噛んでいることは分かっておる。どうしてお前が静の話をしたのか不思議だった。つい口にしてしまった様子、だったが、あれは芝居だ。あえて私にそれを伝え、兄上に対する憎しみを募らせる。私に鎌倉憎しの思いが無ければ、泰衡も、兵を出すわけにはいかないからなあ」

 義経は、世話になった、と弁慶を送り出します。義経は微笑んで話します。

「自分の手は汚さず、泰衡に私を討たせる。兄上の考えそうなことだ。そこまで兄上にとって私は邪魔なのか。そう思うと、どうでもよくなった。この首で、平泉が守れるなら、本望だ。見せたいものがある」義経は何枚もの地図を取り出します。「ここに来てから、いかに鎌倉を攻めるか、いろいろ考えた。まずは定石通り、北から攻める構えを見せる。見せるだけだ。鎌倉勢は当然、鎌倉の北に兵を出して、迎え撃とうとする。そこで、南側の海だ。平泉は、北上川から直に船を出せる。まさか我らが、船で攻めてくるとは思っていないだろう。がら空きの鎌倉の浜に、乗り付け、北にいた兵が、慌てて戻ったら、それを追いかけ、そのまま鎌倉全体を包囲。すべての切り通しをふさぎ、袋のネズミにしてから、街に火を放つ」

 義時は感嘆の声を放ちます。

「恐れ入りました 」

 と、いいます。義経は文(ふみ)を取り出します。

「ここに仔細(しさい)を書いておいた。鎌倉に届けて欲しい。梶原景時。あの者なら、きっとこの策の見事さを、分かってくれるはずだ」

 来た道を通っていけ、と義経は義時を逃がしてくれます。

 義時は頼朝に報告を終えた後、梶原景時に、義経の文を見せます。梶原はいいます。

「この通り攻められたら、鎌倉は間違いなく滅びていたことだろう」

 文治五年、六月十三日。義経の首が、鎌倉に届けられました。

 頼朝は、義経の首の入った桶(おけ)に話しかけます。

「九郎、ようがんばったなあ。さあ、話してくれ。一ノ谷、屋島、壇ノ浦。どのようにして、平家を討ち果たしたのか。お前の口から聞きたいのだ。さあ、九郎。話してくれ」

 頼朝は涙を流して桶にすがりつくのでした。

 

大河ドラマウォッチ「鎌倉殿の13人」 第19回 果たせぬ凱旋

 頼朝(大泉洋)から鎌倉入りを拒否された義経菅田将暉)は、京に戻っていました。義経は妻の里(三浦透子)を相手に酒を飲みます。里は自分まで帰れないことに文句をいいます。

「離縁して下さい」と、里はいいます。「あの静(しずか)(石橋静香)という女と一緒になればいいではないですか」

 そこに頼朝や義経の叔父に当たる源行家杉本哲太)が姿を見せるのです。行家はいいます。

「これ以上、頼朝の好きにさせてはならん。義仲と組んで、奴を討ち取ろうと思ったが、果たせなかった。おぬしならできる。鎌倉に攻め入って、頼朝の首をとれ」

 義経はいいます。

「私は、兄上とは戦いたくない」

「頼朝は必ず攻めてくる。あれは我らを身内とは思うておらぬ。ここは先手を打つのだ、九郎。あやつに勝つにはそれよりほかはない」

 鎌倉で義時(小栗旬)と共に書物の整理をしていた大江広元栗原英雄)が顔を上げます。

「思いつきました。九郎殿を鎌倉に戻す良い策を。法皇様にお願いして、九郎殿を受領(ずりょう)にしていただきます」

 義時は首をかしげます。

「今さらどこかの国の国司(こくし)というのは」

「肝心なのは、受領になれば、検非違使(けびいし)を兼任することができないということ」

「京に留まる理由がなくなる」

 この策を聞いた頼朝はいいます。

「わしとて、このままでいいとは思っておらぬ。九郎に会って、いくさの労をねぎらってやりたい。あいつがおのれの非を認めて、素直に詫びてくれれば、いつでも許してやる」

 義時がいいます。

「受領の件、ぜひ法皇様にお願いしてくださいませ」

 頼朝はうなずきます。

「そうだ。いっそのこと、伊予守(いよのかみ)に推挙してやるか」

 その内容を書いた文(ふみ)を京にいる義経は感激の表情で読みます。弁慶(佳久創)や静に叫びます。

「喜べ。兄上が、伊予守にしてくださる」

 弁慶たちは理解できません。義経はいたずらっ子のような表情をします。

「お前ら、何も知らないんだな。こういうのは名前だけ。別に伊予で暮らさなくてもいいんだよ」

 弁慶が聞きます。

「鎌倉へ帰るのですか」

検非違使ではなくなるんだから、こっちにいることもない」

 後白河法皇西田敏行)は、公家たちと話していました。平知康矢柴俊博)が発言します。

「頼朝め。ずいぶんとつけあがっておりますなあ」

 後白河法皇がいいます。

「まあここは、つけあがらせてやろうではないか。九郎の武功は、伊予守こそふさわしい」

 九条兼実田中直樹)がいいます。

「かしこまりました。では、検非違使の任を解き、さっそく九郎義経を、伊予守に」

 法皇はいいます。

検非違使は、そのままで良い」

「未曾有(みぞう)のことにございますが」

「構わん」

 義経後白河法皇に呼び出されます。伊予守に任じられ、検非違使の兼任も命じられるのです。法皇がいいます。

「お前の忠義に応えるには、検非違使と受領、いずれかでは足らん。両方じゃ。これからも京の安寧(あんねい)を、守ってくれの」

 鎌倉ではうめくように頼朝がいいます。

「どうやら、九郎に戻る気はないようだな」

 義時が義経を弁護します。

「おそらく、法皇様のお考えでございましょう。九郎殿も断り切れなかったのでは」

「それが腹立つのだ。わしより法皇様をとるということではないか。もう勘弁ならん。帰ってこんでいい」頼朝は立ち上がって、文(ふみ)を叩きつけます。「顔も見とうないわ」

 北条政子小池栄子)は、北条の一族を前に訴えます。

「このままでは、九郎殿と鎌倉殿は、いずれかならずぶつかります」

 義時がいいます。

「鎌倉殿は、ご自分を武士たちの頂(いただき)とする、新しい世をおつくりになりたいのです。法皇様に気に入られ、いいなりの九郎殿は、その邪魔になりかねない」

「でも私には分かる」政子は義時を見すえます。「あの方は、心の内では九郎殿がいとおしくてたまらないのです。だから何とかしてあげたいの」

 そこへ末妹、実衣(宮澤エマ)の夫である阿野全成新納慎也)が案を話します。頼朝たちの父、義朝の菩提を弔うため、供養を行うことになっています。そこに義経を呼ぶのです。平家討伐を報告する供養ともなれば、義経も来ないわけにはいかない。政子は顔を輝かせます。

「良い考えではないですか」

 義時も納得します。

「確かにそれなら、法皇様もお許しくださいましょう」

 義時はこの案を、頼朝に報告に行きます。そこに、今まで京の情勢を知らせてくれていた三善康信小林隆)がやって来ていました。義時は案を話します。

「それは、九郎が顔を出せば、亡き父も喜ばれるであろうが」

 との頼朝の言葉を、大江広元が続けます。

「あのお方の後ろには、法皇様がいらっしゃいます」

 三善康信がさらに続けます。

法皇様には、鎌倉殿が九郎殿とぶつかることを、むしろ望んでおられる節がございます」

「なにゆえに」

 と、義時は問います。三善が答えます。

「それが昔からあのお方のやり方と申しますか。大きな力が生まれると、必ずそれに抗(あらが)う力をつくろうとなさるのです」

 そこへ、文覚(市川猿之助)やって来たという知らせが入るのです。

 文覚は本物だという義朝のしゃれこうべを持ってきていました。義時が聞きます。

「今度こそ、本物であるという証(あかし)はあるのですか」

「ござらぬ。されど、真偽に何の意味が」文覚は声を張ります。「大事なのは、平家が滅んだこの年、源氏ゆかりのこの地で、鎌倉殿がご供養なさるということ。その場に、義朝殿とおぼしきドクロが届けられたこと。鎌倉殿が、本物だといわれれば、その説が、このドクロは、本物となるのじゃ」

 頼朝は立ち上がり、しゃれこうべを手に取ります。それを置いて深く頭を下げます。

「父上、お帰りなさいませ」

 義時がいいます。

「鎌倉殿。このことを九郎殿にお伝えします。必ずや供養にお越しになるはず」

 頼朝はうなずくのでした。

 京の義経の館では、正妻の里と愛人の静が争っていました。その二人を残し、義経はやって来た義時と会います。

「もちろん父上の供養だ。行きたくない訳がないだろう」

 という義経に、義時は語ります。

「鎌倉殿も九郎殿に会いたいのです。膝をつき合わせてお話になれば、わだかまりは解けると信じております。義朝様のしゃれこうべ、その目でご覧になってください」

「供養の後は」

「むろん鎌倉に残り、鎌倉殿にお仕えを」

 翌日、義経は、叔父の行家と話します。行家はまくしたてます。

「鎌倉へ入ればその日のうちに、捕えられ、首をはねられてしまうぞ。木曽義仲も、そのせがれも甲斐の武田も、頼朝の邪魔になった奴ら、皆、どうなった。おのれの身を守るためには、一族とて容赦はしない。あれはそういう男なのだ。なぜそれが分からんのだ」

 義経は立ち上がります。

「これから院の御所へ行って、法皇様にお許しをいただいて参ります」

 法皇は、ひれ伏す義経にいいます。

「それほどまでに、頼朝に会いたいか」

「会いとうございます。ぜひとも、供養に参列しとうございます」

「よかろう。行って参れ」

 ここで法皇は死にかける演技をするのです。そうして義経を引き止めることに成功します。頼朝が清盛になられては困る。そのための九郎だ、と法皇はうそぶきます。

 この頃、京の武士の間では、鎌倉を怖れ、義経を見限ろうとする者が出始めていました。土佐坊昌春たちもそんな一派でした。昌春は里の手引きで、義経の館にやってきます。里は義経を殺さないようにと、昌春に念を押します。静の命を奪うたくらみでした。義経は隠れていましたが、やがて見つかり、敵の刀を奪って戦います。弁慶など、義経の手の者が駆けつけ、昌春たちは撃退されます。

 行家が義経にいいます。

「間違いない。鎌倉が送ってきた刺客だ」

「兄上が、私を殺そうと」

「ほかにそなたの命を狙う者がどこにいる」

「血を分けた兄弟ではないか」

「頼朝はおぬしが怖いのだ。源氏の棟梁の座を奪われるのが」

「私は、どうすれば」

「いずれまた、鎌倉の息のかかった奴らがやってくる。その前に手を打つ。挙兵するのだ」

 後白河法皇が、義経たちに、頼朝追討の宣旨(せんじ)を出したのが、文治元年(1185)十月十八日でした。二十二日には、早馬が、義経挙兵を鎌倉に伝えました。頼朝は宣言します。

「これより、全軍で京に攻め上る」

 しかし坂東武者たちは、義経を怖れ、戦いを躊躇(ちゅうちょ)します。そこへ三浦義村が立ち上がります。

「都へ攻め込みましょう。ここで立たねば、生涯、臆病者の誹(そし)りを受ける。坂東武者の名折れでござる。違うか」

 義村に次々と賛同する者が現れ、京への出陣は決定されるのでした。義村には考えがありました。それを義時に打ち明けます。

「心配するな。俺の読みでは、いくさにはならん。九郎の奴は、戦わずして負ける。あいつは都ではたいそうな人気だが、肩を持っているのは、いくさに出なかった連中だ。命拾いした兵にしてみれば、無謀ないくさばかりの大将に、また付いていこうとは思わない」

 十月二十九日。頼朝は軍勢を率いて、みずから出陣します。それは、決して義経を許さないという意思表示でした。

 京で義経は嘆きます。

「なぜ兵が集まらない」

 いらだちを隠そうともせずに行家が叫びます。

「お前のいくさに義がないからじゃ」

「叔父上」 

 と、義経は驚きます。

「挙兵はならぬと申したのに。お前を信じた、わしが愚かであった」

 行家は姿を消します。後に行家は鎌倉方に捕まり、首をはねられます。

 義経は京を離れ、いったん九州に逃げて再起を期すことにします。静に言い含めます。

「いつか必ず迎えに行く。もし鎌倉の奴らに捕まったら、私との関わりについて、決して口にするな。生きたければ、黙っていろ。よいな」

 後白河法皇が公家たちを前にしています。

「頼朝と義経、どちらかが力を持ってしまっては、いかんのだ。わしが望んでいるのは鍔迫(つばぜ)り合い。なんで九郎義経、姿を消してしまったのかの」法皇は公家たちにいいます。「頼朝追討の宣旨は取り消しじゃ。改めて、頼朝に、義経追討の宣旨を与えなさい」

 義経失踪の知らせを受け、頼朝は鎌倉へ引き返します。

 頼朝は北条時政坂東彌十郎)に、義経を探して捕えることを命じます。

法皇様のお力をお借りしてな。お前に、法皇様と鎌倉との、橋渡しをしてもらいたいのよ」頼朝は言い重ねます。「舅(しゅうと)殿には、いざというときの胆力がある。法皇様と渡り合えるのは、舅殿だけじゃ」

 時政は家族たちにこぼします。

「わしでないと駄目かな」

 妻の、りく(宮沢りえ)がいいます。

「それだけ鎌倉殿に買われているということ。ありがたいではないですか」

「だけど、とんでもねえお役目だぜ」時政は弱音を吐きます。「おっかねえよ」

 北条時政は、鎌倉武士初の、京都守護として、軍勢を率いて上洛します。院の御所で法皇を目の前にします。時政と義時は、義経を捕えるために、西国諸国を自分たちが治めることを求めます。

 その夜、時政と義時の父子は、酒を酌み交わしていました。そこに義経が姿を現すのです。

「捕まえたければ捕まえるがいい。逃げるのにも飽きた」 

「九郎義経は、九州へ逃げ落ちたと聞いておる。かようなところにいるはずはない。偽物であろう」

 と、時政は宣言し、落ち着いて話しをします。

「兄上とのことを、今からなんとかならぬか」

 という義経に、義時が語ります。

「ご存じないようですが、法皇様は、九郎殿追討の宣旨を出されました」

 義経は驚き、息を吐きます。

「祈るような思いでここに来てみたが、無駄だったか」

 奥州に帰ろうという義経に、義時はいいます。

「おやめなさい。九郎殿が奥州に入れば、必ずそこにいくさの火種が産まれます。いくさはもう、終わりにしましょう」

「いくさのない世で、私のような者はどうやって生きていけばよいのだ」

 義経は去って行きます。時政は義時にいいます。

「まるで、平家を滅ぼすためだけに、生まれてこられたようなお方じゃな」

 

『映画に溺れて』第490回 否定と肯定

第490回 否定と肯定

平成二十九年九月(2017)
六本木 アスミックエース試写室

 

 人は誰しも失敗する。それを反省することで同じ過ちを繰り返さずに前に進めるのだ。歴史もまた同じである。過ちをなかったことにはできない。
 都合のいい事実だけを抜き出して、こねくりまわし、つなぎあわせてもっともらしい嘘をでっちあげるのは、詐欺の常套手段だが、偽史の世界でもよく使われる手口なのだ。
 第二次世界大戦は歴史上の事実である。ヒトラーは周囲の国々を侵略し、戦争によって多くの都市が破壊され、多くの人々が命を失った。そして強制収容所でのユダヤ人大虐殺、それは疑いようのない史実である。
 アメリカ在住のユダヤ系女性歴史学者デボラ・E・リップシュタット教授が『ホロコーストの真実』という本を出版し、その中でホロコーストはなかったと主張する否定論者を非難した。
 名指しで非難されたデヴィッド・アーヴィングは激怒し、リップシュタット教授の講演会に乗り込み、討論を挑んで拒否される。そこで出版社のペンギン出版とリップシュタット教授を名誉棄損で訴えた。自分がヒトラー信奉者の嘘つきと書かれたので、仕事がなくなったという理由で。
 もちろんアーヴィングは露骨な白人至上主義者であり、ホロコーストはなかったというインチキ本でネオナチに人気のある歴史捏造家である。どうせ売名行為の告訴なのだから、そんなのを相手にしても仕方がないと周囲に忠告されながら、気の強いリップシュタット教授は受けて立つ。だが、もしも彼女が有罪になれば、裁判所がホロコーストはなかったと認める結果になるのだ。
 したたかなエセ歴史家と戦って、果たして勝算はあるのか。
 リップシュタットにレイチェル・ワイズ、彼女の法廷弁護人にトム・ウィルキンソン弁護団のリーダーにアンドリュー・スコット、アーヴィングにティモシー・スポール。一流の英国演技人による実話の法廷劇である。

 

否定と肯定/Denial
2016 イギリス・アメリカ/公開2017
監督:ミック・ジャクソン
出演:レイチェル・ワイズトム・ウィルキンソンティモシー・スポールアンドリュー・スコット、ジャック・ロウデン、カレン・ピストリアス、アレックス・ジェニングス

大河ドラマウォッチ「鎌倉殿の13人」 第18回 壇ノ浦で舞った男

 一ノ谷で破れた平家は、四国の屋島に逃げました。

 範頼軍は九州に渡り、筑前に攻め込みます。平家は逃げ道を断たれます。

 義経は海を渡り、平家軍に奇襲をかけます。不意を突かれた平家は、屋島を捨て、長門(ながと)の彦島に落ち延びていきます。

 鎌倉では、頼朝が文(ふみ)を読んでいました。顔を上げます。

「九郎(義経)がまた勝った」

 北条時政坂東彌十郎)がいいます。

「九郎殿の前に、敵なしでございますな」

 頼朝は苦り顔です。

「しかし強すぎる。あれはすぐに調子に乗る男だ。このまま勝ち進むと」

「何を心配しておられます」

 と、安達盛長(野添義弘)が聞きます。

「たとえば」頼朝は顔をしかめます。「次の鎌倉殿は、自分だと」

「まさか、そのような」

 時政は笑い声を上げます。

 元暦二年(1185)三月十四日、朝。壇ノ浦の戦いが始まります。

 範頼軍は船に乗っていません。敵の逃げ場をふさぐのが役目です。

 船団を率いる義経

「漕(こ)ぎ手を射殺(いころ)せ」

 との命令を出します。畠山重忠中川大志)が抗議します。

「漕ぎ手は兵ではござらん。殺してはなりませぬ」

「かまわん」

「末代までの笑いものになります」

「笑わせておけ」

 義経はみずからも弓をとって、漕ぎ手を狙います。そして敵の船に次々と飛び移り、斬りまくります。

 平家の大将である平宗盛小泉孝太郎)は

「もはや、これまで」

 と、つぶやきます。平家の船から神器を持った女官が、次々に海に身を投げていきます。幼い安徳天皇も、女官に抱かれて水に沈んでいくのでした。

 戦いは終わりました。範頼と共に睦にいた義時(小栗旬)は、流れ着いた死体の間を歩いていました。義経と行き会います。

「お見事にございました」

 と、義時は義経に頭を下げるのでした。義経は砂浜に座り込みます。

「策が当たったな。どうした。これはいくさだ。多少の犠牲はやむを得ん」

「多少でしょうか」

 と、責めるように義時はいいます。

「勝たねば意味がない。これまでに、討ち死にした者の命が、無駄になる。お前の兄も、いくさで死んだらしいな。無駄にならずに済んだぞ」

「兄は、平家に苦しめられる民のことを思っていました。果たして喜んでくれているのかどうか」

「私のいくさにケチをつけるか」

「そうではございませぬが」

「死んだ漕ぎ手は、丁重に葬ってやれ。義仲も死に、平家も滅んだ。この先、私は誰と戦えば良いのか」義経は義時の脇を抜けます。「私はいくさ場でしか、役に立たぬ」

 鎌倉の御所で、頼朝は政子のいる寝所に入ります。

「どうされました」

 と、政子は、顔をしかめた頼朝にたずねます。

「平家が滅んだ」

 と、頼朝は声を出します。政子は目を見開き、いうのです。

「おめでとうございます」

「九郎がやってくれた」頼朝は声をあげて泣くのです。「平家が滅んだ」

 政子は頼朝を抱きしめ、共に泣くのでした。

 京で義経は、後白河法皇西田敏行)から杯を賜(たまわ)ります。

「見事な働きであったの」

 と、法皇はご満悦です。義経は、思いついたように後ろに下がり、膝をそろえて座ります。

「宝剣のことは、まことに申し訳ございませぬ」

「いやあ、見つかる、見つかる」

「幼き帝(みかど)を、お救いすることもできず」

「死んだとは限らん。それより、九郎。獅子奮迅(ししふんじん)の働き、そなたの口からじかに聞きたいものだ」

 義経は破顔し、大きく答えます。

 梶原景時中村獅童)は、一足先に、鎌倉に帰ってきていました。頼朝に報告します。

「九郎殿は、いくさにかけては、神がかった強さを持っておられます。しかしながら、才走るあまり、人の情けというものを、ないがしろにされます。壇ノ浦で、船乗りを狙い撃ちしたのが良い例。一ノ谷における奇襲においても、急な崖(がけ)を馬と共に下りることを、皆に強いられました。勝利のためには」

 頼朝が口を挟みます。

「手を選ばぬと」

 安達盛長がいいます。

「しかし、九郎殿がおられたから、平家を滅ぼすことができたのも事実。都では、九郎殿の噂で、もちきりと聞いておりまする」

 梶原が発言します。

「鎌倉殿をさしおいて、平家の後(のち)は、九郎義経の世だと口にする者も」

 北条時政がいいます。

「九郎殿は強すぎるんじゃ。二、三度いくさに負けて痛い思いをすれば、もう一つ大きくなれるんだがなあ」

 頼朝は義経を呼び戻そうとします。しかしそれができないのです。義経検非違使に任じられ、都の治安を守っているからです。

 京の河原で、義経と義時が話しています。文(ふみ)を読み終えた義経がいいます。

「いくさに勝って、どうして兄上に怒られなければならない」

 義時がいいます。

「九郎殿が、力を持ちすぎるのを怖れておられるのでは」

「私は兄上の喜ぶ顔が見たいだ」

「分かっております。一日も早く、ご自分の口で、弁明なされるべきでございます」

 義経は鎌倉に帰れるよう、法皇に掛け合うことにします。後白河法皇がいいます。

「わしはの、側(そば)にいて欲しいのだ。鎌倉へ戻ったら、帰ってこないと」

「そんなことはございませぬ」

「いいや、絶対」

 ここで法皇の愛妾である丹後局鈴木京香)が知恵を出します。捕えられている平宗盛を頼朝に見せに鎌倉に連れて行くのです。そして検非違使として宗盛の首をはねるため、義経は京に戻ってくるという手はずです。

 鎌倉では頼朝が側近たちと話しています。義経検非違使をやめていないことに、頼朝は驚きます。また京へ戻るつもりであることが知られます。梶原景時がいいます。

「宗盛の首も、京へ連れ帰ってからはねるそうにございます。すべて法皇様と、九郎殿が示し合わせたこと。よほど九郎殿は気に入られているご様子。これでは、勘違いされても不思議はございませぬ。鎌倉殿の後を継ぐのは、自分だと思われたとしても」

 義時が口を挟みます。

「お待ちください。あの方に野心があるとはとても思えませぬ」

 梶原がいい放ちます。

「九郎殿を鎌倉に入れてはなりませぬ。何をたくらんでおるか分かりませぬ」

 義時が前に出ます。

「あり得ません」

 梶原が義時を見すえます。

「いい切れるか」

 頼朝がいいます。

「決めた。九郎には会わん。会うのは宗盛のみとする。九郎は、腰越で留め置け」

「会ってやってください」

 という義時に、頼朝はいい放ちます。

「奴を、決して御所に入れてはならん」

 頼朝が行ってから、義時は梶原と話します。

「梶原殿、あなたも分かっておられるはず。九郎殿は、鎌倉殿に会って話をしたいだけなのです」

 梶原がいいます。

「そなたも、いくさ場での九郎殿の様子を見たであろう。あのお方は、天に選ばれたお方。鎌倉殿も同じだ。お二人とも、おのれの信じた道を行くのに手を選ばん。そのようなお二人が、並び立つはずがない」

 義経一行は、鎌倉の西、腰越に到着しました。そこに北条時政が待っていたのです。

「どういうことだ」

 と、義経は時政を責めます。時政は一歩も引かない態度です。

「これよりはそれがしが警護の上、宗盛公を鎌倉へお連れ申す。九郎殿には、ここで待てというお沙汰(さた)」

「私は鎌倉に入れないのか」

「それが鎌倉殿のお考え」

 義経は自分の思いを、宗盛に書いてもらって頼朝に届けます。その文には頼朝の官職を知らないで書かれたと思われる一文が出てきます。これは義経が書いたものではないと、頼朝は怒ります。

「宗盛を連れて、とっとと京へ帰れと伝えよ」

 と、いい放つのでした。

 腰越にいる義経は、宗盛に息子を会わせる温情を見せます。義経は義時にいいます。

「私は決めた。この先、法皇様第一にお仕えする。京の都で、源氏の名に恥じぬように生きる。私は検非違使の丞、源九郎判官義経

 義経は以前、飢えていたときに芋を与えてくれた者に、大量の芋をごちそうするのです。