大河ドラマウォッチ「鎌倉殿の13人」 第20回 帰って来た義経
文治三年(1187)。義経は、平泉にたどり着いていました。藤原秀衡(ふじわらのひでひら)(田中泯)が義経(菅田将暉)にいいます。
「よう戻って来たな。それにしても、悔やまれる。お前を送り出したとき、もし、わしが兵を挙げておれば。天下を目指すには、この奥州は、あまりに重かった。まあよい。代わりにお前が日の本一の英雄となった。これほど嬉しいことはない。平家を倒したのはお前だ。ようやった。九郎」
それを聞いた義経は涙を流すのでした。
鎌倉では、頼朝(大泉洋)が話しています。
「九郎が平泉に現れたぞ」
安達盛長(野添義弘)がいいます。
「九郎殿が秀衡と手を組めば、強大な敵となりますぞ」
「そうなるな」
と、頼朝はつぶやくようにいいます。
藤原秀衡は生涯の終わりを迎えようとしていました。次男の藤原泰衡(ふじわらのやすひら)(山本浩司)を後継者に指名し、長男の藤原国衡(ふじわらのくにひら)(平山祐介)に自分の妻を、つまり国衡の母親を、嫁にするように命じます。そして義経を大将軍とします。秀衡は庭に下ります。
「もう少し、わしに時があったら、鎌倉に攻め込んで」
そこまでいいかけると、秀衡は笑い声を上げ、膝から崩れ落ちるのでした。
文治五年(1189)の閏四月になります。義時(小栗旬)が頼朝に述べています。
「慎重だった秀衡殿が亡くなり、この先、平泉がどう出るかは、分かりません。向こうには九郎殿がいます。いくさになれば、苦戦するは必定。平泉に行かせてください。九郎殿を連れて、必ず戻って参ります」
「任せる」頼朝は書き物から、顔も上げずにいいます。「ただし、生かして連れて帰るな。禍(わざわい)の目を、残してはならぬ。だが、決して直(じか)に手を下してはならん。国衡は泰衡の兄弟は仲が悪い。二人の間を裂け。泰衡に取り入り、焚きつけて九郎を討たせる。我らが攻め込む大義名分をつくるんだ。勝手に九郎を討ったことを理由に、平泉を滅ぼす。あくどいか。あくどいよのう」頼朝は庭を眺めます。「この日の本から、鎌倉の敵を一掃する。やらねばいくさは終わらん。新しい世をつくるためじゃ」
出発しようとする義時を、善児(梶原善)が待ち構えていました。善児は汚れ仕事を淡淡と行う、仕事人です。梶原景時(中村獅童)についていくように命じられたというのです。
義時は奥州に到着します。藤原泰衡は、義経を引き渡すことはできないといいます。義時は、義経を頼朝に対して謀反を目論んだ大罪人、と呼びます。泰衡は、今の義経は、頼朝に刃向かう気持ちはないといい切ります。
義時は義経に会います。義経は畑を耕していました。妻の里(三浦透子)との間に、女児をもうけていました。義経は義時にいいます。
「私はもう、いくさをするつもりは無い。案ずるな。ただし」義経は義時に顔を近づけます。「平泉に手を出してみろ。決して許さない。その時は、鎌倉が灰になるまで戦ってみせる。帰って兄上にそう伝えろ」
農作業をする義経に義時は話しかけます。
「静(石橋静河)さんのことは残念でしたね」
「静がどうした」
と、義経は聞きます。
「ご存じないのですか。ならば忘れてください」
「いいから話せ」
義時は話し始めます。
義経が都を落ち延びてすぐ、静は捕まります。静は身ごもっていました。
頼朝は義時にいいます。
「しばらく鎌倉に留め置け。生まれてきた子が男なら、由比ヶ浜に沈めよ。九郎の子じゃ。生かしておく訳にはいかん」
当初、自分が静御前だとは認めませんでしたが、里の母に「あなたは捨てられた」となじられ、自分が静であると認めます。
静は頼朝の前で舞って見せます。
「しずやしず……」
と、頼朝を当てこする歌をうたうのです。北条政子(小池栄子)が頼朝にいいます。
「おなごの覚悟です。あなたが挙兵されたとき、わたくしも覚悟を決めました。それと同じことです」
その後、静は鎌倉から出ることを許されず、子供を産みます。男の子でした。静の子は取り上げられ、善児がそれを運んでいきました。
静は鎌倉を出て、その後行方知れずになります。美濃で静に似た遊女を見かけたという話も伝わってきた、と義時は結びます。
義経は夜、雄叫びを上げて藁人形を切断します。それを密かに見ていた義時は、善児にいいます。
「うまく運んだようだ」
義時は泰衡に、義経の鎌倉への憎しみが、抑えきれるところまでふくらんでいると話します。どうすればいい、と聞く泰衡に、義時は冷たい目を向けます。
「手は一つ。九郎殿の首をとり、鎌倉殿に送り届ける。それより道はありません」
泰衡は軍勢を集め、義経の館を襲おうとします。
義経は、京都で自分が襲われたのは、妻の里が静を殺すためだったことを知ります。てっきり頼朝から送られた刺客だと思っていた義経は驚き、激昂します。義経は里を刺してしまいます。
鎌倉に帰ろうとした義時は、弁慶(佳久創)に待ち伏せされます。縁の下から、義経のもと連れて来られます。
義時は冷たくなった里と、その娘を目撃します。義経はいいます。
「泰衡の手勢が来ている。お前が一枚噛んでいることは分かっておる。どうしてお前が静の話をしたのか不思議だった。つい口にしてしまった様子、だったが、あれは芝居だ。あえて私にそれを伝え、兄上に対する憎しみを募らせる。私に鎌倉憎しの思いが無ければ、泰衡も、兵を出すわけにはいかないからなあ」
義経は、世話になった、と弁慶を送り出します。義経は微笑んで話します。
「自分の手は汚さず、泰衡に私を討たせる。兄上の考えそうなことだ。そこまで兄上にとって私は邪魔なのか。そう思うと、どうでもよくなった。この首で、平泉が守れるなら、本望だ。見せたいものがある」義経は何枚もの地図を取り出します。「ここに来てから、いかに鎌倉を攻めるか、いろいろ考えた。まずは定石通り、北から攻める構えを見せる。見せるだけだ。鎌倉勢は当然、鎌倉の北に兵を出して、迎え撃とうとする。そこで、南側の海だ。平泉は、北上川から直に船を出せる。まさか我らが、船で攻めてくるとは思っていないだろう。がら空きの鎌倉の浜に、乗り付け、北にいた兵が、慌てて戻ったら、それを追いかけ、そのまま鎌倉全体を包囲。すべての切り通しをふさぎ、袋のネズミにしてから、街に火を放つ」
義時は感嘆の声を放ちます。
「恐れ入りました 」
と、いいます。義経は文(ふみ)を取り出します。
「ここに仔細(しさい)を書いておいた。鎌倉に届けて欲しい。梶原景時。あの者なら、きっとこの策の見事さを、分かってくれるはずだ」
来た道を通っていけ、と義経は義時を逃がしてくれます。
義時は頼朝に報告を終えた後、梶原景時に、義経の文を見せます。梶原はいいます。
「この通り攻められたら、鎌倉は間違いなく滅びていたことだろう」
文治五年、六月十三日。義経の首が、鎌倉に届けられました。
頼朝は、義経の首の入った桶(おけ)に話しかけます。
「九郎、ようがんばったなあ。さあ、話してくれ。一ノ谷、屋島、壇ノ浦。どのようにして、平家を討ち果たしたのか。お前の口から聞きたいのだ。さあ、九郎。話してくれ」
頼朝は涙を流して桶にすがりつくのでした。