『映画に溺れて』第516回 ラストマン・スタンディング
第516回 ラストマン・スタンディング
平成九年二月(1997)
日比谷 日比谷映画
派手な暴力描写で名高いウォルター・ヒル監督が黒澤明の『用心棒』をほぼそっくりそのまま、禁酒法時代のテキサスに置き換えてリメイクしたのが『ラストマン・スタンディング』である。セルジオ・レオーネの西部劇『荒野の用心棒』は有名だが、リメイクとしてはこちらが肌理細かい。
ブルース・ウィリスの流れ者が車で荒野を行く。二又の分かれ路で空のウイスキー瓶を回転させて、方向を決めるあたりからすでに黒澤の『用心棒』である。
寂れた町でイタリア系のストロッジとアイルランド系のドイル、ふた組のギャングが密造酒をめぐって対立しており、流れ者は因縁をつけてきたドイルの子分を撃ち殺し、ストロッジに自分を売り込む。ここで名を聞かれてスミスと名乗る。桑畑三十郎ならぬジョン・スミスと。
ストロッジの情婦をたらしこみ、ギャングたちをうまく操り両方から金をせしめるスミスだが、シカゴから帰ってきたドイル一家の凶悪なヒッキーが疑い深く、やがてドイルが囲っているメキシコ女性をスミスが逃がしたことを嗅ぎつける。悪党のくせに人助けをしたのが仇となるのだ。このとき、スミスを徹底的に痛めつけるのが手下の大男というところまで『用心棒』といっしょである。しかも完全なアメリカのギャング映画でもあるのだ。
三船敏郎の役どころがブルース・ウィリス。仲代達矢がクリストファー・ウォーケン。保安官がブルース・ダーン。
原作者のクレジットに菊島隆三と黒沢明の名が出ているのもうれしい。
『用心棒』の着想そのものはダシール・ハメットの『血の収穫』なので、禁酒法時代のギャングというのは、ハメットにも近い。
ラストマン・スタンディング/Last Man Standing
1996 アメリカ/公開1997
監督:ウォルター・ヒル
出演:ブルース・ウィリス、ブルース・ダーン、ウィリアム・サンダーソン、クリストファー・ウォーケン、デヴィッド・パトリック・ケリー、カリーナ・ロンバード、ネッド・アイゼンバーグ、アレクサンドラ・パワーズ、マイケル・インペリオリ、レスリー・マン、ケン・ジェンキンス
『映画に溺れて』第515回 用心棒
第515回 用心棒
昭和五十三年十一月(1978)
大阪 阿倍野 アポログリーン
私は三船敏郎が大好きだ。三船といえば黒澤明、『七人の侍』は映画として文句なしに最高である。が、異彩を放つキャラクターといえば『用心棒』の浪人だろう。
すさんだ宿場町にふらりと現れた流れ者の浪人。風体はむさ苦しく、どこかとぼけた感じ。入った居酒屋で亭主から町の様子を耳にする。
かつては絹の市で栄えたこともあり、名主の絹問屋と馴れ合った博徒の清兵衛一家が町を牛耳っていた。今では跡目争いの不満から独立した丑寅一家が力をつけて、ふた組の博徒がいがみ合い一触即発。それを目当てに凶状持ちやならず者が集まり、おかげで町は寂れ、堅気の衆はまともに暮らせない。
浪人はにやりとして、気に入った。この町では人を斬ると金になるようだ。悪党どもをみんな殺せば、町は平穏になるぜ。
まず、清兵衛一家に用心棒として売り込む。名を聞かれ、外に広がる桑畑を見て、桑畑三十郎と名乗る。そろそろ四十郎だがな。
三十郎はそれぞれの一家を操り煽り、博徒たちはまんまと乗せられ、いよいよ殺し合い。が、そこへ丑寅の弟の卯之助が旅から帰ってくる。一見優男ながら、凶悪でずる賢く頭が切れる。こいつが三十郎の前に立ちはだかる。
丑寅三兄弟が山茶花究、加東大介、仲代達矢。清兵衛夫婦が河津清三郎、山田五十鈴。居酒屋の亭主が東野英治郎。出入りの前にこっそり逃げ出す用心棒が藤田進。
翌年、同じ浪人を主人公に『椿三十郎』が作られた。三船演じる浪人のキャラクターはその後、岡本喜八監督『座頭市と用心棒』や稲垣浩監督『待ち伏せ』にも登場する。
イーストウッドをスターにした『用心棒』の模倣作『荒野の用心棒』は有名だが、リメイクではウォルター・ヒル監督の『ラストマン・スタンディング』が私は好きだ。禁酒法時代のテキサスの寂れた町が舞台だが、原作を忠実に置き換えている。
用心棒
1961
監督:黒澤明
出演:三船敏郎、仲代達矢、山田五十鈴、司葉子、土屋嘉男、東野英治郎、志村喬、加東大介、藤原釜足、河津清三郎、太刀川寛、夏木陽介、沢村いき雄、渡辺篤、藤田進、山茶花究、西村晃、加藤武、中谷一郎、堺左千夫、清水元、ジェリー藤尾、佐田豊
書名『トオサンの桜 台湾日本語世代からの遺言
書名『トオサンの桜 台湾日本語世代からの遺言』
著者 平野久美子
発売 潮書房光人新社
発行年月日 2022年6月23日
定価 ¥840E
日本語のすでに滅びし国に住み短歌(うた)詠み継げる人や幾人
『台湾万葉集』(集英社1994)の編著者孤逢(こほう)万里(ばんり)(1926~99)さんの詠んだ短歌である。日本の統治時代が終焉し、蒋介石(しょうかいせき)の国民党政府が閩南語(台湾語)と日本語を禁止しても、植民地という環境で育った「日本語世代」といわれる台湾人にとって、旧宗主国の言語である日本語は自分の感情や感性を表現するためには容易に捨てられない必要な言語でもあった。
台湾は複雑な多民族・多言語社会である。日常生活には閩南語、客家語、北京語などを用いる多言語の世界で育てられた世代が同居している。それに英語、日本語的要素までもが混在しているのが今日の台湾の言語情景で、そこから生まれる国際感覚やモチベーションの高さは日本人が見習うべきものであろう。
本書『トオサンの桜―台湾日本語世代からの遺言』は15年前の2007年、小学館から単行本として刊行された『トオサンの桜―散りゆく台湾の中の日本』を改題、大幅に加筆、改訂して文庫化したものである。評者(わたし)は、単行本の時に既読したと気安く思いながら手にしつつ、改訂版としての本書を手に汗しながら、読み耽っていた。次第に平野ワールドに引きずり込まれたのである。
先ず、副題が、「散りゆく台湾の中の日本」から「台湾日本語世代からの遺言」へと変わっているように、この15年間に台湾をめぐる国際環境は目まぐるしい変化を遂げている。とりわけ、胡錦濤体制から習近平体制に変わったことで、台湾・香港情勢は激変した。台湾は香港の如く中国に飲み込まれ、日々北京の意向を窺いながら生きることを欲していないが、軍事大国・中国は「祖国統一」の美名のもとにナショナリズムを煽り、台湾の香港化を推し進めている。そうした現実を踏まえて著者は「時代の流れを加えて加筆」している。
「多桑(トオサン)」は日本語の「父さん」の発音に漢字をあてはめた台湾語であるが、著者はトオサンとは「日本統治時代に習い覚えた日本語に愛着を覚え、日本に対し、理屈を超えた愛憎ないまぜの感情を抱くお年寄り」であると定義づけし、「台湾という親木に“桜の教え”など日本の教育や道徳を接ぎ木されたおかげで、新しい芽が吹いて、さらに強靭でしなやかな精神を獲得したトオサンたち」と哀惜を籠めて彼らに呼びかけている。
日本統治時代、日本人は陽明山、日月潭、阿里山などに桜を植樹していくつかの花見の名所をつくったが、戦後、「桜」は「神社」と同様、日本人が台湾に勝手に持ち込んだ「日本」であるとされ、国民党政府によって切り倒された。そのような中、ひとりのトオサンで「台湾の花咲爺さん」と呼ばれる王海清(おうかいせい)さんが三千数百本の桜を二十数年かけて黙々と植えてきたということは小学館版単行本で紹介されているが、改訂版の本書でも王さんは主役のひとりである。
台湾民主化の舵取りをした李登輝(りとうき)元総統も、一庶民の王海清さんもトオサンであるが、トウサン世代の台湾人がすべて親日的であるとするのは二者択一的思考に陥りがちな日本人の勘違いであり誤りである。トオサン世代の台湾人の日本に対する感情は「親日」とか「反日」、「好き」とか「嫌い」といった単純なものではない。日本が引き起こした戦争に駆り出されるというトオサンに共通する運命があったとしても、トオサンの境遇はさまざまであった。
私事ながら。わが妻の実父母も「日本語世代」である。すでに逝ってしまったが、わが岳父母は共に日本植民地期を生き、激変した戦後社会を生き抜いてきた農民であった。日本統治下の1922(大正11、民国11)年、台北の西・蘆州(ルーチォウ)に生まれた義母は「媳婦仔(シンブア)」(10代にもならない少女が、他家に養女に取られ、最初は家事手伝いとして奉公する児童婚姻という台湾の伝統的な農業社会の旧習)として、蘆州の隣村・三重(サンソォン)の岳父に嫁ぎ、6人の子をなし、馬車馬のように働き、23歳で、光復(日本の敗戦)を迎えている。話せるのは閩南語のみであった彼女は片言の日本語で「講習所 夜、行った。ラジオ、聴いた。日本の歌、習った。愉しかった」と語り、童謡「夕焼け小焼け」を口遊んでくれたことがあった。農村の婦女子に教育などもってのほかとする伝統的な台湾社会の父権制度の中で、彼女は自らの運命を決定する自由をほとんど持ち得ず、かつ、教育を受ける機会を与えられなかっただけに、戦時中、「国語講習所」(公学校に通えない、つまり正規の学校教育を受けられない多くの漢族系住民に対し、「国語」をはじめとする教育を行うべく、「日本精神」を涵養するという理念・目的のもとに、台湾総督府が1930年代初期から設置された社会教育施設)に通ったことは数少ない愉しい思い出として義母のこころの中に生きていたのであったろう。
トオサンと呼べる人がどれだけいるのか、「正確な数はもはやわからない」という。トオサンとは日本の敗戦の昭和20年の時点で、国民学校の高学年以上に在籍していた、つまり12歳以上だった人々で、戦後77年の今日現在ではそうとうの御高齢である。最小年齢の12歳であった方ですら89歳をカウントする。
トウサンといっても皆一様ではない。「早晩いなくなってしまう彼らの声。日本人として生きた矜持や無惨、激変した戦後社会で体験したアイデンティティの混沌を聞いてみたい」として、著者は様々なトウサン、並びに日本語世代の両親を持つ「日本語世代二世」と出逢い、交流を深め語り合い、トウサンの語る真実から、これだけは日本人に言い残したい、伝えたいという魂の叫びを聴きながら、「台湾の歴史」を紡ぎだしている。「どんなに時代の波に翻弄されようとも人間としての尊厳を保ちながら生きてきた」トウサンたちの人生は台湾の戦前戦後史そのものだったのである。
戦後台湾の悲劇は蒋介石の国民党政権が台湾人の教師や父兄を白色テロの恐怖で縛り上げ、中国人としての歴史観や教育を押し付けるべく閩南語、客家語と日本語を禁止し、戦前の日本語同様、政治的に強制された新しい「国語」として中国語を問答無用に台湾人に押し付けたことに始まる。
台湾の日本語世代たるトウサンが戦後台湾社会においてどんな役割を果たしてきたのかと設問した著者は、「日本統治時代の甘美な部分の記憶をもとに中国人になることに抵抗を示し、戦後もずっと“桜恋しや”という心情を温存してきたトオサン世代がいたからこそ、台湾アイデンティティ―の確立、民主化の流れは加速したともいえるのではないか」と総括しつつ、「年々、人生を卒業していく日本語世代の言葉はまるで次世代への遺言のように響く。今、一度しっかと耳を傾けたい。個人史をひとつでも多く書き残してほしい」とトウサンたちに残された時間が無いのを知った上で、最後の注文を付けている。
蛇足ながら。評者ももう少し義父母と語り合っておくべきだったと後悔している。日本の戦後の姿をどう評価しているか、日本に求めることは何か?などなど、ゆっくりと話をする機会を持たなかった自分の幼稚さ、未熟さを情けなく思うが、すでに彼らが人生を卒業してしまった今となっては後の祭りである。
加えるに、評者も既に70代である。日台両国にまたがる父祖たちがいかに生きたかを踏まえつつ、日台関係の行く末を見据え、日本と台湾の未来に向けて語り継ぐべきことを語り継ぐべく、書き物を残していかねばならないと思う。
(令和4年9月13日 雨宮由希夫 記)
大河ドラマウォッチ「鎌倉殿の13人」 第35回 苦い盃(さかずき)
鎌倉殿である源実朝(さねとも)(柿澤勇人)は、北条政子(小池栄子)がこっそりと置いておくように命じた、和歌の写しを見つけます。実朝は母の政子に会いに行きます。実朝が一番好きだといった歌は、父の頼朝(よりとも)が書いたものでした。政子は実朝にいいます。
「あなたも不安なことが、あるかもしれない。でも父上もそうだったのです。励(はげ)みにして。鎌倉殿も、想(おも)いを歌にしてみてはいかがですか」
実朝は微笑んでうなずくのでした。
義時(小栗旬)は、妻となった、のえ(菊地凛子)、と話していました。子が欲しいか、と問う義時に、のえは
「欲しくない、といえば嘘になりますが」と、控えめに答えます。「小四郎(義時)殿には、太郎(泰時)殿がいらっしゃいます。私はそれで、満足」
しかし、のえは、後に祖父の二階堂行政(野仲イサオ)に訴えるのです。
「満足なわけありませぬ。必ずや男子を産んで、その子をいずれは北条の家督(かとく)にして見せます。そうでなければ、あんな辛気(しんき)くさい男に嫁(とつ)ぎません」
元久元年(1204)十二月十日。三代将軍実朝と結婚するため、後鳥羽上皇の従妹(いとこ)である千世(ちよ)(加藤小夏)が鎌倉に到着します。
北条時政(坂東彌十郎)は、うつろな表情で柱に寄りかかる、りく(宮沢りえ)に話しかけます。
「千世様がお着きになられたんじゃ。お前が顔を出さん事には、始まらんじゃろう」
「お任せいたします」
と、りくは動こうとしません。
「誰よりもお前が望んだことではないか」
「政範(まさのり)が、連れて戻ってくるはずだったのです」
ようやく、りくは出向くことを承諾します。
実朝と千代との間に盃が交わされます。
書庫で義時は、畠山重忠(中川大志)の子、畠山重康(しげやす)(杉田雷麟)の訴えを聞きます。
「政範殿が亡くなられたのは、京へ到着して二日目のことでした」
歓迎の宴の席で、突然、政範は倒れたのです。実は、その前の晩に、重康は平賀朝雅(ひらがのともまさ)(山中崇)が、怪しい人物と話すのを聞いていたのでした。平賀はいっていました。
「では、これを汁に溶かせばよいのだな」
書庫で義時は確認します。
「平賀殿が毒を盛ったと」
重康はうなずきます。政範が死んだ後、重康は平賀を問い詰めました。
「馬鹿を申せ。なぜ私がそんなことをする。見当違いもいいかげんにせよ」
と、とぼける平賀に、重康は前日のやりとりを見ていたことを告げます。
「わしは饗応(きょうおう)役ぞ」平賀はいってのけます。「汁の味付けに気を配って何が悪い」
書庫で重康は力を込めます。
「あれは決して味付けの話ではありませんでした」
義時はうなずきます。
「よく教えてくれた。後はこちらで調べてやる」
その頃、平賀は、りくと話していました。
「政範殿のことで、嫌な噂が流れておるようです。あまりの突然の逝去(せいきょ)に、毒を盛られたのではないかと」
りくは動転(どうてん)します。
「毒。誰が」
平賀はりくに近づきます。
「畠山重康殿。畠山一門は北条に恨みを持っております」
平賀は畠山が武蔵の地を巡り、時政と争っていることをいいます。平賀は重康が、自分を下手人(げしゅにん)に仕立て上げようとした、と嘆いて見せます。
「まことですか」
と、問うりくに、平賀は悲壮な表情をします。
「畠山の策略にはまってはいけません。何をいってきても、信じてはなりませぬぞ」
夜、りくは時政に訴えます。
「政範の敵(かたき)を取ってくださいませ」
時政は、りくをなだめようとします。
「畠山は、ちえの嫁(とつ)ぎ先」
「私の血縁ではありません。分かっているのですか。政範は殺されたのですよ。畠山は、私と政範を、北条の一門だとは思っていなかったのです。だからこのような非道なまねができるんです。畠山を討ってちょうだい」
一方、義時は、平賀を問い詰めます。
「冗談はやめていただきたい」
と、平賀はいいます。義時は穏やかに話します。
「あまりに突然、亡くなったので、勘ぐる者も多いようです」
「一番、驚いているのは、この私だ」
「骸(むくろ)は、すみやかに東山に埋葬されたと伺(うかが)いました」
「できれば、鎌倉に連れ帰りたかったが」
「夏ならともかく、この季節なら、京からこちらに移すこともできたのでは」
「何がいいたい」
「毒を飲んで死ぬと、骸の顔の色が変るので、すぐに分かると聞いたことがあります」
平賀は笑い、怒り、去って行きます。
義時は薄暗い廊下で、父の時政と話します。
「とにかく、この件に関しては、軽はずみに答えを出すべきではない」
時政は、腕組みしていいます。
「りくは、すぐに畠山を討てと息巻いておる」
「なりませぬ」
「わしだって、そんなことはしたかねえ。重忠は良き婿(むこ)じゃ。だがな、政範は大事な息子なんじゃ。畠山を討つ。力を貸してくれ」
「誰であろうと、この鎌倉で、勝手に兵を挙げることはできません。たとえ執権(しっけん)であろうと」
「軍勢を動かせねえってのか」
「鎌倉殿の花押(かおう)を据(す)えた、下文(くだしぶみ)がない限り、勝手に動くことはできませぬ」
時政は顔をそむけます。
実朝は義時の息子の泰時(坂口健太郎)を共に、気晴らしに、和田義盛(横田栄司)の館に出かけます。
義時は畠山親子と話していました。畠山重忠がいいます。
「こうなったら、平賀殿と息子を並べてご詮議(せんぎ)を。さすれば、嘘をついているのがどちらかはっきりする」
義時は静かに述べます。
「私もそうしたかったが、平賀殿はすでに京に戻られた」
「小四郎(義時)殿。それが嘘をついている証拠でござる。後ろめたいから逃げた。すぐに連れ戻して討ち取りましょう」
「それはできぬ」
「なぜ」
「確かに、平賀は疑わしい。しかしあの男は、上皇様の近臣(きんしん)でもある。京を敵に回すことになる」
「われらがいわれなき罪で、攻められても良いのか」畠山は拳を床板に叩きつけます。「執権殿の狙いはそこなのだ。畠山を滅ぼし、武蔵をわがものにするおつもりなのだ。小四郎殿が、父親をかばう気持ちは分かるが」
「そういうことでは」
「私は一旦(いったん)、武蔵へ帰る」
畠山重忠は歩き去ろうとします。義時が呼びかけます。
「この先は一手、誤れば、いくさになる」
「いくさ支度(じたく)はさせてもらう。念のためです」畠山重忠は振り返ります。「私とて、鎌倉を灰にしたくはない」
義時は再び時政と話します。
「すべては、畠山に罪をなすりつけようとする、奸臣(かんしん)の讒言(ざんげん)にほかなりません」
「誰のことをいうておる」
「例えば、平賀朝雅」
「まさか」
と、時政は笑い出します。
「誰よりも疑わしいのは、あの男です」
「動機がない」
「政範殿を亡きものにして、次の執権に。真偽(しんぎ)を糾(ただ)そうともせず、次郎を罰するようなことがあれば、必ず後悔いたしますぞ」
時政はうなずきます。
「あいわかった」
しかし時政がこれを話すと、りくは激怒するのです。
「それで引き下がってこられたのですか」
「政範のことは、もう少しよく調べてから」
りくは時政の前に立ちふさがります。
「まだ分からないのですか。畠山は討たなければならないのです。梶原がどうなりました。比企がどうなりました。より多くの御家人を従えなければ、すぐに滅ぼされます。力を持つとはそういうこと。畠山を退(しりぞ)け、安達を退け、北条が武蔵国(むさしのくに)のすべてを治めるのです」
「りく、やっぱりわしら、無理のしすぎじゃあねえかな」
「政範だけではすみませんよ。次は私の番かも知れないのです」
「そりゃあいかん」
「そういう所まで来ているのです」
「兵を動かすには、下文に鎌倉殿の花押がいる」
「ならば、すぐに御所に向かってくださいませ」
「よし」
と、時政は覚悟を決めるのでした。
時政は御所に来てみますが、実朝に会うことはできません。実は実朝は、和田義盛のところで羽を伸ばしていたのです。
御所で皆が探し回っているとも知らず、実朝が帰ってきます。部屋で一人になったところに、時政がやって来ます。内容も確かめさせず、実朝に花押を書かせるのです。
「とりあえず、父は分かってくれた」
「それは何より」
「次郎が為(な)すべきは、早急(さっきゅうに)に鎌倉殿にお会いして、潔白を誓う起請文(きしょうもん)を」
「それをいいにわざわざ」
「執権殿の気持ちが変る前に」
「私を呼び寄せて、討ち取るつもりではないでしょうね」
義時は笑い声をたてます。
「まさか」
「私をあなどってもらっては困ります。一度いくさとなれば、一切、容赦(ようしゃ)はしない。相手の兵がどれだけ多かろうが、自分なりの戦い方をして……」
「畠山の兵の強さは、私が一番、分かっておる」
「もし、執権殿と戦うことになったとしたら、あなたはどちらにつくおつもりか。執権殿であろう。それで良いのだ。私があなたでもそうする。鎌倉を守るために」
「だからこそ、いくさにしたくはないのだ」
「しかしよろしいか。北条の邪魔になる者は、必ず退けられる。鎌倉のためとは便利な言葉だが、本当に、そうなんだろうか。本当に、鎌倉のためを思うなら、あなたが戦う相手は」
「それ以上は」
「あなたは、分かっている」
第514回 荒野の七人 真昼の決闘
第514回 荒野の七人 真昼の決闘
昭和四十七年十月(1972)
大阪 難波 南街劇場
西部の荒野を馬上のガンマンが駆けて行く。背景に流れるのは『荒野の七人』のオリジナルテーマ曲。『荒野の七人 真昼の決闘』の最初のシーン、邦題は大胆にも有名な西部劇の名作『荒野の七人』と『真昼の決闘』のタイトルをつなぎ合わせている。
私が初めて映画館でユル・ブリンナー主演の『荒野の七人』を観たのは一九七一年のリバイバル上映で、なんて面白い西部劇だろうと感激した。翌年一九七二年の夏に本家本元、黒澤明監督の『七人の侍』を観て、あまりの素晴らしさに圧倒されたことを思い出す。先に黒澤を観ていたら『荒野の七人』の感激は少なかったかもしれない。
その同じ年の秋に公開された新作が『荒野の七人 真昼の決闘』だった。わずかの間に『荒野の七人』『七人の侍』『荒野の七人 真昼の決闘』を映画館で続けて観たことになる。
『荒野の七人』はヒットしてシリーズとなり、主役のクリス役は最初の二作が黒ずくめのユル・ブリンナー、三作目がジョージ・ケネディ。四作目『荒野の七人 真昼の決闘』のリー・ヴァン・クリーフは『夕陽のガンマン』でイーストウッドの相手役として名を売ったが、かつて『真昼の決闘』ではゲイリー・クーパーの保安官を狙う敵役のひとりであった。
小さな町で結婚し保安官として安穏に暮らすクリスを新聞記者のノアが訪ね、伝記を書きたいと申し出る。
ちょうどその時、温情で釈放した未成年の強盗が、再び銀行を襲い、クリスの妻をさらい犯して惨殺。クリスは居合わせたノアとともにこれを追い、メキシコ国境の町にたどり着く。妻を殺した強盗が山賊一味に加わり、町の男たちを皆殺しにしていた。
生き残った女たちは凌辱され、数日後再びここを通過する一味に連れ去られるという。クリスとノアは見張りの山賊を殺し、女たちに懇願され、一味と戦うことになる。七人の男が山賊と一戦交えるという設定だけはオリジナル通りだが、あと五人の凄腕をどうやって調達するのだろう。なるほど、そういう手もあったか。
TV「アンクルの女」のステファニー・パワーズが女たちのリーダーを演じている。
荒野の七人 真昼の決闘/The Magnificent Seven Ride!
1972 アメリカ/公開1972
監督:ジョージ・マッコーワン
出演:リー・ヴァン・クリーフ、ステファニー・パワーズ、マイケル・カラン、ルーク・アスキュー、ペドロ・アルメンダリス・Jr、ジェームズ・シッキング、エド・ローター
大河ドラマウォッチ「鎌倉殿の13人」 第34回 理想の結婚
北条泰時(坂口健太郎)は、父の義時(小栗旬)から、小さな観音像を渡されます。それは頼朝が髪の毛の中に入れて、大事に持っていたものでした。北条政子から形見分けとして、義時に与えられたものです。
「私は、あのお方(頼朝)の、お子とお孫を殺(あや)めた。もはや、持つに値しないのだ」
と、義時はいいます。
夕暮れ時に、泰時は妻の初(はつ)(福地桃子)と話します。
「父の本心が、私には分かる。父はこれを持っていると、心が痛むのだ。自分がしたことを責められているようで、たまらないのだ。だから私に押しつける」
初がいいます。
「そんなふうに思わなくても」
「父は持っているべきなんだ。自分のしたことに向き合って、苦しむべきだが。それだけのことをあの人は」」
三代鎌倉殿の源実朝(さねとも)(柿澤勇人)の前で、訴訟の裁きが行われます。義時が説明します。
「御家人どうしの諍(いさか)いを聞いて、どちらに理(り)があるか決めます」
実朝は不安を口にします。
「できるだろうか」
「仕切りはわられが行いますので、ご安心を」
「座っているだけでいいのです」
義時が述べます。
「いずれは、鎌倉殿みずから、ご沙汰をお願いすることになりますが、しばらくの間は、よく見定めて、学んでいただきたいと存じます」
昼からは稽古(けいこ)があると大江広元(栗原英雄)が話します。薙刀、弓、政(まつりごと)、処世の術(すべ)。時政がいいます。
「ゆっくり、じっくり、あせらず学びなされ。鎌倉の面倒は、万事、このじいが見まするゆえ」
北条政子(小池栄子)は、三善康信に綴(つづ)りを渡します。それは政子が、蔵にある和歌集から、実朝が気に入りそうな句を書き写したものでした。これを実朝の目につくところに置いてきて欲しいと頼むのです。
時政は、矢に使う鷲の羽、獲れたての鮎などの貢ぎ物を、御家人たちから受け取っていました。
時政は畠山重忠(中川大志)を呼び出していました。今、比企がいなくなって、武蔵が空いている。そこに自分が入らせてもらう、と、時政は宣言します。畠山に武蔵守(むさしのかみ)になってもらうと、時政はいいます。
「身に余る誉(ほま)れにございますが」畠山は腑に落ちない様子です。「私には代々受け継いできた総検校職(そうけんぎょうしき)という役があります。兼任してもよろしいのであれば」
「面白いことをいうな。武蔵守を支えるのが、総検校職だ。自分で自分を支えるなんておかしいじゃねえか」時政は笑い声をたてます。「そっちは返上してもらう」
「お待ちください」
時政は話を打ち切るのでした。
畠山はこのことを義時に打ち明けます。
「にわかには信じられない」
と、義時はいいます。
「そのようなこと、舅(しゅうと)殿の一存で決められることなんでしょうか」
「鎌倉殿のお名前で、朝廷にお伺(うかが)いを出せば、通らぬことはないだろう」
「体(てい)よく、総検校職を奪い取ろうというのではないですか」
「まさか」
「舅殿は、武蔵を奪い取るおつもりでは」
「小四郎殿(義時)にはお伝えしておく」畠山は義時に向き直ります。「武蔵を脅(おびや)かすようなことになれば、畠山は、命がけで抗(あらが)う覚悟」
その日、訴訟が終わった後、義時は父の時政と話します。
「さっぱり分からねえ」時政は義時を振り返ります。「助けてくれっていって来る奴に、加勢してやるのはあたりめえじゃねえか」
「付け届けを持ってきた者に便宜(べんぎ)を図(はか)るなら、訴訟の意味はござらん」
「だって、いろいろ持ってきてくれるんだぜ。遠いところを」
「だから受け取ってはならんのです」
「分かってねえなあ。俺を頼ってくる、その気持ちに、わしゃ応えてやり……」
「ですから」
「もういい」
と、時政は行こうとします。義時はいいます。
「武蔵国(むさしのくに)について、うかがいたいことがございます」
時政は立ち止まって義時を振り返ります。
「説教は一日一つで十分じゃ」
「武蔵をどうしようとお思いですか」
「次郎(畠山重忠)がなんかいってきたか」
「畠山と、一戦交(いっせんまじ)えるおつもりですか」
「誰もそんなことはいっとらん」
実朝の結婚が決まります。相手は後鳥羽上皇の従妹(いとこ)に当たる女性です。
元久元年(1204)十月十四日。時政とりくの子供である北条政範(まさのり)(中川翼)らが、実朝の結婚相手を迎えに、京へ向かいます。
義時は、大江広元(栗原英雄)から、嫁を取るようにすすめられます。官僚の二階堂行政(野仲イサオ)が、孫娘をもらってやってくれ、と頭を下げます。とにかく一度会ってみることにしてはどうか、と大江にいわれ、義時は承諾します。
義時は八田知家(市原隼人)に相談します。女性を見極めてくれと頼みます。
京に、りくの娘婿である平賀朝雅(ひらがのともまさ)(山中崇)が、先に来ていました。
「いよいよでござるな」
と、いうのは源仲章(みなもとのなかあきら)(生田斗真)です。
「ようやくこぎ着けた」
と、平賀がいいます。仲章は平賀の横に並んで話します。
「お迎え役は、北条政範殿と聞いた。あの方はいずれ、お父上の跡を継いで、執権別当になられるかな。あなた、ご自分で執権別当になる気は」
「ふざけたことを」
「確かに。あなたは本来、鎌倉殿の座を狙える、御血筋」
「これでも、源氏の一門である」
「しかし今は、北条のいいなり。上皇様は、北条がお嫌いでね。田舎者が鎌倉殿を、思いのままにしているのが許せない。知ってるでしょう」
「何がいいたい」
「上皇様と、お近しいあなたが、実朝様と鎌倉を治めてくれれば、いうことなし」
「執権別当にはなれん。政範殿がいる限り」
「いなければ」
「義時殿もいる」
「選ぶのは時政殿。例えばね、政範殿が、突然の病(やまい)で亡くなり、あなたが引き継いで、千代様を連れて、鎌倉へ堂々と凱旋(がいせん)すれば、時政殿は、必ずあなたをお選びになる。政範殿は、鎌倉を離れている。この意味が、お分かりになりますか」
その頃、鎌倉では、義時が、結婚相手に、とすすめられた、のえ(菊地凛子)と会っていました。その様子を八田知家がのぞき見ています。
その夜、義時は、のえ、のことを八田に聞きます。
「非の打ち所がない。気立てもよく、賢く、まあ、見栄えも、悪くない。お前が断ったら、俺が名乗りを上げてもいいくらいだ」
念を押すように義時が聞きます。
「裏にはもう一つ、別の顔があることもございますが」
「裏表なし。あれはそういうおなごだ」
と、八田はいいきります。
十一月三日。政範たちが京に入ります。平賀朝雅がそれを出迎えます。
「今宵(こよい)は酒宴(しゅえん)の支度(したく)をしてあります。旅の疲れを癒(い)やしていただこう」
京に到着してから二日後、北条政範が突然、この世を去ります。享年十六。急な病であったといわれていますが、真偽(しんぎ)は不明です。
鎌倉の義時は、のえのことを、息子の泰時に話します。
「比奈さんを追い出しておいて、もう新しいおなごですか」
と、泰時は納得しません。
「父上だって、お寂しいのですよ」
と、泰時の妻の初がいいます。泰時は叫びます。
「自業自得だ」
義時は立ち上がります。
「もう一度、申して見よ」
と、静かに泰時に迫ります。泰時は振り返ります。
「父上には人の心がないのですか。比奈さんが出て行ったのだって、もとはといえば父上が非道なまねをした……」
そこまでいいかけた泰時の頬を、初が打ちます。泰時はその場を後にします。
和田義盛は稽古(けいこ)の後、実朝に獣汁(ししじる)をごちそうします。初めての鹿の肉を、実朝は喜んで食べるのでした。
その頃、時政は三浦義村と酒を酌み交わしていました。畠山が三浦の祖父を討ち取ったことを、思い起こさせていました。
「恨みはあるか」
と、時政は聞きます。
「ないといえば嘘になりますが、昔の話です」
「もし北条が、畠山と一戦交えることになったとして、お前はどっちに加勢する」
「決まってるでしょう」
三浦は最後まではっきりといいません。
泰時は、義時の結婚相手の、のえが、女たちを相手に、下品な振る舞いをしているのを見てしまいます。
「わかる、御所の女房はもうおしまい。小四郎殿(義時)に嫁ぐって事は、鎌倉殿とも縁者ってこと」
書評『やわ肌くらべ』
書名『やわ肌くらべ』
著者 奥山景布子
発売 中央公論新社
発行年月日 令和4年7月10日
定価 ¥1700E
平安鎌倉から幕末明治までの多岐にわたる時代を背景に、史実と丹念に向き合い史実の奥に潜む物語を歴史小説として紡ぎ出している奥山景布子(おくやまきょうこ)が今回取り上げたのは明治・大正・昭和を生きた歌人・与謝野(よさの)晶子(あきこ)(1878~1942)である。
晶子は明治11年(1878)大阪府堺市の老舗菓子屋に生れた。家業を手伝うかたわら17歳ころから歌を発表、明治33年、与謝野鉄幹(寛)と出会い、翌年6月、実家の反対を押し切って、寛の許に奔るべく上京、妻と離別した寛と同棲。2か月後の8月には「乳房」、「柔肌」、「熱き血潮」、当時としては極めて官能的な用語を奔放に駆使した短歌集『みだれ髪』を刊行。広く一般社会まで多くの人々の関心を集め、寛の主幹する『明星』を代表する歌人として活躍した。明治35年1月には、入籍し、鳳(ほう)晶子から与謝野晶子と名前を変え、以後、寛との間に5男6女を儲けながら、歌壇の女王として君臨した……と、まとめてしまうと本筋を見誤る。
評者(わたし)は明治文学史については特別の知識もない全くの門外漢ながら、繰り広げられたかの異常な人間関係の展開はどのような精神構造、感性によってもたらされたものなのか。“情熱の歌人”とされる与謝野晶子の一生の真実に迫りたいと思うのである。
そもそも鉄幹とは何者か。「妻を娶らば才たけて」というあの人口に膾炙している詩が鉄幹の詩であったとは。今業平(いまなりひら)を自任した鉄幹は生来の女好きで、自らの触手の範囲内に現れてきた女たちの全てを自分の愛人と考え、白芙蓉(林(はやし)滝野(たきの))、白萩(晶子)、白百合(山川(やまかわ)登美子(とみこ))、白梅(増田(ますだ)雅子(まさこ))などさながら白い花を冠した源氏名の如き愛称をつけ公然と呼んでいた。多くの女たちが“時代の寵児”たる鉄幹を無上の師として慕い憧れたが、鉄幹には妻があり、まもなく子が生まれることを知りつつも、その愛を勝ち取るべく競ったのが最大のライバルとなった晶子であり、山川登美子であった。
本書は5章33編より成る。「編」の主人公は「滝野」、「晶子」、「登美子」、「もよ」の4人(「鉄幹」の編はない)で、各編とも主に一人称の独白で語られる。
明治22年(1889)当時「安藤先生」といった寛と、11歳の滝野がはじめて会う林滝野(1178~1966)の回想シーンから物語ははじまる。山口県徳山町で教師だった寛の教え子だった滝野は明治32年(1899)10月、徳山の滝野宅を訪れた寛に強引に求婚され同意するが、寛に8年も連れ添い、未入籍のまま子まで生した女がありながらその女を捨てて、半年も経ないうちに、平然と別の女である自分に求婚していたことを滝野が知ることになるのはついに上京し、麹町で寛と同棲した後のことであった。
物語は基本的に出来事が時系列的に記述されるが、真相真実が時に“スイッチバック”形式の中に、時に“藪の中”的にあぶりだされるところに興趣がある。
『明星』が創刊された明治33年(1900)の夏、寛は大阪に行くが、「第1章 人を恋ふる歌」の「二 もよ」には、「旦那が汽車に乗ってお出かけになりましたのは、七月の末か八月のはじめでしたかねえ」(22頁)と与謝野家の御手伝いさんの河本(こうもと)もよが語るのを引き継いで、「四 滝野」で、「寛さんは、予定の期日を十日も過ぎて、ようやく帰ってきた……この頃の寛さんは妙に機嫌が良くて……本当のことはあとから知ることになりますけど」(38~39頁)と滝野が引き継ぐ。
寛は8月2日に夜行で東京を発ち、大阪に向かい、20日に帰京。およそ3週間に及ぶ関西旅行、この間何があったのか?!実は寛と晶子、登美子の運命の出会いがあったのであり、このことは「三 晶子」で、晶子自らが語るという小説作法である。
晶子の好敵手と目された山川登美子は明治12年(1879)7月、福井県小浜(おばま)に生まれた。『明星』の初期以来の主要な同人であり、寛への憧憬と恋慕の情を明らかに歌う。
滝野にとって、架空の歌の世界のことであるとしつつも、濃厚な恋歌を交わし合う寛を含める3人は「言葉を弄び、人の気持ちを弄ぶ人たち」(46頁)としか見えず、自分という妻がありながら、臆面もなく、他の女に手を付ける良人を見て、「嫉妬というよりは生理的な不快感」(47頁)を感じたに相違あるまい。
たった一度きりだが、晶子と滝野が会う印象的なシーンがある。
明治34年(1901)晶子(24歳)は6月に堺の生家を逃れて上京、すでに鉄幹と同棲しているが、萃(あつむ) (寛と滝野の子)の満一歳の誕生日である9月23日に、渋谷(しぶや)村の寛・晶子の家での誕生祝に事寄せて、在京中の滝野を招いたことがあったらしい。このことは正富汪洋(1881~1967)の『明治の青春――与謝野鉄幹をめぐる女性群』(1955年刊)に記されている。詩人・正富汪洋は寛と別れた後の滝野の再婚相手である。資料としての信頼性に欠ける憾みがあるにせよ鉄幹・晶子研究に不可欠の書といえる。
「割烹着を着た晶子さんがちらし寿司を用意してくれました。寛さんは酒を飲みながら、妙にうれしそうに私たちを見ていました」(169頁)。なお、昭和29年の佐藤春夫の新聞連載小説『晶子曼荼羅』(1954年刊)にはこのシーンの描写はない。
滝野が去った後、滝野の代わりを埋めるように、夫に死なれて独り身の登美子が上京してくる。日露戦争最中の明治38年(1905)の正月に、晶子、登美子、雅子の3人の合著歌集『恋衣(こいころも)』が刊行される。その年の11月5日、寛は登美子と神田で密会。寛が今度は登美子とかつての愛を蘇らせたことを知り晶子は愕然とする。
明治41年(1908)11月、『明星』は第百号をもって廃刊。翌年4月15日『明星』廃刊の後を追うように、登美子が死す。29歳9カ月であった。晶子の華やかさに比して憂愁の日を送り、郷里で薄幸な人生を終えたその生涯は佳人薄命という他はないが、独身時代からのライバルの死を知って、晶子はやっと青白い嫉妬の炎をおさめることができたのであろうか。「亡き登美子さんに捧げる歌は私も作ったのですが……。とても、この時の寛さんの歌には敵いません。ご披露しない方がいいでしょう」(269頁)。
晶子に関する評伝、伝記の類は非常に多いが、そのほとんどは、寛と晶子の出会いに始まる二人の灼熱の恋の過程、『みだれ髪』の刊行が中心で、明治44年(1911)11月8日にはじまるパリ旅行までのいわば“前半生”で終わっている。
本作も「パリ旅行」で終わっている。最終章の第5章は6編構成。「三 登美子」、「五 滝野」、「六 晶子」の三人揃い踏み、本作は三人の「やわ肌くらべ」3人の物語であり、終わって当然なのである。
「五 滝野」で、作者は「晶子に夫を盗まれた女」である滝野に「私は決して晶子さんを許さないことに決めました」(288頁)と言わしめている。
評伝小説は事実と史料によって制約される。小説仕立てだから、当然、事実通りではない。『晶子曼荼羅』の佐藤春夫は「詩的幻想として美しく虚構のなかに現実以上の真実を現わすことができればそれが真の創作というものだと思う」と述べているが、『晶子曼荼羅』が「小説形式で苦心して辻褄を合わせようとして、ありもしないことを書いている。虚構とするなら、あまりにも念の入りすぎた虚構」と批評されたのも故なしではない。春夫が「終に詩人の妻にはふさわしくない滝野」と断じているのは個人の感情判断だから言うことはないが、「林滝野なんて端役のことは小生にとってどうでもよいのですが」との暴言は明らかに作家の驕りのもたらしたあるまじき失言であろう。
奥山景布子の評伝小説の成功の源は春夫が「要もない端役は歯牙にもかけず」と吐き捨てた滝野やもよを主役級の語り部として甦らせたことである。
(令和4年8月31日 雨宮由希夫 記)
『映画に溺れて』第513回 オースティン・パワーズ ゴールドメンバー
第513回 オースティン・パワーズ ゴールドメンバー
平成十四年十月(2002)
大泉 Tジョイ大泉
マイク・マイヤーズが英国スパイと悪の天才の二役を演じるコメディ『オースティン・パワーズ』は三本作られ、二作目の『オースティン・パワーズ デラックス』はかなりの駄作でがっかりしたが、この第三作は出だしからいきなり笑わせてくれる。
ハイウェイをバイクで疾走する女。それを狙うヘリコプター。派手な登場でヘリを撃ち落とすオースティン・パワーズ。その顔がアップになると、なんとトム・クルーズなのだ。女が近寄りヘルメットをはずすと、グウィネス・パルトロウ。山の向こうでこれを見て指をくわえるドクター・イーブルがケビン・スペイシー。横で機関銃をぶっぱなすイーブルのミニクローンがダニー・デビート。大物スターによる配役はいったいどういうわけか。そこに「カット」の声。ハリウッドの撮影所でオースティン・パワーズが映画化されているという設定。それを見学するオースティン。監督に卑屈に笑いかけながらも一言。それをはねつける監督がスティーヴン・スピルバーグ本人。
この贅沢なオープニングから、ミュージカル風の出だしでオースティンが歌って踊る。全体としてはタイトルの『ゴールドメンバー』でわかる通り『ゴールドフィンガー』だし、日本が出てくるのは『007は二度死ぬ』そのものだが、二作目同様の安直な悪乗り下ネタが次々と続きすぎて、一作目のセンスをなかなか超えられず。
相棒のセクシーな女性工作員がビヨンセ。オースティンの父親の大物スパイがマイケル・ケイン。一作目を観たとき、マイヤーズのオースティンとドクター・イーブルの二役に驚いたが、今回はさらに悪役ゴールドフィンガーならぬゴールドメンバーと日本の相撲アリーナでの毛深い白人の関取役までマイヤーズがこなす。この関取は二作目のイーブルの手先のスコットランド人の肥満男とほぼ同じ。
ラスト、スピルバーグによるハリウッド大作『オースティンプッシー』のプレミア上映でゴールドメンバー役を演じていたのがジョン・トラボルタ。オープニングとラストの豪華配役による遊びがなによりも面白かった。
オースティン・パワーズ ゴールドメンバー/Austin Powers in Goldmember
2002 アメリカ/公開2002
監督:ジェイ・ローチ
出演:マイク・マイヤーズ、ビヨンセ・ノウルズ、マイケル・ケイン、マイケル・ヨーク、セス・グリーン
大河ドラマウォッチ「鎌倉殿の13人」 第33回 修善寺
頼家の弟であり、「千幡」の呼び名であった実朝(さねとも)(嶺岸煌桜)が、北条政子(小池栄子)に、髑髏(どくろ)を見せられます。
「頼朝様は挙兵の折、この髑髏に誓われました。この命、おぬしにかけようと。すべてはこの髑髏から始まったのです。これからは、あなたが持っていなさい」
義時(小栗旬)がいいます。
「上に立つ者の、証(あかし)でございます」
その頃、伊豆の修善寺(しゅぜんじ)では、元の鎌倉殿である、頼家が酒を飲んで荒れています。
「鎌倉殿は、このわしじゃ」
と、叫んでいました。
建仁三年(1203)十月九日。実朝の、政務開始の儀式、政所(まんどころ)始め、が行われました。取り仕切ったのは、執権別当となった、北条時政(坂東彌十郎)です。「執権別当」とは、行政の筆頭人を意味し、時政が、実質的な政治指導者となったことを示しています。
時政は書庫で、御家人たちに、新しい鎌倉殿に忠誠を誓う「起請文(きしょうもん)」を書かせることを提案します。さらに比企の領地であった武蔵を、自分が武蔵守(むさしのかみ)となって、治めることを宣言します。それを朝廷に願い出ることを命じます。
りく(宮沢りえ)は時政と酒を酌み交わし、上機嫌です。
「よい具合、よい具合」
と、酒を飲み干します。時政はりくに酒を注(つ)ぎます。
「お前のいうとおりに、運んでおるぞ」
「執権殿」
と、呼びかける、りくに、時政はおどけて
「はい」
と、返事をするのです。
「これで名実ともに、御家人の頂(いただ)きに立たれましたね。執権というのは、代々北条が引き継ぐんですよね。では次は政範(まさのり)が」
「気が早いのう。少しはわしにやらせてくれ」
二人は和やかに夜を過ごすのでした。
都では、後鳥羽上皇(尾上松也)が僧の慈円(山寺宏一)に話しています。
「鎌倉は、実朝の正室を都より差し出せといってきおった」
誰の考えだ。と後鳥羽上皇は、りくの娘婿である平賀朝雅(山中崇)を問い詰めます。何とかごまかそうとしていた平賀でしたが、時政の考えだと白状してします。後鳥羽上皇は顔をしかめます。
「身の程知らずの、田舎者め。まあよい。わしは実朝の名付け親じゃ。ひと肌脱いでやってもよいぞ。わが血筋に近い者から選ぼう」
平賀朝雅を去らせると、後鳥羽上皇はある人物を招き入れます。その者はいいます。
「比企を滅ぼしたのは北条の謀略。何としても頼家殿から、実朝殿へ代替わりさせたかったようです」
「源氏はわが忠臣。その棟梁(とうりょう)の座を、坂東の田舎侍に良いようにされるなどもってのほか」
「いっそ、北条を潰されますか」
「実朝は大事な駒(こま)じゃ。奴らに取り込まれぬよう導くのじゃ。鎌倉へ下れ」
「かしこまりました」
頼家から鎌倉に文(ふみ)が届いています。義時が書庫にて、皆に内容を披露します。一つには、退屈でたまらないので近習が欲しい。二つには、安達景盛の身柄をよこせ、というものでした。安達景盛については、頼家はその妻を手に入れようとして、果たせないでいました。その身柄を討ち取ろうというのです。二つの要求を、捨て置くことにします。義時がいいます。
「つまり頼家様は、ご自分がまだ鎌倉殿だということを、お示しになりたいのだ」
三浦義村(山本耕史)が、使者として、頼家のもとにやって来ます。三浦は「せつ」「一幡」と書いた紙が飾られているのを目にします。
「別に腹は立ててはおらん」と、頼家はいいます。「はなから受け入れられるとは思っていなかった。わしを忘れぬように、こうしてたまに喧嘩を売ってやる」
三浦はいいます。
「執権殿にそうお伝えいたします。では、これで」
「善哉(ぜんざい)はどうしておる。つつじは」
「鶴岡八幡宮の別当が、面倒を見てくれています」三浦は頼家を振り返ります。「お変わりございませんので、ご心配なく」
行こうとする三浦を、またしても頼家は呼び止めます。
「平六(へいろく)。わが父、源頼朝は、石橋山(いしばしやま)の戦いで敗れてから、わずかひと月半で、大軍を率いて鎌倉へ乗り込んだ。わしは必ず鎌倉へ戻ると、そう奴らに伝えよ。軍勢を率い、鎌倉を火の海にし、北条の者どもの首をはねる。覚悟して待っていろとな」
三浦は振り向きもしません。
「その通り、お伝えいたします」
「このままここで朽ち果てるつもりはない。忘れるな。鎌倉殿はこのわしだ」
三浦は振り返って頼家に歩み寄ります。
「確かに。この先、何十年、猿楽くらいしか慰(なぐさ)めもないまま暮らすことを考えれば、華々しく散るのも、悪くはないかもしれません。おやりなさい」
「力を貸してくれ」
「お断りいたします」
頼家の言葉が、鎌倉で報告されます。
「挙兵されると思うか」
と、義時は三浦にたずねます。
「いってるだけだろ。兵が集まらない」
「しかし鎌倉に対する恨みは強うございます。早めに手を打たれることを、おすすめします」
「曲がりなりにも先の鎌倉殿にございます」
「それが何か」
と、大江が問います。
「いいにくいなら俺がいってやるよ」と、八田知家(市原隼人)。「鎌倉殿は二人いらねえ」
ため息をつく義時に、時政がいいます。
「やるか」
「頼朝様の、実のお子でございますぞ」
時政は大声を出します。
「そなことは、分かっている。わしの孫じゃ。お生まれになったときのことだって、しっかり目ん玉の裏に残ってるわ。わしだって、つれえんじゃ」
「小四郎殿」
と、大江が義時に意見を求めます。
「ここは様子を見る」と、義時は宣言します。「不審な動きがあれば、そのときはわれらも覚悟を決めましょう」
建仁四年(1204)正月。実朝の、読書始めの儀式が行われます。儒学の講義を行ったのは、後鳥羽上皇に招き入れられていた、源仲章(みなもとのなかあきら)(生田斗真)でした。
北条政子にいわれ、三善康信が実朝に和歌を教えています。三善の教えは、韻律に乗せ、花鳥風月を感じるままに詠(よ)むというものでした。そこへ実衣(宮澤エマ)に呼ばれ、源仲章がやってくるのです。
「鎌倉殿。今のはお忘れください」と、仲章はいい放ちます。「和歌とは、気の向くままに詠むものなどではございません。帝(みかど)が、代々、詠みついでこられたもの。帝のお望みの世の姿、ありがたいお考えが、そこにある。それを知らねば、学んだことにはなりません」
実朝の乳母(めのと)である美羽がいいます。
「和歌は、政(まつりごと)には欠かせぬものなんですって。ですよね」
実衣は仲章を振り返ります。仲章それを受けていいます。
「さよう。和歌に長ずるものが、国を動かします」
「しっかり学んでくださいませ」
と、実衣は実朝にいいきかせるのでした。
「よもやとは思いますが、都と通じておるのでは」
義時がいいます。
「軽はずみなことをいうべきではない」
そこへ八田知家がやって来ます。
「修善寺で、猿楽師の一人を捕えた。京へ向かおうとしていた。こんなものを」
八田は扇(おうぎ)に書かれた文章を皆に見せます。頼家は上皇に、北条追討の院宣(いんぜん)を願い出ようとしていました。時政がいいます。
「決まりのようだな」
皆が黙り込みます。義時が口を切ります。
「頼家様を、討ち取る」
義時は息子の泰時(坂口健太郎)と話します。
「なりませぬ」
と、泰時はいいます。
「これは謀反だ」
と、義時ははねつけます。義時の異母弟である時房(瀬戸康史)がいいます。
「頼家様の後ろには上皇様がいる。このままここでは大きないくさになる。今のうちに火種を消しておくんだ」
義時がいいます。
「上皇様は北条をお認めにはならんだろう」
泰時が聞きます。
「なにゆえ」
「あのお方からしてみれば、われらは一介の御家人。源氏を差し置いて全国の武士に指図をすることを、お許しになるはずがない」
泰時は叫びます。
「頼家様に死んで欲しくないのです」
「私も同じ思いだ」義時は泰時を見つめます。「しかしこうなった以上、ほかに道はない」
「父上は間違っている。私は承服できません」
泰時は立ち去るのでした。
義時は時房と善児(梶原善)を訪ねます。そこに兄の宗時の遺品を見つけるのです。善児が宗時を殺した証拠でした。
「善児は私が斬ります」
と、時房がいいます。
「ならぬ」と、義時は即座に反応します。「あれは必要な男だ。私に善児が責められようか」
義時は外で薪を割っている善児に呼びかけます。
「善児、仕事だ」
修善寺では、泰時が頼家に訴えていました。
「お逃げください」
「逃げはせぬ」
と、頼家は答えます。
「命を大事にしてください。生きてさえいれば、また道も開けます」
「道などない。いずれわしは殺される。座して死を待つつもりはない。最後の最後までたてついてやる。これより、京からやって来た猿楽が始まる。上皇様の肝いりだ。お前も見ていけ」
猿楽が始まります。泰時は、猿楽師の一人が、死んでいることを知るのです。泰時は刀を引き抜き、猿楽が行われている中に入り込みます。やはり善児が猿楽師の中にまぎれ込んでいました。泰時は斬りつけますが、善児にたやすくねじ伏せられてしまいます。
「あんたは殺すなといわれている」
と、善児は泰時を放し、頼家に迫ります。頼家は刀を抜いて立ち向かいます。善児は戦いの途中、一幡の文字を見つけるのです。躊躇(ちゅうちょ)する善児に隙が生まれ、頼家の反撃を許してしまいます。善児にとどめを刺そうとした頼家でしたが、背後から善児の弟子であるトウ(山本千尋)に貫かれてしまいます。
源頼家。享年二十三でした。
傷ついた善児は、草むらに潜んでいました。その背中をトウが貫きます。
「ずっとこの時を待っていた」トウは前に回って善児にいいます。「父の敵(かたき)、母の敵」
と、善児にとどめを刺すのでした。
『映画に溺れて』第512回 パリで一緒に
第512回 パリで一緒に
昭和六十三年六月(1988)
自由が丘 自由が丘武蔵野館
ウィリアム・ホールデンとオードリー・ヘプバーンが売れっ子脚本家とタイピストを演じるロマンティックコメディ。
巴里祭で賑わうパリ。ハリウッドの脚本家リチャードが新作『エッフェル塔を盗んだ娘』執筆のため滞在している。原稿清書に雇われたタイピストのガブリエルがホテルを訪ねてくる。プロデューサーとの約束の期日が二日後に迫っており、二日で完全原稿を清書しなければならない。
ガブリエルにどんなストーリーかと聞かれてリチャードは言う。アクション、サスペンス、ロマンス、コメディ、そして底辺には社会批判も。
ところが驚いたことに、出来ているのはタイトルのみ。脚本は一行も進んでいない。白紙の原稿を床に並べながら、リチャードはガブリエルに思いついたストーリーを適当に語る。
巴里祭で賑わうカフェでデートの相手を待つ若い女性ギャビー。現れたのはトニー・カーティスに似た自己陶酔型の売れない俳優モリス。急用ができたからデートはできないと去っていく。そこへ現れるのが謎の男リック。カフェの客たちが踊り出し、リックはギャビーと踊る。
リチャードが語るストーリーのリックはリチャード自身、ギャビーはガブリエルのイメージに重なる。ガブリエルと語り合い、リチャードは物語をどんどん膨らませていく。リックは嘘つきの泥棒で、大きな仕事を計画している。それにギャビーが絡む。リックの大きな仕事とリチャードの脚本執筆とがさらに重なる。
リチャードは言う。最も愛される人物はフランケンシュタインだ。人間を創造するか再生するかして、恋に落ちるか破滅する。『フランケンシュタイン』は『マイフェアレディ』と同じ話なんだ。結末が逆なだけで。
ガブリエルは考え込んではっとする。イライザが怪物なのね。映画『マイフェアレディ』のイライザはオードリー・ヘプバーンが演じていた。
パリで一緒に/Paris When It Sizzles
1964 アメリカ/公開1964
監督:リチャード・クワイン
出演:オードリー・ヘプバーン、ウィリアム・ホールデン、ノエル・カワード、グレゴワール・アスラン、トニー・カーティス