日本歴史時代作家協会 公式ブログ

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大河ドラマウォッチ「いだてん 東京オリムピック噺」 第40回 パック・トゥ・ザ・フューチャー

 昭和34年(1959)。東京は、オリンピック招致が決まるかどうかの瀬戸際を迎えていました。
 オリンピック招致委員会に、一人の男が呼ばれます。平沢和重(星野 源)。外交官を経て、NHKに入り、時事問題を15分にまとめてわかりやすく解説し、お茶の間の、特にご婦人方の人気を博していた人物です。そして嘉納治五郎を看取った人物でした。平沢はオリンピックの東京招致に、反対していました。
 ミュンヘンで行われるIOC総会が二週間後に迫っていました。そこで最終スピーチを担当するはずだった外交官が、足を怪我してしまいます。そこで平沢は最終スピーチをしてほしいと呼ばれたのでした。
「お断りします」
 平沢は即座に答えます。その理由は「時期尚早」。敗戦からまだ14年しか経っていない。戦争で何もかも失った日本に必要なのは、オリンピックのような金のかかるお祭りではない。平沢はオリンピック開催に反対する理由を挙げていきます。
 田畑政治阿部サダヲ)をのぞく委員会のメンバーは、平沢のいうことに感心します。しかし田畑はいいます。
「平沢さん。俺には俺の考えがあって、戦後スポーツ復興のために全力を尽くしてきた」
 そして田畑は、平沢を説得するための話を始めるのです。
 昭和20年(1945)、終戦を迎え、田畑の向かった先は、嘉納治五郎が作った明治神宮競技場でした。そこも被害を受け、米軍に接収されていました。田畑はバー・ローズを訪れます。そこで医師の東龍太郎(松重 豊)や、水泳監督の松澤一鶴(皆川猿時)と再開し、互いに生き残ったことを喜び合うのです。田畑は酒を酌み交わしながら、二人に顔を寄せるようにいいます。誰にもいうなよ。今、いったら馬鹿だと思われるから、と前置きをして。
「俺はこの東京で、オリンピックをやる」
「おれは馬鹿じゃないと思うよ」と、東は語り始めます。「かのピエール・クーベルタン氏は普仏戦争でドイツに負けた祖国のフランスを、スポーツで盛り上げようと考えた。それが近代オリンピックの始まり」
「焼け野原でオリンピックか」そして松澤は叫びます。「出来たらすごいことだね」
 田畑はすぐに生き残ったオリンピック関係者15名をバラックに集めます。そこを「日本体育協会とします。田畑は水泳連盟の理事長となり、東が体育協会の会長に就任します。そして元オリンピックの選手たちも戦地から帰ってきます。彼らを指導員に迎えます。選手たちにはどうしてもタンパク質が足りず、蛙を捕まえて食べさせました。
 自由形古橋廣之進(北島康介)はフジヤマのトビウオとあだ名され、有望株に成長していきます。
 昭和23年(1948)にロンドン・オリンピックが開催されます。しかし敗戦国日本は占領下にあり、参加を認められませんでした。しかし田畑は裏オリンピックを行うことを思いつきます。オリンピックにぶつける形で、日本選手権を開いたのです。オリンピックの水泳競技と同日、同時刻、全く同じスケジユールです。神宮プール会場は満席になりました。田畑は選手たちに気合いを入れます。
「みんな、ここは日本じゃない。アメリカでもない。諸君は今、ロンドンらにいる」田畑は円陣を組んで選手に伝えます。「もし諸君の記録がロンドン大会の記録より優れていれば、ワールドチャンピオンは君たちだ」
 ロンドンのオリンピック会場と電話回線をつなぎ、向こうのスタートと同時に泳ぎ始めるのです。選手たちは良い記録を出し、オリンピックに出ていれば金と銀を獲得していたほどでした。
 この大会により、日本は国際競技連盟に復帰しました。そして選手は全米選手権に招待されます。田畑が連合軍最高司令官のマッカーサーに直談判した結果でした。マッカーサーは訪れた田畑たちにいいます。
「いいか、よく聞け。アメリカと戦うとき、少しの手心も加えるな。徹底的にやっつけてこい。そうすれば、日本人を尊敬する。アメリカとはそういう国だ」
 戦争に負けたからといって卑屈になるな。いかなる時も諸君は、日本人の誇りを忘れるな、とマッカーサーは語りました。
 そして全米選手権で、日本は6種目中5種目を制し、古橋は世界新記録を出します。
 東はIOC委員に就任します。
 昭和27年(1952)。ヘルシンキ・オリンピック。日本は戦後初めてオリンピックに参加を認められます。田畑は選手団長として、103人の選手、役員を率いました。しかし水泳にて、ピークを過ぎていた古橋は惨敗してしまいました。
 ヘルシンキ・オリンピックは、市や国からの援助は一切受けず、入場料だけでまかなったということでした。
ヘルシンキの組織委員長、クレンケルはこう言ったよ」田畑は語ります。「オリンピックは金儲けになる」
 いぶかる体育協会の皆。田畑はさらに語ります。
「敗戦国である日本が、文化国家として立ち上がるために、オリンピックを利用するのは、何ら恥ずかしいことではないぞ」
 東と田畑は吉田首相に直談判します。ヘルシンキでは観光収入が四割増しし、一年経っていても増え続けていることを説明します。しかし吉田茂は動きませんでした。
 政治家が動かないなら、俺が政治家になってやる、と、田畑は会社(朝日新聞社)を辞めて浜松から立候補します。しかしあえなく落選。
 昭和31年(1956)。メルボルン・オリンピック。ここで田畑は各国のIOC委員たちと会い、ロビー活動を行います。そして次のIOC総会を東京で行うように持っていくことに成功するのです。田畑は神宮競技場を大幅に改修します。そして8万人収容可能な「国立競技場」として生まれ変わらせます。
 ついに東京でのIOC総会が行われます。ランページ会長は、東京にはオリンピックを開催する資格が十分にある、と太鼓判を押しました。
 オリンピック招致のために田畑が打った最後の手は、体育協会会長の東を都知事にすることでした。そして田畑の家に、東の家族が押しかけてくるのです。

「これ以上この人をたきつけないでください」

 と、東の妻が言います。

「できっこないんだよ」

 と、東の息子もいいます。東は思わず叫ぶのです。
「わかってるよ。俺が一番そう思ってるよ。戦後14年、ことオリンピックに関しては、できると思ってやったことは何一つない。だから応援してくれといっているんだ。わかってくれよ。やらずに後悔するくらいなら、晩節を汚してでも、俺はこの東京でオリンピックを開きたいんだよ」
 そして東は東京都知事に当選するのです。
 このように、田畑は平沢に対して14年間の道のりを説明し終わります。しかし平沢は納得する様子はありません。田畑はフィリピンでの体験を語ります。敵意をむき出しに受ける日本選手団
「アジア各地で、ひどいこと、むごいことしてきた俺たち日本人は、面白いことやんなきゃいけないんだよ」
 と、田畑は叫びます。
「おもしろいこと」
 この言葉に、平沢の心は動かされたようでした。平沢はスピーチを引き受けるのです。
 平沢は小学生の娘から、教科書にオリンピックについての話が記されていることを教えられます。平沢はIOC総会のスピーチでこの記述を引用するのです。
「オリンピック、オリンピック。こう聞いただけでも、私たちの心は躍ります。全世界からスポーツの選手が、それぞれの国旗をかざして集まるのです。すべての選手が、同じ規則にしたがい、同じ条件のもとで力を競うのです。遠く離れた国の人々が、勝利を争いながら、仲良く親しみ合うのです。オリンピックこそがまことに世界最大の、平和の祭典ということができるでしょう」平沢はいいます。「ついにその時がきました。五輪の紋章に表わされた『第五の大陸』にオリンピックを導くべきではないでしょうか。アジアに」
 こうして東京はオリンピックの招致に成功したのでした。