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大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第三十三回 比叡山に棲(す)む魔物

 元亀元年(1570年)十一月。朝倉義景ユースケ・サンタマリア)と浅井長政は、信長を討つために延暦寺の助けを得て、比叡山に陣を敷きました。さらに西には三好の一党と本願寺。南には六角と一向宗に囲まれ、信長は孤立し、窮地に立たされていました。

 織田信長染谷将太)は家臣たちと話していました。叡山の僧兵には地の利がある。叡山は御仏の山であり、そこへ攻め上るとなると。と、家臣たちも消極的です。そこに列席していた明智光秀十兵衛(長谷川博己)は、密かに知らせを受け取ります。浅井長政の家臣、山崎義家(榎本孝明)が、光秀の書いた文(ふみ)に対し、すぐに会いたいとの返事をよこしたのでした。

 比叡山延暦寺に光秀はやってきます。山崎は朝倉義景の元へ光秀を案内します。義景は光秀を前にして話し始めます。

「昔、美濃の国を追い出され、越前へ来た若侍がおった。妙な男で、公方様に気に入られ、どこぞの田舎大名を巻き込み、上洛まで果たした。今では、幕府もこの男の顔色をうかがうほどの大物じゃという。出世をしたものは、昔、世話になった者に恩を返すというが、仁義も礼も廃れた今の世では、望むべくもないか」

 光秀はいいます。

「今日はそのご恩をお返ししたく、山を登って参りました」

「おお、どう返す」

「この、長くつらいいくさを穏やかに終わらせ、両軍が無事に、己の国へ帰れるよう、心血を注ぐ覚悟で参りました」

「つらいのは八方塞がりのおぬしらであり、わしはこうして穏やかに茶を飲んでおる。そなたの手を借りるほど困ってはおらん」

「ではなにゆえ、わたくしに会うてみようと思われましたか。越前はそろそろ雪が降りましょう。雪がつもれば、身動きならぬのが越前。山を越え、一乗谷のお館へ、お帰りになるのは相当難儀でございましょう。山崎様もそれを案じておられるはず。雪にはばまれるとなれば、二万あまりの兵を、春までこの山中で養わねばなりませぬ。それも又ご負担が過ぎるというもの。それやこれやを考え合わせれば、もはやこのいくさ、潮時ではございませぬか」

 そこへ叡山のあるじである覚恕(春風亭小朝)の通る様子が聞こえてきます。朝倉義景は光秀を導き、覚如の姿を見せるのです。覚恕は様式化された行列の中で、高い輿に揺られていました。覚恕が通り過ぎ、朝倉義景は戻ろうとします。その途中で光秀に述べます。

「わしはな、越前で勢いを伸ばしてきた一向宗徒たちと長年戦こうて、一つだけ分かったことがある。お経を唱える者とのいくさに勝ち目はないということじゃ。踏み潰しても、地の底からいくらでもわいてくる虫のようなものだからだ。この叡山も同じじゃ。手強いぞ。信長に伝えよ。このいくさを止めたくば、覚恕様にひざまずけと」

 光秀は義景を呼び止めていいます。

「お願いでございます。わたくしを覚恕様にお引き合わせいただけませぬか。じきじきに目通りし、どうひざまずけば良いか、お聞きしとうございます」

 その夜、光秀は覚恕を前にします。覚恕は多数の女官に囲まれていました。実は覚恕は、帝(みかど)の弟だったのです。覚恕は兄に対して、容姿を含めて、激しい劣等感を持っていたのでした。覚恕はいいます。

「わしは、ここへ来ておのれに言い聞かせた。美しきものに生涯、頭(こうべ)を垂れて生きるのか。それはやめよう。わしは、金を持とう。力を持とう。金と力があれば、みなわしに頭(こうべ)を下げる」覚恕は笑い出します。「その通りになった。今、都の者たちはわしに頭(こうべ)を下げる。金を貸せ。領地を貸せ。商いをさせてくれ」

 覚恕は美しいものに勝ったと思ったのでした。覚恕は目を上げて響くような声を出します。

「それを、織田信長めが次々とかすめ取っていく。領地。金も。あの都は、わしの都じゃ。返せ」覚恕は叫びます。「わしに返せ」

 信長と朝倉、浅井勢のいくさが、比叡山で膠着(こうちゃく)状態にあるのを見、反信長の勢力が、信長へ包囲網を一気に狭めてきました。伊勢の一向宗門徒が、本願寺本山の命を受け、尾張に攻め込んできます。

 尾張が危ないと、信長は戻ろうとします。それを止める光秀。信長は思いつくのです。

「帝(みかど)だな。帝に使いを出すか」

 京の御所では、帝(坂東玉三郎)が医師の望月東庵(堺正章)と囲碁を指していました。帝は幼いころから体か弱く、先帝が名医と名高い東庵を呼んで通わせていたのでした。帝は東庵にいいます。

「信長が弟の覚恕と和睦したいと申し出てまいった」帝は覚恕の胸の内を知っていました。「おのれの力を誇示し、兄に頭を下げさせたい。覚恕の胸にあるのは、それだけであろう。覚恕は叡山で有り余る富を蓄えていながら、この御所の破れた屋根板一枚、直そうと申し出て参ったことはなかった。山では酒にひたり、女色におぼれ、双六、闘鶏にうつつを抜かしておるという。無残な弟じゃ」

 囲碁で東庵を負かし、帝はいいます。

「信長を、助けてやろうぞ」帝は東庵を見つめます。「覚恕は、貧しい公家たちに金子(きんす)を貸し、それと引き換えに領地を奪ってきた。公家たちの、苦しみはいかばかりか。これは、朕と弟の戦いやもしれぬ」

 この年の十二月、帝は関白を近江に向かわせ、織田、朝倉、浅井、並びに延暦寺に対し、和睦を促す勅命を伝えました。織田信長が、延暦寺や朝倉勢の要求を呑むという条件のもとに、双方は陣を引き払いました。

 京の二条城で、光秀は摂津晴門(片岡鶴太郎)と会います。いくさが終わったと話す摂津に、光秀は笑い出します。

「いくさが終わった」光秀は摂津を振り返ります。「信長様のいくさはまだまだ終わってはおりませぬぞ。今、こうして摂津殿がここにおられる。叡山のあるじも無傷のままで、古く、悪(あ)しきものがそのまま残っておるとは。それを倒さねば新しき都はつくれぬ。よっていくさは続けなければならぬ。お分かりか」

 元亀二年(1571年)。信長は伊勢、近江の一向一揆軍と戦った後、再び比叡山のふもとに兵を結集させます。朝倉、浅井の背後にいる叡山の勢力を討つためでした。信長が皆にいいます。

「此度(こたび)のいくさは、叡山を潰すいくさじゃ。叡山こそ、都をむしばむ諸悪の元。僧兵や雇われ兵、山に巣くうもの、すべてのものを討ち果たせ。出陣じゃ」

 織田軍の急襲を受け、比叡山延暦寺は修羅場と化しました。光秀も戦場にいました。女子供を逃がすように命令を出すのでした。