書評『「賊軍」列伝 明治を支えた男たち』
書 名 『「賊軍」列伝 明治を支えた男たち』
著 者 星 亮一
発行所 潮書房光人新社
発行年月日 2022年1月20日
定 価 ¥790E
会津側の視点を踏まえ、明治政府に蔑まれた東北の戊辰戦争史を書き続けた歴史小説作家の星亮一が昨年12月31日、死去した。享年86。「東北人である私にとって、明治維新は慙愧で無念の歴史なのである」と公言して憚ることがなかった著者は、「明治維新の検証が十分に行われていない。幕府は何をし、徳川慶喜はいかなる政治家だったのか。なぜ会津戦争が起こったのか。そもそも、明治維新とはいかなる変革であり、明治国家は何をどう改革していったのか」(『運命の将軍 徳川慶喜』さくら舎 2021年9月刊)を終生のテーマとした。
本書は2010年に刊行された『明治を支えた「賊軍」の男たち』(講談社)の文庫版で、収録された「明治を支えた男たち」は幕臣以外は会津、盛岡など賊軍の風土に育った人々である。彼らは明治の世にあって脇役に甘んじたが、自己の信念とするところに徹し、大きな足跡を残した誇り高き男たちである。
第一章 渋沢栄一――天保11年(1840)~昭和6年(1931)
第二章 福沢諭吉――天保5年(1835)~明治34年(1901)
第三章 榎本武揚――天保7年(1836)~明治41年(1908)
第四章 原 敬――安政3年(1856)~大正10年(1921)
第五章 山川健次郎――安政元年(1854)~昭和6年(1931)
第六章 後藤新平――安政4年(1857)~昭和4年(1929)
第七章 藤原相之助――慶応3年(1867)~昭和23年(1948)
第八章 内藤湖南――慶応2年(1866)~昭和9年(1934)
第九章 野口英世――明治9年(1876)~昭和3年(1928)
第一〇章 朝河貫一――明治6年(1873)~昭和23年(1948)
「賊軍」の出である者はどんなに優秀でも、薩長政府の理不尽な仕打ちに辛酸を嘗め出世の道を開くのが困難を極めた。明治新政府の中央省庁のトップや次官は薩長閥だったが、実務スタッフは旧幕臣が圧倒的に多かった。優秀だったからだ。著者は「幕府は優秀な人材を抱えながら、なぜ簡単に滅んでしまったのか」と自問し、「一言でいえば、危機意識の驚くべき欠如と役に立たない重臣がはびこっていたせいだ」と自答している。
「列伝」のトップバッターは元幕臣の渋沢(しぶさわ)栄一(えいいち)である。栄一は討幕の過激派から財界人に変身、実業界における明治大正期最大の指導者、真の経済人。「岩崎弥太郎のような勝者サイドの人間ではない。敗者サイドの人間である。それが日本の財界を仕切ったことが痛快だ」。「見事な大往生だった」享年92。
中津藩士から幕臣となった福沢(ふくざわ)諭吉(ゆきち)は維新後は誘われても官職に就かず、独立自尊を主張する思想家、教育家、啓蒙的文明批評家として「終生、在野の人」で終わった。享年66。
蝦夷共和国の総裁で最後まで新政府軍に抵抗した榎本武揚(えのもとたけあき)は降伏後、薩長藩閥政治の真っただ中に身を投じ、財界人の渋沢と同じように幕臣の意地を示し、相手を認めさせた稀有な人物。「本来、総理大臣の器だったが、幕臣である以上、それは無理だった」「迷わずぶれないべらんめえの豪快な生涯だった」享年73。
日本最初の政党内閣を組織し、「賊軍」最初の総理となるも、生涯授爵を拒み、 「平民宰相」と親しまれた原敬(はらたかし)は旧南部藩の人。原敬に惹かれる著者の思いは熱い。「伝記にトライしようと思うも筆を起こすことができずもう何年も書けないでいる。実はこれが原敬に関する最初の小文になる」とのことだ。盛岡での戊辰戦争殉難者50年祭で語った「戊辰戦役は政見の異同のみ」は不朽の名言である。「東北人の期待を背負った執念の生涯」享年65。
東京帝大総長となった山川(やまかわ)健次郎(けんじろう)は元白虎隊隊士。「西軍」(「官軍」に非ず)が母成峠から会津盆地に攻め込んだとき14歳。口には出さなかったが、無念な思いは終生消えることがなく、『京都守護職始末』『会津戊辰戦史』を編纂し、最終的な「朝敵」に仕立て上げられ征討の目標にされていく幕末の会津藩の立場を鮮明にした。「数奇な人生をたどった会津人の見事な生涯」享年77。
後藤(ごとう)新平(しんぺい)は戊辰戦争時、11歳、生まれ故郷水沢は仙台藩領で、維新の際に藩が「賊軍」になったため辛酸を嘗めた。台湾の植民地行政に辣腕を奮い、“東京”を作った。敗者の痛みを知る東北人ならではの発想と行動力の持主で、「このような人物は日本の近代史では極めて少ない。イデオロギーにこだわらず、敵も味方にし、いつも若々しく生きた人」「これぞ理想の生涯」享年73。
秋田県仙北郡の生まれで、「西に福本日南あり、東に藤原非想あり」と称された気骨のジャーナリスト藤原相之(ふじわら)助(あいのすけ)は仙台の戊辰史を編纂した『仙台戊辰史』の著者。官軍参謀世良修蔵を糾弾し、東北戊辰戦争の真実を暴露した。
京都帝国大学の教授を務めながら、薩長官製の維新史を強く批判したことで知られる東洋史家の大家内藤(ないとう)湖南(こなん)は南部藩の漢学者を父として鹿角(かづの)に生まれた。戊辰戦争時には南部藩の領地であった鹿角は明治4年、岩手県でなく秋田県に編入されたが、湖南は自分の故郷を決して「秋田県」とは書かず「陸中国鹿角郡毛馬内町」と書いたという。関東軍参謀石原(いしはら)莞爾(かんじ)との出会いのエピソードが湖南の生涯に興趣を添えている。享年69.
世界的な医学者野口(のぐち)英世(ひでよ)は猪苗代湖畔の福島県耶麻郡翁島村の貧しい百姓家に明治9年に生まれた。その英世の口癖は「おれは会津の侍だ、白虎隊の末裔」だったという。農民だったが祖父が、松平(まつだいら)容保(かたもり)について二度も京に上り、時には薩長と斬り結んだことを英世が誇りとしていたのである。
無謀な侵略戦争に反対し、日本人初のイエール大学教授・歴史学者朝河(あさかわ)貫一(かんいち)は逆賊となった奥羽二本松藩の遺児。少年の頃の貫一は、明治維新は因習を打破した革命であると信じていたが、やがて、「賊軍」とされた父祖たちが武士として“義”を貫いた戦いであったと知り、ついには第二次世界大戦のそもそもの原因は、不正義の戦争に勝利した薩長が明治国家を作ったことにあるとした。
「賊軍」10人の列伝の誰もが不屈の士魂と高貴な人間性に溢れる魅力的な人物であることがわかる。一方、消えるべき幕臣や苦境にあえぐ幕臣を救う恩人というべき人々がいたことは救われる。榎本武揚の恩人は敵将黒田(くろだ)清隆(きよたか)(薩摩藩士)であることは夙に知られるが、原敬には井上(いのうえ)馨(かおる)(長州藩士)、山川健次郎には奥平(おくだいら)謙輔(けんすけ)(長州藩士)、後藤新平には安場(やすば)保和(やすかず)(熊本藩士)がいた。
仙台市に生まれ、郡山市で逝去した著者自身も「賊軍」の風土に育った。奇しくも、星亮一最期の本となった本書で、著者は吐露する。「もちろん時代が違うので、明治に生きた人々のような屈辱感はないが、考えさせられることが多々あり、大変勉強になった」と。夥しい著作をものした著者だが、もはや晩年に至って、これだけは書き残しておきたいという思いとともに、著者の史家としてのエスプリが感じられる。
(令和4年3月24日 雨宮由希夫 記)
『映画に溺れて』第483回 死刑執行人もまた死す
第483回 死刑執行人もまた死す
平成四年六月(1992)
池袋 文芸坐
第二次大戦中の一九四三年にアメリカで作られた反ナチ映画。ドイツの支配下にあるチェコのプラハで「死刑執行人」の名で呼ばれる冷酷で残忍な総督ラインハルト・ハイドリヒが暗殺される。この史実をフィクションを交えたサスペンスとして描いたものであり、監督はオーストリア出身のフリッツ・ラング、そして、脚本がベルトルト・ブレヒトである。
八百屋の店先で暗殺者らしい男の逃亡を目撃したのが、大学教授の娘マーシャ。警官に怪しい男を見なかったかと聞かれ、彼女は嘘を言い、男を逃がす。
夜間外出禁止令が出され、夜七時以降に外を出歩く者は容赦なく射殺される。男は逃げ場を失いマーシャの家を訪ねる。
ゲシュタポは暗殺者が逮捕されるまで、無実の市民を多数人質として逮捕し、身代わりに次々処刑していく。人質には学者、芸術家、司祭、軍人も選ばれており、マーシャの父、ノヴォトニー教授もそのひとりである。
暗殺者のスヴォダは外科医で、自首しようとするが、地下組織に止められる。ゲシュタポ警部は嘘の証言をしたマーシャを探り当て、真犯人を追いつめる。
裕福なビール業者のチャカは地下組織にもぐりこみながら、ゲシュタポ警部に内通している。チャカの密告で地下組織がゲシュタポに襲撃され、重症を負ったメンバーがスヴォダ医師にかくまわれるが、警部が踏み込むと、そこではマーシャとスヴォダ医師がラブシーンを演じている。
真犯人が名乗り出ないため、ゲシュタポは人質の処刑を二十四時間ごとから、二時間ごとに切り換える。スヴォダたちは最後の賭けに出る。
結末は痛快ではあるが、結局は人質の多くが処刑される。そして、この映画が公開されてからも、現実にはナチスドイツは近隣諸国を支配し、戦火は止まず、ホロコーストは推進され続ける。
死刑執行人もまた死す/Hangmen Also Die!
1943 アメリカ/公開1987
監督:フリッツ・ラング
出演:ブライアン・ドンレビ、ウォルター・ブレナン、アンナ・リー、ジーン・ロックハート、デニス・オキーフ、アレクサンダー・グラナック、ビリー・ロイ
大河ドラマウォッチ「鎌倉殿の13人」 第11回 許されざる嘘
頼朝(大泉洋)が仲立ちをすると請け合い、北条義時(小栗旬)は八重(新垣結衣)と結婚するつもりになっていました。しかし
「お断りいたします」
と、八重からはっきりと拒絶されるのでした。
義時は頼朝の使者として、梶原景時(中村獅童)の館を訪ねます。
「わしは頑固で融通が利かない。人の間違いをいちいち正さなければ気がすまぬような男」梶原は義時にいいます。「かえって足並みを乱すことになったら、申し訳ない」
義時は首を振ります。
「大庭方でのお働きを聞き、わがあるじが、ぜひに、と」
治承四年(1180)十二月十二日。鎌倉に頼朝の御所が完成しました。
義時は挙兵以来の武功をまとめた書面を、頼朝に差し出します。
「これをもとに、あらためて恩賞を決めよう。平家の一味より奪った所領を分け与える」
と、頼朝は述べ、義時の名がないことに気付くのです。遠慮する義時に頼朝はいいます。
「わしが誰よりも頼りにしているのは、お前だ」
「そのお言葉だけで十分でございます」
「ではこうしよう。舅殿が、江間の地を欲しがっておった。あそこをやろう。伊東も敗れ、ちょうど空いておる。舅殿にはわしからいっておく。もらってくれ」
「ありがたく、お受けいたします」
義時は頭を下げるのでした。和田義盛(横田栄司)がやって来ます。頼朝は和田に、侍所の別当を命じます。その役割は家人(けにん)のとりまとめ役です。頼朝の命令を皆に伝え、いくさとなれば、軍勢を集めることになります。和田は感激のあまり、言葉がまとまりません。
御所に入ったこの日、頼朝は家人一同を集め、所領を与えて、主従の契(ちぎ)りを交わしました。まさに関東に独自政権が芽生えた瞬間でした。皆を代表して、上総広常(佐藤浩市)が述べます。
「我ら一丸となって、お支えいたします」
頼朝は「鎌倉殿」となり、その家人は「御家人」となります。
まさに同じ日、平清盛(松平健)は、以仁王(もちひとおう)をかくまった園城寺を焼き討ちします。さらに平家にたてついた奈良の寺々が襲撃され、東大寺大仏殿も焼け落ちました。
梶原景時が頼朝の前にやって来ます。
「おぬしが石橋山で、見逃してくれたからこそ、今のわしがおる。その恩に報いようではないか」
と、梶原は、侍所の所司(補佐役)を申しつけられます。
治承五年(1181)閏(うるう)二月四日、大きく歴史が動きます。平清盛は床に伏していました。息子の平宗盛(小泉孝太郎)にうめくようにいいます。
「頼朝を殺せ。わしの墓前に、あやつの首を供えるのだ」
英雄、平清盛は享年六十四にして、この世を去ったのでした。
親族たちのいる前で、頼朝は手を合わせていました。笑い声を上げ、無念そうに顔をゆがめます。やがて決意の表情で立ち上がります。
「清盛の首をこの手で取ることはかなわなかったが、平家のとどめは、わしが刺す。我らの力で、必ずや滅ぼして見せようぞ」
清盛の死を受け、宗盛は、後白河法皇(西田敏行)に政権を返上します。しかし宗盛はいいます。
「いくさをやめるつもりはございませぬ。改めて、頼朝追討の院宣(いんぜん)を賜りたく存じます」
頼朝を殺せ。清盛の死に際の一言が、平家の運命を狂わせていきます。
「またあの叔父上か、関わるとろくなことがない」
と、頼朝は追い返すように命じます。
行家は義時と安達盛長(野添義弘)に迫っていました。
「なぜ頼朝は京に攻め上らぬ。兵を一万ほど貸してもらいたい。美濃、尾張で平家を討つ」
義時は答えます。
「今は飢饉で、兵を挙げる余裕がございません」
「もうよい」
と、行家は怒っていってしまいます。
義経(菅田将暉)は、兄の義円(成河)をそそのかし、行家についていかせます。頼朝に向けて書いた文(ふみ)を、義経は破り捨てるのでした。
しかし頼朝は破り捨てられた義円の文を入手していました。
「なぜ捨てた」と、義経を責めます。「義円は目障りか。我ら兄弟が力を合わせねばならぬ時に」頼朝は義経を叱りつけます。「愚か者。しばらく謹慎して頭を冷やせ」
義円が鎌倉に戻ることはありませんでした。行家の軍勢が、墨俣河で平家とぶつかり、大敗したのです。
飢饉のためにいくさが止んだその年の冬、北条政子(小池栄子)が懐妊します。
「今度は男を生んでくれよ」
と、頼朝は政子にいいます。僧侶である頼朝の弟の阿野全成(新納慎也)が発言します。
「親が徳を積めば望みの子がうまれるようです」
義時が提案します。
「こういうのはいかがです。先のいくさで捕えられている者たちを許してやるというのは」
「恩赦(おんしゃ)か」
と、頼朝が確認します。
「それ、いいもしれない」
と、政子がいいます。
義時は捕らわれている伊東祐親(浅野和之)と、その息子祐清(竹財輝之助)に会いに行き、恩赦があることを伝えます。頼朝に頭を下げることをためらっていた祐親でしたが、清盛が死んで力が抜けていました。義時はいいます。
「じさまは、お顔付きが柔らかくなられました」
義時は八重にも、恩赦のことを知らせます。領地は誰かのものになったのではないか、と問う八重に、
「私です」
と、義時は答えるのでした。
畠山重忠(中川大志)が、館に盗みに入った者を捕えました。伊東の所に務めていた善児(梶原善)です。千鶴丸に直接手に掛けたのは、この男でした。そして義時の兄である、宗時が身につけていたものを持っていました。
「ひょっとして、三郎(宗時)殿を討ったのはこの男では」
と、畠山は梶原にいいます。
全成が頼朝に話をします。
「生まれてくるお子ためには、まず千鶴丸様が成仏しなければなりません。その功徳によって、再び男として生を受けるのです。お命を奪ったのは、伊東祐親殿と聞いております。伊東殿が生きておられる限り、千鶴丸様の成仏は難しいかと」
牢から出て、着替えた祐親のところに、やってくる影があります。
「善児ではないか」と、祐親は声を挙げます。「生きておったか」
善児はひとり、建物から出てきます。梶原景時が、それを見ていたのです。
頼朝に安達盛長が報告します。
「すべて終わりました」
義時は梶原に事情を聞きます。
「伊東祐親殿は、わしがお迎えに参ったところ、ご子息と共に、ご自害された」
「あの方に限って決してそのようなことは」
義時は信じられません。骸(むくろ)もすでに引き取られています。
義時は頼朝のところに向かいます。
「知らん」
とだけ頼朝はいいます。
「鎌倉殿がお命じになられたのではないのですか」
「伊東祐親は意地を通したのだ。あっぱれなことよ」
「一度口にされたことは必ず守られる。恐ろしいお方です」
「口が過ぎるぞ、小四郎」
「人を許す心が、徳となるのではないのですか。それゆえ、望みのお子を授かるのでは」
「生まれてみればわかることだ」
「じさまはもう、帰っては来ません」
全成が義時の妹の実衣(宮澤エマ)にいいます。
「体内のお子は、産まれても定命(じょうみょう)が短いと出ておる」
「長生きできないんですか」
「千鶴丸は今だ成仏できておらぬ。千鶴丸を殺(あや)めたものが生きている限りは」
梶原はすれ違う善児に呼びかけます。
「わしに仕えよ」
善治は振り返り、ひれ伏します。
「ええ」
と、返事をするのでした。
『映画に溺れて』第482回 イングロリアス・バスターズ
第482回 イングロリアス・バスターズ
平成二十一年十二月(2009)
新宿歌舞伎町 ミラノ2
パリがナチスに陥落された第二次大戦末期。米軍はレイン中尉をリーダーとするユダヤ系の精鋭部隊を極秘裏にフランス国内に送り込む。彼らの使命はひたすらナチスを殺すこと。それも徹底的に残虐に。ナチスの軍服を着ている者は見境なく殺戮し、頭の皮を剥ぐ。バスターズは凶暴で野蛮な人殺し集団なのだ。もちろん、ナチスが国家をあげて組織的にユダヤ人に行なった残虐行為に比べれば、児戯みたいなものだが。
一方、悪の主役ともいうべきが、ヒトラーの信任厚いハンス・ランダ大佐。温厚で品があってユーモアを解し、フランス語も英語も堪能な知的教養人であり、しかも推理能力にもすぐれ、潜んでいるユダヤ人を嗅ぎつけるのに才腕を発揮する。あだながユダヤハンター。本人はハンターよりも探偵と言われたいらしく、パイプをくゆらせながら思索するところはまるで英国の名探偵を思わせる。
そして、もうひとつの主役が「映画」なのだ。宣伝相ゲッペルスは映画を大ドイツ帝国の重要産業と考えており、ヒトラーとドイツの偉大さを宣伝し、しかも収益をあげるために、ハリウッドに負けない娯楽作品を世界市場に流通させることを目論む。パリの劇場でナチス高官を集めて新作の発表会。作品はナチスの英雄的兵士の活躍を描いた実録もの。この映画館の若くて美しい館主エマニュエルは、四年前、ランダ大佐に惨殺されたユダヤ人一家の生き残りショシャナの変名だった。
ユダヤハンターのランダ大佐とナチス殺しのバスターズ、さらにヒトラーをはじめとするナチスの主だった高官たちがこの小さな映画館に集結し、とんでもない大団円。映画もまた武器になるということか。
ハリウッド映画では、往々にして、ドイツ人であろうがフランス人であろうが、中国人や日本人でさえみんな英語をしゃべるのだが、この映画ではドイツ人はドイツ語、フランス人はフランス語。言葉のなまりで出自を追求される場面もあり。
イングロリアス・バスターズ/Inglourious Basterds
2009 アメリカ/公開2009
監督:クェンティン・タランティーノ
出演:ブラッド・ピット、クリストフ・ヴァルツ、メラニー・ロラン、ダニエル・ブリュール、イーライ・ロス、マイケル・ファスベンダー、ダイアン・クルーガー、ティル・シュバイガー、アウグスト・ディール、ジュリー・ドレフュス、マイク・マイヤーズ
大河ドラマウォッチ「鎌倉殿の13人」 第10回 根拠なき自信
鎌倉の仮御所で、頼朝(大泉洋)は義経(菅田将暉)と話します。
「奥州の、秀衡(ひでひら)殿の所には、何年おったのかな」
「六年おりました」義経はいいます。「こちらとは比べものにならいくらい、美しいところです」
頼朝は笑い声をたてます。
「鎌倉もいずれは、平泉に負けないほど豊かにしたいものだ」
「いやあ、どうでしょう。難しいんじゃないですか」
義経は秀衡に三千の兵を送ってくれるよう、文(ふみ)を書いたことを伝えます。
「それは心強い」
と、頼朝。
「一刻も早く京へ攻め上り、憎き清盛入道を討ち果たしましょう」
平泉の地では、藤原秀衡が、義経からの文を読んでいました。実は清盛からの文も届いていたのです。頼朝追討の兵を挙げよと書いてきていました。
「承知したと、どちらにも返事をしておく。いつまでに、とは、いわずにな」秀衡はつぶやくようにいいます。「九郎ほどの才があれば、おのれ一人で、大願を成し遂げよう」
平家の坂東支配の大幹部として、名を轟かせていた大庭景親(國村隼)は、縛られて地面の上に座らされていました。そこへ北条時政(坂東彌十郎)と三浦義澄(佐藤B作)がやって来ます。大庭は二人にいいます。
「頼朝ごときにそそのかされおって、情けない。今からでも遅くない。平相国様は寛大なお方じゃ。悔い改めて、平相国様のために尽くせ。おぬしらのためにいうておる」
「どちらが敗軍の将かわからねえな」
と、やって来たのは上総広常(佐藤浩市)です。
「今思えば」、と、大庭は座り直します。「伊東と北条のいさかいをおさめ、頼朝の命を救ったことが我が身の仇となったわ。面白いな」
大庭は笑い声をたてます。上総は太刀を抜き放ち、大庭の首に突きつけます。
「あの時、頼朝を殺しておけばと」大庭は上総に向けていいます。「お前も、そう思うときが来るかもしれんの。上総介。せいぜい気をつけることだ。」
大庭は大声で笑います。上総はその首を切り落とすのでした。
河原に吊された大庭の首をながめ、時政と義澄は話します。
「一つ間違えば」時政はしみじみといいます。「俺たちの首があそこに掛けられてたんだなあ」
義澄もしみじみと答えます。
「悪い男ではなかった」
八重(新垣結衣)は御所の厨房で働いていました。少しでも頼朝の役に立ちたいとの気持ちからでした。北条義時(小栗旬)は、そんな八重に、草餅を差し入れます。
「受け取ってくれた」
「今も惚れてるのか」
義村は弓の点検をしています。
「八重さんもこれからは幸せになってもらいたい。それだけだ」
「じゃあ、俺がもらっても文句はないな」
「ちょっとお待ちなさい」
「もらってもいいんだな」
「もちろん。八重さんが幸せになるのなら」
「いったな」
夜、義村は八重をたずねます。八重は昼間、義時に草餅をもらったことに困っていました。義村は八重の側に腰を下ろします。
「先に進んだらいかがですか。生き延びることができたんだ。もったいない」義村は八重に顔を近づけます。「力になる」
八重の声色は変ります。
「そういうおつもりなら出て行きます」
八重は義村の目前に、扉を閉めるのでした。
北条政子は、お客たちに目通りしていました。最後にやって来たのが義経でした。
「私は、母とは離れて育ち、姉妹もおりません。思い切り甘えてもよろしいのでしょうか」
困惑する政子でしたが、
「かまいませんよ」
と、答えます。義経は政子に近づくと、その膝に頭を乗せるのでした。
頼朝は三人の兄弟と会っていました。それぞれ母親が違います。共に暮らしたこともありません。頼朝はいいます。
「弟たちよ。源氏再興のためには、血を分けたそなたたちが頼りじゃ。坂東の者どもは信じ切ることができぬ」
頼朝は義時に気をつかい、とってつけたように、いいます。
「小四郎は別じゃ。五番目の弟と思ってくれ」
義時は苦笑するしかありませんでした。早く京に攻め上りたいとはやる義経に対し、頼朝は、坂東を固める必要があると説明します。
頼朝と関係を持つ亀(江口のりこ)は、義時の妹である実衣(宮澤エマ)から、八重の正体を聞き出します。亀は八重に、酒と肴を用意して、頼朝もとに届けるようにいいつけるのでした。八重がいうとおりにやってくると、部屋から出てきたのは亀でした。頼朝と二人でいるところを見せつけます。頼朝は驚いて八重を見ます。亀は
「ありがとう。八重さん」
と、いってのけるのでした。
頼朝は常陸(ひたち)に出陣します。佐竹氏は、源氏の一族でありながら、平家に通じていて、頼朝らの挙兵に、かたくなに応じようとしませんでした。和田義盛(横田栄司)が報告します。
「敵は我が軍勢を前にしても、一歩も引く様子を見せません」
頼朝は使者を送ることにします。上総広常は、佐竹とは長年の付き合いがあります。
「まかせろ」
と、上総は、使者の役を引き受けます。その時、義経が立ち上がります。
「まどろっこしいことはやめて、攻め込むべきです」義経はいいます。「五百の兵をくれ。三日で、敵の大将の首を上げてみせる」
三浦義澄が義経に教えるように話します。
「いくさには二通りござってな。しなければならない、いくさと、しなくても済むいくさ。しなくて済むすむいくさなら、しないに越したことはない」
義経は義澄を言葉をさえぎるようにいいます。
「お前の話は耳に入ってこない」
上総が義経に聞きます。
「いくさの経験は」
「ない」
「経験もないのに、結構な自信じゃねえか」
義経は笑い出します。
「経験もないのに自信もなかったら、何もできない。違うか」
「いいか小僧」
「無礼者」
と、叫ぶ義経を無視して、上総は話します。
「いくさってのはな、一人でやるもんじゃねえんだよ。身勝手な振る舞いが、全軍を総崩れに追いやることだってある。決められたことに従えねえなら、とっとと奥州へ帰れ」
ここで頼朝が発言します。
「九郎。気持ちはよう分かるが、ここは控えておれ」
上総の手勢が、佐竹の陣の前にやって来ます。上総は一人、前に進み出ます。
「もし俺が斬られたら、すぐに攻め込め」と、上総は義時にいいます。「仇討ちといえば、全軍が奮い立つ」
上総は石段を登っていきます。佐竹は上総に言葉を投げかけます。
「情けないのう。あの上総介が、頼朝に尻尾を振るとは」
二人は石段の中央で対します。
「いつ以来だ」
と、佐竹がいいます。
「さて、いつ以来かな」
「お前、老けたなあ」
佐竹がそういい終わるやいなや、上総は太刀を抜き放って斬りかかるのです。
義時たちは驚きますが、もはや攻撃するしかありません。敵の軍勢も石段を降りてきます。
陣にいる頼朝は、うめくようにいいます。
「何をやっておるのだ。上総介」
佐竹勢は、金砂山を砦として立てこもっています。いくさは膠着(こうちゃく)状態となりました。
台の上に、土で金砂山の立体図が作られています。それを使って畠山重忠(中川大志)が、敵の砦がいかに難攻不落かを説明します。和田義盛が小鳥を雛を捕まえてくるなど、場は次第に和やかになっていきます。
「いくさの最中ではないのか」
と、義経がいらついた声を出します。義時が聞きます。
「九郎殿、何か策がおありなのでは」
義経は拗(す)ねています。
「小僧は控えていろといわれたから」
頼朝が呼びかけます。
「話してみよ」
義経は顔を上げます。
「畠山、お前、正しい。これ以上正面から攻めるのは馬鹿のすることだ」
「九郎殿ならどうされますか」
と、義時はたずねます。
「敵の目は、常に下に向いている。だから上から攻める」
義経は土で作った立体図の上に小石をのせます。「ここ」と、背後の岩場を示します。畠山がいいます。
「しかし、岩場まで登れるものなど、いるでしょうか」
「俺の郎党たちならたやすいこと」
「無理だ」と和田が発言します。「回り込んでいるところを矢で射られるのが関の山だ」
「下から総攻めをしかけ、敵の目を引き付けろ」
畠山がいいます。
「あなたの策のために我らの兵を犠牲にするというのですか」
「さっき様子を見てきた。敵の矢が届くのは、二重の柵のうち、手前の柵の向こう側。よって」義経は立体図に手を置きます。「攻めるのはここまで」
聞いていた頼朝は立ち上がります。
「見事な策である」
義経は目を輝かせます。
「この九郎義経、いくさに出たら誰にも負けません」
「頼れる弟よ。わしは果報者じゃ」頼朝は命じます。「すぐに支度を」
「承知」
と、義経は返答します。しかしそこに時政がやってくるのです。
「おい、朗報じゃ。いくさは終わりだ」
上総が佐竹の者と内通し、砦の守りを解かせたというのです。
「我が軍の大勝利じゃ」
と、時政は叫びます。皆は歓声を上げ、頼朝は命じます。
「参るぞ」
義経はその場に取り残されるのでした。
義時は八重に会いに来ていました。土産にキノコ類を渡します。そこへ不審な物音が聞こえてくるのです。頼朝が忍んできていたのでした。
政子は義経に膝枕をしてやっています。
「小四郎(義時)から聞きました。誰もが考えつかなかったようなことを、九郎殿は思いつかれた。素晴らしいではないですか」
「思いついただけでは意味がありません」
と、義経は政子の膝頭をなでさすります。
「これからいくらでも機会はあります。佐(すけ)殿のために、力を貸してくださいな」
「姉上のお声は、いい響きだ」
政子もまんざらではありません。
「私にできるのは話を聞くことぐらい。つらいときはいつでもおいでなさい」
頼朝は義時と話しています。
「しかし、お前が八重に惚れているとはなあ」
「たまたまでございます。おいしそうなキノコを見つけたものですから」
「責めているのではない。そういうことなら、わしはあきらめよう」
「あきらめてなかったことが驚きです。八重さん、御所で何かあったのですか」
「よし、あれと一緒になれ」
「お待ちください」
「わしが、二人を取り結んでやる」
『映画に溺れて』第481回 エリン・ブロコビッチ
第481回 エリン・ブロコビッチ
平成十二年七月(2000)
伊勢佐木町 横浜オスカー
大企業の垂れ流す有毒物質で地域の住民に多数の健康被害が発生した実話である。ジュリア・ロバーツ演じる主人公のエリン・ブロコビッチも実名で実在する。が、深刻にはならず、実話ながら喜劇色が濃厚で、娯楽映画として成功している。
エリンはかつてミス・ウィチタに選出された美女だが、今はどん底だった。二回の結婚と離婚で幼い子供三人を抱え、失業中。信号無視スピード違反の車に交差点で追突される事故に遇いながら、裁判で敗訴。相手は往診を急ぐ医者、法廷でのエリンの派手な服装や悪態、野放図な態度が陪審員の心象を悪くしたのだ。
窮地に陥り、楽勝だと請け合った弁護士エドワードの事務所に押し掛け、強引にアルバイトとして働きはじめる。
エリンが雑用で整理していた土地売買交渉の書類に、なぜか住民の健康診断書が添付されている。天然ガスと電力を供給する大企業PG&E社が工場周辺の住民から土地を買い付けようとしている。それにどうして健康診断書が必要なのか。
不審に思ったエリンは現地で住民の話を聞き、さらに疑惑を深める。健康診断はPG&E社が無料で行っているとのこと。地域で癌や不妊、様々な障害が発生している。PG&E社は工場の設備洗浄に多量のクロムを使用しているが、クロムは健康に影響しないと住民に説明している。さらに住民から土地を買い取ろうとしている。納得しないエリンのがむしゃらな調べでPG&E社が使用する六価クロムは重大な健康被害をもたらすことが判明する。エリンに説得されたエドワードは弱小事務所ながら、大企業を敵にまわして戦うことになる。
これは大企業にだまされて苦しむ住民に味方し、訴訟を起こし、前代未聞の和解金を勝ち取った実録。シリアスにならず、コメディタッチながら、営利優先の大企業の悪辣さ、住民の苦しみがきちんと描かれ、成功している。
エリン本人が、最初のレストランの場面でウェイトレス役でちらっと出ている。
エリン・ブロコビッチ/Erin Brockovich
2000 アメリカ/公開2000
監督:スティーブン・ソダーバーグ
出演:ジュリア・ロバーツ、アルバート・フィニー、アーロン・エッカート、マージ・ヘルゲンバーガー、チェリー・ジョーンズ、ピーター・コヨーテ
第480回 MINAMATA-ミナマタ-
第480回 MINAMATA-ミナマタ-
ジョニー・デップといえば、ハサミ男シザーハンズ、カリブの海賊、不思議の国の帽子屋、女装のB級映画監督、インディアンのトント、夢のチョコレート工場主、といったエキセントリックな役柄が印象深い。そのデップが実在の写真家ユージン・スミスを演じたのが『MINAMATA-ミナマタ-』である。
一九七〇年代の初め、かつて著名な写真家であったユージン・スミスは初老となり、妻子とも別れ、仕事もなく、借金を抱えて酒に溺れる日々だった。
そんなとき、日本からのCMの件で通訳のアイリーンが彼の前に現れる。彼女はユージンに日本の水俣病を取材して写真を世界に発表してほしいと依頼する。すげなく断るユージンだったが、アイリーンが置いていった写真を見て、愕然とする。意を決したユージンは絶縁状態だったライフ誌の編集長を訪ね、写真を見せて水俣行きを強引に売り込む。これは世界に伝えるべきだと。
アイリーンの案内で水俣を訪れたユージンは地元に滞在し、地域を回って住民たちの現状を目にし、話を聞く。大企業の工場が海に排出する廃液。大量の有機水銀が沿岸を汚染し、魚から人の体内に入った水銀が水俣病の原因なのだ。営利優先の会社はそのことをわかっていながら、因果関係を認めず、官憲を使って住民運動を妨害する。会社は地域に雇用など経済的恩恵を与えており、住民運動も盤石ではない。
ユージン・スミスは患者を抱える住民たちと打ち解け、写真を撮り続け、ライフ誌に発表。世界にミナマタを知らしめる。日本でアイリーンと結婚。その後、アメリカに帰国し、亡くなる。チッソ社員からの暴行による後遺症が死因のひとつであったという。
ジョニー・デップ演じるユージンは酒を飲みすぎたり、弱音を吐いてカメラを手放したり、そこはデップらしいが、さすがに骨太で重厚でもある。
余談だが、ライフ誌の編集部の場面、若い女性社員がみんなミニスカートなのだ。一九七〇年代初期の風俗、芸が細かい。
MINAMATA-ミナマタ-/Minamata
2020 アメリカ/公開2021
監督:アンドリュー・レビタス
出演:ジョニー・デップ、真田広之、國村隼、美波、加瀬亮、浅野忠信、岩瀬晶子、ビル・ナイ
大河ドラマウォッチ「鎌倉殿の13人」 第9回 決戦前夜
源頼朝(大泉洋)が畠山重忠(中川大志)と和田義盛(横田栄司)に命じます。
「伊東祐親(すけちか)(浅野和之)を召し捕って参れ。手向かいすればその場で斬り捨てて構わん」
北条義時(小栗旬)と三浦義村(山本耕史)は畠山と和田に先行しようと、馬を急がせていました。
義時と義村は夜、伊東祐親の館に到着します。祐親を前にして、義時はいいます。
「大庭勢は散り散りとなり、我が方の兵がこちらへ向かっています」
義村もいいます。
「祐清殿も捕まりました。いくら待っても援軍は来ません」
伊東祐親は口を開きます。
「さような者、はなから当てにしておらん」
義時がいいます。
「命を無駄にしてはなりません」
そこへ頼朝勢が迫ってきているとの知らせが入ります。
「守りを固めよ」
と、祐親はあくまで戦うつもりです。
八重(新垣結衣)の夫である江間次郎(芹沢興人)は、短刀を抜いて八重に近づきます。しかし江間は脇差しを落としてしまうのです。
「俺にはできません。俺にはあなたを殺せない」
八重は江間を見つめます。
「父上が命じたのですね」
「お逃げください」江間は泣き声でいいます。「正面からだと、舅(しゅうと)殿に見つかる。裏からどうぞ。急いで」
八重は立ち上がり、江間の手を取ります。一緒に行こうとします。しかし背後から、近づく者があったのです。八重と頼朝の子を手にかけた善児(梶原善)でした。善児は落ちていた短刀を拾うと、江間の背に突き立てます。逃げる八重を追う善児。そこへ義村が駆けつけるのです。善児はかなわないと見て、逃げていきます。
祐親は義時にいいます。
「頼朝もとで生き恥をさらす訳にはいかんのだ」
「ともに平家と戦いましょう」
そこへ八重がやって来て、もう誰にも死んで欲しくないと訴えます。頼朝勢の喊声(かんせい)が聞こえてきます。祐親は刀を八重に向けます。
「あの男に渡すわけにはいかん」
と、刀を振り下ろすのです。義時がそれを受け止めます。
館に頼朝の軍が入って来ます。その前に義村が立ちふさがります。
「祐親は見逃してやってくれ」と、畠山と和田にいいます。「あんなじいさんでも、俺の身内なんだ」
と、義村は背後の扉を閉めるのでした。
祐親と義時は刃を交わしていました。祐親は傷を負います。祐親は刀を投げ出し、座り込みます。
「殺せ」
義時は膝(ひざ)をそろえて座ります。
「八重さんは必ずお守りします。佐(すけ)殿には渡しませぬ」
翌朝、義時は頼朝に、祐親の命を助けてくれるよう懇願(こんがん)していました。
「伊東祐親は、生かしておく訳にはいかぬ」
その場にいた政子(小池栄子)が口を出します。幼い頃、祖父である祐親のもとに遊びに行って、双六などをして遊んだことなどを話します。
縛られた祐親の前に頼朝がやって来ます。
「お久しゅうごさる、舅殿」と、声をかけます。「よき孫たちに恵まれましたなあ。命は取らぬ。身柄はしばし、三浦に預ける」
八重は義時に訴えます。侍女として、御所において欲しい、頼朝を支えたいのだといいます。
この話を聞いて激怒していた政子でしたが、義時の説得により、八重に厨房の仕事を任せることにしました。
治承四年(1180)、十月十三日。平維盛(これもり)(濱正悟)を総大将とする、平家の追討軍が、東海道を進んでいました。
義時が頼朝に、追討軍が駿河に入ったことを知らせます。その数は、五万とも七万とも。頼朝はいらつきます。
「甲斐の武田はまだ来ぬのか。武田がいなければ、このいくさは勝てぬ」
義時の父の北条時政が、武田を連れてきたとやって来ます。しかし武田は駿河に直行したというのです。頼朝を待つつもりです。
「わしに出向けと申すか。あべこべではないか」
と、頼朝は時政を怒鳴りつけます。
頼朝は鎧(よろい)に着替えています。
「出陣じゃ」
と、叫びます。武者たちがそれに応えます。
十月十六日。頼朝は武田の軍勢と合流するために、黄瀬川に向かいます。
十月二十日。平維盛率いる追討軍が、富士川の西岸に到着します。一方、そこから少し離れた黄瀬川で、源頼朝と武田信義(矢嶋智人)が対面します。二人は合戦の日を決めます。じっくりと策を練るために、明後日とします。信義は酒の席を用意していました。頼朝は信義と共に飲みます。
頼朝軍の武者たちも野外で酒を酌み交わしています。畠山重忠がいいます。
「我ら坂東武者がないがしろにされるのは、いただけません」
義村の父の三浦義澄(よしずみ)(佐藤B作)が時政にいいます。
「お前の出番だ」
時政は立ち上がります。
「よっしゃ。任せとけ」
時政は頼朝と信義が飲んでいる席にやってきます。話をしようとしますが、酒をすすめられてしまいます。
泥酔して、頼朝と時政は外に出てきます。時政は上機嫌です。
その日の深夜、頼朝に知らせが入ります。武田の全軍が、富士川に向かったというのです。頼朝は出し抜かれたのです。つられて動いても混乱するだけだと、頼朝は夜が明けるまで待つことにします。
義時は武田信義のもとに駆けつけ、問い詰めます。
「どういうことですか」
「何のことかな」
と、信義はとぼけます。
「抜け駆けされるおつもりか。我が軍勢が到着するまで出陣はお待ちいただきたい」
「それはできぬ。まもなく、夜討ちをかける」
「なりませぬ」
「敵が川を渡る前に先手を打つ。武田の手で、追討軍を追い払う。京でもわしの名が轟(とどろ)くであろうな」信義は笑い声を上げます。「頼朝を出し抜いてやったわ」
酒の抜けない時政と三浦義澄は、平家の陣をながめていました。しっかりしてくれ、と義澄は時政に活を入れます。その騒ぎに馬がいななき、辺りの水辺に休んでいた無数の水鳥たちが、一斉に羽ばたきました。平家の陣は、大軍が襲ってきたものと勘違いし、恐慌を来たします。あっという間に総崩れとなり、頼朝の軍は、戦わずして勝利を得たのでした。
頼朝は追撃しようとします。しかし土肥実平(阿南健治)をはじめとする武者たちは気乗りしません。三浦義澄が義時に聞きます。
「佐(すけ)殿は、この先どうされるつもりだ」
「追討軍を追って、京へ向かわれます」
「それが困るのだ」
土肥実平がいいます。
「わしらは、追討軍を追い返して終わりだと思っておった」
皆は所領に引き返すといいだします。時政が兵糧(ひょうろう)も不足しているといい出します。
義澄は立ち上がります。
「分かってくれ、わしらは所領を守るために立ち上がった。平家を倒すのは二の次だ」
武者たちは次々と立ち上がり、去って行きます。上総広常(佐藤浩市)も、所領を狙う者がいると、引き上げるつもりだと話します。
「追討軍が逃げ出したんだから、それでよしとしようや」
義時は返す言葉もありません。
義時は頼朝に進言します。
「坂東武者の助けがない限り、これ以上の進軍は無理にございます。東を平定した後、兵糧を十分にためてから……」
頼朝はいらつきを隠しません。
「一日も早く清盛の首をはねたいのだ」頼朝は大声を出します。「平家が背を見せたのだぞ。この時を逃せと申すか」
それまで黙っていた時政が発言します。
「佐(すけ)殿は、所領をお持ちにならねえんで分からねえんだ。坂東武者にとって、何より大事なのは、所領と一族。それを守るためなら、死に物狂いで戦う。清盛が憎いからじゃねえ。おのが所領がかかっているから戦うまで。その辺の所を、どうか考えてやってくだせえ」時政は頼朝に向かって立ち上がります。「いくさで命を張るのは、わしらなんだ」
頼朝は鎌倉へ帰ることを決意します。そこへ奥州からやって来た、源義経(菅田将暉)が現れるのです。義経はいいます。
「父上を殺し、母上を奪った清盛への恨みを、忘れたことは片時もございませぬ。兄上と共に必ずや、必ずや、父上のかたきを討ちとうございます。兄上のために、この命、捧げます」
「よう来てくれた」
と、頼朝は義経を抱きしめるのでした。
大河ドラマウォッチ「鎌倉殿の13人」 第8回 いざ、鎌倉
平清盛(松平健)が、声を荒げて息子の宗森(小泉孝太郎)にいいます。
「追討軍はまだ出立(しゅったつ)しておらんのか」
「明後日の朝、京を発つ手はずでございます」
清盛は立ち上がります。
「今まで何をしておった」
「旧例にのっとり、必勝の吉日を選んでおりました」
「勢いづいた軍勢は、日に日に大きくなっていくんじゃ。わが方の総勢は」
「およそ一万」
「少ない。我らは官軍ぞ。道中、その倍、集めさせよ」
一方、朝廷では、後白河法皇(西田敏行)に対して、側近の平友康(矢柴俊博)が告げていました。
「昨夜遅く、追討軍が京を発ちましてございます。さすがの頼朝もここまでかと」
「頼朝が勝つ手立てはないのですか」
と、法王の愛妾である丹後局(鈴木京香)がたずねます。平友康は地図を示して説明します。
「甲斐や信濃の源氏、これらと結べば、まだ勝ち目はありますが」
「それじゃ」
と、法王は顔を上げます。
「しかし」平友康はいいます。「互いに合力してはおらぬ様子」
丹後局が法王にいいます。
「頼朝は、おあきらめになってはいかがですか」
鎌倉に向かっている源義経(菅田将暉)は、道中、ウサギを射止めます。しかしそれは自分が仕留めたものだと、やってくる武者がいます。義経は提案します。
「こういうのはどうだ。どちらが遠くへ矢を飛ばせるか、飛ばせた方が、ウサギをもらう」
武者は承諾します。二人は並んで弓を構えます。武者が矢を放ちますが、義経は矢をつがえたままです。義経は向きを変えると、武者に向かって矢を放つのでした。
鎌倉を目指す頼朝の軍勢の中で、岡崎義実(たかお鷹)が北条義時(小栗旬)に話しかけてきます。自分は頼朝の父である義朝の館があった、亀ケ谷津に御堂を建てて、ずっと義朝の御霊をまつってきた。頼朝の御所は、亀が谷津にしてはもらえないだろうか。
義時は知らせを受けます。畠山重忠(中川大志)が降伏してきたというのです。和田義盛(横田栄司)などは気に入りません。
「いつまでもガタガタいってんじゃねえよ」と、いうのは上総広常(佐藤浩市)です。「俺たちは所詮、烏合の衆だ。いちいち思いを聞いてたら、いずれ立ちゆかなくなっちまうぞ。俺たちは頼朝を信じてここにいる。そうじゃねえのか。だったら奴に決めてもらおうじゃねえか。頼朝の考え、聞いて来いよ。俺たちはそれに従う」
義時は畠山を、頼朝の前に連れて行きます。
「嬉しく思うぞ」
と、頼朝。畠山はいいます。
「弓引いた過ちを悔い改め、恥を忍んで参陣つかまつりました」
「味方になろうという者は、大事にせねばなあ」頼朝は義時にいいます。「くれぐれも(畠山)重忠が窮屈な思いをせぬように」頼朝は向き直ります。「我らはこれより相模に入る。畠山重忠、おぬしに先陣を命ずる」
義時は甲斐へ行くよう、頼朝に命じられます。武田信義(八嶋智人)に会って、我らの味方になるよう説き伏せよ、とのことでした。
「実のところ」義時は苦り顔でいいます。「武田が味方になるとは思えません」
「いや、必ず乗ってくる」
と、頼朝は自信ありげに言い放ちます。
義時とその父、北条時政(坂東彌十郎)が会ってみると、武田は怒りの様子で、頼朝からの文(ふみ)を丸めて見せます。しかし義時が
「どうか我らに力をお貸し下さい」
と、頭を下げると、
「いいだろう」
と、あっさりいってのけるのです。頼朝への文を書くと、その場を去って行きます。
義時と時政は、待たされます。時政がいいます。
「信義の奴、待ってましたといわんばかりだったぞ」
義時が返答します。
「都から追討軍がやってくれば、真っ先にぶつかるのは自分だと、ようやく気付いたのではないでしょうか」
「なるほどなあ」
「佐(すけ)殿は、とっくにそれを見抜いておられた。やはりすごいお方です」
義時は頼朝に頼まれて、鎌倉に入った後のことを決めていました。皆をどこに住まわせるか。館の位置、大きさ、などです。
義時が一人、夜空を見上げていると、武田信義がやって来ます。
「頼朝はどうするつもりだ。追討軍を追い払えばそれで良いのか、それとも、京を目指すのか」
義時は答えます。
「佐(すけ)殿は、上洛して法王様をお助けし、清盛が壊した世の中を、あるべき姿に戻そうとお考えです」
武田は笑い出します。
「魂胆(こんたん)は見えておるわ。清盛に取って代わりたいだけであろう。大儀なぞない」
「佐(すけ)殿は、正しい政(まつりごと)が行われる世をつくろうとされておられます。私欲はございません」
「どうだか」
義時は頼朝のもとへ戻ってきました。頼朝は武田からの文を読みます。武田は兵を整え、鎌倉で合流する手はずになっていました。
「これで間違いなく勝てる」
と、頼朝はいいます。義時は去ろうとしますが、御所をどこにするかを話し合う声が聞こえ、戻って来ます。義時は岡崎義実に、亀ヶ谷津を本拠地にすることを頼まれていたのです。
「亀ヶ谷津はないな」と、頼朝はいいきります。「わしは、御所を京にも劣らぬ、大きくて、雅(みやび)なものにしたいのじゃ。亀ヶ谷津は狭い。ここはどうじゃ」頼朝は地図にて大倉の地を指します。「ここが良い」
「しかし、岡崎殿は」
と、義時は食い下がろうとします。
「御所は政(まつりごと)を行う要(かなめ)の場所。岡崎ごときの差し出口(さしでぐち)で決めるつもりはない。これはな、わしが豪族どもの言いなりにはならんことを示す良い機会じゃ」
10月6日。頼朝勢はついに鎌倉に入ります。石橋山で大敗を喫(きっ)してから、わずかひと月半のことでした。
相模の大庭景親(國村隼)の館に、頼朝の大軍が鎌倉に入ったとの知らせが届きます。総勢三万。大庭は自分たちだけで頼朝を討ち取ると決めていました。梶原景時(中村獅童)は、大庭に別れを告げ、立ち去ります。
伊東祐親(浅野和之)の館でも、撤退について話し合いが行われていました。しかし祐親は、頼朝勢を迎え撃つつもりでした。伊東祐清(竹財輝之助)が父の祐親を責めます。
「父上が平家の顔色をうかがい、八重(新垣結衣)との仲を裂いていなければこんなことには」
「出自の良さを鼻にかけ、罪人の身で我ら坂東武士を下に見る。あんな男にどうして愛娘(まなむすめ)をくれてやることができようか」
祐親は八重の夫である江間次郎(芹沢興人)に命じます。
「頼朝に決して八重を渡してはならん。攻め込まれたら、分かっておるな」
「かしこまりました」
と、江間は頭を下げるのでした。
義時は北条政子をはじめとする、北条の女たちを迎えに来ていました。しかし政子は頼朝に、ちゃんとした格好をして会いたいといいだします。
義時は梶原景時の館を訪ねます。梶原は女の衣装を用意することを請け合います。
「かたじけのうございます。梶原殿なら、敵方といえども、お力になって下さるのではと思っておりました」
「それは向こう見ずというもの。しかし、良い折であった。それがし、大庭殿とは、袂(たもと)を分かったところ」
「なんと」
「粗暴な男は苦手でな」
義時は決意して梶原に頭を下げます。
「ぜひ、我が軍にご加勢を」
「一度は、頼朝殿に刃を向けた身ゆえ」
「佐(すけ)殿は、降伏してきた者に寛大でおられます。ましてや梶原殿なら、喜んで受け入れてくれるはず。私が間を取り持ちます」
梶原は返答しませんでした。
政子は衆人が見守る中、頼朝に会います。頼朝は政子を抱きしめるのでした。
頼朝は政子を高台に案内します。鶴岡八幡宮を建立することを宣言します。
「八幡神は源氏の守り神。その威光をもってこの坂東をまとめ上げる。そして京に攻め込み、平家を滅ぼす」
伊東祐清が、平家に助けを求めに行こうとしたところを捕えられます。その口から、伊東祐親が戦って死ぬつもりだと聞かされます。義時は祖父である祐親と、八重を救出すべく出発するのでした。