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大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第二十一回 決戦!桶狭間

 永禄三年(1560年)。駿河今川義元(片岡愛之助)が尾張に迫ってきました。大高城、鳴海城はすでに今川方の手に落ちていましたが、ついに義元みずから大軍を率いて、沓掛(くつかけ)城まで進軍してきたのでした。
 今川義元は大高城に入っている徳川家康(このときは松平元康)(風間俊介)に三千の援軍を送り、丸根砦と鷲頭砦を攻略させようとします。この二つの砦が落ちたあと、義元は大高城に入るつもりでした。ここに大軍を集結させ、織田の本拠地で清洲城を一気に攻める作戦でした。
 大高城にいる徳川家康は、菊丸(春次)(岡村隆史)と会っていました。菊丸は家康に母親からの文(ふみ)を渡していたのでした。
「母上は、このいくさは勝っても負けても良いことは何もない、と書かれている。このいくさから手を引けと」家康は菊丸を見ます。「そなたも今川様がいる限り、三河に日は当たらぬと申す」家康は目を閉じます。「この後に及んで今川様に弓を引くのか」
 菊丸がいいます。
尾張織田信長様は、殿が味方について下されば、三河のものはすべて三河へ返すと、お約束されました。何とぞ、今川様を、お切り捨て下さいませ」
「どうやって」家康は目に涙を浮かべています。「この大高城に来た三河勢と織田信長勢、すべてあわせても今川様の大軍には遠く及ばぬ。切り捨てられるのは三河と織田ではないか」家康は息を吐きます。「母上のお気持ちも、そなたの申すこともようわかる。しかし、ここで手のひらを返せば、家臣たちに勝てるかどうかもわからぬ今川様とのいくさを強いることになる。駿河にいる妻や、子や、身内の多くがとらえられ、殺され、おのれは終生、裏切り者といわれる」家康は落ち着いた声を出します。「我らは今川様に命じられたとおり、明朝、織田方の丸根砦を攻め落とす。今はそうするほかない。母上にそうお伝えしてくれ」
 その頃、明智光秀(長谷川博己)は、いとこの明智左馬助(間宮祥太郎)に先導させ、清洲城に向かおうとしていました。
 五月十九日、午前四時。徳川家康は丸根砦を襲撃します。
 午前六時。尾張清洲城では、織田信長(染谷将太)が家臣から報告を受けていました。家康が今川から離反せず、丸根砦を攻めたというのです。信長は、この城に籠城する、といいだします。それを広間にいる家老たちに伝えるよう命じます。しかし信長は思いつくのです。今川は三千、二千と、各地に兵を出している。
「父上がようおおせであった。今川義元は用心深いゆえ、地元駿河にはそれ相応の兵を残し、東側の兵にも備えておると。今川は、総勢二万以上の兵と称しておる」信長は家臣に吠えます。「今川の手もとに、今、どれほどの兵が残っているか急ぎ探れ。あとで、善照寺砦で落ち合おう」信長は闘志に燃えた明るい表情です。「わしも行く」
 信長が籠城といっていたのは、城にいる、今川に通じた者をあざむくためでした。信長は不敵な顔で妻の帰蝶にいいます。
「そなたの親父殿が生きていたら、こうおおせであろう。宿敵、今川義元が、のこのこ駿河から出てきたのじゃ。討つなら今しかない。城の外にいる今川を討つ。それしかないと」
 負けたら、と問う帰蝶に、信長は答えます。
「いずれ人は死ぬ」
 午前八時。丸根砦と鷲津砦は陥落しました。三河勢は鬨(とき)の声を上げます。
 午前九時。信長は、丸根、鷲津の両砦が破れたのをにらみながら、善照寺砦へと向かいました。同じ頃、今川義元は沓掛城を出発し、大高城を目指していました。
 午前九時三十分。清洲城にて、光秀は帰蝶に会います。帰蝶は「来るのが遅い」と光秀を責めます。知恵を借りたいと思っていたが、信長はすでに出陣してしまっている。光秀は帰蝶から、信長の行き先が善照寺砦であることを聞きます。光秀も善照寺砦へ向かうのです。
 午前十時。善照寺砦にいる信長は、自分たちの兵の数を家臣に聞いていました。その数は三千。今川勢はあちこちに兵を出しており、残るは七、八千。桶狭間の山に入ろうとしている。今川は分散した兵を大高城に集め、一気に清洲に攻め込むつもりだと思われました。
「その前に決着をつけねば」
 と、信長はいいます。ただ大高城にいる家康の動きが気になります。織田勢が今川と戦うとき、背後を突いてくることも考えられます。
 午前十時三十分。二つの砦を陥落させた家康が、大高城に戻ってきました。今川の家臣である鵜殿長照が出迎えます。鵜殿は義元からの命令を家康に伝えます。すぐに信長のいる善照寺砦のそばの鳴海城に行けというのです。家康はいいます。
「我らは一戦を終えたばかり。昨夜も兵糧(ひょうろう)を運び出すのに一睡もしておりませぬ。明朝までご猶予いただけませぬか」
 それを聞いて鵜殿は叫びます。
「ならぬ。すぐ行くようにとのご命令じゃ。ただちに行くんじゃ」
 その言葉に家康の家臣がいきり立ちます。止める家康。
「皆、疲れ果てております。せめて一刻のご猶予を」
「猶予などならぬ」
 と、鵜殿は叫ぶのです。
 桶狭間では、今川義元と家臣たちが、舞を見ながら、食事をとっていました。義元は織田の兵が来るとの情報を耳にします。その数は三百足らずだというのです。
 午後零時。今川の本隊の一部が織田の三百の兵を迎え撃ちます。今川の数は千人以上。義元を守る兵は五千あまりになります。信長はこれを聞いて立ち上がります。
「よし、それならやれる」信長は家臣たちに告げます。「よいか。この先の山沿いの道を桶狭間に向かって走る。ほかのものに目をくれるな。狙うは、今川義元ただ一人。義元の居所は、塗り輿(こし)が目印じゃ」信長が吠えます。「出陣」
 午後一時。滝のような雨が降り注ぎます。
 大高城では、家康が家臣たちと食事をしていました。鵜殿がそこに乗り込んできます。
「飯など食うておる場合ではない」鵜殿は三河の家臣を押しのけて家康の前に出ます。「物見からの知らせじゃ。信長の軍勢が桶狭間に向かっているという」
 家康はいいます。
「それで」
「直ちに兵を率いて桶狭間に向かい、信長を背後から攻めるのじゃ」
 家康は落ちついた調子でいいます。
「我ら三河のものは、桶狭間には参りません」家康は拳を叩きつけます。「本日はここを一歩も動きませぬ。あしからず」
 家康に続き、家臣たちも拳を床にたたきつけて鵜殿を威嚇します。鵜殿は引き下がるしかありませんでした。
 信長勢は、激しい雨の中を駆けていました。
 午後二時。雨が上がります。しかし霧が出ていました。義元のいる今川の本陣に、織田勢が襲いかかります。織田の一団が義元の輿を見つけます。義元は避難しますが、織田勢に発見されます。ついに義元は槍を受けるのです。
今川義元、討ち取ったり」
 の声が響き渡ります。
 夕暮れになります。織田の軍勢が引き上げていきます。それを待つ明智光秀。信長は光秀を認めると声をかけます。
「水を所望したい」
 光秀はうなずいて水を信長に渡します。うまそうに水を飲む信長。
「勝ったぞ」
 と、光秀にいいます。
「おめでとうございます」光秀は頭を下げます。「お見事でございました」
「ほめてくれるか」
「誰もがほめそやしましょう。海道一の弓取り、今川義元を討ち果たされたのです」
 信長は話し始めます。
「昔、父上を裏切った男の、首をとって帰ったことがある。父上は、わしをほめなかった。余計なことをすると、叱りつけられた。わしは、何をしてもほめられぬ。子供の頃から、誰もわしをほめぬ。母上も、兄弟も」
 光秀はいいます。
帰蝶様はおほめになりましょう」
 信長は笑みを浮かべます。
帰蝶は何をしてもほめる。いつもほめる。あれは」信長は笑い声をたてます。「母親じゃ」
 信長は馬上の人になります。光秀は信長に呼びかけます。
「今川を倒し、次は何をなさります」
 信長は答えます。
「美濃の国をとる。美濃は帰蝶の里じゃ。美濃をとって、帰蝶を喜ばせてやる」
「その後は」
 光秀は問います。信長は笑顔を浮かべ、答えずに去って行きました。