大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第二十八回 新しき幕府
永禄十一年(1568年)。九月。足利義昭(滝藤賢一)が、織田信長(染谷将太)と共に、ついに上洛を果たしました。
京を支配していた三好勢は、織田軍の勢いに押され、摂津や大和などの国々へ退却しました。三好勢が頼りにしていた十四代将軍足利義栄は、摂津で病死しました。
信長は三好勢を機内から一掃するため、その拠点である摂津に流れ込み、戦いに勝利します。これにより、権力者と認められた義昭や信長のもとへ、多くの武将が献上品を持って、芥川城に集っていました。
献上品を見回す松永久秀(吉田鋼太郎)のもとへ、明智光秀十兵衛(長谷川博己)が訪れます。光秀は義昭の奉公衆になることになっていました。松永は光秀にいいます。
「わしは京で織田殿にお会いして以来、ただ者ではないとにらんでおった。それゆえ迷うことなく織田方に味方し、大和にはびこる三好と戦こうたのじゃ」
松永は信長に献上品を持ってきていました。直接渡したいという松永に、今は評定(ひょうじょう)の最中だと光秀はいいます。光秀もその一員で、松永のために抜け出してきていたのです。評定に戻ろうとする光秀を松永は呼び止めます。
「わしが三好方に通じているという噂があるやに聞いておる。まさかわしも詮議さているのではあるまいな」
光秀は不自然に目をそらし
「ご案じになることはないかと」
といいます。
実はまさに評定で、松永久弘についての話し合いが行われていたのです。強硬派は三淵藤英(谷原章介)でした。前将軍の義輝殺害に松永が一枚噛んでいたかもしれないというのです。評定は果てしなく続きました。足利義昭が信長に目配せします。笑みを返す信長。義輝は話し始めます。
「おのおの、議は尽くしたと思うが、いかがであろう。皆、思うところはあろうが、こたびの上洛城を果たせたこと、三好の根城たる、この芥川城を押さえたことは、これすべて、織田信長殿の力があったればこそじゃ。ほかの大名の多くが名乗りを上げようとせぬ中、みずから出陣、わしを助けて下された。このことは生涯忘れぬ。織田殿こそが、兄とも、父ともと思うておる。改めて礼を申し上げる」
信長は頭を下げて言葉を返します。
「身に余るお言葉。かたじけのう存じまする」
義輝はある人物を皆の前に呼び出します。代々足利家に仕えていた摂津晴門(片岡鶴太郎)でした。この者を以前と変わりなく、政所(まんどころ)頭人として働かせたいというのです。
「よろしいかと」
と、信長は返事をします。
「摂津晴門殿に幕府を任せるという話、どう思われます」と細川は聞いてきます。「摂津殿は、義輝様の頃と、ほぼ同じ顔ぶれの役人達で、幕府内を仕切りたいそうです。その方が早く動き出せると」
「まあ当面はやむを得ますまい。ただ、その顔ぶれで、義輝様をお助けできなかった。それゆえ義輝様はあのようなお最後を」
細川はうなずきます。
「その通り」
「幕府の中は、一度洗い直すべきかと存じまする。一新せねば」
細川と別れたあと、今度は松永に光秀は呼び止められます。松永は打ち明け話をするように光秀にいいます。
「越前の朝倉義景(ユースケ・サンタマリア)だがな、ここに来て動きが怪しい。わしの乱波(らっぱ)が調べてきたのだが、朝倉は三好、六角と手を結び、織田殿に狙いをつけているという話だ。皆、成り上がりの織田家などに従えるかと思うておるのだ」
光秀は越前にいた頃、朝倉義景が松永久秀から手紙をもらったことを聞いていました。それには義景に、信長と共に義昭を担いで上洛すればよいと書いてあったのです。
足利義昭は朝廷より、正式に十五代将軍の地位を与えられました。信長は、義昭の将軍就任を見届けると、一部の家臣を京に残し、慌ただしく、岐阜に戻っていきました。
永禄十二年(1569年)。正月のことです。本国寺の将軍御座所を三好の軍勢が襲撃したのです。光秀は義輝を地下の避難所に逃がします。
三好の軍勢は、幕府方の固い守りを攻めあぐねていました。すると、足利方の大軍が畿内各地より、京へ向かったという知らせが入ります。二日間の攻防の末、三好勢は形勢不利と見て、退却しました。
戦闘の後、光秀は多くの書類に目を通していました。そこに細川藤孝がやってきます。藤孝はいいます。
「どうにも解(げ)せぬ。襲撃のあった前夜、将軍山から三好の大軍が下ってきたという。幕府のものが誰も気付かなかったというのが。京へ入るにはあちこちに関所もある。この本国寺に降ってわいたわけではござらぬ」
光秀は顔を上げます。
「しかし、敵はいきなり現れた」
「我らが戻ってこねば、危ないところであった」
光秀は藤孝に書類を見せます。それは役人達の不正の証拠でした。今回の騒ぎに乗じて、光秀はそれを手に入れたのでした。幕府内に三好と組んでいた者もいるようでした。藤高がいいます。
「そうか、幕府の中には、三好に戻ってきてもらいたい一味がおるということだ」
本国寺の事件から数日後、岐阜から信長か駆けつけます。
信長は摂津を問い詰めます。
「なにゆえ知らせを遅らせた」
細川藤孝などには摂津は、先に知らせていたのです。
「幕府にとって織田信長とはその程度のしろものか」
信長は激怒し、扇子を投げつけます。信長は摂津の前にしゃがみ込みます。
「摂津、こたびのことで、わしは二つ学んだ。その方たちだけでは、公方様をお守りすることはできぬということ。もう一つ、この寺を、公方様の御座所として、安心していたわしは愚かであったということ」信長は立ち上がります。「以後、京には、わしの信用する者たちを名代(名代)として置き、新たな城をつくる。そこを将軍家御座所として、公方様にご動座願うこととする」信長は摂津を怒鳴りつけます。「わかったか」
信長はその城を二ヶ月で完成させるように命じるのでした。
将軍の新しい御座所、二条城の築城が始まりました。幕府と、信長の呼びかけに応じた、近隣の国々から資材が運び込まれ、大工や鍛冶職人などが集められました。
光秀も城の普請のために働きます。その現場で信長と出会いました。
「やればやれるのだ」
という信長に対し
「すべて、信長様のお力です」
という光秀。
「いや、わし一人が何をいうたとて、誰もここまで力は貸さん。やはり、公方様のお名前には不思議な力がある。そなたの申す通り、大きな世を作るには欠かせぬお方じゃ。難しいのは、摂津たちじゃ。公方様はああいうお方ゆえ、あやつらに都合良く操られるのは怖い」信長は光秀に向き直ります。「そうじゃ。松永から聞いたであろう。越前の、朝倉義景のことを。朝倉と三好が手を握れば、我らは挟み撃ちになる。早めに手を打とうと思うが、どうじゃ」
「朝倉様を」
「討つ」
そういって信長は去って行こうとします。そこへ足利義昭が通りかかるのでした。
「信長殿」義輝は信長の手を取ります。「この都を美くしゅう保てるのはそなたしかおらん。もう岐阜へなどへは戻ってはくれるな」
その頃、摂津晴門は書庫で話していました。
「三好の片割れが越前へ入って、朝倉義景に何かと入れ知恵をしているというが、まことか」
「間違いございません」
と、役人が答えます。
「よーし、面白い。織田信長。成り上がりの分際で」摂津は扇子を引きちぎります。「満座でわしに恥をかかせよった。いまにみておれ。一泡吹かせてみせようぞ」