大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第二十九回 摂津晴門の計略
永禄十二年(1569年)。将軍足利義昭(遠藤賢一)の御座所、二条城の築城が、着々と進んでいました。織田信長(染谷将太)は、近隣の国々から、人や物をかき集めた。京のめぼしい屋敷や、寺社からも庭石や、調度品などを差し出させ、みずから陣頭に立ち工事を進めました。
明智光秀十兵衛(長谷川博己)は、細川藤孝(眞島秀和)と共に、届けられた品々を調べていました。藤孝がいいます。
「見たことのあるふすま絵だと思うたら、我が館の隣の寺の物だ。驚き入った」
光秀は答えます。
「仕方がありますまい。四月までにこの城を作り上げるとなると、出来合いのものを使うほかありません」
「しかしいささかやり過ぎなような気もする」藤孝は光秀に近づきます。「幕府の中には、信長様は将軍の名を借りて、京中の金目の物をかすめ取っていると、陰口を叩く者もいるそうだ」
「いいたい者にはいわせておけばよろしいのです。将軍をお守りする城を造ろうとしなかった者たちが、あれこれ申すことなどもってのほか」
「それはそうだが」
「幕府の中には、寺や神社と、深く関わり、寺社が営む金貸しに食い込んで、利を得ている者もいます。調べれば調べるほど、幕府の内は醜い。今日も、これらの物を持ち出された寺の者が集まり、幕府に返納を迫るつもりだと聞き及んでおります。政所(まんどころ)の摂津殿が、どう裁かれるか、よく見る必要があります」
足利義昭は駒(門脇麦)を呼んでいました。医療施設のある、貧しい者のための館を造ろうとしていたのです。しかし金がないと義昭は嘆きます。少しずつでも造ったどうかと提案する駒。それでも一千貫はいる、と義昭はいいます。
駒は治療院に帰ってきて、今まで貯めてきていたお金を確かめます。二百貫あることが分かりました。
光秀は城普請の指揮をとっていました。そこに子供が結んだ紙を押しつけてくるのです。それは伊呂波太夫(尾野真千子)からの手紙でした。
光秀は伊呂波太夫をたずねます。会わせたい人がいるとのことでした。その人物は関白の近衛前久(本郷奏多)でした。大夫がいいます。
「三好の一党とのつながりを疑われて、公方様のご上洛以来、都から追われ、姿を消しておられましたが、密かにお戻りになられているのです」
その場で鼓(つづみ)を打っていた者が頭巾を外します。近衛前久その人でした。近衛は光秀に打ち明けます。
「私は摂津たちから追われている。三好たちと、先の将軍足利義輝の暗殺に関わったという理由じゃ。それをいいふらしたのは、近衛家を毛嫌いする二条春良じゃ。春良は、足利義昭が将軍になったのをいいことに、摂津と幕府を味方につけ、私を都から追いはろうた。目当てははっきりしておる。近衛の領地を奪い、摂津たちと、我が物にするということだ。以前、越後の上杉輝虎と話したことがある。立派な武将じゃ。その上杉がいうた。今の幕府は、おのれの利しか頭にない。天下をにらみ、天下のために働く者がおらん。それゆえ、いつまでも世は治まらぬと。私は今、それができるのは織田信長かと思うておる。あの上洛ぶりを見てそう思うた。今、幕府を変えられるのは信長じゃ。それをそなたに申しておきたかった」
「なにゆえわたくしに」
「将軍の側に居て、信長にもはばかりなく物申せるのは、明智十兵衛と聞いた。摂津を嫌っているという噂も耳にした」
近衛は立ち去ろうとします。太夫が問いかけます。
「もっとお話しがおありだったのでは」
振り返らずに近衛はいいます。
「命乞いまでしたくはない」
近衛が出て行くと大夫がいいます。
「本当は(近衛)前久様は、こういうこともおっしゃりたかったのです。この都には、公家や、武家や、私のような街衆がいて、そして、帝(みかど)がおいでだと。帝もご領地を奪われ、たいそうお困りと聞きます。今の帝のひいおじい様は、崩御されてもお弔(とむら)いの費用がなく、二月(ふたつき)、放っておかれたと申します。それを助けるべき幕府は、手も差し伸べず、見て見ぬ振りをした。御所をご覧になればよく分かります。帝がどれほどお困りか」
光秀は妙覚寺の信長の寝所をたずねます。
「その幕府ですが」
と光秀が言いかけると、
「腐り果てているのであろう」
と、信長が言葉を継ぎます。
「良くお分かりで」
「皆、口をそろえて幕府の非道を攻め、わしに何とかしろという。しかし、わしは将軍ではない。幕府のやることにいちいち口出しはせん」
光秀はいいます。
「口をお出しになるべきかと存じまする。城だけ造れば都は安泰という訳ではありません。四月に、岐阜へお帰りになるとうかがいましたが、その前に幕府の方々をすべて入れ替えるべきと存じます」
「それは、将軍のおそばにおる、そなたの役目であろう。越前の朝倉義景のもとに、三好の一党が出入りし、わしの留守の間に美濃を攻めようと企てているとの知らせが届いた。美濃を失えば、この京も危ない。帰っていくさ支度をせねばならぬ。そのために、そなたや、権六や、藤吉郎を京の奉行にするよう幕府に飲ませたのだ。やり方は任せる」
信長は立ち去ろうとします。しかし歩みを止め、いいます。
「昔、幼い頃、父にたずねたことがある」信長は振り返ります。「この世で一番えらいのは誰かと。それはお日様じゃといわれた。その次にえらいのは、とたずねると、都におわす天子様、帝(みかど)じゃ、と申された。わしには帝というものが分からなかったが、その次はとたずねると、帝をお守りする将軍様じゃと」信長は笑い出します。「なんだ、将軍は帝の門番かと思うたが、我らはその門番をお守りするため、城を造っておるのだが」
数日後、光秀のいる本国寺に、藤孝がやってきます。光秀が横領の罪で訴えられているというのです。それは妻子と共に住むようにと、将軍義昭にもらった土地でした。光秀は摂津晴門(片岡鶴太郎)のもとに向かいます。
「まさか横領した土地とは思いもしませんでした」光秀は摂津を問い詰めます。「この手はずをつけたのは、政所(まんどころ)ではありませんか」
「それで」
摂津に悪びれた様子は見られません。
「誰が横領した土地で、政所がいかにして手に入れたのか、教えていただきたいのです」
光秀が迫ると、いちいち覚えていないなどと摂津はとぼけます。光秀は摂津の耳元に口を寄せていいます。
「そうやって帝の丹波のご領地も、お仲間の武家に与えられたのか」
さすがの摂津も取り乱します。光秀はさらに追求します。
「誰が横領したのか、幕府内に不正があるならそれを正し、処断するのが私の務めです」光秀は摂津に訴えの文書を押しつけます。「この訴え、見逃すわけにはいきません」
光秀が立ち去ると摂津は一人いいます。
「困ったお方じゃ。世の仕組みを教えて差し上げたのじゃが」
摂津は訴えの文書を引き裂くのでした。
光秀は伊呂波太夫をたずねます。
「帝の御所を拝見いたそうかと」
と、光秀はいいます。
太夫の案内で光秀は御所にやってきます。大きく塀が崩れています。子供が入り込んでいたずらすることもあると大夫は話します。
四月になりました。信長が総力をあげた二条城は、約束に違わず、二ヶ月あまりで完成しました。各地の大名たちに、織田信長の底力を示す出来事でした。
二条城に入った足利義昭は感激し、信長に
「かたじけない」
と、繰り返します。義昭が室内に入ると、信長は光秀に浅井長政を紹介します。浅井が去ると、信長は光秀にいいます。
「二、三日でよい。わしの後から、美濃へ戻って参れ。越前の、朝倉義景の件で、そなたの話を聞いておきたい」