大河ドラマウォッチ「麒麟がくる」 第三十八回 丹波攻略命令
天正二年(1574年)、三月。明智光秀十兵衛(長谷川博己)は、みずからの城、坂本城に三淵藤英(谷原章介)を保護していました。そこへ信長の文(ふみ)持った使者がやってくるのです。
「一両日中に、成敗がなされるよう、しかと見届けて参れと仰せつかりました」
と、使者は述べます。
「一両日中に三淵様に、自害なされよと」
光秀は確認します。
「殿よりさよう承(うけたまわ)っております」
と、こともなげに使者はいいます。
「あいわかった」
怒りの声を上げて光秀は座を立ちあがります。
光秀は三淵と話します。三淵は岐阜城から使者が来たことを知っていました。
「信長殿は私を斬れとおおせられたかな」
光秀は静かに語ります。
「三淵様は、紀州由良に逃げておられる公方様と文(ふみ)を交わし、信長様を討つ企てを進めておられる。その証拠が信長様の手に」光秀は三淵に向き直ります。「なにゆえ、さほどに信長様を敵視なされる」
三淵も光秀を振り返ります。
「十兵衛殿が信長殿を選んだように、私は公方様を選んだ。それだけのことだ」
光秀は話します。
「私が初めて堺へ行き、鉄砲を買うために入った店で始めてお会いして。見事な立ち居振る舞いを拝見し、おお、これが将軍の奉公衆かと、目が洗われる思いでございました」
「もうずいぶん昔の話じゃ」
「そのお方に、死ねとは申せませぬ」
光秀は三淵を助けようとします。三淵はそれを断り、切腹して果てるのです。
天正二年、秋。明智光秀の軍は、佐久間信盛、細川藤孝の軍勢と共に、河内(かわち)の国に攻め込みました。三好の一党と、一向一揆の連合軍を、畿内から駆逐するいくさでした。
光秀が城に帰ってみると、稲葉一鉄の家臣であった、斎藤利三が美濃からやって来ていました。斎藤は馬のことで稲葉と争い、ひどい侮辱を受けたというのです。稲葉から離れ、光秀に仕えたいと申し出ます。
光秀は京の妙覚寺にやって来ていました。織田信長(染谷将太)と話します。信長は小さな話だと前置きしてから話し出します。斎藤利三が光秀の城に逃げ込んだろう。
「稲葉が腹を立てておる。利三を稲葉に返せ。稲葉は、美濃の国衆をようまとめてくれておる。つむじを曲げられては面倒。ことを穏やかに治めたい」
光秀はいいます。
「稲葉殿はあのご気性。利三は帰れば斬られましょう。ことは穏やかには済みませぬ」
「やむを得まい。一人の命のために、美濃の中を無駄に騒がせるわけにはいかん」
「殿が一人の命を大事にされると分かれば、国衆はかえって殿のを敬(うやま)い、美濃は穏やかにおさまりましょう」
信長は腹を立てた様子です。光秀と言い合いになります。
「とにかく利三を返せ」
と、言い捨てる信長。
「その義、ご容赦願います」
と、光秀も譲りません。
「もうよい、帰れ」
「帰りまする」
光秀は立ち去ります。信長はうなり声を上げます。そして光秀を呼び戻すのです。信長は機嫌を直していました。今度は大きな話だ、と前置きします。本願寺を除けば、南側の敵は、ほぼ押さえ込んだことになる。しかし丹波(たんば)が残っている。
「難しい国かと」
と、光秀もいいます。
「ここをそなたに任せる。与力として、細川藤孝をつけてやる」明るい声で信長はいいます。「そなたならやれよう。何年かかっても良い。丹波を押さえ込め」そして付け加えるようにいうのです。「利三の件は、わしから稲葉に話しておく」
京の若宮御殿では、誠仁親王が蹴鞠(けまり)を行っていました。公家たちと共に信長はそれを見ています。誠仁親王が信長に声をかけます。親王は信長を気に入っている様子なのです。関白の二条晴良(小薮千豊)が信長を奥に誘います。晴良は信長に帝(みかど)の譲位の話を始めます。その場に二条西実澄(石橋蓮司)もいました。譲位に金がかかるという信長を、晴良は持ち上げます。
「今や足利将軍に代わって、世を治めんとする織田殿じゃ。一万貫ごときなど、ものの数ではござるまい」
実澄はこのことを帝に報告します。
「関白には、やや焦(あせ)りがあると見える」
帝は御簾の奥から声を響かせます。実澄はいいます。晴良は将軍足利家と深いつながりがあった。今はその敵である信長につかなければ、すべてを失いかねない。帝の譲位を利用し、信長を手もとに引き寄せたいのだと思われる。帝がいいます。
「信長は、公家たちの暮らしを助けるために、様々な手を打ってくれてはいるが、関白に近づきすぎると、足利家と同じ道をたどることになりかねぬ」
「御意」
と、実澄はいいます。
「万葉好みの、かの珍しき鳥は、いかがいたしておる」
「明智十兵衛でござりまするか」
「信長のことを、最も知っている男じゃと、女官たちが噂をしておる。実澄。かの者と話したいと思う」
光秀は伊呂波太夫(尾野真千子)を訪ねていました。丹波にいる元関白の近衛前久(さきひさ)「(本郷奏多)に会う手引きをして欲しいと頼みに来たのです。丹波の園部(そのべ)まで来てくれれば、目通りを手配する、と太夫は請け合います。そして丹波の裏道にくわしい者として、菊丸に引き合わせるのです。菊丸との再会を喜ぶ光秀でしたが、菊丸の書く文字を見て、感じるものがありました。それは武田信玄の死を知らせてきた紙片に記された文字と、あまりにも似ていたのです。
菊丸に案内されて、光秀は園部にやって来ます。菊丸と別れ、光秀は前久と対面します。
「信長がいよいよ、この丹波に攻め寄せるのじゃな」
と聞く前久に、光秀はとぼけて見せてからたずねます。
「今後、前久様は、どちらの側に付かれるおつもりなのか、それをお聞かせ願いたいのです」
「そもそも、私は信長のごとき武将が好きなのじゃ。何の因果か、信長が二条と手を結んだゆえ、かかる仕儀(しぎ)と相(あい)なった。しかし、すでに幕府は消え、二条も落ち目と聞く。この際、信長に付かずして誰に付く」
光秀は前久に、丹波の国衆に会わせてくれるように頼みます。光秀の目的は、敵情視察にあったのです。しぶる前久。
「話はいくさに勝ってからじゃと。この国に一年も住めばそれが分かる。まず、いくさじゃ」
天正三年(1575年)、夏。丹波国衆は、信長には従いませんでした。光秀は丹波の国の攻略に踏み出したのです。長いいくさの始まりでした。