日本歴史時代作家協会 公式ブログ

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大河ドラマウォッチ「青天を衝け」 第40回 栄一、海を越えて

 栄一(吉沢亮)は皆の前で宣言します。

「私は、このたび、第一線を退くこととしました。第一銀行と銀行集会所以外の役員、すべて辞任し、実業界を引退したいと思う」皆は騒然となります。「惜しんでくれてありがたい。しかし今は、時代は変り、人材もそろった」

 この時、栄一が辞職した会社は、60以上にのぼりました。

 栄一は大磯にある伊藤博文邸を訪れていました。伊藤(山崎育三郎)は栄一に飲み物を注ぎながらいいます。

「おぬしに会うとほっとするのう。近頃は皆、わしに会うと低頭平身して、ご尊顔を拝しまして、とこうくる」

「韓国はどうでしたか」

 と、栄一は聞きます。

「えろうもめちょる。日本ではずいぶん前に武士の世を終わらせたはずが、近頃は軍が大きな顔をし始めちょるでのう。今一度、みずからハルピンに行かんにゃならん」

「そうですか。私も、ようやく間違いに気がつきましたよ。我々は、ずいぶん前に尊皇攘夷から足を洗ったはずが、つい最近までどこか変らぬ思想でいたんだ。この線からこっちに入る気なら、清国、そしてロシアを、何としても倒さねばならんと。みずからの保身のために、他国を犠牲にして構わんと。こらなんと傲慢で、自分勝手だったことか」

「そうじやのう」

「自分たちが同じ事をされたらどうです。それこそ焼き討ちだ」

「いや、怖かったんじゃ。絶えず列強におびえてきた。日本を守ろう思う心が強すぎて、臆病心が出とったんじゃ」

「しかりです。怖れや臆病から来る争いはとても危(あや)うい。これがある限り、人は戦争をやめられません」栄一は微笑みます。「して、私も、アメリカに行くことにしました」

「おお、アメリカか」

「ええ。今、アメリカにいる十万人以上の日本人が、排斥(はいせき)されそうになっている。アメリカの人々も、日本人に職や地位を奪われるのではないかと怖れているんです。日本人は友だ。経済上も、人としても仲良くしようと、心を込めて告げてまわれば、いくばくかの理解につながるはずだと」

「民間外交か。渋沢君はしゃべり上手で嘘をつかんよね。アメリカ人に信頼されちょる。それに、わしと違(ちご)うて、いっこもいくさの臭いがせん」

 二人は笑い合うのでした。

 明治四十二年(1909)。栄一たち渡米実業団は、アメリカの実業家たちが用意した。特別列車に乗り込みました。栄一たちは九十日間かけて、全米六十の都市を訪問。各地で視察を行うほか、七十回に迫る多くの講演や演説を行う、超過密スケジュールでした。栄一は妻の兼子(大島優子)と、兼子の姪で、日本女子大学に在学中の、高梨孝子を連れてきていました。

 実業家と大学教授、新聞記者らからなる五十一人の渡米実業団のメンバーは、各地で、工場、エネルギー施設、発電所、農場や大学、福祉施設などを訪ねました。

 列車の中で孝子がいいます。

「排日運動が盛んと聞いて、案じておりましたが、とてもそんな風には思えません」

 栄一の秘書兼通訳の八十田明太郞がいいます。

「排日が盛んなのは、日本人移民が多い西海岸だそうです。低賃金でも熱心に働く日本移民を、アメリカ人労働者の敵、と見て、日本人児童を学校から退学させたり、日本人経営の店の不買運動まであるそうです」

 栄一は、ミネソタラファイエットクラブで、大統領と面会します。移民に対する差別問題で、日本に友好な姿勢だったタフト大統領に面会することは、旅の目的の一つでした。和やかに会談は進みます。しかし大統領は述べるのです。

「これから先、アメリカは日本に挑むつもりです。平和の戦争を。すなわち、商売の戦いを」

 大統領の差し出す手を握りながら、栄一は困惑するのでした。

 列車の中で兼子が、大統領のいった、平和の戦争、について語ります。

「私はあまり、好きな言葉じゃありません」

「ああ」栄一が答えます。「争いとは、人体の熱のようなものだ。適度な熱は人を生かす。ほとばしる気力も与える。しかし、過度になれば人を殺すのも、また熱だ。日本が、あくまでおびえず、憤(いきどお)らず、平熱を保っていられるように、励まねば」

 ある時、列車が突然止まります。

「先生、大変です」八十田が栄一の所にやって来ます。「伊藤公爵が、ハルピンで、暗殺されたと」

 栄一は信じられません。しかし、車内にアメリカの新聞記者たちが、コメントを求めてなだれ込んでくるのです。栄一は記者たちにいいます。

「新しい日本を、つくったのは、伊藤さんたちであり、私たちです。しかし」栄一は記者たちに背を向けます。「今の日本は、とんでもねえ流行病(はやりやまい)にかかっちまったじゃねえのか。どうなんです、伊藤さん」

 アメリカ接待委員のロジャー・グリーンが栄一にいいます。

「まもなくカリフォルニアに入ります。商業会議所でのスピーチは中止されてはいかがでしょうか。ご存じのようにサンフランシスコは排日運動が激しい。商業会議所も、あなた方を受け入れることに、最後まで反対していた。身の安全を優先すべきです」

 栄一たちは、サンフランシスコに到着します。会場で、原稿を見ながらしゃべっていましたが、栄一は原稿を置いて顔を上げます。

「私は、先日、長年の友を亡くしました。殺されたんです。今日(こんにち)だけではない。私は人生において、実に多くの大事な友を亡くしました。互いに、心から憎しみあっていたからではない。相手を知らなかったから。知っていても、考え方の違いを理解しようとしなかった。相手をきちんと、知ろうとする心があれば、無益な憎しみ合いや、悲劇は免れるのだ。日本人を排除しようとする、アメリカ西海岸もしかりです」会場がざわつきます。「しかし私は今、訪米実業団として、こうして直(じか)に、アメリカの地を踏み、各地で多大なる親切をいただきました。発展を目の当たりにして、大いに学ばせていただき、アメリカ人の愛情は、ペリー提督や、ハリス公使の昔より、さらに深まり、その多大なる愛情を、我が国に注いでくださっていることを、確信しており、だからこそ今、皆さんの目を見て申し上げる。日本人は敵ではありません。我々は、あなた方の友だ。日本人移民は、アメリカから何かを奪いに来たのではない。労働者として、役に立ちたいという覚悟を持ってはるばるこの地にやって来たんです。それをどうか、憎まないでいただきたい。日本には、おのれの欲せざるところ、人に施すなかれという、忠恕(ちゅうじょ)の教えが広く知れ渡っています。互いがいやがることをするのではなく、目を見て、心開いて、手を結び、みんなが幸せになる世をつくる。私はこれを、世界の信条にしたいのです。大統領閣下は私に、ピースフル・ウォーとおっしゃった。しかし私は、あえて申し上げる。ノー・ウォー。ノー・ウォーだ。どうかこの心が、閣下、淑女、紳士諸君、世界のみんなに広がりますように」

 会場は拍手に包まれ、栄一は多くのアメリカ人から、握手を求められるのでした。

 その夜、栄一の乗る列車の窓を叩く者がいます。日本人移民の家族でした。

「皆さんが、わしら移民のために、はるばる日本からおいで下さったと聞きました」

 どうしてもお礼がいいたくてやって来たというのです。アメリカで生まれたその家族の娘が、栄一に花を差し出します。

「わしら、この地でどうにかがんばっていこうと思うちょります」

 と、父親が言います。

「ありがとう」

 栄一は礼をいうのでした。

 こうして、三ヶ月に及ぶ旅が終わりました。

 明治四十三年になります。飛鳥山の渋沢邸に、栄一の孫の敬三(笠松将)が、昆虫観察にやって来ていました。室内では徳川慶喜(草彅剛)が、自分の生涯について話しています。

 しかし栄一の息子、篤二(泉澤祐希)がまたやらかしたのです。ひと月前に家を出て、女と暮らしているということでした。

 栄一は一族を集め、遺言書を読み上げます。嫡男篤二を、廃嫡(はいちゃく)とすることが、そこには記されていました。

 栄一は家族写真を見ながら、兼子に話します。

「浅はかだった。外ばかり案じて、一番近くにあったはずの、篤二の心を、あいつのつらさを理解できていなかった」

 喜作(高良健吾)が敬三の部屋をたずねていました。敬三は生物学者になりたいと考えていました。喜作は篤二について語ります。

「人には、向き不向きってもんがある。例えば、俺は、商売は、向いてなかったのう。一番胸が躍ったのは、そう、一橋で励んだ時だい。俺は幕臣となり、上野から飯能、会津、果ては函館まで行って戦ったんだぜ」

「すごい。幕末の話ですね」

「おめえのじいさまは、そんな俺に、潔(いさぎよく)く死ねと、文(ふみ)を書いて寄こした」喜作は椅子に座ります。「でも結局、俺は生きた。獄を出てから何度も人から後ろ指をさされた。篤二も、後ろ指をさされるんだろうな。でもおめえの親父は、よく頑張っておった。ただ、向いていなかったんだ。栄一はなあ、皆があれほどいうからには、よほど偉大なんだろうが、近くにいる者からすれば、引け目ばかり感じさせる、腹立たしい男だ」

 翌年、明治天皇崩御大正元年(1912)となります。渋沢喜作は七十四歳でその生涯を終えました。

 徳川慶喜は、みずからの伝記を完成させていました。原稿を受け取って栄一はいいます。

「ありがとうございます。これでようやく、正しく御前様のことを、また、幕末の世の真相を、世間に知らしめることができる」

「私はあの頃からずっと、いつ死ぬべきだったのだろうと、自分に問うてきた。天璋院様に切腹をすすめられた時か、江戸を離れる時か、戊辰のいくさがすべて終わったときか。いつ死んでおれば、徳川最後の将軍の名を汚さずにすんだのかと、ずっと考えてきた。しかし、ようやく今思うよ。生きていて良かった。話をすることができて良かった。楽しかったな。しかし困った。もう権現様のご寿命を越えてしまった」

 栄一は笑い声をたてます。

「よく、生きてくださいました」

「そなたもな。感謝しておるぞ。尽未来際(じんみらいさい)、共にいてくれて、感謝しておる」

 慶喜は立ち上がり、庭に向かって

「快なり」

 の言葉を繰り返すのでした。

 徳川慶喜は、七十七歳の天寿を全うしました。徳川歴代将軍一の、長寿でした。

 世界情勢はさらに悪化。ドイツが、イギリス、ロシアと対立したことを背景に、ヨーロッパで、第一次世界大戦が勃発しました。

 栄一は、首相である大隈重信に会いにやって来ました。大隈は立ち上がります。

日英同盟のよしみばもって、東洋及び南洋諸島、すべてのドイツ植民地と軍事基地を、日本軍が接収すると、最後通牒ば、発することになった。実業界には、大いに協力ば、してもらいたいのであーる」

「欧州の列強が内輪げんかをしているうちに、日本が大陸に手を伸ばそうとしているだけではないのか。大隈さんならご存じのはずだ。日本は徳川の世が終わってから、その後、たびたび戦争をし、そのたびに、せっかく育ててきた経済が打撃を受けた。民(たみ)もそうだ。度重(たびかさ)なる増税と、物価高に苦しめられ、そして反論すれば政府が力でねじ伏せようとしている。そして平気で嘘をつく。民にも、外国にもだ。政治に口を出す気はなかったが、今日こそはいわせていただく。大隈さん。あなたほどの減らず口が、なぜずっと黙っているのか。私には分かりません。今、口を開けば、首相としてもう嘘しか吐けないからだ。こんな形で、もし大陸や南洋諸島に手を出すようなまねをすれば、日本は必ず外国から疑われます。大軍をもって領土を得ることよりも、もっと日本には、外国と腹を割って話し合うべきことがあるはずではありませんか」

 日本は、日英同盟に基づき、ドイツに宣戦布告。第一次世界大戦に参加することになりました。井上馨も八十歳で亡くなります。

 敬三の部屋を栄一が訪れます。敬三は農科大学にすすみ、動物学を学びたいと考えていました。栄一は敬三に対して、ひざをそろえて座ります。

「どうか、農科ではなく、法科にすすんではもらえないだろうか。法科を卒業し、ゆくゆくは、実業界で働いてもらいたい。私の跡をとり、銀行業務を継いでほしい」

 栄一は敬三に対して深く頭を下げるのでした。

 栄一は兼子や孝子にいいます。

アメリカや中国は、日本は侵略的で、軍国主義だと言い始めた」

 外出の準備をする栄一に兼子がたずねます。

「どちらに行かれるんですか」

 栄一は振り向きます。

「仕事は辞めることができても、人間としての務めは、終生やめることができないからね」

 そういって栄一は出かけていくのでした。