日本歴史時代作家協会 公式ブログ

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大河ドラマウォッチ「青天を衝け」 最終回 青春は続く

 大正八年(1919)。ドイツの降伏で、第一次世界大戦終結。日本は、戦後処理のために開かれたパリ講和会議で、人種差別の撤廃を欧米各国に求める一方、中国の山東半島におけるドイツの権益を要求。日本に対する、各国の警戒が強まり、中国や朝鮮半島では、反日運動が激しさを増しました。

 飛鳥山の渋沢邸では、栄一(吉沢亮)が絨毯に突っ伏していました。孫の敬三(笠松将)が驚いて人を呼ぼうとしますが、

「ちがう」と、栄一はいいます。「なぜなんだい。なぜこれほど皆に嫌われる。これほどあちこちから嫌われ、苦しむ羽目になるとは」

「日本のことでございましたか」

「そうだ。大戦が終わった今こそ、世界は共存共栄の平和に向かって、力を合わせ、日本も大いに世界人類の幸せのために、力を尽くすべき時なんだい」

 栄一は喜寿を機に、実業界から完全に引退しました。しかし、その気力は、全く衰えることを知りませんでした。

 毎朝六時には起床し、入浴を済ませて朝食。七時ころからはもう、客が続々と詰めかけ、公衆衛生や都市開発、社会事業と、毎日平均十五時間は熱心に働いていました。たくさんの子や、孫にも恵まれました。

 最初の内孫である敬三は、栄一の希望通り、経済の道に進み、跡継ぎとして、栄一を手伝っていました。

 栄一は、悪化する一方だった日米関係を、民(みん)のレベルで改善しようと、活動を続けていました。栄一はアメリカからたくさんの実業家らを招いて、もてなし、互いを知ろうと務めました。敬三の家に客を泊まらせ、日本の暮らしを味わってもらおうとしました。

 栄一は首相の、原敬、と会っていました。

「いつも、世界平和のためにご尽力いただき、感謝いたします」

 原敬はそういいます。栄一は笑い声をたてたあと、顔を上げます。

「日本が、ワシントンで開かれる国際会議への、出席の返答をしぶっているというのは、まことでございましょうか。軍縮や、安全保障の構想など、一昔前の世界にはなかった。これがあるというのは素晴らしいことです。ぜひとも行くべきだ」

「日本としても、ただの軍縮会議ならありがたい。しかし、アメリカと中国を交えて極東のことを話し合うのは別問題です。アメリカは山東問題などで日本に否定的だ。英国も……」

「日本は、外交をどうしたいのか。今度こそ、ワシントンで堂々と日本の思いを伝えるべきです。軍縮はしよう。移民の排斥(はいせき)は断じて反対だ」

移民問題アメリカの内政問題です。日本が安易に口を出すわけにはいきません」

「何万もの日本人移民の生活が脅かされているのに、政府は何も手を打たないというのか」

 栄一は咳き込み、周囲のものが心配します。

 大正十年(1921)に、敬三は栄一に、外で働きたいと申し出ます。栄一の系列ではない銀行で働きたいというのです。栄一はそれを許します。

 その夜、寝床で栄一は兼子(大島優子)に話します。

「俺はわがままな男だ。どうしても敬三に跡を継いでほしくて、あの子の人生を変えてしまった」

 栄一は大隈重信(大倉孝二)のもとをたずねていました。ベッドの中にいる大隈はいいます。

「初めて会うた時から旧知んようであったが、そいから五十年、親しみ続けた渋沢君に会え、おいも元気が増すとであーる」

「私も不調になることが増えた。それでも、今度の会議は、日本の分岐点になると思うと眠れない」

「ワシントンの軍縮会議のこつか」

移民問題は根が深いんだ。分かるでしょう。昔、我らは異国に、日本の尊厳が奪われるのではないかと怖れ、攘夷にはしった。今、この機に、移民問題を解決せねば、日本はまたどんな高熱にうなされるかわからん」

「まさか、ワシントンに行く気か」

「行く気はなかった。役に立つとも思えん。しかし胸がぬべぬべして眠れねえ」

「そいは年寄りだからや。おいもそうであーる」

「しかし、日本が世界から孤立するかもしれない危機に、のうのう寝て暮らせと」

「寝ていろ。八十二や。もちっと、余生ば楽しめ」

 栄一はワシントン会議に合わせて、四度目の渡米をしました。

 ワシントンでは、海軍大臣加藤友三郎らが、記者たちに囲まれて質問攻めにあっていました。しか歯切れが悪く、記者たちが満足する答えを出すことができません。そこへ栄一が通りかかります。記者たちは加藤らを取り残し、栄一のもとへ殺到します。しかし栄一は  駐米大使の弊原喜重郎に腕を引かれ、その場を連れ出されてしまうのです。栄一は弊原と部屋で二人きりになります。栄一は話します。

「排日移民問題は、日本のためにぜひ今すぐ、解決すべき事柄です。討議の項目に、加えていただきたい。私も、アメリカ中をまわり、旧知の財界人に、協力を求めます」

「いいえ、移民問題が出れば、会議は必ず紛糾(ふんきゅう)します。私の外交上の経験から見ても、まずは海軍の軍備制限問題に意見することが、得策であるかと思います」

 栄一は弊原の向かいに腰を下ろします。

「なぜこの会議で、移民問題が大事か。それは国と国との関係が、結局は、人と人の関わりだからだ。外交問題だけではない。人間の、根っこの、心の尊厳の問題なんだ」

 その場で栄一は、首相の原敬が暗殺されたことを伝えられるのです。

 ワシントン会議で日本は、欧米の提案を受け入れ、世界はわずかながら軍縮へとすすみました。しかし、栄一が願った排日移民の問題は、議題に取りあげられることなく、会議は終わりました。それでも栄一はあきらめずに平和を訴える旅を続けました。その旅の途中で、大隈重信の死を知りました。

 大正十一年(1922)に、敬三は岩崎弥太郎の孫娘である登喜子と結婚します。イギリスに渡り、横浜証券銀行のロンドン支店に勤務することになりました。

 敬三は洋行前のあいさつに、栄一を訪ねます。そして父の篤二(泉沢祐希)について語るのです。篤二は今も、栄一や家族に申し訳ないことをしたと悔いているということでした。

 大正十二年(1923)九月一日。関東大震災が起こります。栄一をはじめ、家族は皆、無事でした。社員が兜町の事務所が全焼したことを伝えてきます。明治の時代から築き上げてきたものたちがすべて燃えてしまいました。栄一はさすがにショックを受けます。そこへ篤二が駆けつけるのです。栄一は篤二を抱きしめます。

「お前も無事だったか。よかった」

 と、繰り返します。

 翌朝、栄一は元気を取り戻します。

「いいか、使えるものは、みなさんに何でも使っていただくんだ」

 栄一は息子たちに命じます。首相や、東京府知事、警視庁などに使いを出し、渋沢が避難者の救護所を開くと伝えるように、と。栄一も出かけようとしますが、息子たちに止められます。世間は騒然としている。焼け出された者たちが過激な社会主義者に先導され、裕福な家を襲うという噂がある。しばらくは血洗島に戻っていてはどうか。

「何を馬鹿なことを」栄一は大声を出します。「私のような老人は、こんな時に、わずかなりとも働いてこそ、生きる申し訳が立つんだ。それを、田舎に逃げよとは、何と卑怯千万な」

「しかし、万が一怪我でもしたら」

「それしきを怖れて、何のために生き残ったんだ」

 栄一のもとへ、世界中の実業家などから寄付金や援助物資が届きはじめました。

「何とありがたいことだ。私からの電信にこんなにも応えてくれるとは」

 中華民国政府からも、多くの寄付金や品物が届き、同情集会までが開かれているということでした。栄一は救援物資を見て回りながらつぶやきます。

「友とは、ありがたいものだ」

 しかし、アメリカ議会で、日本人に対する差別待遇を、アメリカの国策とする議案が提出され、翌年、排日移民法と呼ばれる法律が正式に、上下両院を通過しました。

 街頭集会で男たちが叫びます。

アメリカは、日本に、劣等国の烙印ば押した」

「これは戦争をしかけるのと同じ事じゃないのか」

「すべてを犠牲にして戦おう」

 栄一の十年来の努力は、無駄になったのでした。

 敬三がロンドンから帰ってきます。時代は昭和になりました。

 その夏、中国は異常な長雨で、大水害となりました。東京商工会議所、日華実業協会、赤十字は手を組んで、中華民国水災同情会を設立します。栄一は九十一歳にして、その会長に就任しました。しかし募金が思うように集まりません。栄一はラジオを通じて一般国民に呼びかけることにします。

「こんな老人が、まだ役に立つといってくれているんだ。励まぬ訳にはいかんだろう」

 と、栄一はいいます。しかし栄一は医者に、家を出てはならないといわれていました。そこで家に機材が持ち込まれ、ラジオのスタジオが再現されることになりました。栄一は正装し、マイクに向かって話します。

中華民国の、水災を救うために、皆さんのお力を、お借りしたいのであります。中華民国と我が国は、親しい交わりがある。同じ文字を使い、昔から、互いに手を取り合ってきました。その隣国が、水害に遭い、被災者の数は、一千万人の多きに達しておると、報道されております。思い出してください。かの関東の震災の時、中華民国の人々は、我が国を救おうと、たちどころに多くの義援金を送ってくれた。当時、反日運動のさなかだったにもかかわらずです。あの時、私たちが、どれほど励まされたか。思い出してください。今度は、日本が立ち上がる番だ。その」栄一は疲れてうつむきます。しかし再び顔を上げて話し始めます。「その大事な時に、常日頃から、外国と仲良くと、すすめているその本人が、のうのうと寝ているわけにはいかない。そう思い、老いぼれの身ながらここにおることを、皆さんに知っていただきたい」栄一はまた疲れたのか、大きく吐息をつきます。「私がいいたいことは、ちっとも難しいことではありません。手を取り合いましょう。困っている人がいれば、助け合いましょう。人は、人を思いやる心、誰かが苦しめば、胸が痛む、誰かが救われれば、あったかくなる心を、当たり前にもっている。助け合うんだい。仲良くすんべえ。そうでねえと、とっさまやかっさまに𠮟られる。みんなで、手を取り合いましょう。みんながうれしいのが、一番なんだで。どうか、切に、切にお願いを申し上げます」

 栄一はマイクに向かって頭を下げるのでした。街頭ではこの放送を聞いた人々から、拍手が上がっていました。その光景を篤二が見守ります。

 募金は、驚くほど集まりました。しかし、満州にいた日本の関東軍が、奉天郊外で鉄道を爆破し、満州事変を引き起こします。同情会の救援物資は、中国の厳重な意思表明のため、受け取ってもらえませんでした。

 栄一はベッドに寝ていて、一度意識を失います。目を開けた時、兼子にいいます。

「俺はまだ生きているかい」

「生きてますとも」

「そうかい。死んだら教えてくれよ」

 そう冗談を言い、目を閉じるのでした。

 昭和六年、十一月十一日。渋沢栄一は、永遠の眠りについたのでした。

 栄一の追悼会が開かれ、敬三が語ります。

「私は、世間でよく祖父が、近代資本主義の父だとか、実業界の大御所などと、偉人のようにいわれるのを、なんとなく、的外れな批評に思っておりました。ある面では、そうなのでしょう。しかし、私にとっての祖父は、よく食べ、ようくしゃべり、ホントによくしゃべるんです。時には、自分勝手で、時には、子供のようにボロボロと涙を流し、そう、偉人というよりむしろ、郷里、血洗島の青空の下で励む、ひとりの青年そのもののような気がしていたからです。祖父には、この程度で満足とか、ここまでやれば十分だなどと、力を惜しむことが、少しもなかったように思います。常に、もっと国をよくしたいと、もっと人を守りたいと、そればかりを考えて、生きていたように思います。しかし、全力を尽くしても、その成果は、棒ほど願って、針ほど叶うことばかりで、偉人という響きは、どうも、祖父には似合いません。皆さんには、祖父の、失敗したこと、叶わなかったことも、すべて含んで、お疲れさんと、よく励んだと、そんなふうに渋沢栄一を思い出していただきたい。実は、祖父から、皆さんに当てた伝言を預かって参りました。『長い間お世話になりました。私は、百歳までも生きて、働きたいと思っておりましたが、今度という今度は、もう立ち上がれそうにもありません。これは病気が悪いのであって、私が悪いのではありません。死んだ後も、私は、皆様の事業や、健康をお守りするつもりでありますので、どうか今後とも、他人行儀にはしてくださらないよう、お願い申します。渋沢栄一』」

 敬三は血洗島を訪れます。桑畑の間を抜けると、栄一の幻に出会うのでした。

「おー、今、日の本はどうなっている」

 栄一はそう声をかけてきます。敬三は叫びます。

「それが、恥ずかしくてとてもいえません」

 栄一は笑い声を上げます。

「何いってんだい」栄一は土に向かいます。「まだまだ励むべえ」

 といって、鍬(くわ)を打ち込むのでした。栄一は父や母、平岡や慶喜、そして千代から呼びかけられて振り返ります。大声をあげて走り出すのでした。