日本歴史時代作家協会 公式ブログ

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大河ドラマウォッチ「鎌倉殿の13人」 第5回 兄との約束

 北条宗時片岡愛之助)率いる軍勢が、伊豆の実力者である、堤信遠(吉見一豊)の館を襲います。北条の館に火が上がるのを見て、源頼朝大泉洋)がいいます。

「もう、もうあとには引けぬ」

 北条時政坂東彌十郎)と、北条義時小栗旬)は、堤信遠を討ち果たします。次に宗時の軍勢は平家の目代(もくだい)である、山木兼隆(木原勝利)の館に向かいます。

 翌朝、頼朝の前に堤と山木の首がさらされます。時政がいいます。

「大勝利にございます。これを聞きつけ、多くの坂東武者が駆けつけて参りますぞ」時政は頼朝の前に出ます。「この勢いで、伊東に攻め込みましょう」

「今日は18日」頼朝はいいます。「殺生はせず、神仏に祈る日」

 宗時は武者たちに呼びかけます。

「方々(かたがた)。いくさはこれから。よろしくお頼み申す」

 武者たちは声をあげて応えるのでした。

 頼朝は宗時と義時の兄弟を前にして述べます。

「初戦には勝った。さて、次の一手だが、これから伝えることは、いくさよりもっと大事なことだ。法王様をお救いするまで、坂東の政(まつりごと)は、この源頼朝が行うと、世に知らしめる。政(まつりごと)の始まりは、土地の分配じゃ。敵の所領を召し上げ、わしがそれを分け与える。誰か所領を取りあげても良い奴はおらんか」

 頼朝を棟梁(とうりょう)にいただく軍勢は、下田を治める中原友近の所領を取りあげます。そしてこれが、平家方を激怒とさせることになるのでした。

 大庭景親國村隼)の館で山内首藤経俊山口馬木也)がいいます。

「頼朝はすでに平家に取って代わったつもりのようです」

 大庭は伊東祐親(浅野和之)に話します。

「いよいよ来たな。頼朝を成敗する時が。平相国(へいしょうこく)様の覚えもめでたく、東国の後見と呼ばれたこの大庭景親が、頼朝を討ち取る」

 大庭は梶原景時中村獅童)を呼び、頼朝軍が次にどう出るかを聞きます。

「恐らくすでに、この相模や武蔵の豪族に声をかけているはず。それらと合流するために、まずは東へ向かうと思われます」

「聞いたか」大庭はまわりの者たちを見わたします。「そこで迎え撃つ。出陣の支度じゃ」

 北条の館では、宗時が頼朝たちに知らせにやってきます。

「大庭が動きました。兵の数は三千」

 頼朝は味方の数を聞きます。義時が答えます。

「三百」

 いらつきながら頼朝がいいます。

「まずは鎌倉じゃ。一日も早く父が治めた鎌倉に入り、わしが源氏の棟梁(とうりょう)であることを世に示す」

 頼朝の従者である安達盛長(野添義弘)がいいます。

「それが、甲斐の武田信義殿が、この機に乗じて兵を挙げたとのことです」

 信義は、これもまた源氏の棟梁を名乗る人物でした。頼朝は信義について述べます。

「武田なぞ、血筋ではわしに比べるべくもない。忘れてよい」

 宗時がいいます。

「しかし、そうなるとなおのこと、鎌倉行きを急ぐのが上策。明朝、全軍で東へ向かいましょう」宗時は地図を指し示します。「土肥郷で三浦と共に大庭勢を挟み撃ちにし、一気に鎌倉へ」

「清盛の慌てる顔が目に浮かぶわ」頼朝は叫びます「目指すは鎌倉」

 その言葉に皆も声を合わせて応じるのでした。

 義時は北条の女たちと共に、伊豆山権現に向かうように、兄の宗時に言われます。

「私は、いくさから外されたのですか」

 と、問う義時。宗時は答えます。

「勘ぐるな。佐(すけ)殿のご命令だ。土肥郷で待っている」

 伊東の館では、伊東祐親が息子の祐清(竹財輝之助)に話しています。

「お前は北条と親しい。北条を引っ張っているのは、三郎宗時。三郎がいなくなれば、北条は崩れる。違うか」

 祐親は下人である善児(梶原善)を呼びます。

「北条の仁に潜り込み、三郎宗時を闇討ちにせよ」

 祐清が抗議します。

「お待ち下さい。いくさのならわしに反します」

「勝つためじゃ」

「三郎は、父上にとって孫ではありませんか」

 祐親は善児を振り返ります。

「決して討ちもらすな」

 8月20日。頼朝は三百の兵と共に、北条館を発ちました。

 政子たちと共に、伊豆山権現にやって来ていた義時は、伊東の兵を見てしまいます。伊東勢は山から頼朝軍の背後を襲おうとしていました。

 鎌倉に向かった頼朝軍は、雨で思うように進めず、23日、石橋山の山中に陣を構えます。時を同じくして、大庭勢も、石橋山の麓(ふもと)に到着します。

 大庭の陣で、梶原が作戦を話します。

「まずは、石橋山から敵を誘い出します。狭い山中では、数の有利が消え、平場(ひらば)に引きずり出して、そこで一気に潰す」

 夜、山を下る頼朝軍の前に、大庭の三千の軍が立ちふさがります。頼朝はいいます。

「ここはいったん、引こう。数が違いすぎる」

 宗時が言います。

「少数の兵には、それなりの戦い方がございます。敵を挑発し、山へ誘い込む。平場では勝ち目がありませんが、狭い場所ならむしろ有利」宗時は時政にいいます。「親父殿、おもっいきり敵を挑発してもらえませんか」

「挑発なら任せておけ」

 と、時政は張り切ります。

 義時が頼朝軍の陣の後部にたどり着きます。伊東勢が背後の山にいることを知らせるのです。

 時政が馬上、進み出ます。大庭景親に対して挑発を試みるのでした。しかし敵の挑発に乗ったのは時政の方でした。時政はこらえきれず味方に突撃を命じます。宗時は頼朝を連れて山に逃げます。そこで義時から、伊東が待ち伏せていることを伝えられるのでした。

 宗時は何とか伊東勢の攻撃をしのぎ、頼朝を逃がします。

 前後を挟まれた頼朝の軍勢は、逃げ場を失います。

 頼朝たちは山中に隠れていました。義時とその父の時政の姿もあります。宗時がいいます。

「皆、よく戦った。三浦の助けもなく、ここまで互角に戦えたのは見事だ」

「おう、勝ったも同然。のう、婿殿」

 と、時政は頼朝を振り返ります。

「どう考えても負けておるではないか」頼朝は怒気を発します。「だからわしは不承知であったのだ。お前たちのせいだ。調子のいいことばかりいいおって、北条を頼ったのが間違いであったわ」

 宗時は甲斐の武田信義を頼ろうとします。しかし頼朝は、武田に頭を下げるのは嫌だといいます。頼朝は髪に挟んでいた小さな観音像を取り出します。

「こんなことならご本尊をもってくるべきであった」頼朝は叫びます。「誰かとってきてくれ」

「私が参りましょう」

 と、宗時が立ち上がります。

「待て待て」と、頼朝は引き止めます。「戯(ざ)れ言じゃ」

「すぐに戻ります」と、宗時は行こうとします。振り返り、いいます。「このいくさ、必ず勝ちます」

 朝になります。義時と時政の親子は森の中で話していました。

「どうする」

 と、時政が聞きます。

「何がです」

「このまま逃げちまうって手もあるよ。俺は、大庭に頭を下げてもいいと思っている」

「許してもらえるとお思いですか」

「頼朝の首、持ってきゃ」時政は歩き出します。「なんとかなるんじゃねえのかな」

「本気でおっしゃってるんですか」

「あいつは大将の器(うつわ)じゃねえぞ」

 宗時は近所に住んでいた工藤茂光(米本学仁)と共に、北条館を目指していました。水を汲んで工藤を振り返ると、工藤は倒れ、あきらかに死んでいました。宗時の首筋にも、背後から刃が差し込まれるのです。やったのは伊東の下人、善児でした。

 宗時は出発前、義時に話していました。

「俺はな、実は、平家とか源氏とか、そんなことどうでもいいんだ。俺はこの坂東を、俺たちだけのものにしたいんだ。西から来た奴らの顔色をうかがって暮らすのは、もうまっぴらだ。坂東武者の世をつくる。そして、そのてっぺんに北条が立つ。そのためには源氏の力が要(い)るんだ。頼朝の力が、どうしてもな。だからそれまでは、辛抱しようぜ」

 頼朝の挙兵を誰よりも望み、北条をここまで引っ張ってきた宗時は死にました。