日本歴史時代作家協会 公式ブログ

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大河ドラマウォッチ「いだてん 東京オリムピック噺」 第19回 箱根駅伝

 日光、東京間百三十キロの走破に成功した「いだてん」こと金栗四三中村勘九郎)。
「もう、日本に走る道はなか」
 と言い出します。そして
「次はアメリカ横断ばい」
 と、思いつきます。さすがに一人では難しいと感じた四三は、駅伝にしようと決めます。その予選会を行うために、ロッキー山脈を越えることを想定して、箱根を走ることにします。これが現在まで続く、箱根駅伝の始まりでした。
 四三は箱根駅伝の計画の報告に、大日本体育協会を訪れます。嘉納治五郎役所広司に)その運営を任される四三。そして嘉納から来年の夏にオリンピックが開催されることを知らされるのです。ストックホルム以来、八年ぶりのオリンピックです。ベルギーのIOC委員が、自国での開催を直訴したのです。戦争の被害を受けたアントワープを、世界の人々の記憶に残してほしい、という理由からでした。嘉納は言います。
「規模は縮小されるだろうが、重要なのは大きさではない。今、オリンピックをやる。戦地で。この気概だよ」
 四三はその話を聞いていませんでした。喜びのために身動きもできず、息もできない状態でした。
「嘉納先生、今度こそやります、必ずやって見せます」
 という四三。駅伝にオリンピック、これは正月返上で、大いにがんばらんといかんな。と、四三を励ます嘉納。その言葉に、四三は反応します。正月には熊本に帰ると妻に約束していたのです。
「オリンピックには金がいる」
 その思いで四三は熊本に帰る決心をするのです。つまり養子に入った池部の家の金を当てにしようというのです。
 熊本の池部の家に帰ってきた四三は、妻のスヤ(綾瀬はるか)に背負われた子を
「お前が正明(まさあき)か」
 という始末。四三は妻の出産の時にも家に帰っていなかったのです。
 池部家では、正月の祝いが行われることになりました。使用人たちや客人の前で、義母の幾江から、あいさつを行うよう迫られる四三。そこでつい四三はオリンピックの話をしてしまうのです。兄の実次(中村獅童)をのぞき、静まりかえる一同。しまいには幾江に話をさえぎられる始末です。
 その頃、東京の大日本体育協会では、緊急の理事会が開かれていました。今度のオリンピックの種目に、マラソンがなかったのです。前回死者が出たことに加え、ベルギーの街が戦争で破壊しつくされたことが原因だと思われました。
 そして場面は正月の宴をする池部家に戻ります。四三は実次と話し、箱根駅伝などの準備でまたすぐ東京に戻らなければいけないことを告げると、今度はいつ戻るのかと幾江に問われます。
「オリンピックば立派にやりとげたら、帰ってきます」
 と言ったのは実次でした。抗議する四三。実次は四三を抱き寄せて小声で言います。
「金ばもらうとだろが」
 四三は幾江に言います。
「はい」
 その夜、四三は息子の正明をはさんで、スヤと寝ようとしていました。四三はスヤに言います。
「約束ばする。今度のオリンピックに勝って、俺は引退するつもりたい」
「勝てんかったら、熊本にはお戻りにならんとですか」
 と問うスヤ。困惑する四三。スヤは慌てて言います。
「勝ちますけん、考えんでよか。四三さんは、勝ちます」
 うなずく四三。
「八年もかかったばってん。ようやくお国んために戦うときが来たったい」
「よう辛抱されましたね」
 というスヤ。二人は距離を縮めていくのです。正明が泣き出すまで。
 四三は箱根駅伝の準備のため、東京に戻ってきました。
 大日本体育協会では、オリンピック参加選手の、選考会議が行われていました。そこに弟子たち共に訪れる四三。オリムピック参加のマラソンの枠を増やして欲しいと頼みます。次のオリンピックにマラソン競技はないと言い出せない嘉納。四三を励まします。
 箱根駅伝のために選手を集める四三。結局、東京高等師範明治大学早稲田大学、慶応大学の四校が参加することになりました。四三は後輩の野口に言います。
「みんなよか成績ば出したらオリンピック行けるて聞いて、たまらんだろうな」
 微妙な表情をする野口。野口はオリンピックにマラソン競技がないことを知っていたのです。
 コースは有楽町をスタートし、箱根山で折り返し戻ってくる、全二百十七キロです。
 いよいよ箱根駅伝が始まります。開始の合図を鳴らす四三。車で選手に伴走します。中間地点の芦ノ湖に一日目のゴールを定め、その日は皆で一泊します。
 しかし次の日の朝になってみると、あたりは雪におおわれています。本部からは中止を検討するよう連絡が入ります。しかし地元の青年団や、学生、さらには湯治客までがコースの雪かきをしてくれている姿を見て、四三はレースの続行を決断します。四三は凍って自動車のエンジンがかからないため、学生たちのあとを走って追いかけました。
 再び雪が降り出すと、沿道の人たちが傘のトンネルを作って選手を通します。
 箱根駅伝は終了します。その盛り上がりを見た嘉納治五郎はクーベルダン男爵にマラソン復活を訴える手紙を出すのです。